グラズノフのサロンワルツ

増田朋美

グラズノフのサロンワルツ

今日はとにかく暑くて、どこかの県では、27度とか30度近くまで上がったところもあったらしい。そんなところもあったのに、静岡県ではなぜか雨が降っていて、なんだか蒸し暑いものであった。そんな中、杉ちゃんが、いつも通り蘭の家のインターフォンを五回押したところ。

「今日は出かけられないよ。今から、旅行に行くって、昨日言ったじゃないか。」

と、蘭は杉ちゃんに言った。

「全く、すぐに言った事を忘れてしまうんだな。もう困っちゃうよ。」

「ごめんごめん。そうだったね。それで、今日はどこまで行くんだっけ?」

杉ちゃんという人は、そういうことまで忘れている。

「もう、昨日教えたばっかりだよ。今日は富士宮。富士宮駅の近くにある、レストランで食事をしようって誘われたんだ。なんでも相談があるみたい。それで呼び出されたの。」

蘭は、呆れた顔で杉ちゃんに言った。

「そうなんだ。で、呼び出された理由は?誰に呼び出されたの?」

杉ちゃんに言われて蘭はまた呆れて、

「昨日言ったつもりなんだけどねえ。もう忘れてるのか。僕が小学校のときの友達。名前は田宮博、最も小学生の時は、杉山だったけど、今は奥さんの姓を名乗って田宮になっている。」

と、言った。

「そうか、奥さんはなんていうんだっけ?」

杉ちゃんという人は、何でも聞いてしまうくせがあった。

「奥さんは、田宮あさ子さん。もう、何でも忘れるんだね。余計な事は、覚えてるくせにどうして、そういう事は忘れるんだろう。まあとりあえず

行ってくるから、今日は、買い物は行けないよ。もう早くタクシー呼び出さないと、富士宮駅で待っててくれるっていうから。じゃあ、行ってくる。」

蘭はそう言って、玄関を開けて、家の外へ出てしまった。

「やれれえ、それでは、多分きっと、人数調整のためだったんじゃないの?例えば、三人以上でないと入れないとか、そういうことだろ。」

杉ちゃんが茶化すと、

「嫌なこと言わないでよ。じゃあ行ってきます!」

蘭は急いでスマートフォンを出してタクシーを呼び出し、それに乗り込んででかけていった。まあ確かに、人数調整と言えば、そうなのかもしれないと蘭は思った。

そうこうしている間に、富士宮駅に到着した。富士市では雨が降っていたと思ったら、富士宮市はそうではなかった。蘭は富士宮駅のタクシー乗り場で運転手におろしてもらった。そして、駅近くにある富士宮市立病院まで車椅子を動かしていくと、

「おーい、蘭!こっちだよ。」

と、一人の男性が、カフェの前に立っていた。それと同時に、一人の着物姿の女性も出てきて、蘭に向かって頭を下げる。

「あの人が、あさ子さんか。」

蘭が思わずそう言ってしまうほど、美人な女性だった。とりあえず蘭はカフェの入口まで行き、

「どうもこんにちは。というより、久しぶりですね。もう30年近くあってないけど、良く僕のことがわかりましたね。」

と言った。

「というか、蘭はあんまり変わってないから。こちらは、妻のあさ子です。」

博さんが言うと、女性も蘭に頭を下げて、

「はじめまして。田宮あさ子と申します。よろしくお願いします。」

と蘭に言った。

「それにしても、きれいな奥さんをもらいましたね。なんか女優さんでもなれそうな感じですね。」

「まあ、お世辞が上手ですね、蘭さんは。とりあえず、中に入ってください。もう僕らで予約しておきましたから席は大丈夫です。」

博さんがそう言ったので三人はとりあえず喫茶店の中に入った。博さんが車椅子を押して、蘭を一番奥の座席に連れて行った。座席に座ると、三人の前にメニューが差し出された。博さんがなんでも食べていいと言ったが、蘭はとりあえず、明太子パスタだけ頼んだ。

「一体今日はどうしたんです?急に来てくれというから、びっくりしましたよ。」

と蘭は博さんに言った。

「いやいや大したことじゃないんです。他の人に頼んでも、なかなか思うように行かないので、消去法で蘭に頼もうということになったんだよ。他の人はさ、どうしても結婚して子供産んでってなってて、頼むわけには行かないでしょ。だから、蘭にお願いしようと言うことにしたんだよ。」

博さんは、変な話を始めた。

「蘭は、結婚しているが、かなり自由が効く生活をしていると聞いたもんでね。実はさあ、彼女の、仕事というか、治療に付き添ってやってくれないかな?」

「は?」

蘭は思わず言った。

「治療って、胃が悪いとか、怪我をしたとか、そういうことなんだろうか?」

「いや違うんだよ。なかなかこういう事言うと信じてもらえないと思うんだけど、彼女、酷いうつになってしまってね。僕では、どうしようもなくなってしまったので、誰かそういう人に頼みたいと思ったわけ。僕もなんとかしてあげようと思ったんだけど、仕事が忙しすぎて、それどころじゃないんだよ。だから、そうなったら誰か別の人間に頼んだほうがいいなと思って。」

博さんは、申し訳無さそうに言った。

「それで、杉山の仕事っていうのは、、、。」

「もう、蘭もすぐ忘れるんだね。琴部で唯一の男性であったのを笑われたのは覚えてないのかい?僕はそれから、あさ子さんのところで婿養子に行って、芸名は田宮博樹なんだよ。」

博さんに言われて蘭は当時の事をやっと思い出すことができた。確かに、運動が苦手なせいで、箏曲部に入部していた杉山博は、卒業するときはソリストまで任せられるほど上達していた。蘭は、小学校を出たあとドイツへ行ってしまったため、杉山のその後はほとんど知らなかったのであるが、確かに、田宮家が、富士宮市に教室を構えているということは聞かさせれていることでもある。

「それで、具体的にはどうすれば?」

蘭が思わず聞くと、

「うん、だからこういう事。僕がお教室へ行っている間に、彼女、つまり田宮あさ子を、預かって欲しいんだよね。彼女を、一人で家にいさせたら、彼女自身が潰れてしまうと思うのでね。どうだろう、君の家なら、割と自由が効くのではないかな?奥さんだって、さほど家に帰らないんだったら、お願いできないかな。」

博さんはできるだけサラリと言った。蘭は困ってしまった。こんな事、できるはずもない。なんか強引に言わせてしまえば、どこかの海外で無理やり戦争を起こすような事に近い気がする。

「そう、そうかも知れないけどね、僕も誰でも、自分たちの生活と言うものがあるので、、、。」

蘭はそういいかけたが、その隣にいた、美しい女性である、田宮あさ子さんが、

「ごめんなさい。」

と、小さい声で言ったからである。

「私が、自殺すれば、良かったんですよね。私なんて、どうにも後にも生きる価値もないですものね。」

蘭はそう言われると困ってしまった。確かにそうなのかもしれないけれど、そんな事を言われてしまったら、誰だって嫌だとは言えなくなるだろう。ましてや、美しい女性であればなおさらのことである。蘭は、そういうことならこうしようと考えて、

「それなら、僕の家で生活することはちょっと無理なところがあるが、精神障害がある人達に、居場所を提供している施設があるから、そこへ行って見たらどうだろう?そこなら、相談に乗ってくれたり、なにか助言を与えてくれたりしてくれるかも。」

と言って、手帳を破って、製鉄所の住所と電話番号を書いた。

「どうもありがとう。ここなら、なんとかしてくれるんだね。」

博さんがもう一度確認するように言うと、

「ああ、そういうことだな。」

と、蘭は言った。

それから二三日して、製鉄所に、田宮あさ子さんという新しい利用者が現れることになった。ご主人と付き添われてやってきたその女性は、確かに美しい人ではあったけれど、どこか頼りないというか、幼い印象がある女性だった。とりあえず、利用開始時間の10時にやってきて、17時にご主人に迎えに来てもらって帰る。毎日なにかに興味を示してくれて、利用者さんたちに話しかけるのであるが、利用者さんたちが、ちょっと忙しいからとか、また後でねとか、そういう事を言うと、一気に気分が落ち込み、塞ぎ込んでしまうのであった。その落差が印象的というか、どこか病的なものを感じさせた。一応、精神安定剤は飲んでいて、ご主人の博さんから、規定量を渡されているのであるが、それでも精神の薬というのは、役に立たないものだから、落ち込んだときに飲めばさらに落ち込んでしまうだけであった。そんな日々が続いて、製鉄所の利用者さんたちも、彼女に話しかけることはほとんどしなくなってしまった。そうなると、彼女は一層落ち込み、一日中何もしないで、縁側に座って庭を眺めているしかしなくなってしまった。

そんなある日のことであった。その日は、やはり秋なのに暑い一日であり、別の県では大雨が降っているという気候で、テレビを見ても、何も面白い番組はやっていないという有様であった。やはりあさ子さんは、規定通り利用開始時間の10時にご主人の博さんと一緒に来て、また縁側に向かって座っているだけの一日になるのかなと思われた。

その日のお昼前、水穂さんが、今日は調子が良かったのか、ピアノを弾いていた。あさ子さんにもその音が聞こえてきたのだろうか。ふらりと縁側から立ち上がって、水穂さんの近くまでやってきた。

「こんにちは。」

あさ子さんは、にこやかに言った。水穂さんはピアノを引く手を止めて、

「こんにちは。」

とにこやかに挨拶した。

「今日は、なんの曲を弾いてらっしゃるんですか?いつもすごくうまいから、感動しちゃいますよ。きっと、すごい努力をしたのでしょうね。今は努力してどうのという人も少ないですから、居場所があって羨ましいです。」

とあさ子さんは言った。普通の人なら、もしあさ子さんがまた落ち込んだらとか考えて、返事をしなくなってしまうことが多いのであるが、

「ええ、グラズノフのサロンワルツです。簡単なようで実は難しいんですよ。でも、それでも弾けるようにならなくちゃいけないから、それで練習していましたけどね。」

水穂さんは態度を変えることなく答えた。

「そうですか。できるようにならなくちゃいけないか。私もよく言われてました。お琴教室の跡取りだから、できなくちゃいけないんだって。でも私、千鳥の曲がどうしても合奏できなかったんですよ。替え手がどうしてもできなくて。」

あさ子さんはそんな事を話し始めた。こういう人は、時計が止まっている。大昔にあったことであっても、最近のことのように喋る。水穂さんはそれを知っていたので、もう過去のことだとか否定はしなかった。

「そうなんですね。替え手があったということは、博信堂の譜本で演奏していたのかな?確か他の譜本だと、本手しか書いてなかったはずですから。」

水穂さんがそう言うと、

「そうなんです。うちの家は、博信堂の楽譜が正当だと決め込んで、それの通りにできないとよく叱られました。五段砧とかもやったけど、全然弾けなかったんです。それで、あたしがあまりにもできないから、生徒さんの一人だった博さんと私を無理やり結婚させて、博さんに宗家になってもらうことにしたんです。」

とあさ子さんはそういった。精神疾患を持っていると、大げさに話すというか、あったこともないことも平気で混ぜ込んで話すという。それが妄想という症状なのだというが、それこそ真実なのではないかと思うのだ。なぜなら、その中には、文章では表しきれなかった事実が含まれており、それが症状として出ているということになるから。宗家とか、そういう事は事実ではないかもしれないけれど、お琴教室をやっている以上、後継者がほしいと言うのはよくあることでもあるし、代役を立てることもよくある話である。

「それで、博さんは、他の派閥の本では、本手しか書いてないから、私に替え手ができなくてもいいって言ってくれて、それで私達は、博信堂の楽譜はもう入手できないから、他の出版社の楽譜でもいいんだって言うことにしたんです。だけど、それのせいで、私は、行くところがなくなってしまいました。だって合奏する必要がなくなったんだから、もう私の役目は用無しだから。」

「そうなんですか。つまり、博さんがお教室で使う教材を、他の流派の本を使うように変更してしまったんですね。それで、あなたは本来の役目であった、替手を弾くというものがなくなってしまった。あなたは、お稽古を手伝う役目だったのですか?」

水穂さんは、あさ子さんの言葉を翻訳するように言った。

「はい。私は、病気になってしまって、お稽古の進行役とかそういうことができなくなってしまったので、それは博さんにやってもらうことにして、私は、もし替え手等が必要になったら、お稽古のときに生徒さんと一緒に弾いてあげる役目を担っていました。」

「はあ、なるほど。」

水穂さんはあさ子さんの話に相槌を打った。

「つまりお稽古を手伝っていたというわけですか。確かに、博信堂の楽譜は替え手のある曲も多いですね。特に六段の調べの替え手なんて存在すら知らない人のほうが多いのでは?それをしていたあなたは、博さんが替え手のない楽譜に切り替えたことで、居場所をなくしてしまったというわけですか。」

「ええ!そうなんです!そうなんです!そういうことなんです!」

水穂さんがそう言うと、あさ子さんはとてもうれしそうに言った。きっと自分の悩みをそうやって通訳してくれる人が現れてくれたので、とても嬉しかったのだろう。

「わかりました。確かに役目がなくなってしまうのは、つらいものがありますね。その辛さは認めます。」

「ええ。もう私はどうしたらいいか。いつまでも博さんに頼ってばかりの生活も続けられないでしょうから、なんとかしなければと思うんですけど、変わりようがないし、変われないんですよ。だって私が変わろうとしたら、博さんも、あの家もみんなだめになっちゃうじゃないですか。そうなったら私、どこにも行くところもないですもの。だから、仕方なくあの家にいるしかない。それに私は、あの家の実の跡取りなんだし。博さんに任せっきりというわけにも行かないと思います。だけど、自分がなんでこんな惨めな生活しかできないのだろうとつらい思いをすることだってあるし、もうこんなところに居るのは嫌だって騒いだこともあるんです。私は、何もできないんですよ。にっちもさっちも行かないんです。」

あさ子さんは真偽不明な事を織り交ぜなから、そう事実を話した。もしかしたら、その中には、あさ子さんが勝手に思っている事もあるのかもしれないしそれが八割強をしめている可能性もあるが、水穂さんは否定しなかった。ここは聞く側にも技術が必要なのだが、事実と、あさ子さんが思っている感情とを、切り離して考える必要があった。ただまるごと聞くのでは聞く側も混乱する。そうならないためには、訓練が必要だった。

「わかりました。つまるところ、あなたは、今お稽古にも参加できないで、つらい思いをしているわけですね。それで、お宅を出ていきたいと思うこともあるわけですね。でも、行くところもないこともまた事実なわけですね。だから、お宅に居るしかないと。」

水穂さんはそう彼女の言葉を翻訳した。こういうふうに翻訳ができる人が、身近にいてくれたら、精神疾患をもつ日本人は減少してくれることだろう。この翻訳の技術を体得するには、相当訓練が要るが、でも精神疾患を持っている人には、本当に必要な技術でもあるのだ。

「そうなんです。だから、今は耐えているしかないのです。もうなんでこんな生活なんだろうと思うこともあるけど、、、。」

「そうですね。確かに人間だから、批判する能力も持ってますしね。そういうふうに見えてしまうのでしょう。でも、あなたは幸せな生活を送っているとも解釈できますよ。だって、ご家族が基本的な事はしてくれているわけですからね。そうは思えないかもしれないけど。」

水穂さんはそう彼女に言ってあげた。

「でも私は、本当に居場所がないんです。」

あさ子さんは、小さな声で言った。

「そうなんでしょうね。そういうことなら、必要なのは時間だと思うんです。すぐに諦めてしまわずに、ずっと待ち続けることも必要なのではないかな。もしかしたら、またあなたが必要になる事もあるかもしれませんよ。少なくとも、古典の曲ばかりやるというわけではないかもしれないし、たとえ今そうでも、将来他の曲をやりたいという申し入れが出るかもしれないじゃないですか。それは、誰にもわからないですよね。その時、手伝い役がいなかったらどうします?そういうふうに考えて、居場所ができるのを待ってみたらどうでしょうか?」

水穂さんは、穏やかに言った。

「つまり何も変わらないで、このままでいると言うことですか?」

あさ子さんはそう聞いてしまう。

「ええ、たしかに今はおつらいかもしれないんですけどね。その間につらいからと言って、何でも放棄したりやけになったりしてはいけない。自分のできることはちゃんとやる。それが条件です。」

「そうなんですね、、、。すごくきつい答えかもしれないけど、ずっと耐えていてなにか変わるのでしょうか?」

水穂さんがそう言うとあさ子さんは、そういった。

「それもわかりません。ですが、変わらないことはないというのも、また事実ではあります。それは、古典文学の中にも証明してくれますし、音楽の世界でもあり得ることでしょう。バロック時代にはあり得なかったことが現代音楽では平気で使われる、なんてことはザラにあります。邦楽もそうじゃないかな。そうでなければ邦楽も消滅してしまいますよ。」

「わかりました。ありがとうございます。私の事を、だめな人とか甘えているとかそう批評をしないで見てくれた人は初めてです。本当にありがとうございました。」

あさ子さんは水穂さんに頭を下げた。

「そうですね。人は確かに批判することができるからどうしても、ジャッジメントの方に傾いてしまうんですけど、批判ではなくて、事実にどうするかを考えるしかできやしませんよ。そのあたりが、もう少し伝わってくれるといいのですがね。」

水穂さんは、そっと彼女に言った。相変わらず秋なのにエアコンが必要なくらいの気候が続いていたのだった。でも、それも変わってくるのかもしれなかった。


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グラズノフのサロンワルツ 増田朋美 @masubuchi4996

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