旅立ちの季節に

安江俊明

第1話

 駅に向かって長く伸びる下り坂。つんのめりそうになりながら、少年が走り降りて来る。額から大粒の汗が流れ落ち、目に入る。痛い! 目をこすり、脚にかかる圧力に抵抗するように、駆け降りる身体のバランスを必死にとろうとしている。ユキとのデートに遅れたりしたら、あとで何を言われるかわからない。考えるだけで憂鬱の極みだ。ああ、やっぱり間に合わなかった。

 ニューヨーク市郊外のモントデール駅に着いた時、メトロノース鉄道の急行は駅を離れて行くのが見え、プラットホームにユキの姿はない。駅の掲示板を見る。ユキの字で伝言があった。

『淳一へ。約束した時間に遅れるなんて最低よ! カールと一緒に出掛けてくるから。バイ!』

 えっ、初めからカールと一緒に出掛けるつもりだったの? そりゃないぜ。あり得ない! これでも息を切らせて必死になって走って来たんだ。デートに間に合うように。

 でも、カールと一緒だなんて嘘っぱちだ。そんなはずない! だって二人は喧嘩したばかりだもの。

 萎んだ風船のようになって、淳一は駅前にあるコーヒー・ショップの席にへたり込んだ。

 イタリア人が経営する行きつけの店「ベニートス」だ。二年前、父の高瀬一平が放送会社のニューヨーク支局勤務になってから淳一はこの店のBLTサンドウィッチにハマっていた。

「いつものだろ?」

 鼻の下に濃いひげをたくわえた主人のベニートが、縮んだTシャツからはみ出しそうな腹で息をしながら、ボクの返事もそこそこに、もうレタスを刻み始めていた。

 淳一は現地校高校部に通っている。折角アメリカで暮らすのだから、日本人学校ではなく、現地校に通わせたいという一平の考えだった。その高校には中学部が併設され、弟の真二が通学している。

 入学した頃は、兄弟ともESLという外国人学生のための英語クラスで随分と戸惑っていたが、今では同級生らとも付き合い、自然と言葉にも慣れていた。真二は兄より三つ若いだけ、英語に慣れるのも格段に早かった。一平も息子らの様子を見ていて胸を撫で下ろしていた。

 学校には色んな国の生徒がいる。ドイツ人のカール、アメリカ先住民のアルフォンソ、韓国人のキム・イル。日本人は淳一と真二の他、十人ほどが通っていた。

 瀬川ユキもそのひとりだ。淳一はその快活な性格が気に入り、何かにつけて彼女のお尻を追っかけている。

 淳一は窓際のテーブル席で、コーヒーと出来立てのBLTを前に置き、ぼんやりとユキのことを考えながら、駅前通りを眺めていた。

 店のドアチャイムが鳴った。見るとアルフォンソだ。

「独りで何をしているの。顔色が悪いぞ」

 そう言いながらアルフォンソは淳一の向かいにドカンと座り、コーラとハンバーガーを注文した。

「ユキがね、カールとデートに出掛けてしまったって。嘘に決まっているけど……」

「女の子を取られてくさっているのか。小さい男だなあ」

「お前は気楽だよな。付き合っている女の子はいないし……」

 淳一は大きく口を開いてBLTにかぶりついた。

「ということは、ユキはお前と付き合っているの? お前の片思いじゃないのか? それが証拠に、カールとデートに出掛けちゃったんだろう?」

「いちいちうるさい奴だな。お前にボクの気持ちなんかわかるもんか!」

 淳一はアルフォンソを睨みつけた。

「まあ、そうカッカするなよ」

 淳一はBLTを急いでたいらげて、アルフォンソを放って学校に向かった。サッカーの試合が近付いていたので、ボールの蹴り込みでもしようと思いついたのだった。それならアルフォンソもサッカー部員なので声をかけるべきだったと思ったが、後の祭りだ。

 サッカー部はパンサーズ(豹)というチーム名がある。選手の溜まり場に行くと、真二とキム・イルがいた。

「兄さん、今日は休みだし、集まりが悪いよ。今度の相手はK学院だ。強敵なのに大丈夫かな、こんな調子で」

 淳一は弟の言葉に気を引き締めた。淳一は服を着替えてフィールドに出た。

 淳一兄弟はパンサーズの主力選手だ。真二は中学生だが、実力を認められ、高校部のチームに特別参加している。地元のスポーツ紙にも二人は「タカセ・ブラザーズ」と紹介され、その名前はサッカー・リーグの間に知れ渡っていた。

 今度の対戦相手のK学院は、日本の学校法人のニューヨーク校で、学生は日本人駐在員の子弟で占められていた。チームも全員日本人だ。パンサーズは淳一兄弟しか日本人はいない。


 試合の日が来た。両チームは応援団を繰り出している。試合開始が近付くにつれて、フィールドは次第に熱気を帯びて行った。一平も支局を早引けし、妻の悦子と観戦席に座っていた。キック・オフで両チームが走り出した。

 試合の前半十分を経過したところで、真二のアシストで淳一がゴールを決めた。応援団が一斉に喚声を上げた。しばらく一進一退が続いていたころのことだった。K学院の選手が一斉に日本語で汚いコトバをパンサーズに浴びせ始めた。

「さっさと試合をあきらめろ! お前らみたいなヘタクソはサッカーをやめちまえ! そうだ、そうだ!」

 パンサーズのうち、淳一兄弟にはそのコトバがわかったが、他のメンバーにはわからない。突然叫び始めることで、日本語がわからない選手に不安を与え、同時に主力の二人を動揺させる作戦のようだ。二人は、チームを分断されたような悔しさで一杯になった。  

 その悔しさを撥ね返すように真二が猛然とダッシュし、あっという間にゴールを奪った。結局、二点を取ったパンサーズがK学院を破った。

「兄さん、やったね。卑怯なやり口に勝ったんだ!」

「お前もよくやったな。コングラチュレーションズ!(おめでとう)」

 一平らも応援団と一体になり、勝利を喜んだ。

 

 淳一は二年前、一平からニューヨーク行きの話を聞かされた時、正直面食らった。

「あんな犯罪の多い街に住むの? それも三年も?」

 一平は読んでいた本を閉じた。

「ニューヨークで事件が起きる度に、マスコミは犯罪都市ニューヨークって、枕詞をつけるからなあ。お前がそう思うのも無理はない。でも、世界の都市の中で父さんは一番魅力を感じるんだ。きっといいこともある。一緒に行こうよ!」

 一平は元々ニューヨーク勤務を希望していた。かつて国際担当の上司から支局赴任を誘われた時には、子供の教育のことがあるからと、誘いを断ったことがある。  

 今回再び上司から打診があり、一平は二つ返事で受けた。これ以上断れば、赴任の話は二度と来ないと思ったからだ。

 ニューヨーク赴任が決まったことで、一平には気になり始めたことがあった。

 夜遊びで長いこと借金を溜め込んでいる店への返済である。

 手持ちの小遣いは連夜の支払いですぐに無くなっていった。あとはボーナスしかない。夏のボーナスはまだ先のことだ。それでもクラブ通いはおさまりそうもない。

 赴任の日が近付き、いよいよ借金の清算を迫られた。ある店については父親の平蔵に借金の肩代わりを頼み込み、別の店にはまとめて借金を払う代わりに、安くしてもらう交渉に行った。

「マスター、俺ニューヨークに行くことになった。だから今日精算に来たんだ。まとめて払うから、悪いけどこれだけにしてくれないか?」

 一平は半ば強引にそう言うと、一万円札をまとめてカウンターに置いた。マスターは金を手に取り、数え終えてから微笑んだ。

「ようがす。海外赴任おめでとうございます。お気をつけて」

 マスターは外に出て、一平を送り出した。

 悦子は一平の金の使い方には以前から危惧を抱いていた。たびたび夫婦はそのことでぶつかった。俺の夜遊びは家計を圧迫しているに相違ない。それは認めるが、俺の稼いで来る金だということを忘れないで欲しい。

 一平はそう居直ることしか出来なかった。

 息子二人は母親の窮状を子供心に察知して、悦子側に付いていた。

 ある日、一平は淳一と口論になった。

「父さんは家を壊す気か!」

 淳一は父を睨みつけた。

「大げさなことを言うな!」

「母さんはいつも泣いているよ。大人のくせに、しっかりしないとだめじゃないか。こんなんじゃ、ボクはニューヨークには行かない!」

 子供にたしなめられる自分が情けなかったが、一平も踏ん張った。

「今度のニューヨーク行きは、父さんの長年の夢なんだ。単身赴任も出来るが、折角家族でアメリカ体験が出来る願ってもないチャンスだ。父さんは何も家庭を壊そうとなんか思っていない。だから、わかってくれよ」

「だったら、もう少し家のことを振り返ってよ!」

 悦子が淳一の傍で、目を腫らして訴えた。

「わかった、わかった。酒は自粛するから一緒にニューヨークに行ってくれ。お願いだ!」

「その言葉に嘘はないわね?」悦子が念を押した。

「ああ」一平は家族の土壇場での反抗を押さえようと必死だった。

      

 一平は見送りを受けて一足早くニューヨークへ出発した。成田からニューヨーク行きの直行便に乗り、アラスカ経由で北アメリカ大陸上空を飛んだ。途中機内で急病人が出て、ミネソタの空港に緊急着陸するというハプニングがあり、直行便とは名ばかりのものとなった。

 そのせいでニューヨークに降り立った時、JFK空港はすっかり夜の帳が降りていた。

 一平は客待ちのイェローキャブに乗り、マンハッタンのホテルWに直行した。以前研修で来た時に泊まり、気に入って今回も予約を入れたホテルだ。

 翌日、早速支局に出向いて前任者と引き継ぎをし、社宅などの段取りをつけた。社宅はマンハッタンの北にあるモントデールという町にあった。

 それから一ヶ月後、家族とラブラドール犬のフォスターがJFKに着いた。

 一平の姿を見た途端、悦子の涙が堰を切ったように溢れ出た。

「このひと月、本当に心細かったわ。疲れちゃった!」

 きっと生活費のことだろう。一平はそう思った。俺の勝手な夜遊びのせいで、家計は火の車だったに違いない。

 妻の肩を抱きながら、一平は家族が来る前の悦子との電話を思い出していた。

「ニューヨークはどうなのよ。大都会だからきっと飲み屋さんがたくさんあるんでしょ、どうなの?」

 国際電話の向こうで悦子が心配そうに訊いた。

「いや、そんなに大した事はないよ」

 一平はごまかそうとした。もしも、飲み屋が多いなどと言えば、妻はニューヨークに来ないと言い出すに違いないと思ったからだ。

「ほんとなのね?」

「うん」一平は嘘をついた。

 ホテル暮らし一ヶ月の間に、一平は地元の放送関係者に夜の巷に連れ出され、クラブやピアノバーに足繁く通うようになっていた。

 アメリカでステータスを証明するクレジット・カードを持っていなかったので、カードが出来上がる間は銀行のATMで限られた現金の引き出しを繰り返していた頃である。日本と同じような夜遊びの生活をこちらでも続けていることも、もう直ぐバレてしまう。


 ホテルで一泊し、家族を休ませたあとで、一平は家族と社宅のあるモントデールに向かった。社宅はコロニアル・スタイル風の二階建てで、白壁の家の前には芝生の庭があった。

「すてきな家だわ。ここに三年住むのね」

 悦子は早速家の周囲を見て回った。真二は芝生の上でサッカー・ボールをドリブルしていた。

 社宅の周りには広い前庭のある豪邸が並び、前の通り沿いには、大木の並木があった。真二がボールを蹴る芝生に木洩れ日が差し込んでいる。

「デカイ木だね。父さん、何ていう木なの?」

 淳一が尋ねた。

「セコイアだよ。日本で言うところのアメリカスギだ。カリフォルニアにセコイアの大原生林があるんだよ。とてつもない巨木で、倒れたセコイアをくり抜いた車のトンネルがあるぞ。木ってこんなにでかくなれるものかと感動したことがある」

「あなた、きっと家の中に暖炉があるわよ。ほら、赤レンガの大きな煙突があるもの。早く中に入りましょうよ」

 悦子は子供のようにはしゃいでいた。


 デートの待ち合わせがうまくいかなかったことで気まずくなり、淳一とユキは教室で会ってもお互いを無視していたのだが、サッカーでK学院を破ってから、教室の入り口にはスポーツ紙の記事が張り出され、淳一兄弟の株が上がっていた。

 その余波でユキも淳一をぞんざいに扱うことは少々はばかられたこともあり、淳一もユキの存在をそれ以上無視し続けるのは具合悪い感じがあった。放課後、淳一の方から声を掛けた。

「この前は遅刻して悪かったね」

「……」

「カールと出掛けたんだって?」

 淳一をチラッと見たが、ユキはくるりと背を向けた。

「はっきりしないのはユキらしくないな」

 淳一は少々苛(いら)立っていた。

 ユキは振り返り、今度は淳一を正面から見据えた。

「わたしこそごめんなさい。カールのことはウソよ。わたしずっと待ってたんだけど、淳一が来ないから、そのまま家に帰ったの。だってカールと出掛けるはずが無いじゃない。あの子とは絶交したんだから」

 カールはユキと付き合っていたが、ある時無理やりユキに抱きつき、キスをしようとしてユキに思いっきり頬をぶたれたのだ。それ以来カールはユキに近付こうともしなくなっていた。

「変だなあと思ってたんだ。お茶でもおごるよ。これからどうだい?」

 二人はベニートスに入った。コーヒーを二つ頼んだら、ユキはすかさずアップル・パイを追加注文した。ユキの大好物だ。

「今年の夏はどうするの?」

 淳一が尋ねた。

「去年行ったコネチカット州のサマー・キャンプに行くわ。静かでとってもいいところよ。わたし田舎でゆっくりするのが好きなの」

 長い黒髪を後ろ手に束ね直しながら、ユキは笑窪を見せた。

 ユキの父親は旧財閥系の商社マンだ。ニューヨーク支店に赴任するまでにロンドン、パリ、ジュネーブなどヨーロッパの支店を回って来た。ニューヨーク駐在は五年目になる。 

「淳一はどうするの?」

「どうしようかと迷ってるんだ。父さんのニューヨーク勤務は、予定ではあと一年だ。となれば、今度がニューヨークでの最後の夏休みになる。サッカー・キャンプも少々飽きて来たしね」

「そうか。それに来年わたしらは高校卒業だものね」

 コーヒーとアップル・パイが運ばれて来た。テーブルに置かれたコーヒーの香りが淳一の鼻をくすぐった。

「ボクはこちらの高校に編入する時に、日本ですでに一年高校に通っていた。だから二年生で編入するのが普通だけど、カウンセラーの先生は一年生をもう一度繰り返すのが適当だという判断だった。その相談を父さんがスミス校長にしたら、こう言ったそうだ。『あなたの息子さんが、日本とアメリカで一年生を二回繰り返すのは、コトバの壁もあるので妥当なことだとは思います。しかし、公立高校なので、息子さんの一年分の教育費は地元民の税金から支出されます。わたしの立場からすれば、両方のバランスをとらなくちゃならない。関係者と協議しますので、もう少しお時間を下さい』とね」

「へえ、スミス校長もなかなか言うわね。でも、結局二度も一年生が送れることになって良かったじゃない?」

 ユキはアップル・パイの最初の一口を口に運んだ。

「日本とアメリカは、入学も卒業も時期がちがうし、日本に帰ったら半年は大学入学を待たなくちゃならない。元々一年だぶっているから、日本の同期には大分遅れをとっちゃうな」

「そのくらい平気よ。人生は長いし、こちらでうんと異文化体験をする方がよっぽど意義があるわ。わたしはそう思う」

 ユキはコーヒーカップを手に取り、目を閉じて香りを嗅いだ。

「ボクも、そうは思うんだけどね」

「淳一もボランティアをすればいいのに。お得意のサッカーを地元の小学生に教えるのよ。そうすれば、日本の大学に帰国子女枠の推薦(すいせん)で入学するにしても、先生が推薦状の中に書き加えてくれるわ。淳一も二年も居ればわかるでしょうけれど、この国はボランティア活動をすごく大切に考えるのよね」

「そうだね。地元民の税金で勉強させてもらってるんだから、ボランティアをして地元に還元するのも当然といえば当然だな。納得した」

 淳一はアップル・パイを口一杯に頬張るユキの顔を見ながら微笑んだ。

      

 サッカーの練習の後で、淳一はアルフォンソを誘い、ベニートスに行った。夏の予定を話し合おうと思ったのだ。淳一はBLTとドリンクを注文し、アルフォンソはパスタとドリンクを頼んだ。淳一は早速夏の話を切り出した。

「お前の故郷はサンタフェだったな。ニューメキシコ州の」

「そうだよ」

「夏に帰るんだろう?」

「そのつもりさ」

「この前父さんからサンタフェの話を聞いているうちに行ってみたくなったんだ。夏休みにアルの家を訪ねて行ってもいいかい?」

 アルフォンソの顔が一瞬曇った。

「どうしたんだ。何か気に障ることを言ったかい?」

 アルフォンソはどう言ったらいいのかと思案する表情をした後で言った。

「父さんはサンタフェにはいない。そこから北東にずっと行ったところにあるミオスというプエブロに住んでいる。プエブロは村という意味だよ。俺もそこで生まれた。育ったのはサンタフェだけどね」

「だったら、ミオスまで行くからさ」

「いや、そういうことじゃないんだ。淳一が来てくれるのは嬉しいけど、父さんは気難しい人なんだ。知らない人間に会おうとしない。特に白人に対する不信感が非常に強いんだ。お前も知っているかどうかわからないが、俺たちプエブロ先住民は昔白人の侵略に遭った。たくさんの同胞が殺された。先祖はそれでも力を合わせ、スペインの支配を覆して、祖先伝来の土地を守った誇りがあるんだ」

 いつもは寡黙なアルフォンソの口から先住民の誇りという意外な言葉が飛び出し、淳一は面食らった。しばらく沈黙が流れた後でようやくこれだけ口にした。

「ボクは日本人だぞ。白人じゃないよ」

 アルフォンソは続けた。

「もう少しボクの話を聞いてくれ。その誇りが崩れようとしている。ボクの生まれた村、すなわち父さんが今ひとりで住んでいるミオス・プエブロという村には、観光客が押し寄せるようになった。プエブロの建物が世界遺産とかに登録されてからは、特に多くなった。父さんは陶器職人だから、生活のためには作品を買ってくれる観光客は多い方がいいだろう。ボクと母さんがこんな風に物価の高いニューヨークで暮らせるのも、父さんの仕送りのお陰だ。感謝しているよ。でもね、プエブロの中が一般公開されてから、観光客のなかには人が住んでいる家の中まで勝手に覗(のぞ)き込む奴がいるんだ。人間としての最低のモラルさえ持たずに、人のプライバシー空間を蹂躙(じゅうりん)するんだ。それが父さんには許せない。先祖が白人に酷い目にあった上、今を生きる自分らまでもがプライバシーを奪われることに嫌悪感を覚えてるんだ。不信感ばかり募り、白人だけじゃなく、とうとう人間嫌いになってしまったのさ」

「そうだったのか。親友だから、お前のことなら何でもわかっているつもりになっていた。悪かった。謝るよ」

 淳一は当惑していた。それを見てとったのか、アルフォンソは優しい言葉をかけて来た。

「お前はボクを差別せずに、普通に付き合ってくれるのが嬉しい。こんないい友達はいない。だから、本当は父さんにも是非会ってもらいたい。だけど、ボクの気持ちわかってくれるよね?」

「うん」

「ボクたちアメリカ先住民の祖先は、淳一の祖先が住んでいたニッポンがある北東アジアから凍りついたベーリング海を渡り、このアメリカ大陸にやって来たんだ」

「その子孫同士がここニューヨークで出会い、一緒に食事しながら夏の計画を話し合っているなんて考えると、とても不思議だね」

「そうだなあ」二人はドリンクを飲みながら微笑み合った。

 コーヒー・ショップを出て、二人は駅前広場のはずれにある林の中を散歩した。木洩れ日が差し込む池があり、小さな魚が沢山泳いでいた。

 アルフォンソは、紙ナプキンに包んで持って来たパスタの残りを池の中にばらまいた。魚が一斉に寄って来た。素早い魚の動きに眼を奪われている時だった。アルフォンソの手が淳一の股間に触れた。淳一は思わず手を払いのけた。

「何するんだ!」

 アルフォンソは淳一の身体に飛びついて、唇を重ねようとした。淳一は身体を硬くして跳ねのけた。

「お願いだ。キスさせてくれ!」

 懇願する眼が間近で輝いている。

「ばかなことは、よせ!」

 淳一はアルフォンソを突き飛ばし、振り返らずに走り去った。

        

 翌日になっても、アルフォンソのことが頭から離れなかった。授業も全く上の空だった。あいつはゲイだったんだ。今までそれを、おくびにも出さなかったのに。アル、ボクたちは友達だろう? 隠し事は無しだよ。

 そう思いながら、淳一はゲイについて思い出すことがあった。

 父親の一平が以前アメリカに研修に来た時の話だ。アメリカではエイズ問題が大きな社会問題になり始めていた。

 一平が訪問したサンフランシスコの放送局で、エイズ問題の啓発をテーマに、HIV感染者をスタジオに招き、番組の収録を行おうとしたところ、エイズは空気感染すると恐れた放送局のエンジニアたちが一斉に業務を拒否してスタジオから出て行くという騒ぎがあった。

 当時エイズは患者と同じ部屋にいるだけで感染する恐ろしい死の病というイメージしかなく、エンジニアたちの行動も無理からぬところもあった。

 そのうちに日本でも感染者が出て、世界的な問題になった。一平はエイズ発症の背景にあると考えたゲイの問題をテーマにした報道番組を、帰国後に企画し取材した。

 取材で出会ったゲイの裏話を、父が息子にしてくれたことがあった。淳一は異常な人間と見られがちなゲイを温かい眼で見守る父の態度を感じ取っていた。

 アルフォンソという身近な人間がそうだとわかった途端、そのまま素直に受け入れることが出来なくなってしまった。淳一は、そんな自分を腹立たしく思った。

 お前はゲイを頭でしか理解していない偽善者だ。友達だろう? アルフォンソは。淳一は自分を責めた。

 いつの間にか授業が終わり、淳一は教室から出た。人の気はいを感じて後ろを振り向くと、アルフォンソだった。バツの悪そうな顔をしながら突っ立っていた。淳一は顔の火照りを感じた。

「この前は、ごめんな」

 消え入るような声だった。昨日先住民の誇りを口にした同じ人間とはとても思えなかった。しばらく言葉が結べず黙っていたが、淳一がようやく口に出したのはこんな言葉だった。

「謝られてもしょうがないよ。ボクらは危うく二人だけの秘密を持つところだった。男同士というのは、やっぱりよくないよ」

「お前はユキとしたいんだろ? 恋人のユキとな」

 したい、というアルフォンソの開けっ広げな言葉に顔が赤らんだ。これだけやっと口にした。

「そんなこと出来っこない。カールのようにぶん殴られるのがオチだ」

「ここならいつでもOKだぜ」

 アルフォンソが白い歯を見せて自分の股間の上に手を置いた。

「ちっとも懲りてないじゃないか!」

 アルフォンソの物言いに思わず言い返し、逃げるアルフォンソを追いかけた。


 淳一が夢精を知ったのは中学の時だった。同級生の髪の長い女の子が夢の中に現れた。裸身に透き通ったベールを被り、両手を上げて踊っている。気持ちよく夢を楽しんでいたら、股間に快感が走り、パンツが濡れてしまった。一瞬だけの快感が過ぎ去ったら、あとは何か悪いことでもしでかしたような不快感しか残らない。

 ニューヨークに来て間もない頃、深夜にテレビのリモコンで七十ほどあるチャンネルを変えている時、画面の英語の意味がわからないままクリックしたら、いきなり男女が激しく愛し合っている場面が映った。

 家族はすでに寝ていたので、こっそりと画面に夢中になった。それから毎夜、そのチャンネルを密かに楽しむようになった。

 一ヶ月ほどすると、そのチャンネルが突然見られなくなった。何故だろう。淳一は首を傾げた。

 息子が有料のアダルト専門チャンネルを見ていることに気付いたのは父だった。ケーブル会社からの請求書の明細に、専門チャンネルの名前が表示され、料金が明示されていたからだ。アメリカの番組を必要に応じてダビングし、本社に参考資料として送付することも一平の仕事の一環だったので、社宅のケーブルテレビ料金は、支局予算で支払うことになっていた。

 一平は明細にADULT(アダルト)の文字が入った請求書をつけて、本社に経理報告書を送ることにいささか抵抗感があった。

 経理部員でも、その文字を見れば、ポルノだというくらいはわかるだろう。そうなれば、高瀬支局長はニューヨークでポルノを楽しんでいるらしい、などというばかばかしい噂が社内で拡がりかねない。

 とりあえず今回だけは請求書をいつもの通り処理し、ケーブル会社に電話をしてアダルト専門チャンネルを受信できないように、ピン・コードを入れることにしたのだった。

      

 ある日の放課後、淳一は服を脱いでアルフォンソの部屋にいた。

 アルフォンソも服を脱ぎ、淳一の身体を愛撫し始めた。二人は唇を重ね、お互いの肌の匂いを嗅(か)いだ。

 突然、部屋のドアが開いた。

「アルフォンソ、一体何をしているの! この子は誰?」

 二人はベッドから飛び上がった。

「母さん!」

 買い物に出掛けていたはずのアルフォンソの母親が、ドアの取手を握ったまま、顔をしかめて二人を見つめていた。

 淳一は慌てふためいてパンツを穿き、服を着た。ボタンを留める余裕もない。

「すみません。失礼します」

 淳一は母親の眼を避けながら、出て行こうとした。

「ちょっとお待ち。事情を説明なさい!」

 首根っこをつかまれ、ベッドに引き戻された。アルフォンソは裸のままうな垂れていた。

「この子は一体誰なの」

「学校の友達の淳一だ」アルフォンソは観念した様子で答えた。

「男同士で一体何をしているの!」

 母親は汚らしそうに、淳一を眼の縁で見つめていた。

「いつからこんなことをしていたの?」

 二人は押し黙ったまま下を向いていた。

「淳一さんとか言ったわね。あなたのお母さんに会わせてちょうだい。アルフォンソ、お前も一緒に来るのよ!」

「母さん、何もそこまでしなくても」

 母親は二人の腕をつかんで、部屋から引っ張り出した。


 玄関でフォスターが激しく吠え、ドアチャイムが鳴った。悦子がピープホールから覗くと、見知らぬ女性と少年が立っていた。息子の姿が見えたので鎖鍵をはずし、扉を開けた。

「突然お邪魔してすみません。息子さんの友達、アルフォンソの母親です」

 一体何の用事なのかと訝りながら、悦子は母親らを招き入れた。ソファに座った母親は、洗いざらいぶちまけた。悦子は何が起こったのか、初めの内は頭が混乱していたが、ようやく事の次第がつかめた。

「そうでしたか。息子が大切な息子さんを辱めるようなことをいたしまして……」

「いえ、どちらが悪いとは申しておりません。ただこういう不純な行為が今後絶対に起こらないように、お母様にも認識していただくのがよいと考えたので、伺った次第です。高校生と言ってもまだ子供です。お互い将来ある息子に誤った道を歩かせないためにも、親が子供のことをしっかり見ておく必要を感じたのです」

 悦子は平身低頭するばかりだった。親子が帰った後、悦子はうな垂れている淳一の肩に手をかけた。

「一体どうしたって言うの。男の子の生理のことはよくわからないけど……」

 淳一は居たたまれなくなって二階に駆け上がり、部屋の鍵を閉めた。

 会社から戻った一平に、悦子は事情を話した。一平は一瞬驚いた様子だったが、落ち着いて妻に言った。

「俺から話すよ。こういう時は父親の出番だからな。俺も小学生の頃、蒲団の中で弟とおチンチンを触り合ったことがある」

 一平は妻にウィンクしてほほ笑んだ。

「まあ、いやらしい!」

「ちがうんだよ。性に目覚めたということだ。何も変なことはない」

「……淳一はゲイなのかしら」

 悦子は何とか自分を落ち着かせ、納得しようともがいている様子だった。

「そんなことはなかろう。だって、ユキさんとちゃんとつき合っているのが何よりの証拠じゃないか」

「そうなのかしら。でも、バイセクシャルということもあるし、心配だわ」

「余計な心配はするな。バイセクシャルだとしても、それの何処がいけないんだ? 性的少数者には彼ら自身の生き方があるんだよ。俺と弟みたいに最初男同士で性の目覚めを迎えることだってあるんだ。俺も弟も結婚し、ちゃんと家庭を持っているじゃないか」

「……それはそうだけれど……」

 悦子は合点がいかないようだ。

「性の目覚めは麻疹(はしか)みたいなもんだ。通り過ぎれば、どうってことはないよ」

 一平は息子の部屋のドアをノックした。応答はなかったが、しばらくしてドアが開いた。眠そうな顔があった。

「ちょっといいかい?」

 一平は部屋に入って、ドアを閉めた。

「話は聞いた。余り気にするな」

「でも、アルのお母さんが学校に通報するかも知れないよ。そうなりゃ、ボクはいい笑い者だ」

「大丈夫だよ。ここはアメリカだ。性の問題では日本よりもずっと先進国だ。お前がゲイだとは思わないが、万一そうだとしても、ゲイは市民権を得ている。性のあり方は多様なんだ。非常にデリケートな個人的問題でもある。人間と性は永遠の課題だ。恥ずかしがることはない」

「アルが先に手を出したんだ」吐き捨てるような言葉の調子だった。

 この子はあくまでも自分のせいじゃないと言い張るつもりだ。一平はきっぱりと言った。

「お前も応じたじゃないか。ま、そんなことはどっちでもいい。ただ、股間を汚い手で触りまくると、バイ菌が入る。尿道炎なんかになるから、気をつけた方がいい。お父さんもよくオナニーをしたけど、手指だけは清潔にしていたぞ。男には中学前後から夢精があるように、じっとしていてもたまったモノが自然にあふれ出てくる。お前も経験済みだろう。お前くらいの年代の性欲はすごく強いものだし、余り押さえつけると却って身体に悪い。相手がいなければ、オナニーでもして発散すりゃいいんだ」

「父さんもなかなかはっきりと言うね。びっくりした」

 息子の顔にようやく笑みが浮かんだ。

「ただ、アルフォンソ君とはしばらく会うな。話を聞くと、彼のお母さんが非常に神経質になっているからな。お父さんと離れて、母子だけで暮らしているから無理もない」

「そうするよ。もうアルとは何もしないよ」

「だが、友情だけは大切にしろ。こういうことがあると、なかなか難しいことだがな」

 一平は言い終わると部屋を出て行った。

      

 翌朝。淳一が登校すると、ユキが飛んで来た。

「アルが退学するんだって。今、お母さんと一緒にカウンセリング・ルームにいるわ。一体どうしたのかしら。知っている?」

 淳一は一瞬目の前が真っ暗になった。きっと、あのせいだ。

 部屋を覗くと、アルフォンソと母親が、カウンセリング担当教諭のミセス・グロースと話し込んでいた。

「わたし、びっくりしたわ。だって、アルならそういうことは言ってくれるじゃない? よっぽど急な何かが起こったのよ。わたし、調べてやる」

 淳一は困惑した。もしも、あの事がユキの耳に入れば、一体どんな顔をするだろう。カウンセリング・ルームを覗き込んでいるユキの背中を見つめながら、途方に暮れた。


 午後。両親が学校に呼び出された。淳一と一緒にミセス・グロースを訪ねるように言われたという。

「えらいことになったわね。母さんも責任を感じるわ。どうしたらいいんだろうね」

 悦子は考え込むような様子だった。

「お前が動揺してどうするんだ」一平が妻を諌めた。

 待つ間、淳一は事の重大さに押し潰されそうだった。ミセス・グロースがカウンセリング・ルームに三人を招き入れた。

「アルフォンソ君のお母さんから全てを聞きました。正直言って驚いています。二人の不純同性交友については、個人的なプライバシーもあり、性についての指導の面からも慎重に扱います。その点はご心配なさらぬように」

 ミセス・グロースは親子それぞれの反応を探っているようだった。

「ありがとうございます。ところで、アルフォンソ君は本当に退学されるんでしょうか」

 悦子が不安な表情で尋ねた。

「お母さんの決意は固いようです。元々お母さんはアルフォンソ君のニューヨークへの転校に反対されていました。しかし、お父さんが将来仕事を息子に継がせたいという意向をお持ちで、ニューヨークのアート・スクールに通わせるため、とりあえず高校生活を送ってこちらに慣れさせようと、この学校を選ばれました。お母さんはアルフォンソ君をひとりで都会に出すことに不安があったので、ニューヨークについて来られたのです」

 黙って事の成り行きを見つめていた一平が口を開いた。

「しかし、それならもうあと一年で卒業ですし、もう少し頑張られた方がいいような気がするんですが。もっとも、うちの息子が絡んでいるのに、こんなことを申し上げる権利も何もないんですが……」

 ミセス・グロースは発言が終わるのを待って、学校としての対処について話した。

「カウンセラーの立場から申しますと、アルフォンソ君本人とご両親の意向を優先させることが第一と考えます。彼はこのままニューヨークに留まりたいと言っています。それに、お母さんはまだお父さんと退学について話し合われてはいません。お母さんは退学させるとおっしゃっていますが、さてお父さんは何と言われるか。学校としましては、彼をお預かりした以上、無事に卒業させたいと思っています」

 一平は男親の立場から付け加えた。

「このままでは、うちの息子も傷つくと思います。淳一の年代は、性的な欲求が強いわけですし、それ自体は全く自然なことです。先生は『不純同性交友』と言われましたが、男のわたしから言わせて頂ければ、たとえ男同士であっても、それは抑えられない性欲の発露に過ぎません。アルフォンソ君のお母さんは女性としての立場から生理的な嫌悪を感じられたのかも知れませんが、それと退学というのは余りにも短絡的な考えだと言わざるを得ません」

 ミセス・グロースは瞬きもせずに一平の意見を聴いていた。そして、こう言った。

「わたしはお母さんに、アルフォンソ君の意向を尊重しながら、ご両親でよく話し合って下さいと申し上げました。まずは、それが大切だと考えます」

        

 アルフォンソは、やはり高校を退学することになった。

 母親は息子を連れて、故郷ミオスに戻ろうとしたが、父親から待ったがかかった。高校の退学は認めるが、その代わり予定より早く息子をアート・スクールに通わせるように妻に命じた。

 妻は強硬に帰郷を主張したが、夫は頑として応じなかった。母親は仕方なく、息子とニューヨークに残ることになったのだ。

 母親は住まいを郊外のモントデールからマンハッタンに移すことにした。それは息子に新しい出発を感じさせるためだけではなく、高圧的な夫に対するささやかな抵抗でもあった。妻が夫の同意を得ずに自由にできることと言えば、住まいを変えることぐらいしかなかったからだ。

 

 淳一はユキと相談して、アルフォンソのために送別会を開くことにした。アルフォンソがマンハッタンに引っ越す二日前、学校近くのピザ・レストランで会が開かれた。会場にはサッカー部の面々と同級生らが集まり、退学していく友人を見送った。

「アル、近くだからまた遊びに来い。俺も行くからな」

 サッカー部で同じミッド・フィールダーのキム・イルが声を掛けた。

「ああ、そうさせてもらうよ。ニューヨークで暮らせるだけでもよかったよ」

「何言ってるんだ。同じニューヨークでも、お前の方が都会っ子になるんだ。コングラチュレーションズ(おめでとう)!」

 キム・イルはソフト・ドリンクを持った手を上げた。

「アルはアート・スクールに通うんだって?」ユキが尋ねた。

「うん。父さんは田舎で陶器製品を作って、売っているんだ。俺を後継ぎにしたいらしい。こちらで暮らすのはすごくお金がかかるから田舎の父さんのもとで修業すりゃいいと思うんだけど、若い頃はもっと広い世界を見なきゃいかんと言うので、母さんとニューヨークに来たんだよ」

「そうなの。アルにはサッカー部のイメージしかないから、今聞いて驚いたわ。人って見かけによらないわね」

「それって誉め言葉なのか」

「さあ、どうだかね」ユキがぺろりと舌を出した。

「こいつめ!」アルフォンソがユキの頭の上で拳骨をつくった。

「サッカーはもうやめるの?」真二が真顔で尋ねた。

「しばらくは無理だろう。でも、また余裕が出来たらやるさ」

「兄さん、アルが抜けちゃうと戦力ダウンだね」

「仕方ないさ。アルの将来のためだ。誰か代わりを探さねばなあ」

「俺の存在感が増すなあ。ミッド・フィールダーとしての」

 キム・イルが胸を張った。

「そうだな。もっとも、最近ご活躍がないからねえ」

「それを言われると面目ない。許してぇー」

 キム・イルが女っぽい声を上げた。淳一はとっさにアルフォンソの表情に眼を転じた。眼は合

 ったが、アルフォンソは何事もなかったように隣の同級生の輪に入って行った。

 宴が終わり、集った友人はアルフォンソと握手をしながら次々にレストランを出て行った。淳一は前もって頼んでおいたピザを、ユキと一緒にアルフォンソに手渡した。リボンで飾られたピザの箱には、皆からの寄せ書きが書き込んであった。

「これはみんなから良き友アルフォンソ・オーティスへの贈り物だ。お母さんと一緒に食べてくれ」

「ありがとう。俺はいい友達がいて幸せだ」アルフォンソの眼が潤んでいた。

「落ち着いたら、ユキと一緒にマンハッタンに行くから、また連絡してくれよな」

 淳一はアルフォンソと握手を交わし、ユキと手をつないで店を出て行った。アルフォンソは淳一の手のぬくもりを感じながらも、手をつないでいる二人の背中を複雑な表情で見つめていた。

      

 それから一月ほど経った休日の朝、淳一に電話が入った。アルフォンソからだった。

「よう、久しぶりだな。アート・スクールはどうだい?」

 懐かしい声に淳一は上機嫌だった。

「うん、ようやく慣れてきた。今日マンハッタンに来ないか? 一緒に自由の女神のある島に渡らないか、フェリーで」

 アルフォンソの声も弾んでいた。

「女神は写真でしか見たことがないなあ。ユキも誘っていいだろ?」

「……」

「どうした?」

「……いや、別に」

「彼女もきっと喜ぶよ。何時に何処に行けばいいの?」

「バッテリー・パークって知っているかな?」

「ああ、聞いたことがある。ユキなら知っているだろう」

「自由の女神像行きのフェリー乗り場まで来てくれ。二時に待っているよ。じゃあな」

 淳一は早速ユキに電話をかけ、駅で待ち合わせてグランド・セントラル行きの電車に乗った。ターミナルで地下鉄に乗り換え、マンハッタン南部にあるバッテリー・パークに向かった。

 フェリー乗り場は自由の女神像のあるリバティ島に渡る観光客の列が出来て混雑していた。

 二人は岸壁に佇んでいたアルフォンソと再会した。

「本当に久しぶりね。もう一年くらい経ったような気がするわ。少し、痩せた?」

「授業がタイトでね。高校生活の方が楽だよ。さあ、ここからフェリーでまずエリス島に渡ろう」

「ええ、そうしましょう。淳一、行くわよ」

 ユキが淳一とアルフォンソの腕を引っ張った。

「痛い! そんなに焦らなくても、女神は逃げないよ」

 顔をしかめながら、淳一はユキの快活さに改めて見入った。

 三人はフェリーのデッキから波穏やかなハドソン湾を眺めた。アルフォンソは二人のためにガイド役をこなした。

「最初に行くエリス島は、世界中からニューヨークにやって来た移民がアメリカに最初に上陸する窓口の島だったんだ。第二次大戦が終わる頃まで使われていた。自由の女神像はエリス島からすぐ近くのリバティ島にある」

 三人は近付いて来る自由の女神を眺めた。

「思っていたより小さいんだね。もっと大きなイメージがあったわ」

「テレビなんかで見れば大きく感じるんだよ。メディアのマジックさ」

 淳一は放送局に勤める父親を想い浮かべた。

「でもね、女神像の下まで行くとやっぱりデカイぜ。中には移民の歴史館があるんだ」

 アルフォンソが言った。

「アルは今まで何回来たことがあるの?」

 ユキは、波しぶきを蹴散らしながら進むフェリーのデッキに吹き渡る風に髪を靡かせていた。

「これで五度目かな。昔のアメリカの玄関口に来ると、何故か心が落ち着くんだ。マンハッタンという地名も元々は先住民の部族の名前だからね。ご先祖がこの大陸に渡って来た大昔には勿論自由の女神の像なんかなかったけど、ここに来ると、古い時代のことをつい想像しちゃう。想像の翼がはばたくんだ」

 淳一は話を聴いているうちに、アルフォンソが以前話してくれたことを思い出していた。

『俺たちプエブロ先住民は昔白人の侵略に遭った。たくさんの同胞が殺された。ご先祖はそれでも力を合わせ、スペインの支配を覆して、祖先伝来の土地を守った誇りがあるんだ』

 フェリーはエリス島に立ち寄り、そこからリバティ島に向かった。

 自由の女神像はアルフォンソの言う通り、近くで見ると確かに巨大だった。空に向かって堂々とそびえ立つという感じだ。女神の下からエレベータに乗って台座の上まで行くと、そこかららせん階段が続いていた。

「今工事をしているから、女神の冠のところにある展望所まで上がれないのが残念だけど、階段で行けるところまで行こう」

 三人は女神のはらわたの中にある狭い階段を上がった。そこから引き返して台座部分にある移民の歴史館に行ったら、日本人移民のことが記されていた。


【カリフォルニアの葡萄園で働いていた日本人は、持ち前の勤勉さで仕事に精を出し、財産を作った。現地の人の心に、次第に日本人に対する妬みが渦巻き始め、偏見と差別が芽生えたのだ】


 読んでいたユキは腹立たしさを抑えきれない感じだった。

「勤勉さは日本人の美徳でしょ。それが人種差別につながるなんてひどい話ね。アメリカって、移民が自由な新天地を求めて来たところじゃないの? 変よねえ」

 アルフォンソはユキの話に乗らず、さっさと出口に向かって歩き始めた。

「さあ、フェリーに乗ってバッテリー・パークに戻ろう。次は先住民の博物館に行かないか。ボクも博物館の近くに住んでいるけど、まだ行ったことがないんだ。一緒に見ようと思ってとっておいたんだよ」

「おもしろそうね。淳一、行きましょうよ」

「そうだな。アルのことがもっとわかるかも知れないからね」

 ボクが先住民のことに耳を傾けてくれると思ったから、アルは自分、ひいては先住民のことをもっと理解してもらうために案内しようと思っているのだろう。そう思った。

 三人がフェリーでバッテリー・パークに戻ると、自由の女神像をコインに刻印するという商売人がいた。一セントコインを渡すと、それを万力にかけて圧縮したと思ったら、楕円形になったコインにくっきりと女神像が刻印されていた。

「これ、おもしろいね」「わたしもやってもらおう」

 ユキがコインを渡すと、あっという間に同じものが出来上がった。ユキは楽しそうに財布から代金を払い、女神をバッグのポケットに放り込んだ。

 

 先住民博物館はバッテリー・パークの近くにある。歴史的建造物を改造し、最近オープンしたばかりだが、辺りはひっそりとしていた。

「先住民に対する関心はまだまだ低いんだよ」

 アルフォンソがため息をついた。

「いいのよ、そんなこと。わたしらがいるじゃない。さあ、見てみましょう」

 三人はそそり立つ大理石の柱を抜け、博物館の玄関をくぐった。

「アラスカの先住民・イヌイットの展示もあるね」

「うん、この博物館には北米大陸すべての先住民の生活と歴史が一目でわかるように工夫されているらしい。さて、プエブロ先住民の展示は何処なんだろう」

 アルフォンソは館内地図を探していた。

「アル、あそこにプエブロのコーナーがあるよ」

 淳一が気付いて指差した。そこにはニューメキシコを中心にした十九のプエブロ先住民の生活用具やアート作品が展示されていた。

「壷がたくさんあるわ。これなんかシンプルで、すてきね」

 ユキは屈(かが)み込んで、壷を眺めた。アルフォンソも興味深そうに覗き込んでいた。広口で胴体のふくらんだ赤褐色の壷だった。くすんだ色合いが何とも言えない。

「いいわねえ、こんな壷ひとつ欲しいわ」

「ユキのためにボクが作ってあげるよ。特別念をいれたものをね」

 アルフォンソがユキに声を掛けた。

「うわっ、本当に? 嬉しい!」

 ユキはアルフォンソの両手を握り、ジャンプした。

 アート・スクールに通い始めたばかりなのに背伸びし過ぎじゃないのかと思いながら、淳一はちょっぴり嫉妬を感じていた。

「お父さんもこんな壷を作っているんだろう?」

 淳一は彼の父親に話題を持って行った。

「そう。父さんが作るのはプエブロ先住民の伝統的な手法の壷だ。ボクは伝統に新しい要素を加えたものを作ろうと思っているんだ」

 アルフォンソの瞳が輝いていた。

「出来上がりが楽しみだわ」

 ユキは嬉しそうに壷を眺めていた。

    

 放課後アート・スクールの陶芸教室で、アルフォンソは作品と格闘していた。

 ユキに壷をプレゼントすると豪語してしまった手前、何とか気に入られる壷を作ろうとするが、思うようにはいかない。翌月からは特別演習があるので、それまでには何とか仕上げておきたかった。放課後は誰もいないので、製作には絶好のチャンスである。

 アルフォンソが放課後教室に居残るのには、もうひとつ理由があった。男のメイトとの行為が人目をはばからず出来るからだ。

 淳一とのことが公になり、親の眼が厳しくなってから、アルフォンソは淳一に代わる相手を探していた。自慰だけでは収まらない性欲を持て余していた。

 淳一とのことでマンハッタンに引越し、アート・スクールに通い始めてから、何人かのメイトが見つかった。ある時は二人で、またある時は三人でのプレーという風に、アルフォンソは友達と密会を重ねていた。

 その日はミンガスというメイトが陶芸教室に忍んで来た。

「アル、今日は俺とやろう」

 そう言うと、ミンガスは窓のカーテンを閉めて服を脱ぎ始めた。アルフォンソも壷作りをやめ、服を脱いだ。

「やさしくな」

 アルフォンソは前かがみになり、ミンガスに尻を差し出した。事が終わり、ミンガスは作業台の上に横たわって、激しく息をしていた。誰かが教室のドアを叩いた。

「誰だ。トニーか」

「そうだ。開けてくれ」

 アルフォンソが鍵を開けた。

「第一ラウンド終了のようだな。では第二ラウンドだ。どちらか俺にさせろ」

 トニーはズボンのベルトを緩め始めていた。

      

 淳一は、サッカーの練習がない時には努めてユキを誘い、マンハッタンに出掛けた。その日は、アルフォンソと三人で夕食に行く約束をしていた。

 アートギャラリーがひしめく街・ソーホーにあるレストランで、パスタ料理が評判の店だった。

 待ち合わせまでまだ少し間があったので、二人は周辺の店をのぞいて歩いた。

 最先端のアートシーンを彩る現代絵画のギャラリー、精巧な恐竜模型の専門店、高級食材を売る店などを冷やかしながらレストランに向かう途中、淳一はアルフォンソがユキのことをどう思っているのか、その胸の内に想いをめぐらせていた。

『淳一はボクに会う時はいつもユキを連れて来る。二人きりなら、きっとまたボクが求めるのを知っている。それが出来ないように、いつもユキを連れて来るんだ』

 アルはユキを煙たい存在と思っているに違いない。

 レストランに着くと、アルフォンソが中庭にあるテーブルに腰掛けていた。

「よう、来たか」

 二人を認めると、アルフォンソが微笑んだ。

 ウェイターが待ちかねたように注文を取り始めた。三人はそれぞれソフト・ドリンクとお好みのパスタを注文した。

「アート・スクールの方はどうだい? もうすっかり慣れたかい?」淳一が尋ねた。

「そうだな。もうすぐ陶器の特別演習があるんだ。そうなれば、本格的に陶器製作を勉強することになる。今はその準備段階といったところだ」

 淳一は、アルフォンソの話し方が高校にいた頃よりずっと大人びたように感じた。

「友達は出来たかい?」

 アルフォンソはユキの眼を気にしながら「ああ、何人かね」と答えた。

「同じコースの人?」今度はユキが尋ねた。

「そうだ。放課後一緒に壷を作っている。ところで、高校の方はどうだ。サッカーの連中は皆元気にしているのか」

 アルフォンソは意識的に話題を変えたような気がした。

「相変わらずだよ。この前また日本人ばかりのK学院と試合をやった。案の定、日本語で汚い言葉を浴びせかけて来た」

「分断作戦だな。あれをやられると、すごく不安になるよな」

 話している時も、相変わらずユキの表情を追う眼がある。

 淳一もユキに何かを感づかれるのではと意識して、ユキの表情を気にしている。

「試合には勝ったのか?」

「うん。キム・イルが三点、真二が俺のアシストで二点入れた。向こうは手も足も出なかった」

「真二も中学生なのにすごいね。キム・イルも調子がいいんだなあ」

 淳一とアルフォンソ二人だけの会話が続いている。

 本当は二人ともユキの胸の内を探りたくて仕方がないのに、逆にそれを知られるのが怖くて、わざと遠ざけている感じだ。

「キムもお前が抜けた分だけ、がんばっている。元気が出て来た」

「そうか。またサッカーがやりたいなあ」

 アルフォンソは座ったままシュートする格好をした。ソフト・ドリンクとパスタが運ばれてきた。ユキは真っ先にパスタを口に運んだ。

「とってもおいしいわ。ここのパスタ、さすがね」

「ソーホーでも有名な店なんだ。ボクは気に入っている」

 アルフォンソが鼻を高くした。

「ここはよく来るの?」淳一が尋ねた。

「そうだな。週に一度は必ず。ちょっと料金が高めだけど、週に一度なら何とかなるし」

「男友達と?」

「うん。アート・スクールのね」アルフォンソが下を向いた。

「デートって感じ?」

 淳一は少し微笑みながら探るように言った。

「デート? デートって、まあ、そんなところだ」

「デートって男同士にも使う言葉なの?」

 ユキがパスタを巻くフォークの手を止めて尋ねた。

 淳一はそれ以上尋ねず、アルフォンソも口を閉ざしている。彼の硬い表情が、それ以上の質問を拒絶していた。淳一は話題を変えた。

「お母さんは元気?」

 アルフォンソに安堵の表情が戻った。

「うん。でもモントデールの方が住み易かったと嘆いているよ」

「夏にはミオスに帰るのか」

「母さんは帰らないだろう。意地になっているからな。俺も事情が変わったし、ちょっと見通しが立たなくなった」

「そうか、残念だな。お前の故郷に行きたかったのに」

「何も俺と一緒でなくてもいいじゃないか。楽しんで来いよ」

 上滑りの会話は何処まで続くのかと思ったその時だった。

「そもそもアルは何故高校を退学したの。わたし、もうひとつ腑に落ちないわ」

 ユキが、微妙なところを突いた。淳一とアルフォンソはお互いの眼を合わせた。

「アルのお父さんが、予定を早めてアート・スクールに行くように勧めたからさ。アル、そうだろう?」

「うん」

「でも、卒業してから行けばいいじゃない? その方が、区切りがつくんじゃないかしら」

 ユキが斬り込んで来た。アルフォンソは口をつぐんでいた。

「それはユキの考え方だろ。アルのお父さんは、彼なりの考えがあるんだよ」

「何故淳一が答えるの。わたしはアルに尋ねているのよ」

 アルフォンソには、ユキがまだあのことを知らないことがわかった。もしユキがあのことを知っていたなら、淳一と二人で俺に会いに来ることなどしないはずだ。  

 淳一もユキに気取られまいと、必死になっている。と、いうことは淳一が事情を知らないユキを自分の楯に利用して俺に手出しが出来ないようにしていることにもなる。

 博物館の時もそうだった。二人で会おうと思っていたのに、淳一はユキも一緒にと言い出したんだ。

 ユキは、アルフォンソが自分で答えようとしないことに不信感を抱いていた。

「わたし、はっきりしないことは嫌いなの。もう帰るわ」

「まあ、待てよ。折角こうしてアルに会いに来たんだから」

 淳一の制止を振り切ってユキは席を立ち、早足でレストランを出て行った。アルフォンソはそれを見届けていた。淳一はユキが食べかけのまま残していったパスタから立ち上る湯気をぼんやりと見つめていた。

「これからアート・スクールに来ないか」

 アルフォンソがポツリと口にした。

「こんなに遅くから? もう閉まっているだろう?」

「俺は放課後に出入りするから、特別にキーを預かっているんだ。どうだ、行ってみないか」

 やっぱり。ユキが帰った途端に誘いをかけるアルフォンソに不信の念が渦巻いていた。

「お前、ひょっとしてまたボクと、あれをしようというつもりじゃないだろうな?」

 アルフォンソの眼が誘っていた。

「お前も嫌いじゃないだろう? さあ、行こうよ」

 淳一は腕を引っ張られた。ここで断ればいいのに、お前は何故断らないんだ。淳一は自問していた。アルフォンソは黙って淳一を先導していった。

 陶芸教室に着くと、部屋にほのかな灯りがついていた。カーテンは閉まっていたが、人影があった。

「誰かいるのか?」淳一が尋ねた。

「友達さ。一緒に勉強しているんだ」

 アルフォンソがドアの鍵を開けると、淳一の知らない若者が二人、立ったまま裸で抱き合っていた。

「ミンガス、トニー。友達を連れてきたぞ。淳一だ」

 若者らは前を隠そうとせずに、淳一に微笑んだ。

「ようこそ、淳一。知り合いになったしるしに、俺とトニーが歓迎の儀式を見せてあげるよ」

「ボクは帰る!」

 淳一はドアのそばにいたアルフォンソを突き飛ばし、走って外に出た。

「待ってくれ!」

 アルフォンソが後を追って来た。淳一は立ち止まり、振り返った。

「アル、こんなことを続けてどうするんだ。恥ずかしくないのか。お母さんのことを考えろ!」

 アルフォンソは淳一に近付いて来る。

「ボクは生まれつき男しか愛せないんだよ。そこをわかってくれ!」

「そんな風に決めつけるな。今ならまだ間に合うぞ。一緒に帰ろう」

 アルフォンソの手が股間に伸びた。淳一は手を引っ叩いた。

「やめてくれ! お願いだから」

 アルフォンソは舗道の上に突っ立った。眼から涙がこぼれ落ちている。  

 淳一はメモを差し出した。

「これは父さんが買ってくれた携帯電話の番号だ。電話はいつも持ち歩いている。もしも何かあったら、これに電話をくれ。いいね」

 涙を拭きながら、アルフォンソはメモを受け取った。

「サンクス」

 アルフォンソは、じっと淳一の眼を見つめていた。

     

 淳一はユキのことが気がかりだった。いつも自分の不注意で怒らせてしまうのが悔やまれた。それでも、自分とアルフォンソの間に起こったことを正直に言うのは、憚られる。それじゃ、どう繕うんだ。名案はそう簡単に浮かびそうになかった。でも、正直に話さなければユキとの関係はもう元に戻らないような気がする。

 そんな折、放課後のキャンパスでユキと出くわした。ユキは淳一と眼が合うと、挨拶もせず小走りに去ろうとした。

「待ってくれ! 話があるんだ」

 ユキは立ち止まり、淳一を見つめた。

「わたしをこれ以上騙そうとしてもだめよ」

「騙すだなんて……そんなつもりは……」

「淳一は嘘をつくのがへたくそよ。もっとうまくなりなさい」

 ユキの眼が射抜くように見つめていた。一言も返せなかった。

「話って何よ?」

 淳一はユキと学校の入り口を出て並んで歩いた。並木の枝が風に揺れ、木洩れ日が舗道に差し込んでいた。

「……アルのことだけど……」

「二人でわたしに何か隠しているのはわかってるわ」

「実は、アルが退学したのはボクにも責任があるんだ」

「何なの。はっきり言ってよ!」

「……ボクはアルと性的関係を持った」

 ユキは、聞いてはならないことを耳にしたような気がした。

「性的関係って? 男同士でってことなの?」

「そうだ。それをアルのお母さんに見られてしまったんだ。それで……」

「やめて! もういいわ。もういい!」

「いや、ボクの言うことをちゃんと聞いてくれ。でないと、ボクはだめになるような気がする」

 ユキは黙って淳一の瞳を見つめた。刺すような感じは消えていた。

「お母さんは俺の家までやって来た。母さんに会って、全てを話した。その翌日だった。アルが退学するって聞いたのは……」

「恥ずかしかったんでしょ。わたしに言うのは」

「……」

「でも、よく言ってくれたわ。わたしはそれで納得が行ったわ。ちょっと理解を越えることだけど」

 ユキは淳一の瞳をじっと見ていた。淳一は恥ずかしい気持ちをやっとのことで押さえていた。

「この前マンハッタンで、ユキが帰った後で、またアルが誘って来たんだ。ボクは心が揺れた。友情のためと割り切ってつき合うのか、それとも断るのかってね」

「それで結局どうしたの?」

「断った。アルは泣いていた。自分は男しか愛せないって」

「わたしには男同士の恋愛なんてわからないわ。でも、女同士の愛の芽生えみたいなのを感じたことはあるわ。中学生の頃、仲良しの女友達と軽くキスしたことがあるの」

「そんなことがあったのか、ユキにも……」

「でも、それだけよ。淡い同性愛なのか、代償行為なのか、何だか、今ではよくわからないわ」

「ボクはアルをどうしてやるのがいいのか、わからないんだ」

「難しいわね。それは」

「あいつには新しい男友達がいる。ボクが拒否しても、その連中を相手にするだけだ。愛って言うけど、ボクの見たところ相手は誰でもいいって感じなんだ。やりたいことさえ出来ればね。それに、同性愛が一概に悪いとは言えないし、それは個人の自由だろうし。でも、アルはそのことですごく苦しんでいるみたいだ」

「どういう風に?」

「自分がうまくコントロール出来ないからじゃないのかなあ。本当は男との行為なんかしたくないのかも知れないけれど、身体が自然に求めてしまうんだろう。辛いんだろうなあ」

「これからも、つき合うつもりなの?」

「あいつは、気はいい奴だし。それに何と言っても友達だし」

 淳一はアルフォンソのことが頭から離れなかった。

     

 相手チームの選手をかいくぐり、疾走する足元のサッカー・ボールが淳一の強烈なキックで相手のネットに突き刺さった。

「ゴオオオール!」

 淳一はユニフォームの上着を脱ぎ捨てて、喚声に応えた。

 真二とキム・イルが淳一に抱きついた。相手チームのゴール・キーパーは下を向き、がっくりと肩を落としていた。ダメ押しとも言える三点目のゴールだった。

 新学年が始まり、パンサーズはロング・アイランドのサッカー場での遠征試合に参加していた。ユキは応援団席で声援を送っている。席の端っこには、アルフォンソの姿があった。退学したので、選手としては参加出来ないが、OBという立場でパンサーズの応援にやって来たのだ。

 アルフォンソは淳一のゴールに立ち上がり、ユキの姿を横目で見ながら席を離れ、隣のフィールドに足を運んだ。

 あと一時間ほどすると、別の男子チームの試合が始まるフィールドだった。ユニフォームに着替え、軽いキック練習をしている選手もいる。大半の選手はフィールドのあちらこちらで日光浴を楽しみながら着替えをしていた。

 半裸がいれば、全裸もいる。応援にやって来た女子は見て見ぬふりをしながら、くすくすと笑い合っている。

 アルフォンソは気づかれないように全裸の選手にゆっくりと近付いて行った。日焼けした腕。透き通るように白い、どっしりとした尻。開いた股間。アルフォンソの眼は下半身を這い回っていた。


 パンサーズは相手チームに大差をつけて勝った。

「よくやった!」

 汗まみれになった選手を、監督が両手を広げて迎えた。

「一方的な試合だったね」

 真二がタオルで汗を拭いながら淳一に声を掛けた。

「相手が弱すぎるよ。あれ、アルは何処に行ったんだ?」

 淳一は応援席を見渡した。

「おかしいなあ。さっきまで端っこにいたのに」

 ユキが駆け寄って来た。

「お疲れ様。兄弟ふたりで五得点よ。さすがタカセ・ブラザーズね」

「ありがとう。ところで、アルは何処にいるか知っている?」

「いいえ。ずっと応援団席にいたんじゃないの?」

 兄弟で辺りを探してみた。ユキは反対の方向を探していた。アルフォンソが走りながら戻って来た。

「ごめん。トイレがしたくなって。試合はどうだった?」

「大勝さ」

「そうか。相変わらず強いな。ボクなんか必要ないな」

「何言っているんだ。お前がいたら、もっと勝てたのに」

「アル、これから反省会のミーティングがある。その後一緒にユキ特製のサンドウィッチを食べないか。うまいぞ」淳一が提案した。

「うん。ありがとう」

「じゃ、ここら辺でしばらく待っていてくれ」

「OK」

 アルフォンソの背後が騒がしくなった。

「やあ、アルじゃないか。久しぶりだな、元気か」

 アルフォンソが振り向くと、キム・イルが仲間の選手と軽くボールを蹴りながら近付いて来ていた。選手らはひとりずつアルフォンソと握手を交わし、ミーティングの場所に散って行った。


 ミーティングが終わり、淳一はアルフォンソとフィールドの隣にある公園に行った。

 二人は芝生に腰をおろし、友達から電話が入ったのであとから来るユキを待ちながら特製サンドウィッチをつまんだ。公園の縁にはセコイアの並木があった。それを見てアルフォンソが言った。

「お前とのことがバレて母さんとお前の家に行った時に、セコイアの並木が眼に飛び込んで来た。今この芝生に降り注ぐ木洩れ日みたいに、先住民のボクを暖かく受け入れてくれるお前とセコイアの並木は、その時ボクの中で固く結びついたんだ。淳一のような友達が出来たのもボクの誇りなんだぜ」

 アルフォンソは淳一の瞳をじっと見つめていた。ユキが合流して来た。

「アル、陶器の授業は進んでいるの?」

 ユキはスクールでの実習のことを尋ねた。本当はアルがプレゼントしたいと申し出た壺の進行具合が気になっているはずなのに……。  

「授業は今特訓を受けているんだ。壷の試作品をいくつも作ったよ。だいぶん要領がわかって来た。そうそう、ユキに約束した壷も間もなく完成するよ」

「覚えていてくれたのね。よかった!」

「お母さんはどうされているの?」ユキが尋ねた。

「父さんの仕送りを当てにせず、暮らそうとしている。仕送りは貯金して、レストランで働き始めた。よほど父さんの束縛から逃れたいらしい」

「そうなの。なかなか大変ね」

「ボクの家はユキんちのように金持ちじゃないからね」

 アルフォンソがユキを睨(にら)んだ。

「ちょっと、それどういう意味なの?」

 ユキはサンドウィッチを食べる手を止めた。

「ボクのような貧乏人の息子の気持ちは、君みたいな金持ちの娘にはわからないということだよ」

 淳一は何故急にアルフォンソがそんなことを言いだしたのか、わからなかった。

「おい、アル、ユキが何か悪いことでもしたのか?」

「……別に……」

 アルフォンソはぷいっと横を向いた。

「だったら、何故そんなことを言うんだ。たった今、ユキへのプレゼントの話をしていたのにさ」

「ボクもえらい約束をしちまったもんだ」

「おい、待てよ」

 淳一が眉をひそめた。ユキの顔が歪んでいる。

「そんなことを言うんだったら、何も無理して壷をくれるなんて言わなかったらよかったじゃない? 何よ! アルが作ったへたくそな壷なんて要らないわ!」

 ユキはバッグを持って立ち上がった。

「カールをぶん殴るような気の強い女なんてボクの性に合わないね!」

「何ていうことを言うんだ。ひどいじゃないか。ユキに謝れ!」

 淳一はアルフォンソを睨みつけた。

 ユキは小走りに立ち去ろうとしたが、振り向きざまにアルフォンソに向かって叫んだ。

「淳一と変な付き合いをするのはよして! 淳一はわたしと付き合っているのよ!」

 アルフォンソは顔を引き攣らせて、残っていたサンドウィッチをつかんで、ユキに投げつけた。

「あんたなんかゲイの巣窟で暮らせばいいんだわ!」

 そう言うと、ユキは落ちたサンドウィッチを拾い上げ、アルフォンソに投げ返して走り去った。

「あのことをばらしたな!」

 アルフォンソは、淳一を睨みつけた。淳一はアルフォンソの眼を見据えた。

「ユキを遠ざけて、ボクと二人だけになろうとしたな。違うか?」

「だったら、どうなんだよ」

「自分の欲望だけ満たそうとして、他人の気持ちを傷つけても平気なんだね。そんなのは友達じゃない! もう絶交だ!」

 淳一も立ち去ろうとした。

「行かないでくれ! お願いだ!」

 アルフォンソは淳一に抱きついて来た。

「放せ! アル」

 淳一はアルフォンソの腕を払いのけようとして揉み合った。

 突然、腹に鈍い痛みが走った。淳一は腹を押さえながら、芝生の上に屈み込んだ。光る刃から鮮血が滴り落ちるナイフがアルフォンソの手に握られていた。

      

 眼を覚ますと、淳一はベッドの上だった。窓にかかるブラインドの隙間から差し込む光とブラインドの影が、白壁に交互の縞を映し出している。どうやら病室のようだ。

 淳一は両手で眼を擦った。腹の辺りに痛みが走り、顔が歪んだ。廊下を歩く靴の音が近づき、部屋のドアがゆっくり開いた。

「淳一、気がついたのね。よかったわ」母の悦子だった。

「母さん、ボクは一体どうしたの?」

「救急車でこの病院に運ばれたのよ。真二が倒れているあなたを見つけたの。あの先住民の子があなたを刺したのよ。あの子は警察で事情を聞かれているわ」

「……アルが……ボクを……」

 淳一はおぼろげながらサッカー場の出来事を思い出した。

「ユキは? ユキは大丈夫?」

 淳一は起き上がろうとした。

「痛い!」

「ダメよ! 動いたら。ユキさんは無事よ。安心して」

 淳一は、ほっと息をついた。もしもユキがアルフォンソに刺されでもしたら、と考えただけで空恐ろしかった。

「淳一のお腹の傷は、幸い浅いらしいわ。よかったね。でも母さんはとっても心配だった」

「ユキは今何処にいるの?」

「父さんらとこちらに向かっているわ。もう間もなく着くと思う」

 淳一はあの時、ユキがアルフォンソに投げた言葉をはっきりと思い出していた。

『淳一はわたしと付き合っているのよ!』

 一平とユキが到着し、真二が目撃談を披露した。

「帰ろうと思ったら、兄さんがいないから捜したんだ。公園に行ったら兄さんが倒れていた。そばにアルフォンソが呆然とした表情で座り込んでいた。傍に血のついたナイフが落ちていた。だから、びっくりして皆を呼びに行ったんだ。誰かが救急車を呼んでくれた。しばらくすると、パトカーもやって来た。アルはパトカーに乗せられて行ってしまった」

 淳一はその時のことを思い返していた。

 ユキを怒らせて帰した後で、アルフォンソはボクに抱きつこうとしていた。でも、ボクが拒否したので、無理に抱きつこうとしているうちに揉み合って、誤ってボクを刺してしまった。きっと刺すつもりはなかったんだ。そう信じたい。

「いずれにしても学校に報告しなくちゃな。明日出勤前に学校に行ってくる」

 一平の声は沈みきっていた。ユキはじっと淳一の顔を見つめていた。

      

 一週間ほど経って、淳一は退院した。しばらくは自宅で療養するようにとのことだった。入院中に警察に事情を聞かれ、淳一はできるだけアルフォンソ側に立った発言をした。友達だから、それに過ちは誰にでもあるという思いが強かったからだ。

 事情聴取が終わり、アルフォンソは未成年による過失傷害罪と認定され、科料の支払いを命じられた。

 アルフォンソの母親は見舞いを兼ねてモントデールを訪れた。自分の息子がしでかしたことについては、淳一本人と家族に素直に謝罪したが、淳一に対しては厳しく、今後一切アルフォンソと会わないようにクギを刺した。自分から誘った訳ではないと、喉まで出かかったが、母親の意を汲んで沈黙した。

 学校では事件のことが知れ渡り、仲良しだった淳一とアルフォンソの間に何が起こったのかと探偵ごっこが始まっていた。事情を知っているユキは、淳一の名誉のために固く口を閉ざし、つとめて明るく振舞った。

 淳一はようやく通学を始めたが、変なうわさが立つのを恐れて同級生らとの接触を出来るだけ避け、専らユキと付き合っていた。

 そんなある休日、二人はハドソン川沿いのドライブに出掛けた。淳一は、昨年家族と出掛けた紅葉が美しい山林公園にユキを連れて行きたいと思ったのだ。

 車窓から眺める道路沿いに、紅や黄色のベールに包まれた林が何処までも広がっていた。展望所で車を降り、青空の下紅葉した樹々を眺め、二人きりで散策道を歩いた。

 池のほとりで絵を描いている中年女性がいた。絵を覗き込むと、女性はにっこり微笑んだ。池の回りには草が生い茂り、沈んだボートの舳先(へさき)にトンボがとまっていた。一体に見えたが、よく見ると交尾の最中だった。淳一はじっとその様子に見入った。

「ユキ、あそこのトンボを見てごらん。あれ交尾だよな?」

 何を言い出すのかと思案しながら、ユキは指された方に眼を転じた。

「あれはきっとオスとメスだろうな」

「何でそんなことを聞くのよ! 変な人ね」

 ユキが眉間にしわを寄せていた。

「何でもないよ。ただ、トンボでもオス同士が交尾することがあるのかなあと思っただけさ」

「やめて! そんなこと言うの。オス同士で交尾できるはずがないじゃない。トンボは生殖のために交尾するのよ。生殖以外の目的で交わるのは人間だけよ。そんなことより、ご覧なさい、このきれいな紅葉を。赤も黄も、色が日本よりずっと濃いでしょ。それを見に来たのに……」

 ユキは紅葉の林に眼を奪われていた。淳一は背後からユキを見つめていた。木洩れ日に光る長い黒髪が仄かな風に揺れている。そっと黒髪に触れた淳一の両腕がユキの身体を後ろから抱きしめた。ユキの温もりが淳一の身体に広がった。ユキは動かず、じっとしていた。淳一はユキの身体から発する心地よい仄かな香りを嗅いだ。

「好きだよ」

 淳一は前に回り、眼を閉じているユキの両肩に手を置いた。そして、ゆっくりと抱きしめ、唇を重ねた。

       

 クリスマス・シーズンが到来したマンハッタンはお祭り騒ぎの日々である。

 五番街にあるデパートのショーウィンドウは、きらびやかな衣裳をまとった機械仕掛けの人形や動物が所狭しと踊り、道行く人々は足を止めてウィンドウを覗き込んでいる。通りを挟んだビルの空間には、巨大な雪の結晶模型が掲げられている。クリスマスグッズを売る店では、ツリーの飾り物を求める客でごった返していた。

 淳一はユキと夕暮れのマンハッタンの雑踏を歩いていた。夜にロックフェラー・センターで行われるクリスマス・ツリーの点灯式がお目当てだった。

 毎年巨大な樅(もみ)の木がその年のツリーに選ばれ、ロックフェラー・センターに運ばれて来る。大勢の職人が何日もかけてクレーンで木を立たせ、支えを作り、飾り付けをする。師走のマンハッタンの風物詩だ。

 淳一は、点灯式を見るのが初めてだった。

「まだ時間があるぞ。スケート・リンクを見ようか、それともショッピングをするかい?」

「人ごみはもういいわ。スケート・リンクが見えるカフェでお茶を飲みましょう」

 二人はカフェに入った。夏場は屋外レストランになる広場は、冬には屋外アイススケート・リンクに変身する。プラザのシンボル、金色のプロメテウス像がスケーターを見下ろしている。

「もうじき、この辺りは身動き出来ないほどの見物人で埋まるわ」

 マグカップでアメリカン・コーヒーを口に運びながら、ユキは見物客で混み始めた辺りを見渡している。

「あんな大きな樅の木の飾りに灯が入ったら、すごいだろうなあ」

 淳一は点灯準備がすっかり整ったクリスマス・ツリーを見上げていた。

「おじ様も見に来られるのかしらね」

「支局の人と観に来るって。人が多すぎて、会えるかどうかわからないけれどね」淳一が微笑み

 を返した。

「とにかく早くライト・アップが見たいわ」

 ユキはマグカップを静かにテーブルに置き、ナイフで切ったアップル・パイをフォークで口に運んだ。

 夜の帳(とばり)が降り、クリスマス・ツリーの周りは見物人であふれていた。二人は腕を組んで、点灯の時間を待っていた。

 ファンファーレが鳴り響き、点灯のカウントダウンが始まった。周りのビルの仄かな明かりに照らされていた暗い巨大な樅の木が、瞬時にまばゆい光の一大モニュメントに化けた。見物人から喚声とどよめきが巻き起こった。

「何てきれいなんでしょう!」

 ユキは淳一の腕にしがみつきながら、渦巻く光のページェントに心を奪われていた。

 一平が支局のアシスタントと一緒にこちらに手を振っているのが見えた。二人も手を振った。人出は隣の六番街まで続いていた。

 何かが近くで鳴っている。人ごみの喧騒の中で、淳一は音が少しでも聞こえる方向に耳をそばだてた。スタジアム・ジャンパーの内ポケットに入れていた携帯電話の着信音だった。淳一は携帯を取り出して、電話を受けた。

「もし、もーし。タカセですが……」

「……」

 電話は確かにつながっているが、相手は応答しない。

「誰? どなたですか?」途端に電話が切れた。

「どうしたの。誰からなの?」ユキが尋ねた。

「わからない。何も言わずに切れたんだ」

「間違い電話じゃないの?」

 淳一は首を傾げながら、携帯電話をポケットにしまい込んだ。

「そろそろ引き揚げようか。グランド・セントラルまで歩こう」

 二人は見物人をかき分けながら駅に向かった。モントデール行きの切符を買い、ハーレム・ラインのプラットホームに急いだ。

 また携帯電話が鳴った。電話に出ると、最初の時のように沈黙が続き、しばらくして電話が切れた。淳一は、今度は相手の見当がついた。

 アルフォンソだ。アルに違いない。あいつなら番号を知っている。でも、どうして無言電話を掛けて来るのだろう。ボクにさぐりでも入れているのかしら?

「変ね。一体何なの?」ユキが不安気な表情を見せた。

「電話を掛けて来たのは、アルかも知れない」

「アルですって! 何故?」

「あいつは携帯を持っていないから、確認のしようがないんだ。家の電話に掛けて、お母さんが出たらまずいしなあ」

 ユキは淳一の真意をつかみかねていた。

「もういい加減アルのことは放っておいたらどうなの。故意でなかったにしても、ナイフで淳一を刺したんだよ。そんな人物にこれ以上関わるのは危険だわ」

「でも、何かボクに言おうとしているような気がするんだ」

「あなたって本当にお人好しね。アルと関わると、ろくなことが無いのがわからないの?」

 淳一はユキに睨まれながら電車に乗った。

 空いていた席に座ると、向かいに抱き合っている中年の男性カップルが座っている。ひとりは白髪ひげのサンタクロースの衣裳を着た白人で、もうひとりは大きな耳飾りをつけて化粧をした女装の黒人だ。

 男性カップルは人目憚らず濃厚なキスをしたり、袋に入れた瓶ビールをラッパ飲みしたりしている。興に乗ると、スティービー・ワンダーとポール・マッカートニーのデュエット曲『エボニーとアイボリー』を歌い始める。黒人を象徴する黒檀のエボニーと白人を表わす象牙のアイボリー。この二人の生きざまにピッタリの曲なのかも知れない。

 白人サンタは淳一らと眼が合うと叫んだ。

「メリー・クリスマス! お二人さん」

 ユキが男性カップルに話しかけた。

「おじさんたち、どこまで行くの」

 黒人が微笑みながら答える。

「これからブロンクスにある教会で福祉団体主催の食事会があるんだ。ホームレスなんかがわんさかやって来る。君らも来てみるかい?」

「それは結構よ。でもそこは何派の教会なの?」

「主に俺たちのようなゲイが集う教会さ。教会が性的少数者を支援しているんだ」

 淳一は黙って好奇心の強いユキの様子を見ていた。

 家に戻った淳一は、自室に駆け上がり、パソコンの画面を開いた。Eメールが届いていないかと思ったのだ。パソコンが稼動するまで、妙にそわそわとした感覚に襲われていた。新しいメールの表示があった。差出人はアルフォンソだ。淳一は急いでメールを開いた。


【親愛なる淳一へ。

 傷の具合はどうだ。お前を刺してしまってから、合わせる顔がない。傷つけてしまうとは心外だった。「絶交」と言われ、気が動転してしまったんだ。許してくれ。前にも言ったように、ボクはやはり男しか愛せない。メイトもいるが、好きなのは淳一、お前だ。

 母さんはあれからずっとボクの行動を監視している。留守をしている間に部屋に入り、何か変なものはないかと探した形跡がある。何もあるはずないのに。

 お願いがある。もう一度だけ会ってくれないか。そして、お前の身体に触れさせてくれ。ホントにこれが最後だ。済めば引き下がる。お願いだ。アルフォンソ・オーティス】


 淳一はすぐにメールを消去した。どんな星の下に生まれ落ちたのか知らないが、自分が好きになった同性と付き合う相手の異性に対して敵がい心を燃やし、同性を奪い返そうともがく姿を不憫に思った。アルが言う「これが最後」という言葉を果たして信じられるのか。一体どんな根拠でそんなことが言えるのだろうか。ただ性欲を満たしたいがために、口から出任せを言っているのじゃないのか。それにもし交わったら、ユキを裏切ることになってしまう。それでいいのか、お前は? 淳一の脳裏にユキの顔が浮かんでいた。


 真二の高校進学準備のため、悦子は真二と一時帰国した。フォスターも別便で社宅を後にした。父と息子二人の暮らしが始まった。

 二人だけの生活がそれなりに転がり始めたある日、出勤する一平を車で駅に送ったあとで、淳一はアルフォンソに会いに出かけた。ユキに対する罪悪感は何処かに消えてしまい、男の肌の臭いを嗅げるという興奮が心をざわつかせている。陶芸教室でアルフォンソと出会った瞬間、もう後には引けないという気に押され、淳一は先にパンツを脱いだ。

「本当に最後だぞ」

 淳一は念を押した。アルフォンソは淳一の無防備な姿を眺めている。

 アルフォンソは吹っ切れたように口を開いた。

「来てくれて嬉しい。ボクは故郷に帰ることになった。母さんが父さんに何度も掛け合って、そう決まった。スクールじゃなくて、陶器作りは父さんに直接習うことになったんだ」

 淳一はアルフォンソの言うことを信じてやろうと思った。教室にはストーブがたかれ、炎が爆ぜる音だけが静寂を破っている。アルフォンソもパンツを脱ぎ捨てた。淳一はゆっくりテーブルの上に身体を横たえた。アルフォンソは淳一の腹を見つめている。

「これがあの時の刺し傷だな」

 アルフォンソの手がそっと淳一の傷跡に触れた。ひんやりとした触感が伝わって来る。

「あっ悪い。手を洗うのを忘れていた!」

 アルフォンソは洗面所に走り、粘土がこびりついた手指を丁寧に水道で洗った。

 淳一の腹にこぼれ落ちた粘土の細粒をハンドタオルで払いのけて、ゆっくりと、淳一の唇を吸った。淳一は眼を閉じて雑念を払いのけようとしていた。

 ユキの顔が浮かんで来た。厳しい表情で淳一を睨みつけている。

 淳一の肌に触れ回っているアルフォンソの指先が止まった。

「どうしたんだ? 立たないじゃないか!」

「アル、だめだ。集中できないんだ!」

 起き上がろうとしたが、アルフォンソが押し留めた。

「頼む。ボクにはもう今日しかないんだ。お願いだ。集中してくれよ!」

 ユキを脳裏から払いのけようと、淳一は必死にもがいた。

「ちょっと待ってくれ」

 淳一は手指で股間を刺激し始めた。アルフォンソはその様子をうっとりとした表情で見つめている。

「アル、もういいだろ? これくらいで勘弁してくれ」

 アルフォンソは股間を一瞥して頷き、再び指と唇を淳一の身体に這わせ始めた。興奮が高まるにつれ、ユキは脳裏から消え去って行った。

 果てて肩で息をしていた淳一の呼吸が収まった頃、アルフォンソが耳元で囁いた。

「お尻でやってみないか?」

「えっ! 尻で?」

 アルフォンソのメイトの姿が浮かんだ。

「病気は大丈夫なんだろうな」

 恐る恐る尋ねた。

「大丈夫だ。ボクはエイズ・ウィルスの検査を受けている。お前とのことがバレてから、母さんに強く勧められたんだ。それから何度か検査したけど、結果は全て陰性だった。お前はかけがえのない親友だ。嘘は言わないよ。さあ、尻を……」

 淳一は観念したようにテーブルの端を両腕でつかみ、身構えた。

 事が終わり、アルフォンソは激しく息をしていた。

 二人はしばらくテーブルの上で隣同士横たわり、無言のままお互いの息遣いを聞いていた。アルフォンソは少し体を起こし、淳一に向き直った。

「ありがとう。これで思い残すことはない。お前は本当にいい奴だ。ボクの心も身体も受け入れてくれた。そんな人間はお前だけだ」

 アルフォンソは淳一の唇をもう一度強く吸った。

 二人は服を着て、ストーブを消し、陶芸教室を出た。冬の寒さが火照った身体を襲った。

「ああ、寒さが身にしみる!」

 どちらからともなく、震えながら声を上げた。

「さようなら、淳一。元気でな」

「アル、お前こそ元気で暮らせよ」

 淳一の手を強く握ったアルフォンソは、コートの襟を立てて、寒風が吹く暗い歩道を去って行った。

      

 雪のシーズンが去り、淳一は同じ校区にある小学校の生徒にサッカーを教えたいと相談したところ、ミセス・グロースは大賛成してくれた。

 アメリカのサッカー熱はワールド・カップ開催で一気に高まり、特に小学校ではサッカー指導者のボランティアを求めていた。

 淳一は放課後、小学校のグラウンドに出向いて、サッカーを始めたばかりの低学年の指導をした。ユキも出来る限り一緒にグラウンドを訪れた。

「どう? ボランティアのご感想は」ユキが微笑んだ。

「子供に教えるのは自分に向いているような気がする。みんなまだ下手くそだけど、うまくなりたいという意欲を感じる。楽しいよ」

「よかったわ。気に入ってくれて」

「ボクらがニューヨークに居られるのもあとわずかだ。がんばるよ。ユキも応援してくれ」

 その日は一平が私用で早く帰ってくるという連絡があったので、ユキを車で自宅に送り、駅に回った。会う約束をした駅前のベニートスでコーヒーを飲みながら父を待った。

「待たせたね」

 本を読んでいるうちに気がつくと、一平が傍らに立っていた。

 一平はコーヒーを注文した後、おもむろに淳一に尋ねた。

「アルフォンソ君とはその後どうなった? 今でも付き合っているのか?」

 淳一は顔に火照りを感じた。

「アルはアート・スクールを辞めて故郷に帰ってしまったんだ」

「そうだったのか」

 一平から安堵とも何ともとれない吐息が漏れた。

「アルのお母さんはあくまでも彼を故郷に連れて帰ることをお父さんに迫ったらしい。それでお父さんがやっと折れたんだって。アルはお父さんから陶器を学ぶことになったと言っていた」

「それが結局彼にとってはよかったのかも知れないな。都会は何かと危険だからな」

「父さんは心配してたんだろう? ボクがアルとまた変なことをしているのじゃないかって……」

 一平は心の中を息子に見透かされたような気がした。

「心配がなかったというと嘘になる。父さんは信じていたけどね」

「アルは男しか愛せない身体なんだ。それがよくわかった。それならそれで付き合い方もあるし、そのことも含めてやはり友達だから、何とかしてやりたいこともあったし。もう会うのも最後だったからね」

 最後だったから、という息子の言葉と自分を納得させようとしている様子などから、一平はその後も淳一がアルフォンソと行為に及んでいたのではないかという疑いを濃くした。

「父さんはお前のプライバシーにまで首を突っ込もうとは思わない。その後何があったにせよ、問いただすようなことはしたくない。でも、正直親としてやはり心配な面もある。同じ親でも男親だから、母さんとは感じ方は違うがね」

 淳一はカップを手に取って、少し冷めたコーヒーを飲んだ。

「淳一、念のためエイズ検査を受けろ」

 突然一平が言い放った。淳一はカップを落としそうになった。

「エイズ検査を?」

「父さんが病院を紹介してやる。連れて行ってやるから」

 淳一は自分が何か罪を犯した容疑者になったような気分になった。

「父さん、ボクを疑っているの?」下目づかいで一平を見た。

「疑うとか、そういうことじゃない。お前にもしものことがあったらと心配しているんだ」

「心配ないよ。アルはエイズ検査を何回も受けて陰性だと言っていたから」

 何とかその場から逃れてしまいたい気持ちでいっぱいだった。

「何もアルを疑っているんじゃないが、やれることはやっておいた方がいい。最後にそういうことがあったのはいつ頃だ。それだけは正直に言ってくれ」

 淳一はアルフォンソと最近まで行為をしていたことが一平に知れてしまうのが嫌だったが、父親の鋭い眼差しに勝てそうにもなかった。

「……去年の暮だよ」

「もっと細かく言えばどうなる? 十二月の初旬か、下旬か」

「ロックフェラー・センターのツリー点灯式のあとだから中旬かな。どうして?」

「エイズ・ウィルスの抗体検査は、心配なことがあってから三ヶ月以上経たないと正確な結果が得られないからだ。中旬だったら、微妙なところだな。あと二週間くらい経ってから受けに行こう。いいね?」

「……うん」淳一は仕方なく頷いた。

 

 それから二週間が経ち、淳一は父に付き添われて検査を受けに行った。

 検査を受けるように言われてから、淳一は不安にかられた。高校のライブラリーに行き、エイズ関係の本を初めて読んでみた。

 エイズ・ウィルスに感染するのは性行為によるものが殆どで、ウィルスを含む精液が、性器や肛門などの粘膜や傷口から体内に入って感染すると書かれていた。

 心配なのは、最後にアルフォンソとお尻で交わったことだった。もしもアルフォンソが感染者だったら、粘膜や傷口からウィルスに汚染された精液が入ったかも知れない。

 あの雰囲気なら、アルはメイトとお尻の交わりを何度繰り返していたかわからない。検査は陰性と言ってはいたが、抗体検査は三ヶ月以上経たないと無意味だと父さんは言った。果たして本当にアルは陰性なのか。淳一は、底知れない不安が広がるのを感じた。

 もしも感染していたら一体どうなるのか。死んでしまうのか。

 淳一は父と検査の順番を待った。待合室には、やつれた感じの若者が数人いた。眼はどれも虚ろで、他人と顔を合わせるのを拒絶するように一様に下を向いていた。

 淳一の番がやって来た。検査室に入ると、医薬品の臭いが鼻を突いた。採血の準備をしていた看護師がチラリと淳一の方を見た。笑顔のかけらもない。

 淳一は観念したように、指示された椅子に座った。看護師が腕を押さえ、採血の注射針を静脈に刺し込んだ。淳一は痛みをこらえながら、横を向いていた。

 検査結果を待つように言われ、淳一は父と待合室に入った。無言の長い時間が過ぎ去って行った。不意にユキの顔が浮かんだ。

 ユキ、助けてくれ!

 淳一は心の中で叫んでいた。一平は黙って下を向いていた。検査室から名前を呼ぶ声がした。一平は立ち上がり、息子よりも先に検査室に入って行った。

「陰性ですよ」

 看護師が告げた。親子はお互いの眼を見つめ、安堵の表情を浮かべた。

「ありがとうございました」

 淳一は看護師に深々と礼をした。

「よかった、よかった」

 一平が淳一の肩を抱いた。父の眼から涙があふれ出ていた。

「父さん、ありがとう!」

 淳一は父の胸で泣きじゃくった。

     

 春の陽光がハイウェイに降り注いでいた。淳一はユキと車でハドソン川沿いを北上していた。その先にコールド・スプリングという町がある。

 メイン・ストリートには、ブティックや古美術店が軒を連ね、船着場の周りには広場があった。二人は陽光瞬く川を眺めながら、船着場あたりを散策した。  

 木洩れ日の降り注ぐ川岸を見ると、太った少年が妹らしい少女と釣りをしていた。

「何か釣り上げたわよ」

 ユキが船着場の柵から身を乗り出した。スカートの端から、形よくふくらんだ白い脚がのぞいていた。

「見て! 鯉よ、大きな鯉!」

「ほんとだ。持ち上がるかな」

 二人は鯉と格闘する少年らに眼を注いだ。

 鯉は釣り上げられまいと、体全体を大きくくねらせてもがいていた。

 少年は鯉を逃すまいと、太い腕で釣り糸をぐるぐる巻きながら足を踏ん張っていた。

 少女は網で魚体を掬い上げようと川に足を入れ、鯉に近付いて行った。

 一瞬の隙に鯉は大きく体をひねって釣り針から逃れ、あっという間に川底へ姿を消した。川岸がざわめいていた。

「残念! もう少しだったのにね」

 ユキは自分が取り逃がしたかのように悔しがった。辺りを見渡すと、人だかりがしていた。

 二人は川岸にあるレストランのテーブルに座った。ユキは紅茶とアップル・パイを注文し、淳一はBLTとジンジャー・エイルを頼んだ。

「お父さんと二人きりの生活はどう?」ユキが尋ねた。

「母さんらが帰ってしまい、寂しくなるかと思っていたけど、案外大丈夫だった。父さんも張り切っているし」

「お父さん、相変わらず帰りは遅いの?」

「いや、さすがにボクと二人きりになってからは自重しているみたいだ。母さんとお酒のことでよく揉めていたけど、こちらで暮らすには、やっぱり父さんがいないとだめな部分がある。言葉のハンディがあるし、ややこしいことになれば、ボクらでは対処できない。父さんは相変わらず酒を飲んで遅く帰って来ることが多かったけど、日本では信じられないほど、ボクら家族と関わるようになったしね」

「良かったじゃないの」

「ニューヨークに来るまでは、それでも相当ひどかった。ボクも父さんと口論した。ニューヨークには来ないって言ったこともあったな」

「でも、来て良かったじゃない? もし来てなければ、わたし淳一と出会うことも出来なかったわ」

 ユキは髪を撫でて、ちょっぴり恥らいを見せながら微笑んだ。淳一は普段余り見せないユキの女らしい仕草に好感を持った。

「実はね、わたしも日本に帰ることになったのよ」

「えっ、本当なの? ユキは、てっきりこちらの大学に進学すると思っていたのに」

「パパが本社に帰ることになったのよ。昇進したらしいわ。それで一家で戻ることになったの。わたし、こちらの方が本当はいいんだけど、そういう事情だから帰ることにしたの」

「卒業はするんだろう?」

「勿論よ。だから帰国は、学校が夏休みに入ってしばらくしてからかな」

「そうだったのか。ボクらは一緒に日本に帰るんだね」

 また日本でユキと会える。そう思うと、淳一の心は弾んだ。

      

 その日の夕方、社宅のドア・ベルが鳴った。いつもならフォスターが勢いよく吠えるところだ。淳一がピープホールから覗くと、配達員が大きな箱を両腕に抱えてドアの開くのを待っている。

 配達員から箱を受け取り、差出人の名を確かめた。アルフォンソだった。箱には「こわれ物・注意」のラベルが貼られている。

 厳重な梱包を解くと、ふくよかな胴体をした口の広い赤褐色の壷が現れた。いつの日か、バッテリー・パークの博物館で見たプエブロ先住民の壷を思い出した。壷に手紙が貼り付けてある。


【親愛なる淳一へ

 ご無沙汰だな。元気にしているか。ボクは父さんから本格的に陶器作りを学んでいる。父さんはボクを後継者にするつもりで、なかなか厳しいことも言う。だが、平気だ。

 折に触れて、淳一と過ごした日々を思い出している。

 今日、壷を送った。ボクにもやっとこんな壷が作れるようになった。ユキにあげて欲しい。自由の女神に会いに行った時、パークの隣の博物館で、彼女にプレゼントするって約束しただろう? ユキはきっとボクのことを卑劣な奴と思っている。彼女には別に直接手紙を書いた。許してくれるかどうかわからないけど、率直な気持ちを手紙に託した。その上で、もしユキが壷を受け取ってくれるというなら、どうか手渡してあげて欲しい。こんなことを気軽に頼めるのは淳一、お前だけだ。

 ミオスは春になって観光客がグンと増えた。客がボクの作った陶器や壺を手にする時、いつも胸がときめく。買い上げてくれ、と祈るような気持ちだ。少しずつお金を貯めて、お前に会うことが出来たニューヨークでの生活費を父さんに少しずつ返したいと思っている。母さんは、相変わらず父さんと口喧嘩をしながらも元気に働いている。口には出さないけれど、皆ボクのことを大切に思ってくれているのがわかる。ボクは幸せ者だ。またお前と会える日が来るなら、もっと幸せだけどね。

 お前と過ごした日々を胸に抱きながら、ニューメキシコでがんばるつもりだ。ユキにもよろしく伝えてくれ。また連絡する。アルフォンソ・オーティス】


 それから二日目の放課後、淳一はユキと出会った。アルフォンソからの手紙は届いたのだろうか。読んだとしたらユキはどう思ったのか、確かめてみたかった。

「アルから便りがあっただろ?」

 ユキは頷いた。

「どうだった?」

 淳一はユキの表情を探った。

「約束した壷をあなたに送ったと書いてあったわ」

「それだけかい? アルのことを許して壺を受け取るって気になったの?」

 ユキの表情がこわばった。

「そう簡単に受け取れないわよ」

「やはりアルのことが許せないんだね」

 ユキの気持ちを何とか察しようとした。

「アルの気持ちは手紙である程度わかったわ。でも、どうしても素直になれないの。だって、わたしにあんなひどいことを言った上に、淳一に言うことを聞かせるためにナイフを隠し持っていたのよ。それだけじゃないわ。あなたを刺して傷つけたのよ。そんな人間が一度手紙で謝って来たからと言って、すぐに許せると思う?」

 ユキの眉間の皺を見ながら、淳一は頷いた。

「すごくよくわかるよ。でもね、アルは心から謝っているんだ。わかってやってくれ」

 ユキは下を向いて黙っていた。唇のあたりが悔しさで震えているようだった。

 何故あなたはアルの肩を持つの。わたしの気持ちはどうなのよ。

 ユキはそう言いたいのかも知れないと感じていた。

「悪いけど、しばらく壷は預かっておいて。わたしの気持ちが整理できるまで。わたしもアルの気持ちをわかろうとはしているのよ。でも、あなたを傷つけたことは許せないの。もし一歩間違えば淳一は死んでいたかも知れないのよ」

 ユキの言葉に鳥肌が立った。しばらく二人は無言のまま向き合っていた。やっとの思いで淳一は口を開いた。

「わかった。ユキがそこまでボクのことを考えてくれていることが嬉しい。それに気付かないボクが情けない。許してくれ。壷のことは、ユキの気が済むまで待つよ。たとえ長くかかってもね」

「ありがとう。じゃ、またね」

 ユキは小走りに去って行った。

      

 五月末、悦子と真二がニューヨークに戻って来た。真二はキリスト教系私立高校の帰国子女枠で入学が決まっていた。一平と淳一は父子だけの生活から解放され、久しぶりに一家の賑わいを感じていた。

「やっぱり、アメリカは開放的でいいわ。精神が解き放たれるような気がする」

 悦子が大きく伸びをした。

「何とか父と子で暮らせたよ。料理も大分レパートリーが増えた」

 一平が微笑んだ。

「初めての体験でしょ。まさかニューヨークで淳一と二人で暮らすことになるなんて思わなかったんじゃない?」

「そうだな。でも、やれば何とかできるもんだな」

「日本に帰っても、その調子で料理に、洗濯に励んでよね」

 悦子が夫の顔を覗き込んで念押しした。

「おいおい、調子に乗るなよ」

 久しぶりに、家族皆が一緒に笑った。

「真二も高校が決まって、よかったな」一平が祝福した。

「うん、プロテスタント系の学校で、アメリカ人宣教師が創立したんだって。二十四歳の時にミッションで日本に派遣された人だ。アリゾナ州で少年時代を過ごしたらしい。世界は小さいね」

「縁があるんだな。面白いじゃないか」

「淳一はどうしていたの。何かいいことあった?」悦子が尋ねた。

「勉強一筋さ。それと地元の小学生にサッカーを教えたよ。こちらの学校に地元の税金で行かせてもらったお礼だ。これはユキのアイデアだったけど」

「そうそう、ユキさんはどうしているの。元気?」

「元気だよ。ユキも日本に帰ることになったんだ」

「まあ、そうなの。ユキさんならてっきりこちらの大学に行くものだと思っていたわ」

「お父さんが日本に帰るんだって」

「へえ、そうなんだ。きっと本社の重役になられるんでしょうね」

「どうだ、久しぶりに家族全員で食事に出ようか?」一平が提案した。

「いいわね。何処にする?」

「ツンシンはどうだ?」

「魚料理を出してくれる台湾レストランね。いいわよ」

「よし、出掛けよう」

      

 翌日の放課後、淳一はユキとベニートスに行った。窓辺のテーブルから、通りを挟んだフローリストの店先が見える。

「カラフルな花ね。もうそろそろ夏だわ」

「卒業式まであと一ヶ月か。早いなあ」

「このお店にあと何度来られるのかしら」

 淳一は頷きながら、ベニート一家の様子を眺めた。

 主人のベニートは、濃いひげを撫でながら椅子に腰掛けて伝票の整理をしている。

 奥さんのマリアは空いたテーブルの椅子に座り、娘のフィオーナを膝に乗せて絵本を読み聞かせている。時折、娘は母親の顔をつぶらな瞳で見上げながら笑った。その傍らで、ウェイトレスの若い女性がコーヒーを沸かしていた。

 この人たちともお別れだなあ。

 淳一はアップル・パイを口に運んでいるユキに眼を転じ、思い詰めたものを吐き出すように口を開いた。

「ユキ、お願いがあるんだ。聞いてくれるかい?」

 淳一は真剣そのものだった。

「一体どうしたの? 難しい顔して」

「……卒業式が終わったら、一緒にミオスに行ってくれないか」

 ユキは眉間に皺を寄せて睨みつけた。

「何言ってるの! まさかアルに会いに行こうと言うんじゃないでしょうね?」

「その、まさかなんだ」

「どうしてなの? 理由を聞かせてよ!」

「日本に帰るまでに一度会っておきたいんだ。もう会えないかもしれないから」

「わたしのアルに対する気持ちわかっているでしょ。それなのに誘うわけ?」

「お願いだ。一緒に行って欲しい」淳一は頭を下げた。

 ユキは黙ったまま淳一を見つめていた。二人の間に長い沈黙が続いたあとで、ユキが口を開いた。

「大体あなたとわたし二人だけの旅行なんて親が許さないわ。淳一のご両親もきっとそうだと思う」

「真二を連れて行くよ。アルとサッカー部で同じ釜の飯を食べた仲だ」

「いつになく強引ね。サンタフェならわたしも行ってみたいけど……」

「あいつのことが心配なんだよ。故郷でちゃんと暮らしている姿をしっかりと見ておきたいんだ」

「本当に分からず屋ね、あなたって人は。とりあえず、親に尋ねてみるわ。だめと言われたら、この話はなしよ。いいわね?」

「うん。ボクも相談してみる」

 

 その夜、淳一は家族に計画を打ち明けた。

「あなた、アルは淳一と問題を起こした子よ。行かないように説得してちょうだいな」

 悦子は硬い表情で一平に迫った。

「淳一、どうしてそんなにアルのことを心配するんだ。彼は故郷でご両親と一緒に暮らしているんだろう?」

「……ボクもうまく説明できない。でも、あいつは何処か危なっかしいんだ。だから見届けておきたいのさ」

「危なっかしいのはお前も同じだ。特にアルとの関係ではな。それにユキさんのご両親が何というか」

「もしユキがだめとしても、ボクだけでも行ってみたいんだ」

「だめだ。それこそ危険だ。父さんは許さない。理由はお前が一番よく知っているはずだ」

 淳一は黙ってうつむいた。

「もし、ユキさんがだめだった場合、真二はどうなんだ。兄貴と行くつもりがあるのか」一平が尋ねた。

「あなた、何言ってるの! まるで淳一を行かせる算段をしているように聞こえますけど」

 真二の答えを待たずに悦子が口を挟んだ。

「真二が一緒ならいいじゃないか。向こうのお父さんも、アルに故郷を離れて広い世界を見てこいっておっしゃったと聞いている。可愛い息子には旅させよだ。なあ、真二。どうかな?」

「ボクは兄さんのボディガード役でついて行くよ」

 真二は不安を跳ね返すようにきっぱり言った。

「真二、ありがとう」淳一が頭を下げた。

「あなた、息子二人で本当に大丈夫なのかしら。何かこれ以上間違いでも起きればと思うと、わたしとっても心配だわ」

「淳一、もし行くことになったらアルのご両親にも会わなくちゃならんぞ。お父さんの方は存じ上げないが、彼のお母さんはお前に対して決していい感情を持っていない。嫌な思いをするかも知れないぞ。それでもいいのか?」

「お母さんにもう一度謝ってくるよ。心配しないで」

「あとはユキさんがどうなるかだ。その結果を見てからの話にしよう」

 一平はそう言うと、リモコンを手にとり、テレビをつけた。


 翌日、淳一はユキに結果を尋ねた。

「真二君と三人だったらいいって。でも、帰国間近だから、長旅はだめって言われたわ。せいぜい三、四日ね。それに飛行機代は出すから、サンタフェとミオスの玄関口になるアルバカーキまでは飛行機で行って、そこからレンタカーを借りなさいって」

「そうか。よかった。早速計画を練ろう」

「それから、いつでも連絡できる状態にしておけって。あなたは携帯電話を持っているわね。その番号を家に連絡して置くわ」

 二人はキャンパスの芝生にあるベンチに腰を掛けて、旅の打ち合わせをした。

       

 卒業式の日が来た。式はキャンパスの広場で行われ、房の垂れたブルーの角帽とガウンを身に付けた卒業生が、保護者に見守られながら整列していた。スミス校長が壇上に上がり、贈る言葉を述べた。

「皆さんの前途は、今日の空のように明るく澄んでいます。それぞれ進む道は違っていても、モントデール・ハイスクールで共に学んだという体験は同じです。学園で学び取った知恵を充分に生かしながら、ぜひ悔いのない人生を歩んで行ってください。コングラチュレーションズ(おめでとう)!」。

 卒業生は一列に並び、ひとりずつ校長から卒業証書を受け取った。淳一の番が来た。

「卒業おめでとう。わがパンサーズで大活躍した君は、わが校の誇りです。この地域の子供たちにサッカーを教えてくれたボランティア活動も素晴らしかった。本当にありがとう!」

 校長は淳一と固い握手を交わし、微笑みながら証書を手渡した。淳一は胸が熱くなった。

 式の終わりに、卒業生全員が一斉に青空に向けて角帽を放り投げた。周りから喚声が上がり、やがて拍手の波に変っていった。一平夫婦は息子の晴れ姿を見守っていた。

「野外で卒業式なんていいわね。日本じゃ考えられないわ」

「そうだな。いい感じだ」

 式が終わり、卒業生らは恩師を囲んで、思い出話に花を咲かせていた。

「あっ、グロース先生がいるわ」

 一平夫婦は卒業生に囲まれているミセス・グロースに近付いた。

「まあ、お父さんとお母さん。今日は本当におめでとうございました。淳一君はご両親と日本に帰るんですね。どうかお元気で」

「大変お世話になりました。ご恩は一生忘れません」

 一平がミセス・グロースに謝意を述べた。悦子はミセス・グロースと両手を取り、微笑み合った。ユキがその輪に加わった。

「ユキさん、おめでとう。あなたも日本に帰るのね。先生も寂しくなるわ」

「先生、本当にありがとうございました」

 ミセス・グロースがユキを抱き、頬にキスをした。

「ユキさん、ご卒業おめでとう。旅行のことで淳一が無理を押し付けてごめんなさいね」

 悦子がユキに声を掛けた。

「おば様、心配なさらないで。わたしが淳一君と真二君を守りますから」

「出発はあさってだよ。往きの航空券も買ったし、あとは荷物をまとめるだけだ」

 淳一が言った。

「帰りの切符はどうするの」

「向こうで買えばいいだろう」

「日にちだけは決めておきましょうよ。ズルズルと延びるといけないから」

「ユキはいつニューヨークを離れるんだ?」

「来月三日よ」

「ボクもその頃だ。向こうで三泊として、三十日にしようか。帰国の準備もあるしね」

「そうしましょう」

「よし、話は決まった。それじゃ、キム・イルに会いに行こう。あっちで喋っていたのを見かけた」

 二人は卒業生らと握手を交わしながら、人波をくぐって行った。

     

 淳一らはラガーディア空港からニューメキシコ州アルバカーキ行きの飛行機に乗った。機内はサマー・キャンプに子供を送り出し、旅行に出かける夫婦やスーツに身を固めたビジネスマンらで満席状態だった。淳一は窓外に広がる雲だらけの空を翼越しに眺めていた。

「アルに連絡しておかなくてよかったのかしら?」隣の席からユキの声がした。

「サプライズでいいだろ?」

「そうね。わたしはサンタフェがじっくりと見られたらいいの。いつかマンハッタンでおじ様から話を聞いたことがあったでしょ。サンタフェはプエブロ先住民の象徴的な存在だって。スペインとアングロ・サクソン、それに先住民の文化が融合した場所でしょ。どんな町か早く見てみたいわ」

「うん。空港でレンタカーを借りて、サンタフェまで行こう。一日かけて町をじっくり見て回ろうよ」

「サンタフェの郵便局にも寄ろうね。いい切手が手に入るかもしれない」真二が言った。

「本当にお前は切手が好きだなあ。もう随分集めただろう?」

「今欲しいのはアメリカン・インディアン・ダンサーズという切手シートさ。先住民の踊りが五種類四枚ずつシートになっているんだ。サンタフェならきっとある」

「皆、目的がバラバラだな」淳一が微笑んだ。

「それがいいのよ。皆同じなら、ちっともおもしろくないわ」

 ユキはガイド・ブックを開けて調べものをしていた。淳一が思い出したように口にした。

「同じサンタフェを前にしても、それぞれ目的が違うっていう話なら、こんなポスターを見かけたことがある。先住民・スー族の英雄クレージー・ホースの名前をつけたモルト・ウィスキーのCMだ。『ウィスキーにふざけた名前をつけるなと怒る人もいる。なかなかいい名前だと褒める人もいる。名前なんか気にせずに、その酒を心ゆくまで楽しむ人もいる。それがアメリカだ』っていうようなことがコピーの文句に書いてあった」

「そうね。そういう自由があるのはいいことよね。でも、メーカーにとっては実際に買って味わってくれる人が増えるのが一番よね。褒められても、けなされても、買ってもらわないと意味がないわけだから」

「そういう意味では、そもそもウィスキーに少数派の英雄の名前をつけたのはちょっと冒険かも知れないなあ」

「あれれ、淳一は先住民の味方じゃなかったの? クレージー・ホースの名前を見たからポスターに興味持ったんでしょ?」

「それはそうなんだけどね」

 ユキに突っ込まれて、淳一は頭を掻いた。その時機内アナウンスが流れた。間もなくアルバカーキに着陸だ。ベルト着用のサインが点き、飛行機は降下を始めた。ニューメキシコ州の赤い地層と町並みがくっきりと見えて来た。

     

 淳一の運転するレンタカーは、ターコイス・トレイル(トルコ石街道)をサンタフェに向かった。途中、プエブロ先住民の博物館を見つけて立ち寄った。アルフォンソが作った壷も将来そこに展示されることになるかも知れない。そんな風に想像の羽を広げると、展示品にも親しみが湧いた。

 車は再びサンタフェめざして走り出した。

「一度父さんの運転でシカゴからロサンゼルスまでルート66沿いの旅をした時、土の色が途中で変っただろう? 真二、覚えているかい?」

「うん、確かオクラホマ州のあたりからだったね。覚えているよ」

「ここはオクラホマのお隣のニューメキシコだ。ほら、赤土の丘の上にプエブロ先住民の肌色壁の家が見える」

「本当。メキシコかスペインの感じね。すてきだわ」

 ユキが日干し煉瓦の壁をうっとり眺めた。

「アルの故郷はこの道のはるか北東の方角にあるらしい。プエブロ先住民の中でも一番北に住んでいるんだ」

「少しは勉強してきたのね」

「そらそうだよ。何しろボクも初めての道だからな。準備万端にしないと」

「よく聞いておきましょうね、真二君」

「どういう意味だ。ボクを信用しないのか?」

「怒らない、怒らない。ウィスキーの名前がふざけているって怒っても、しょうがないでしょ? 真っ直ぐ前を見て運転してね」

「わかったよ。まるで私有道みたいに車の姿もないから、ちょっとスピードを上げるからね」

「よしてよ! 危ないわ」

「黙ってボクについて来い!」

 淳一はアクセルを踏み込んだ。

「うわっ、すごい! うちの車とスピード感がまるで違う」

「わかったから、スピードを落としてよ!」

「兄さん、ユキさんの言うことを聞いて!」

「はい、はい。わかったよ」

 卒業式も終わり、ユキと弟との気ままな旅で淳一は心が躍っていた。

 やがてサンタフェの町に入った。ホテルを見つけて、部屋に荷物を置き、三人で町に繰り出した。

 カトリックの聖堂がスペイン統治時代の雰囲気を醸し出している。その向かいにサンタフェの中央広場がある。一角にサンタフェの旧道、サンタフェ・トレイルの起点を示す道標がひっそりと置かれていた。広場の周囲にはギャラリーなどが軒を連ねている。

「異文化が溶け合っている感じね。アングロ・サクソン、スペインそれに先住民の。でも、一番色濃く感じるのはプエブロ先住民の文化だわ」

 ユキは先頭に立って歩き、興味を引かれるものが眼に入る度に立ち止まった。

 昔サンタフェの政庁があった建物の前には、近くにあるプエブロの村落から出稼ぎにやって来た先住民が工芸品を売っていた。ユキはその前に座り込んで商品を吟味した。

「アルもこんなふうにして壷を売っているのかな」

 真二は羽飾りのついた帽子を被っている先住民を見つめた。

「そうかも知れない」

 淳一は道に広げられるだけ広げて売られている幾何学模様の壷の山を見ていた。

「このリング、すてきだわ」

 ユキは連続模様の装飾が施された銀色のリングを手に取った。羽飾り帽子の商人が買うように勧めた。

「安くしとくよ」

「いくらなの」

「四十ドルだ」

「もう少しまけてよ」

「もうひとつ買ってくれたら、二つで七十ドルにする」

「高すぎるわ。あきらめたーっと」

 商人が慌ててつけ足した。

「よし、そのリングひとつで三十ドルだ」

「もう一声!」

 商人は帽子のつばに手をやって、少し考え込むようなポーズをとった。

「ええい、二十五ドルにするから買ってくれ」

「OK。頂戴」

 商人は根負けしたように首を振りながら、ユキに微笑んだ。ユキはリングを指にはめて具合を見た。

「ほら、いいでしょ。安く買っちゃった」

「本当にユキは交渉がうまいな」

 淳一はユキの得意そうな顔を覗き込んだ。


 三人は一晩をサンタフェで過ごし、ミオス・プエブロに向かった。進むにつれ、道は次第に高度を増していった。

「川幅が狭いね。でも群青色のとってもきれいな流れだ」

 真二が窓から乗り出すように道に沿う川面を見つめた。

「リオ・グランデだよ。スペイン語で大河という意味らしい。ニューメキシコからテキサスを抜けてメキシコ湾に注いでいるすごく大きな河だ。ここじゃ、ちょっと想像できないけどね」

 山道は曲がりくねりながら川沿いにずっと続いていた。やがて周りを山に囲まれた谷あいに、村落が見えて来た。

「ミオスの村だ。アルの故郷にやって来たんだ」

「すごいわ。今までの道が嘘みたい。思いっきり渋滞しているじゃない」

「夏休みに入ったからね。それにミオス・プエブロが世界遺産に登録されてからは、観光客がぐんと増えたって、アルが言っていた」

「そうなの? わたし、もっと静かな村を想像していたわ。これじゃ、ちょっとした都会じゃない?」

「本当だね」

 ようやく駐車場に入り、淳一は車を停めた。プエブロの門を入ると、中は観光客で混雑していた。

「さあ、アルを探そう。これでは、すぐに見つかるかどうかわからないなあ」

 三人は人垣をくぐりながら、少しずつ前に進んで行った。階層建造物の各層に住居があった。一階の住居の前に赤茶色のシンプルな壷を並べた露店が出ていた。

「あっ、アルだ。あそこにアルがいるよ、兄さん」

 真二が叫んだ。指差す先に観光客に壷を見せている姿があった。三人はアルフォンソに近付いて行った。

「アル!」淳一が声を掛けた。アルフォンソは声のした方を見渡した。彼の表情がみるみる変わった。

「淳一! 淳一じゃないか」

 アルフォンソは客に待つように言い、飛んで来た。

「一体どうしたんだ。ユキも真二も一緒じゃないか」

「サプライズと思って、連絡もせずに来たんだ。お前に会いたくって」

 アルフォンソはそれぞれと握手をし、微笑んだ。

「本当に驚いた。まさか又会えるとは思わなかったよ。よく来てくれたな」

「アル、立派な壷をありがとう。淳一から確かに受け取ったわ」

 ユキを見つめるアルフォンソに安堵の色があった。

「そうか、受け取ってくれたか。本当にありがとう。受け取ってもらえないのではないかと実は心配していたんだ」

 ユキは微笑み、明るく言った。

「わたしも正直ずいぶん迷ったわ。でも、やっぱりアルはわたしたちの友達だからね」

「本当にうれしいよ」

「あっ、お客さんが行っちゃったよ」真二が叫んだ。

「いいんだ。客はいくらでもいるよ。しばらく居られるんだろう? 父さんと母さんに会わせるから」

「もう少し後でいいよ」

「ここは騒々しい。門を出て少し行ったところにミュージアムがある。その前が公園になっているんだ。そこなら落ち着いて話せる」

 アルフォンソの案内で訪れた公園で、向かい合わせになったベンチに腰掛けた。

「卒業式が終わって、ボクらは皆帰国することになった。だから会いに来たんだ」

「そうか。今度は本当にお別れだな」

 アルフォンソの顔に寂しさがよぎった。

「これ、お返しよ」

 ユキが包装紙にくるんだ物をアルに手渡した。

「開けていいかい?」

「どうぞ」

 包装紙の中から手編みらしい紺色のマフラーが姿を現した。

「わたしが編んだのよ。季節はずれだけれど、このあたりは冬すごく寒いって聞いているから」

 アルフォンソは立ち上がり、壊れ物に触れるように、ゆっくりマフラーを首に巻いた。

「よく似合うよ、アル。ユキ、いつの間にこんなものを」

 淳一はアルの首に巻かれた暖かそうなマフラーを見つめた。

「心のわだかまりがとれたと思えた時から一気に編んだの。気に入ってくれると嬉しいわ」

「ユキからこんなプレゼントをもらえるなんて夢のような心地だ」

 アルフォンソは涙ぐんでいた。

「もう過去のことは忘れよう」

 淳一が手を握った。アルフォンソの肩が震えていた。

 実家に案内されると工房があり、初老の男性が踏ん張りながら粘土をこねていた。赤銅色のたくましい腕に乾いた粘土がこびり付いている。周りの棚には製作中の壷がいくつも並んでいた。

「父さん、ニューヨークの友達だ。わざわざ訪ねて来てくれたんだ」

 父親は手を止めて淳一らを見た。濃い眉毛の下から鋭い眼が睨んでいるように見えた。

 淳一は一瞬戸惑ったが、思い直して前に進み出た。

「はじめまして。淳一と言います。アルとは高校で一緒にサッカーをしていました。こちらは弟の真二、それに同級だったユキです」

 父親はしばらく黙って手を休めていたが、眼で会釈をして再び粘土をこね始めた。

 奥の部屋から母親が出て来た。淳一は姿勢を正した。

「母さん、ニューヨークで会ったの覚えている? 淳一だよ。わざわざ会いに来てくれたんだ」

 母親は小さく頷き、そして尋ねた。

「傷の具合は如何ですか?」

「ええ、もう何ともありません」

 淳一は腹のあたりを撫でた。

「そうですか。あの時はこの子が本当に申し訳ないことをしましたね」

 母親は目の淵でアルフォンソをチラッと睨んだ。

「またどうしてこんな遠くまで来られたのですか?」

「ボクたち高校を卒業して国に帰るんです。ですから……」

 淳一の事情説明を母親は瞬きせずに聞いていた。

「母さん、ボクの壷をプレゼントしたお返しにこれをもらったんだ」

 アルフォンソはマフラーを首に巻いて見せた。母親は黙ってマフラーに眼をやり、皆に向かって言った。

「今から思えば、少しわたしはこの子のことを思う余り、ニューヨークではあなた方に辛く当たり過ぎたような気がしています。どうかお許し下さい。お陰様でこの子は一生懸命自作の壺を売り、家計を助けてくれています。この子を誇りに思っています」

 母親はそう言うと、ニッコリと微笑んで奥の部屋に引っ込んだ。

「この辺を案内するよ」

 アルフォンソが淳一らと外に出ようとした時だった。

 戸口に青年が立っていた。長い褐色の髪を後ろで束ねたナイーブな感じのする青年だった。

 胸元にトルコ石をあしらったペンダントををぶら下げている。

「マルティネス、ニューヨークの友達だ」

 マルティネスと呼ばれた青年は淳一らに内向的な笑みを投げかけた。

「あとでちょっと話があるから」

 そう青年に言い残して、アルフォンソは淳一らを案内して回った。プエブロを見下ろす連山が見渡せる場所に立ち、山の方を指差した。

「ミオスの先住民は有史以来この谷に住んでいる。あの山の奥にブルー・レイクという聖なる湖がある。水晶のように澄み切った豊富な水を蓄えている。ミオスの人間はその水を飲み水にしたり、灌漑用水に使ったりしているんだ」

 山を眺めていると、澄み渡った青空の下に連なる尾根伝いに、白雲の帯がかかっていた。

 再び門をくぐり、土産物が売られている広場に戻った。

「ミオスの壷は有名なんでしょ?」

 ユキが尋ねた。

「初めは生活用具として生まれたんだけど、伝統に根ざしつつ、モダンな表現方法のクラフトがどんどん作られている。最近はニューヨークとか大都会でミオスのアーティストの作品を扱う店が増えた。将来ボクも作品を大都会の先住民ショップで売ってみたいな」

 アルフォンソの瞳は輝いていた。淳一はうらやましく思った。

 ボクには今これといった目標もない。このままだと、ただ漫然と日本で学生生活を送ることになるのだろう。アメリカでの体験を生かせることが果たして日本にあるのかしら。今思い浮かぶのは、子供にサッカーを教えることぐらいだ。

「そろそろ家に戻るよ。母さんの機嫌が悪くなるから。ボクが壷の製作と商売から眼を離すと心配するんだ」

「アルに将来を賭けておられるのよ。いいお母さんじゃない」ユキが口を開いた。

「そう思うけど、鬱陶しい時もあるよ。始終監視されている気がしてね」

「ところで、さっきのマルティネスという青年はどういう人なの?」

 ユキが尋ねた。

「あいつはボクの遠縁に当たる。腕のいい陶芸アーティストだ。ボクはあいつと結婚する」

 淳一らは一瞬耳を疑った。

「今何て言った? 結婚? 男同士で結婚するのか?」

「そう。マルティネスもゲイだよ。ボクたちは愛し合っている。何も驚くことはない。自然なことさ」

 ユキと真二は顔を見合わせていた。

「両親は反対していないの?」

 淳一が尋ねた。笑みを湛えたアルフォンソの顔があった。

「反対する理由がないよ。将来を祝福してくれている。でも、最初母さんは猛烈に反対した。ボクは自分の気持ちを真剣に訴えた。そしたら最後には許してくれた。理解してくれたんだ。父さんは、マルティネスを腕の良い陶芸職人と評価している。一緒に仕事がしたいって。遠縁だし、ボクさえよければ反対しないと言ってくれたよ」

「アメリカでさえ同性同士の結婚にはまだまだ風当たりが強いようだけど、大丈夫なのか?」

 淳一は心配そうな顔で見つめた。

「大切なのは個人個人の心のあり方だよ。そりゃボクだって、メイトとプレーをしたことがあるよ。でも、それは性欲の処理のためだった。湧き上がってくる性欲は、そう簡単に押さえられない。お前もわかるだろう? そうするうちに、ボクは気付いた。人間はやはり愛する心が先にあって、その結果として肉体を求めるということを。それが人間の本来の姿だということをね」

 淳一の脳裏に、お尻のひりひりする感覚が蘇って来るような気がした。

「お前はボクを差別せず、無理な望みも叶えてくれた。間違って刺してしまったことは、今でも悪いことをしたと思っている。でも、愛していたから身体が欲しかった。どうしても最後に一度だけ、淳一の心も身体も自分のものにしたかったんだ。ボクのわがままを許してくれ」

 果たしてユキはアルフォンソの今の言葉をどういう風に聞いたのだろう。思わずユキに眼を転じたが、その表情は変わらず、じっとアルフォンソに耳を傾けているようだった。淳一は話題を変えた。

「結婚式はするのか?」

「特にやらない。派手なことはしたくないからね。ここではゲイという存在自体の認知がまだまだ遅れているんだ。ましてや、男同士の結婚なんて異常だと決めてかかっている。でも、ボクは自分の良心に従って、マルティネスとの結婚を決めた。幸せになろうと話し合っている。父さんも母さんも、味方になってくれている。それでボクには充分だ。式はあげないが、メディスン・マンには結婚がうまくいくように祈ってもらおうと思っている」

「メディスン・マンって何?」真二の質問にアルフォンソが答えた。

「部族の精神世界を司るシャーマンだ。病んだ心を癒したり、病気を治したりする呪術を心得ている。部族の将来を占うのもメディスン・マンの役割だ。部族の人間は、困りごとが出来ればメディスン・マンの力に頼るんだ」

「おめでとう。ボクもアルとマルティネスが仲良く暮らすことを祈るよ」

 淳一はアルフォンソに手を差し伸べた。

「ありがとう!」

 アルフォンソは淳一の手を握りしめた。その眼はユキに向けられた。

「ユキ、ボクを許してくれ。手紙に書いたように、ボクは自分の強欲で君の気持ちを踏みにじってしまったことを反省している。淳一を刺したあの公園で、君が『淳一はわたしと付き合っているのよ!』って叫んだ時、到底かなわないと思った。君らは本当に愛し合っていると悟った。それでボクは身を引いた。でも、君に手紙で告白したように、最後に一度だけ淳一との思い出を作りたかったんだ」

「アル、もういいのよ。あなたの気持ちはよくわかったわ。わたしもひどいことを言ってごめんなさいね。色々と悩んだけど、今日改めてアルの言葉を聞いて吹っ切れた感じがする。ご結婚おめでとう。幸せになってね」

 アルフォンソの瞳が潤んでいた。

「また一緒にサッカーをしようね」

 手を握った真二の肩に寄りかかり、アルフォンソは涙にむせんでいた。

「みんな、わざわざ訪ねてくれて本当にありがとう。ボクはいい友達とめぐり合えて幸せだ。これからも君らのことは絶対に忘れない。マルティネスと結婚してからも」

 アルフォンソは淳一を抱き、頬にキスをした。もう一度淳一の瞳を見つめてから微笑み、振り向かずに家に戻って行った。

 駐車場に向かって歩を進めていると、真二が振り向いて叫んだ。

「兄さん、ほら見て!」

 淳一らが振り返ると、大きく手を振る姿が見えた。アルフォンソとマルティネスだ。二人は肩を組み、時折唇を重ねている。

「また会おう! 日本から手紙を書くよ!」

 淳一が叫んだ。


 淳一らが無事ニューヨークに戻って来て二日後のことだった。

 帰国を翌日に控えて、最後の荷物が運び出されようとしていた。

「ここに三年も暮らしたなんて、とても思えないわ。短かったようでもあり、長かったようでもあり……」

 悦子が社宅備え付けのソファに腰掛け、ガランとした部屋を見渡していた。

「明日の今頃はもう日本か。どんな生活が待っているのかな」

 一平は帰国後の生活に思いを巡らせていた。

 ドア・チャイムが鳴った。悦子が立ち上がり、ピープホールから外を覗いた。

「ユキさんだわ。淳一、ユキさんが来たわよ」

 悦子がドアを開けた。

「お忙しい時に申しわけありません。どうしても淳一君に届けたいものがありまして」

 ユキは大きな箱を両手に抱えていた。

「どうしたんだ、ユキ」

 淳一が二階の廊下から顔を覗かせた。

「アルの壷を持って来たの。これはやっぱりあなたが受け取るものだと思うから」

 ユキは箱をゆっくりと床に置いた。

「だけど、それは君がもらったものじゃないか?」

 淳一は笑みを浮べているユキに首を傾げた。

「この前ミオスに行った時から、わたし色々と考えてみたの。そしたら、やっぱりアルの壷は、あなたが友情の記念に持っておくのが一番いいと思ったの。アルも本当はそれを望んでいると思うわ。だから荷物になって悪いけど、受け取ってちょうだいな」

 淳一はユキの心配りが嬉しかった。

「わかったよ。日本に帰ってボクの部屋に飾るよ」

 二人は固い握手を交わした。

「じゃ、気をつけてね。わたしも明日帰るから。落ち着いたら、また日本で連絡を取り合いましょう!」

 一平らに挨拶をして、いつものようにユキは軽やかな足取りでセコイアの並木道を歩んで行った。                             

 了  

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旅立ちの季節に 安江俊明 @tyty

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