第30話 逆さま

 冬を越し、また春がやって来た。テレビのニュースではあちこちで桜の開花を告げている。丸窓から見える接ぎ木の桜も蕾が膨らんでいる。それを真似てか絵梨もふくれっ面だった。


「なんで春休みにまで宿題があるのよ。そもそも休み明けにいきなりテストってどういうことよ。勉強勉強って、一体高校生を何だと思ってるのよ!」


 開店前にテーブルを拭いていた滋は呆れ顔だ。


「そりゃ、高校生の本分は勉強だからだろ」


「遊びに行けないじゃない」

「終わってから行けばいいだろ。そのために宿題を持って降りたんじゃないのかい?」

「そうだけど! そうだけど、何か腹立つのよ」

「まぁ春は交感神経と副交感神経が何とかで、精神不安定になるって言うからな。絵梨だけじゃないよ、怒ってる高校生は」


 口を尖らせて絵梨は1卓のスツールを引いた。滋はテーブルラスターを持ってキッチンへと向かう。絵梨は隣の席にリュックを載せ、1卓の表面を睨んだ。


 あれ?


 絵梨は視線を低くして1卓の奥の方に目を凝らす。うっすらと見えるあれは…、あれは昔の落書きじゃないのか。私の黒っぽい歴史。そう言えば、カンナさんは完全に消し切れなかったけど、穴は埋めたとか言ってた。磨かれた表面がピカピカでちっとも気付かなかった。


 うーん、あそこにあるのはきっと桜姫。調子に乗って書いちゃった落書き。おお、筆算は完全に消えてるけど、うわ、やだ! フラれたあの人のイニシャルが微かに残ってる。ってか逆さまじゃね? イニシャルの向き。いや、そもそも机の向きが逆さまなのだ。


 全然気がつかなかった。1卓の向きなんて考えもしなかった。絵梨はスツールを引いて思案する。まあ、このままでも不便はないんだけど、逆さまって気がついちゃったから何だか気持ち悪い。よし、気分転換に入替えよう。


 スツールを脇に避けて、絵梨は1卓を引き出しにかかった。ガタガタと重い1卓を引っ張る。滋が戻って来た。


「絵梨、何してんだ?」

「1卓の向きが反対だったのよ。だからひっくり返して入れ直すの」

「へ? 向きなんてあったっけ?」

「元々はないかもだけど、私の事情で向きが出来たの。反対向きってずっと気がつかなかったんだけど、気がついた以上は何だか気持ち悪いからさ、元の向きに戻すの」

「ふうん。じゃあ取り敢えずお父さんが手伝うよ」


 滋がよっこらしょっと1卓を引き出し、180度向きを変え、再びカウンターの真横に押し込む。


「うん、高さは大丈夫だな。脚もガタつかないし、絵梨、これでいいか?」

「有難う」


 絵梨はスツールを持って来て座ってみる。うん。大丈夫だ。絵梨は手元に来た桜姫のうっすら落書きを掌で撫でた。


「仕方ない。宿題しよう」


 さっきまでのふくれっ面は凹み、絵梨は1卓にノートを拡げた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る