第28話 自習席

 夏休みの後半、喫茶さくら丸は宿題を片付けたい学生で賑わった。滋は自習席専用のドリンクベンダーマシンを設置、ワンコインの学生フリードリンク制を導入しウケた。店側もサービスの手間が省けるし、フードは定価販売なので、ランチやスイーツを食べてもらうとペイできる。


 三咲も毎日やって来る。毎日ワンコインも大変だと思うのだが、どこへ行ってもそれ位は掛かるとしれっとしている。意外と多かった高校の宿題も絵梨と一緒にせっせと片付けた。丸窓から見える接ぎ木の桜も徐々に葉っぱが増え、よく見ると花芽らしきも大きくなっている。


 夏休みもあと3日と言う午前中、絵梨と三咲は並んで数学の問題集に取り組んでいた。勿論、範囲を分担して写し合いっこするのだ。


♪ カランコロン


「いらっしゃいませ」

「うわー、やっぱりみんな勉強してるのねー」


 千枝だった。今日は黒のレザートートバックを下げ、オフィスカジュアルな装いだ。三咲と絵梨はその声に振り向いた。


「よし、三咲ちゃんの隣、いい?」

「え、自習コーナーですけど」

「いいの、いいの。私もお勉強だから」


 そしてお冷を持って来たマスターに


「私も勉強用ドリンクバーでお願い」

「え? あれは自習用ですけど」

「だって、私も今日は自習よ」

 

 千枝はトートバックから何やらテキストを取り出して見せた。  


『完全マスター 日商簿記2級』


「簿記?」


 滋が素っ頓狂な声を上げる。


「漁協から事務仕事のパートしてくれないかって言われててね、それも経理だって言うから、こう言うの要るかなって」

「ほう…2級はそこそこのレベルですよ」

「うん。3級は昔、OLやってた時に取ったんだけど、久し振り過ぎて忘れたわ」


 二人の高校生は呆気に取られて見ていたが、絵梨がおずおずと聞いた。


「それって難しい試験なんですか?」

「そうねぇ、昔の私ならそうでもないと思うんだけど、今の私には難関ね」

「絵梨、吉祥さんは国立大学卒業なんだよ」

「!」

「あはは、そうは見えないよね。顔は真っ黒で皴だらけでいつも汚い格好で、魚臭いしね」


「いえ、今日はとてもカッコ、いいです。キャリアっぽくて」

「そう? 有難うね。漁協でパート始めたら、余ったお魚を差し上げるよ」


 千枝は立ち上がると、ベンダーマシンでコーヒーを淹れ、カウンターに向かった。三咲は時々隣を意識した。懸命な表情でテキストを読み、ノートを取り、本当に学生のようにマーカーで線を引いたり、赤ペンでコメントを書いたりしている。気のせいか、千枝のほっぺもほんのり茜色だ。吉祥さん、なんだか若返ったみたい…。

 

 小一時間が過ぎる。絵梨もため息をついて窓の外を眺める。三咲も因数分解に飽きて来たのか、佳太に習ったというペン回しにトライし、テキストの上にポトンとシャーペンを落としたりしている。


「なんかさ、懐かしいわね。あなたたちは現役だからそうは思わないだろうけど」


 ぼそっと千枝が呟いた。


「あー、勉強ですか?」


 仕切り越しに三咲が相槌を打つ。


「と言うより、こんな時間がね。テキストの匂いとか、シャーペンの芯が折れる音とか、マーカーのキュキュッって音とか。図書室ってこんなだったなあって思い出したのよ」

「へぇー」

「そのうちみんなデジモノになって、そんな音や匂いは消えちゃうんだろうけど、一つ一つ書き込んで、色を重ねて、ノートも教科書もぶわぶわになる感じが、やっぱり私は好きだな」

「あーなんか判ります。やっぱ覚えられないんですよね、聞くだけとか見るだけだと」

「そうね。やっぱり五感で生きてるんだもんね」

「はい。そう言や今は味覚が足りませんね!」

「そうね」

 

 千枝は笑った。


「マスター、甘くて美味しいもの、三つ頂戴!」


 さくら丸は勤勉な乗船客を乗せて順調に滑り出していた。


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