第26話 傷だらけの聖女
龍志が仕事を終えて部屋に戻ると、三千円はベッドを占領して眠っていたが、凛子はパソコンに向かって何かやっていた。
「お帰りなさい。アンちゃんは聖女のような顔で眠ってるわ」
俺のスウェットスーツを借りた凛子が振り向いた。聖女か……
「一緒にお風呂に入ったけど、あの子は両膝と腕に痣があった。きっと必死で逃げたのね。怖い思いもしたと思う。ちゃんと話せばわかる子よ。話を聞いてくれる人がいなくて寂しいから、龍志さんを追いかけたのがよくわかったわ。お腹は空いてる? シャワー?」
「腹は減ってない。シャワーにする」
シャワーを浴びようとしたら、「ごめんなさい、そのままだった。目をつむってね」、小さな下着が片隅に干されていた。タオルを巻いて部屋に戻ると凛子が頭を拭いた。
「すまない、君をこんなアクシデントに巻き込んでしまって、何と謝ればいいのかわからない。僕だけではどうしようもなかっただろう。あの子の話を聞くどころか突き放したかも知れない。そうしたらあの子はもっと行き場を失った。君にどんな感謝の言葉を言えばいいかわからないが、助けてもらった。ありがとう」
「私たちは恋人でしょ、気にしないで。もう寝ましょう」
俺たちは夏用の薄い布団に包まって床に転がった。
「寒いわ。くっついて眠っていい?」
「いいよ、歓迎する。恋人だから」
俺は凛子を抱きしめて温かい眠りについた。
「起きろ、いつまで寝てんだよ!」
龍志は三千円に蹴飛ばされた。凛子は身支度を済ませて珈琲を淹れて笑った。
「元気になったか?」
「うん、お姉さんにいっぱい話したら元気になれた。早く顔を洗いなよ。お姉さんは卒業式に来てくれるって。だからさ、もう負けないって約束したんだ。卒業するんだ、頑張るよ! お兄さんも絶対来てね」
「行くよ。いつだ?」
「3月10日だよ。4月からはインターンした青山の大きな美容室で働くんだ」
凛子と三千円は手をつないで駅に続く道に消えて行った。
ふーっ、台風のような娘だ。しかし哀しい話を聞いたなあ、あまりにも酷(むご)い現実に俺は泣いてしまった。凛子はあの子を聖女と言ったがそうかも知れない。ひとつだけラッキーなことがあった。凛子を抱いて眠ったことだ。ガタイはデカイがふんわりしていた。うっかりするとオモラシしそうだったが、必死で欲望を封印して温かい安心に包まれた。ヤバイ、妄想した俺は爆発寸前になってシャワーへ駆け込んだ。
龍志は社労士の登録を済ませ、シンジの父が経営する企業と長瀬エンターの労務管理を手伝わせてもらうことになり、これまでの管理データを預かった。データを精査すると錯誤と誤謬があり、遡っての訂正や関係官庁への訂正書類提出に追われたが、ジムと美容サロンに通ってホストを続ける日課は変わらなかった。
このところ三千円から携帯はなかった。まさかあいつは凛子に電話? 迷惑かけてないか? 気になって凛子に訊いた。
「ええ、よく携帯くれますよ」
「とんでもない時間に携帯を飛ばす子だ。迷惑じゃないか?」
「仕事中は出ない、忙しいときは時間を区切ります。5分しかないと伝えると、ちゃんと守ってますよ。最初にきっぱり言えば大丈夫です。こんなことがあった、ここに行ったと報告するんです。家はあってもずっと孤独だったと知りました。龍志さんを愛してると思ったのは龍志さんの優しさと誰かに甘えたい気持かも知れません。可愛い妹です」
ふーっ、あいつは俺が三千円で抱いたと言ってないだろうな、不安になった。
「腹ペコで死にそうなときにビックマックを2個もらった。自分も貧乏なのに優しいお兄さんだと思って、また会いたいと継母にねだったと言ってました。龍志さんはお客とホテルしないので有名なホストだと教えてもらったわ」
あーあ、どっちも変わったやつらだ、勝手にしろ。ふと思った。俺は凛子が好きなのか?
3月10日(日)、アンの卒業式に出席した。名前を呼ばれて壇上で修了証をもらうあいつを凛子は何枚もデジカメで撮った。やはり継母の沙奈江は来なかった。式が終わって走って来た三千円は、
「来てくれたんだぁ、嬉しい! ふたりともカッコイイ! お兄さんって普通の父兄には見えないよ。あの人は誰って訊かれたから、親違いの兄さんだよって自慢した」
親違いのセリフに凛子が笑い出した。
「継母がお祝だってお金をくれたんだ。豪華なお昼に行こうよ」
龍志は行きつけの中華料理店に案内した。海鮮焼きそばが旨い店だ。中国人オーナーがこんな大きな娘がいるのかと驚いたのには、こっちが大笑いした。出される料理に目を丸くしたあの子はバグバグと食べまくって、本当に嬉しそうだった。
「お姉さんから教えてもらったんだ。いきなり携帯するときは、今いいでしょうか、お時間はありますかとか言いなさいって。そんなの知らなかったの」
凛子は笑って聞いていた。会計をアンが払おうとしたが凛子はその手を押さえて、
「今日はアンちゃんのお祝いよ。お兄さんに任せましょうね。ホストクラブに比べたら安いものよ」
これにはオーナーが大笑いした。アンはご馳走さまでしたとペコンと頭を下げた。
しばらく平穏な日々が続いた。
「明日は下調べで椿山荘に行きます。会いたいです、来てくれませんか?」
凛子が携帯して来た。会いたいです? どうしたか?
「何時だ?」
「正午に池のほとりで待ってます」
椿山荘は結婚式場を併設したホテルだが、四季折々の花を楽しめる庭園が有名だ。暖かな陽光の下に悠々と鯉が遊んでいた。ぼんやり眺めていると背後から声がした。
「遅れてごめんなさい。お昼ご飯はあそこです。庭が見えるラウンジのビストロです」
花柄のワンピースで登場した凛子は、はっとするほど艶やかだった。赤い大きな和傘を先頭に花婿と花嫁の行列が続き、凛子は食事を忘れて眺めていた。そんな凛子を俺は見ていたが、俺の視線に気づいて、
「どうしたのです、何かヘンですか?」
「そうじゃないが、花嫁行列を熱心に見ている君はいつもと違う気がした」
「気のせいですよ、さあ食べましょう。次は小石川後楽園に同伴してくれますか」
「同伴? 君はクラブホステスか?」
「ええ、そうです。純情な龍志さんを狙うかも知れません」
冗談を言わない凛子がどうしたかと不思議に思ったが、気にするな、自分に言い聞かせた。
小石川後楽園でカシャカシャとデジカメで連写する凛子と離れて、龍志は回遊式の日本庭園が気に入って歩き周った。ここは黄門さまの庭だったらしい。満開を迎えようとする枝垂れ桜や白糸の滝を写メしていると急に雲行きが怪しくなった。間もなく空は漆黒の雲に覆われ大粒の雨が落ちて来た。四阿(あずまや)に逃げ込もうとしたがそこは既に人で溢れていた。雨宿りを諦めて通りに出て車を拾い、龍志の部屋に直行した。ずぶ濡れのふたりに運転手は謝りながら座席にビニールを敷いた。
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