迎えに来たよ、さようなら

 その日は、朝起きたときからおかしかった。

 自分でも理由はわかっていないが、いろはの傍にいるべきのような、学校へ行ってはいけないような、そんな気がしたのだ。これは家にいたほうがいいということなのかもしれないが、何故そう思うのかがわからない。

 それが気になって朝食がなかなか進まない千早に、いろはが心配した様子で声をかけてくれた。口に入れていた少量の白米を飲み込み、朝から何だかおかしいという話をしてみる。

 ふむ、と箸と味噌汁が入った椀を置き、腕を組むいろは。


「千早自身はわからなくとも、千早の中にあるスサノオの力が何かを訴えかけている可能性もあるな」


 もしも、いろはの言うとおりであれば。

 訴えかけてくれているのにもかかわらず、それを察することができていないということだ。自分の力のなさを実感してしまい、どんよりとしたものが心を重くする。

 気にするな、といろはは眉尻を下げ、優しい笑みを浮かべた。頭に手が置かれ、ゆっくりと撫でられる。


「力の使い方を学び始めたところだろう?」

「……すみません。鍛錬、増やしたほうがいいかな」


 毎朝五時に起きては、いろはと共に力の使い方を学んでいる。まずは、力をコントロールすること。少しずつ感覚は掴めつつあるからか、気だけが焦ってしまう。

 何よりも、キスの回数が増えた。今のところ祖父母や伊織、玉藻には気付かれてはいないだろうが、いつ知られるかとヒヤヒヤしている。


「鍛錬については無茶をするな。自分のペース、というものがあるのだろう? ふふ、書物で学んだのだ。何より、千早にはその指輪がある」

「……そうですね。いろはさんを呼べますから」


 胸元で輝く母の指輪を握る。いろはの手が離れ、彼は再び食事を始めた。千早も味噌汁が入った椀を手に取り、汁を口に入れる。

 どんよりとしていたものは、いつの間にか取り除かれていた。やはり、いろはと話すと心が落ち着く。残っていた焼き鮭を一口で入れ、口を動かすもついつい口角が上がってしまいそうになる。


 ──なんだろう、これ。


 落ち着いているはずなのに。安心しているはずなのに。

 どこかふわふわとした気持ちが、千早の中にあった。



 * * *



「千早」


 授業中だと言うのに、今朝のことを思い出してそちらに気を取られていた千早。

 突然聞こえたいろはの声に勢いよく立ち上がると、不本意ながら教室中の視線が集まった。

 バクバクと心臓が早鐘を打っている。汗がたらりと流れ、ざわざわとした感情が千早を襲う。

 


「朝日奈? どうした、授業中だが」

「お告げでもありましたかあ?」

「ねえ、聞こえるよ? ふふ」


 何でもありませんと座るも、本当にこのまま授業を受けていていいのだろうか。そんな気持ちから、千早はそわそわと辺りを見渡した。

 いろははここにいない。指輪も、千早がいろはを呼ぶためのもの。いろはが千早を呼ぶためのものではない。

 では、何故いろはの声が聞こえたのか。あんなにも、緊迫したような声で。

 そのとき、今朝言われた言葉を思い出した。


 ──わたし自身はわからなくても、わたしの中にあるご先祖様の力が何かを訴えかけている……。


 千早は唇を噛み締め、そっと右手を挙げた。またしても視線が千早に集まる。クスクスと笑うような声も聞こえてくるが、どうでもいい。教師は呆れた表情で溜息を吐く。


「今度は何だ」

「すみません、帰ります」


 机の上にあった教科書などを片付け、必要なものだけを鞄に詰め込む。教師が待つように声をかけてきたが、何を待つのか。制止を振り切り、鞄を肩にかけて教室を出た。

 自分でも、何が起きているのかわからない。ただ、いろはのあの声が千早を急かしていた。早く、早く、と。

 やはり、行くべきではなかったのかもしれない。今朝の違和感がそうだ。

 千早に何かあれば、いろはを呼べる。しかし、

 ずっと、勘違いをしていた。何か起こるのは、千早だけだと。

 天羽々斬が人の姿をしているということが知られた時点で、いろはも狙われる可能性があるというのに。

 走って家まで向かう。普段は使わない近道を使い、無我夢中で走った。

 誰もが千早を目で追うが、気にしてなどいられない。今はそれどころではないのだ。遊び半分で声をかけてくる者も無視し、ただただ走る。

 日常が壊れていく音がする。祖父母、伊織、玉藻、そして──いろは。あの賑やかな時間がもう訪れないような、そんな気がする。

 嫌だ。嫌だ。そう心で叫びつつも、八岐大蛇が蘇った今、あのような日常が過ごせていたのは奇跡のようなもの。いつかは壊れる、奪われるとわかっていたはずだ。

 ようやく敷地に入り、肩で息をする千早の目の前にいたのは──。


「伊吹、さん」

「千早? なんだ、随分早いな」


 伊吹の前には、伊織が倒れていた。いろはと玉藻も汚れており、伊吹に抗った様子が窺える。


「千早、何故帰ってきた!?」

「はあ!? ほんまアホいろはやな! ボク達の危機を察して帰ってきてくれたんやんか!」

「……いろはさんの声が、聞こえたような気がして」

「半分正解で半分間違ってるわ。ごめんな、アホいろは。ちゃっかりボクも含んでもたわ」


 うるさい、と伊吹の声が響き渡る。

 玉藻もそんな彼の声にピタリと静かになり、切れ長の目を更に細めた。睨み付けられていることは気にせず、伊吹は笑顔で殺気を千早に向ける。カチ、と奥歯が震えるような、ぞくりとしたものが全身に走った。


「お前が帰ってくる頃に合わせてやってたのに。全部台無しじゃん」

「ど、どういうことですか」

「伊織を迎えに来たんだよ」


 倒れている伊織にコツンと足先を当てる。

 迎えに来たと言う割には、この状況は何なのか。千早は鞄を放り投げ、伊吹を見つついろはに近付いた。何をしようとしているのかわかっているはずなのに、何もしてこない。余裕を見せつけているのか、本当に余裕なのか。どちらにせよ、腹立たしく、いい気分ではない。

 いろはの左手を右手で握ると、横目でちらりと見る。彼は伊吹を真っ直ぐに見たまま、静かに頷いた。


「いつでもいいぞ」

「いきます……天羽々斬」


 名を呼ぶと同時に、走り出す。右手で握っていたものは柄となり、両手に持ち替えて力を込めた。

 以前より、伊吹の力は上がっているはず。だとしても、千早は力の使い方が上がっている。勝つことはできなくとも、伊織を助けてこの場から離れるくらいならできるはずだ。

 そう思いながら振り下ろすも、千早が放った光の斬撃は伊吹に当たらない。寸でのところで避けられたようだ。真横からきつい蹴りを喰らい、防ぐことができなかった千早の脇腹にミシミシと食い込んでくる。

 勢いよく吹き飛ばされ、一七夜月家に張り巡らされている立入禁止のテープに身体を預けることになった。

 息はできる。身体は痛いものの動かすことはできる。ということは、骨は折れていない。千早は奥歯を噛み締め、ぐっと身体を起こして立ち上がる。


「伊吹童子、お前の目的はなんや? 八岐大蛇から伊織を殺して喰えって言われてたやろ」


 怪我の程度を遠目から確認した玉藻が時間を稼ごうとしてくれているのか、伊吹に話しかける。


「裏切り者の野弧やこ。お前に何を話す必要があるってんだよ」

「裏切り者? 元々、捕らえられていいように使われてただけのボクや。裏切るも何もないやろ。で、目的はなんや?」

「……ただ、殺して喰うだけならもうしただろ」


 ひゅ、と千早は息を呑んだ。

 それは、伊吹の両親のことを指しているのか。苦虫を潰したような顔に、伊吹がどのような感情を抱いているのかがわからない。

 わかりきっていることを訊かれ不愉快なのか、それとも──辛いのか。

 伊吹は倒れている伊織の元へ歩いて行き、彼女の髪の毛を掴んで頭を持ち上げる。今し方までの表情はどこへやら。口角を上げ、鋭く尖った犬歯が見える。額からは二本の赤黒い角が生えてきた。


「それだとつまらない。だから、こいつには俺の血を与えた。ああ、残念だよ千早。お前が帰って来る頃にはジジイもババアも食い散らかされ、天羽々斬と野弧がボロボロになっていたはずなのに」


 起きろ、と伊織の頭を揺さぶると、どくん、と辺り一帯に鼓動のような音が響き渡った。伊織からは彼女のものとは思えない獣のような呻き声が聞こえ、千早は必死に彼女の名を呼ぶ。

 駆け寄ろうとする身体は移動してきた玉藻に押さえられ、それでも名だけは必死に呼び続けた。


「伊織ちゃん、やだ、伊織ちゃん! 伊織ちゃん!」

≪千早、落ち着け! 行くな!≫

「千早チャン! もうあかんて! あれは……伊織は……」


 空気が伊織を中心に吸い込まれていく。かと思えば、発散するかのように鋭い空気の塊が千早と玉藻に向けられて放たれた。二人は一七夜月家に身体を打ち付ける。


「これが一番千早に効くと思ってさあ。どう? 今どんな気分?」


 伊吹の笑い声が聞こえる。玉藻に手伝ってもらいながら身体を起こし、砂埃が舞う向こう側にいる伊吹を見た。


「鬼の世界に迎えに来てやったよ、伊織」


 これまでの世界に、さようなら。

 伊吹が言い終えると、何かが正面からものすごい速度でやってきた。

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