34.

 ◇グスタフ視点◇


「トレイス町出身……なぁ」

 団長室の明窓から臨むのは、雲一つ無い、穏やかな昼下がりの晴天。空気を入れ替えようと開けた窓からは、柔らかな風が吹き抜ける。そよ風に乗って、一枚、二枚と書類の山から資料が飛び立つ。

 しかし、それらを拾い上げる気にはなれない。

 少し肌寒くなり、窓を閉める。

 すると、風の音はピタリと止まり、部屋の中では静寂だけが息をする。

 一つ、溜息。

 そこから視線を逸らせば、机上に散らばるレイフの空白だらけで、そして一つの嘘を記した履歴書が目に映る。

 あれから七年。

 ……そうか、もう、それほどの月日が。


 ◇レイフ視点◇


 カノリア村から帰還した俺達は、団長から呼び出しを受けていた。今回の一件と上代の穢蕊えしべについて話を聞きたいという。

 騎士団庁舎の最上階に位置する団長室。重苦しい扉のこの先に、この騎士団百万人の頂点がいる。

 身体の芯に力を込め、両手でその押戸をこじ開ける。そこには華美な椅子に腰掛け、広い書斎机の書類と格闘しているレードルンド団長の姿。

「来たか」

 団長は椅子に腰掛けたままこちらを見やる。俺達は招かれるまま、机の前まで歩みを進める。

「よく来た。まずは任務ご苦労だったな。たった二人でこの戦果。まさか上代の穢蕊えしべとは。……素晴らしい」

 団長は迫力のある顔でニヤリと微笑む。

「お前たちが西部地方騎士団へ提出した半割れの仮面だが、考古学の教授に鑑定してもらっている。詳細は未だ分からないが、上代の穢蕊えしべの朽ちぬ遺物であることは間違い無いらしい。お手柄だ。正式な辞令は少し先だが、お前たちは、主幹騎士へ昇進だ」

 その騎士団長は異例の昇進を果たしたヒヨッコ達に、期待を帯びた眼差しを向ける。

「おめでとう」

 団長は立ち上がり、机越しに握手を要求する。騎士団長直々に称賛を預かるとは、本来であれば比類無き栄誉。

 しかし俺は、その差し出された手を握らない。

「その前に質問良いですか? 団長」

「なんだ?」

 震える足を必死に堪えながら口を開く。この震えは恐怖なのか、それとも歓びなのか。

「……団長、貴方は七年前にヨリス村へ行きましたか?」

「……何の話だ」

「答えて下さい」

「……ヨリス村。七年前の大火災で滅んだ村だったな。そうか、レイフ、お前の本当の故郷はそこだったのか」

「逸らかすな。……答えろよ」

「……七年前。行っていない。行ったこともな――」

「嘘ね」

 ライラの鋭利な声が遮る。

「私、嘘って嫌いなの」

 君は愉悦を隠さないままの、勝ち誇るような微笑。

「レーヴェンアドレール家のお嬢様。私は嘘など吐かないさ」

「ふふ。真っ黒ね。レイフ、間違い無いわ。……七年前、団長はヨリス村を訪れているわ」

 俺は襲い掛かろうとする自分を必死に抑える。

「……団長、貴方の祝福の刻印は何ですか?」

「その質問の意図することを理解しているのか? ……今すぐここで首を刎ねられても文句を言えんぞ」

「答えて下さい」

 団長は差し出した右手を引っ込め、ドスンと椅子に腰掛ける。

「答えん。答える義理も無い」

 秒針が時を刻む音が響く。今ここでを放っても、ただ白を切られて終わりだ。しかし、この沈黙を突き破るのはライラの声。

「……二十年前、団長も部隊を率い、上代の穢蕊えしべ〈カルミア〉を屠られたとお伺いしています」

 淑やかな、そして尊敬を現す言葉遣い。

「ほう? お嬢さんはまだ生まれてもないだろうに」

「当然存じ上げております。団長は王国の英雄ですから」

「英雄など大それた字名よ。まあ、あの任務は流石に死を覚悟したよ」

「ご謙遜を。それはそれは、快刀乱麻の大活躍だったと。今度、是非お話をお聞きしたいですわ」

「わっはっ――」

「禮命」

 ライラは上機嫌に笑い出したレードルンド団長の一瞬の不意を突く。それでも表情は変わらない。

 しかし、眉が一瞬、ほんの一瞬だけピクリと動くのをライラは見逃さない。

「当たりね。レイフ、こいつよ」

「……イーサクめ。情に流されおって」

「イーサクではない」

「わっはっは! 心配せずとも殺しはせぬよ」

 団長は豪快に笑い、腕を組む。一転、その目の奥には隠し切れない戦意が滲む。

「そうだ。儂が禮命の聖騎士だ」

「グスタフ、お前が!」

 七年の時を超え、遂に再び。

「それがどうした? 何が欲しい? 謝罪か? 殺すのか?」

「当然殺す。剣を抜け」

 銀の剣を鞘から引き抜く。

「よい。贖罪もある。一撃だけ、チャンスをやろう」

 構える騎士を目の前にしてなお、グスタフは獲物を持たないまま、腕を組み不適に笑う。

 ……舐めるな。一撃で殺してやる。

 しかし、……この余裕はなんだ?

 普通ならば、剣で首を吹き飛ばせば終わりだ。

 人は死ぬ。

 人は死ぬんだ。

 ……何を考えている?

 ……祝福の力がそうさせるのか。グスタフの祝福が何かは知らない。

 それでも、俺には奥の手がある。

「ライ!……」

 言い掛けて、止めた。

 これは。

 俺の復讐。

 俺の殺人。

 俺の犯罪。

 俺の逃亡生活だ。

 ……未来あるライラを巻き込むわけにはいかない。

「何遠慮してるのよ。早く目を瞑りなさい」

 それでも即答。

 君は少し剥れ面。

 何かを察したのだろう。

「……いいのか?」

「バカね」

 君は呆れたように浅い溜息。

「貴方って、本当に、私の気持ちを舐めてるわ」

 一転して、そして吸い込まれるようなその微笑み。

「私はね、レイフ。貴方のバディよ。この世の全てを敵に回しても、私が貴方の味方になってあげる」

 そして君は俺の目を瞑るのを待たず、背伸びをして唇を重ねる。

「ふん。子供のキスだな――」

 グスタフの言葉は目の前の光景に飲み込まれる。

 魔女の絢爛。

 二人の足元から碧白い光と緩やかな風、そして魔女文字ルーンが溢れ出す。

「…………ま、さか……いや、しかし……魔女の、……末裔か」

 呆然とするグスタフの首に淡く灯る剣を向ける。

「最後に一つ。何故ヨリス村を、何故俺たちの村を襲った!」

 それでも一瞬で表情を凜と切り替えたグスタフは、探るような目と、そして少しの沈黙。

 ……何を考えている。

「早く答えろ」

「例えば、……そうだな」

 一つの長い、長い溜息。

「暴走したトロッコが線路を走る。その進行方向には五人の作業員がおり、このままでは轢き殺されてしまう。お前の手元にはレバーがあり、それを引けばその五人は助かるが、切り替えた先には一人の作業員がおり、そやつは代わりに轢き殺されてしまうだろう」

 何だ?

 何の話だ?

「レイフ、お前ならどうする。そのレバーを、……引くか?」

「……何の話だ。関係が無い」

「答えろ。引くか? レイフ」

「…………」

 答えられない。

 何だ?

 その悪趣味な質問は。

「無言。ということは躊躇い、機会を逃し、行動を起こさないという事。つまりレイフ、お前はその五人を見殺しにするのか」

「違う! それは……」

「違わない。選べない、という事は何もしないという振る舞いを選んだという事だ」

「……違う」

「切り替えれば、一人の人間を殺す事になるからか?」

「――ッ!」

 それはそうだろう。

 この問答に、正しい回答など無い。

 出口の無い言葉遊びだ。

「だったらお前――」

「儂は引く」

 真っ直ぐな眼差しと強い声で、その男は俺の問い掛けを遮り断言する。

「迷う事無くな。理由は単純。より多くの命が助かるからだ。儂には騎士百万の頂点という立場に伴う責任がある。常に公平であらねばならない。決断出来ない、なんてことは。それは国家公安組織の長として国家国民に対して不誠実だ」

「……何が言いたい?」

「話を戻そう。……八年前の戦争を知っているな?」

「ええ。私の父上はそこで亡くなったわ」

 ライラは俺の左胸に収まったまま口を開く。

「あれは北の民主国との、北部の莫大な石油資源を巡る戦争だ。石油は間違い無くこれからの時代のエネルギー。そしてエネルギーは国家の血液。血液は必ず自国で賄わなければならない。貿易摩擦で他国から外貨を絞り上げているこの王国は何かと恨まれている。仮に我々がその血液を失った場合、他国が裏で手を組んで供給を遮断する包囲網を敷かれては、打開するためには未来の戦争しか選択肢は無い。そしてそれは、王国と民主国だけではなく、もはや世界中を巻き込んだ大戦となるだろう。そんな最重要地点を今回の敗戦で奴らが諦める訳は無い。民主国が裏で再戦の準備を進めているのは分かっていたが、王国の被害は甚大だった。全てを出し尽くしていた。北部の戦争が、大虐殺が再発するのを防ぐため、世界を焼き尽くしたと伝えられる赫焉の魔女の力が必要だった」

 世界を……。

 そうか。それが、父の言っていた、赫焉の魔女の罪。

 ……ルーナ。

 君は何故、世界を燃やすなんて事をしたのだろうか。

「……封印を阻止するためだけなら、虐殺は不要だったはずだ」

「それは、……すまなかったな」

「謝罪なんて要らない。訊いているのはその理由だ」

 端から赦す気は毛頭無い。赦されようとするその振る舞いすら、……憎らしい。

「虐殺は不要と言ったな?」

「当たり前だ! 事情を話して交渉すべき――」

 グスタフは言葉を遮り鼻で笑う。

「所詮は子供。政治の実務を知らんな」

 首元へ刃を向けられてもなお、その目は据わる。

「交渉や脅迫に失敗するケースは? 交渉相手が現実から目を背けた理想主義者であるケースは? 隠れて逃げ出した人間が、後先考えず封印を成し遂げるケースは? そもそも封印を阻止するための条件は? あまりに情報が不足している我々は不利だ。未来がどう転ぶかなんて誰しも分からん。何より時間も無い。しかし、決して失敗は許されない。ならば、国家を揺るがす、国民の命がベットされた最重要局面において、そんなリスクは抱えられない。作戦の成功確率が最も高いのは、……奇襲し、殺すこと。選ばない、なんてことは有り得ない」

 ……吐き気が、する。

 虫唾が走る。

 この目の前の屑にも、的確な反論を用意出来ない自分自身にも。

 言葉を失った俺を見やり、グスタフは低く重い声のまま続ける。

「結果として魔女の確保は失敗した。どれだけ捜索しても社とやらには辿り着けなかった。儂は不完全なまま、鴉の精鋭六人を連れ、戦争推進派の民主国の犬を暗殺に向かった。運良く、部下六人の犠牲の下、目的は達成された。王国の平和は守られたのだ」

「……なら、ヨリス村は何だった? その犠牲無くとも任務は成功したじゃないか」

 ようやく声を絞り出すも、剣を握るその手は僅かに震える。

 もうすぐ、七年間の悲願が成される。

 そしてそれは愛しき日常との、ライラとの別れを意味していた。

「儂は目的のためなら手段を選ばない。最善を尽くすべきだ。最善は魔女の力を手に入れての任務。今回は偶々運が良かっただけだ。もし失敗していればまた八年前と同じように九四三六七人、いや、より多くの命が失われていた可能性があった。そして儂の可愛い部下の命も失われなかったかもしれない。儂の中で天秤にかけた時、ヨリス村二七一人の命は、……ほんの僅かに、軽かった」

 自嘲するように目を細める。

「儂は、レバーを引いたのだ」

 団長は華美な椅子に背を預けて上を向く。

「一度でも最善を選ばなければ、失敗した日に、と考えてしまう。その一度の甘えが一生の後悔になる。……あの日、聖騎士紋章を見られた少年を……見逃したようにな」

 そして禮命の聖騎士は様々な感情が入り混じった、しかし苦痛の笑顔を俺に向ける。

 ……覚えていたのか。

 俺の事を。

「それでも時間は巻き戻らない。レイフ。お前も本当に大切なものは何かを考えろ。そしてそのためには手段を選ぶな。……復讐は正しい」

 グスタフは俺の復讐を促す。

 しかし、その右手は震える。

 剣が、剣が上手く握れない。

 ……どうして?

 どうしてこんな……。

 呼吸は浅く、どんどん速くなっていく。それを見て、グスタフは嘆息。そして遺言を紡ぐ。

「儂も騎士になったのは復讐のためだ。姉の仇を討つためにな」

 その声はどこか諭すよう。

「儂が若い頃、姉が何者かに輪姦されてな。裏路地で発見された遺体は、……眼球も、何もかも潰された、悲惨なものだったよ。そして後の目撃情報から、その犯人は間違いなく騎士だということが判明した」

 あまりの胸糞悪い話に血の気が引いていく。

「だが今から三十八年も前、当時の騎士には殺害特権が有ってな。姉は盗みを働いたなどと言い掛かりを付けられ、その犯人は裁かれなった」

 グスタフは無表情につらつらと続ける。

「二年後、十六となった儂は騎士になった。その犯人を探すため、この手で殺すためにな。俺は首席だったから、中央騎士団へと話を貰ったが、その屑共がいるであろう地元の管轄、南部地方騎士団へ入団したよ」

 俺は黙ってその話に耳を傾ける。

「そしたら酒の場でな。あいつらは過去の犯罪を武勇伝のように話すんだ。悪事自慢から抜け出せない幼稚な屑供だったよ。儂はそのまま下手人を特定し、その日の内に全員殺した。思いつく限りの痛みを与えてな。……胸の閊えがようやく取れ、一人殺すたびに、晴れ晴れとした気持ちになったよ」

 天井を見上げ、噛み締めるように呟く。

「そいつらの死体は業者に片付けさせた。この王国にはそういった連中がウヨウヨ蠢いているからな」

 不敵な笑みをこちらに向ける。

「それでも儂の姉は氷山の一角。他にも同じような苦しみを抱えていることに気付いたよ。儂は偶々祝福された者だったから復讐を成就させられた。だか、大多数の力無き者達は、ただ泣き寝入りするしかない」

 不意に、背中の火傷跡が再び熱を帯びたように身体を蝕む。

 それは、そうだ。間違ってはいない。

 ……だがお前がそれを言うのか?

 お前が燃やしたヨリス村で生き残った、この俺の前で?

 お前の、その言動は、矛盾している。

「結局、騎士が悪事を働いた時、それを裁く裁判所は騎士団より立場は低い。ならば揉み消されて終わりだ。この国において、王族と深く繋がり、強大な力を集約する騎士団を制御する事は不可能だ。だから俺は、そんな騎士を、世の中を変えたいと思ったよ。自身の意志を通すためには力が、武力と権力、金が必要だ。だからまずはポンポンと騎士団長になったよ」

 聖騎士には、騎士団長には、そんな簡単には成り上がれない。そこに至るまでには多くの逆境が有ったはずだ。

「騎士団長になれば、政治、経済、あらゆる方面へ顔が利く。ありとあらゆる手を使い、ようやく俺は貴族と騎士の殺害特権を取り除くことに成功したよ」

 グスタフは遠い目で、かつての苦難を思い浮かべる。

「そして俺は騎士団を浄化するため、監獄アルドレットと鴉の騎士隊を結成した。名前くらいは聞いたことあるだろう?」

「叙任式の日、俺の同期が襲われていた。儀範となるべき参事補騎士にだ。それは本当に機能しているのか?」

「鴉の標的は力無き庶民に対しての牙だ。力を振るい騎士となった者への盾ではない。騎士団は常に戦死者によって人手不足だ。そいつらであろうとも戦場の頭数には必要だ」

 男は無慈悲な表情のまま続ける。

「軍には絶対的な序列が必要だ。そこを蔑ろにしてしまっては、戦場で騎士は死地に向かわん。死地よりも絶大な畏怖が上官には必要なのだ。そうでなければ国家の命と領土の保全は叶わない」

 その戦争を知る男の重苦しい声に、棘のある緊張感が張り詰める。

「しかし結局、騎士団にこびり付いた歪みと裏切りの文化は、儂の一代では落とせなかった。それでもなお、木を見て森を憎んではならない。儂も騎士となって初めて知ったが、悪人だらけと臨んだ騎士団の中にも、良い奴はいる。もちろん少ない。お前たちには未だ分からないだろうがな」

 一転して諭すような声。

「初心では誰しもが高潔にと思うものだ。だか立場が上になるにつれ、その権力を失うのが惜しくなる。何より、儂が昇り上がるために、必死に命を賭して戦地へ向かった部下たちは儂の財産だ。……儂はこれ以上、身内を斬るには、ここに長く居すぎたのかもしれん。この組織を更に改革するには、新しい風が必要だ」

 然るべき立場の騎士団長は、決意を帯びた声で未来を願う。

「儂は、今の、この歪んだ騎士団を、愛している」

 そして遂に、その遺言にはピリオドが打たれる。

「これが終わったら、すぐに北の民主国へ逃げろ。儂のように下っ端を殺しただけなら隠蔽出来るが、この騎士団長を殺したとなればそうはいかん。面子のため、騎士団はお前を血眼になって探すだろう。だが民主国なら騎士団も迂闊には手を出せない。北のリベリト市から更に北、ビルノリア油田まで鉄道が出ている。そこから先は歩きになるが、運が良い。今なら雪解けの季節だ。……上手く潜り込めよ」

 暗に殺せと促している。

 それでも手の震えは止まらない。

 痺れを切らしたグスタフは机を掌で叩く。机のカップは倒れ、コーヒーが零れる。

「臆すな! やれ! 殺しは強者の特権だ!」

 グスタフは自ら首を剣に押し当てる。首からは一筋の血が流れ、その目は殺せと叫んでいる。

 それでも、それでも手の震えも、過呼吸も止まらない。

 俺の目頭は熱くなる。

 そして、嫌な思考が脳裏を過ぎる。

 ……グスタフは本当に殺していい人間なのか?

 こいつは俺と同じ腐った世界の被害者で、しかもこの国を守り、歪んだ騎士団をまさに正そうとしている。

 後任は誰だ?

 そいつらは歪んでいないのか?

 この男が死んだなら、殺害特権はまた復活してしまうのではないか?

 再び、その濁った特権によって涙を流す人が現れるのではないか?

 その瞬間、絢爛の中からは赫焉の魔女が顕現する。

「爺いの説教なんて聞くだけ無駄よ」

 ルーナは剣を握る俺の右手に掌を添え、早く首を刎ねろと急かす。グスタフの首から更に二筋三筋の鮮血が流れ出す。

 それでもなお、禮命の聖騎士のその表情は、凛としたまま。

「次から次へと。お前が赫焉の魔女なのか?」

「あら。鋭いわね。ご明察よ」

 ルーナは安らかな声で驚いてみせる。

「そうか。大地が抉れたなどと言う西武地方騎士団からの報告書には目を疑ったが、なるほど、魔女の力ならば辻褄が合う。……あの日、何故レイフを選んだ? 何故レイフだけが社へ辿り着けた?」

「さあ? 運命、かしらね?」

 ルーナは左手の人差し指で俺の右頬を突く。

「顔が好みなの。爺いの主様なんてごめんだわ」

「はっはっは!」

 豪快に笑うグスタフ。ルーナは優しく、そして純真な声で囁く。

「レイフ。貴方の家族の声が聞こえない? 早く、早くそいつを殺せって、……

 家族。

 こんな時、皆なら何て言うのだろう。

 ふと彼らの顔が思い浮かぶ。温かな家族。その命は失われたとしても、彼らが残していったものがある。人が人として愛し愛され生きるために必要なこと。大切な、守るべき、亡き家族との唯一の繋がり。彼らが確かに生きていたと証明する唯一の証拠。

 それはもはや呪いのような、でも温かい。

 ……そうか。自身の振る舞いには責任を持て……か。

 歯を食い縛り瞳を閉じる。

 そして剣の光は揺らめて消える。

「今はまだ、殺さない」

 剣をグスタフの首から外し鞘に仕舞う。

 グスタフも、ルーナも驚き、こちらを見やる。

「……正念場で、臆したか」

 グスタフは独り呟く。

 ライラだけが何も言わずに、ただ俺を優しく抱きしめてくれる。

 必死に涙を堪え、何とか想いを口にする。

「今グスタフを殺せば、またグスタフの姉や、俺の家族のような被害を受ける人が出てくる。それじゃあ駄目だ」

 そしてその目には決意が宿る。

「決めた。俺は聖騎士に、騎士団長になる。俺が聖騎士になれば、騎士団を健全な組織へ、というお前の意思を受け継げる。それなら、英雄が死のうとも世界は痛まない。そして責任を果たした時、俺はようやく、グスタフ、お前を殺せる。それが父との約束だ。……それまでお前は決して腐らず、弱き人を護り続けろ」

 ルーナは能面のような表情のまま、そして絢爛と共に姿を消す。

 決心を固めた俺は、下を向いたまま駆け出し団長室を飛び出る。しかし激痛が、身体へ悲鳴を上げさせる。

 後を追うライラは、声を掛けようとするも掛けられない。

 途中何度も躓き転倒しながらも、ようやく辿り着いたのは、図書館第六号舎の奥の奥。誰も使っていない埃塗れの資料室。

 遂に我慢が限界を迎え、泣き崩れてしまう。必死に抑えていたものが堰を切ったように溢れ出す。

「レイフ……」

 君の声。その声は、震えている。

「レイフ!」

 意を決したような強い声。俺は驚き振り返る。そこには穏やかな、人の幸せを願う君。

「おいで」

 暗闇の中、両手を広げ手招く君。躊躇する俺の頭に優しく手を添え、柔らかな胸の中へ引き寄せ、そして抱きしめる。

「頑張ったわね。誰が何と言おうと、……貴方は、頑張ったわ」

 重なる頬の感触が、その三十六・五度の吐息の熱が、渇いた心に水を注ぐ。

「貴方の復讐なんだから、貴方の選択が正しいの。他人がとやかく言ったって、気にする必要なんてないわ」

 柔らかな声が鼓膜を揺らす。その度に嗚咽は強くなる。

「一番、難しい道を選んだわね。貴方らしいわ」

 そして、その抱き締める手には力が込もる。

「……俺さ、犯人はさ、すげー悪い奴だと思ってたんだ。そしたらすげー良い奴で、弱い人達のために必死に藻掻いてて。誰からも愛される英雄で。……でもそしたら、そしたらさ! 殺したらさ! 俺の家族が、悪者になっちゃうじゃん! ……そんなの嫌だよ」

 慟哭に混ざるは苦しい憎悪。一人では抱え切れず、誰かにただ吐き出したくて、裏返る声を必死に紡ぐ。

「……嫌だよ」

 声は掠れ、嗚咽にサラサラと掻き消される。

 そして沈黙を破るのは、鈴を転がすような、しかし痛々しい、君の声。

「人はね、複合的なものだと思うの。弱いから色んな側面と矛盾を抱えて使い分けてる。誰しもがその人の願う、その人自身を演じているんじゃないのかしら。アリシアだって、ベンノだって、皆そう。だからね、善人のグスタフだけじゃない。英雄の中には貴方が憎むべき、憎んでもいい凄惨なグスタフも確かにいるのよ。だから貴方は殺していいの。本当は意思なんて継ぐ必要はないのよ。もし、人を殺すのが怖いのなら、……私が一緒に殺してあげる」

 安らかなその声は震え、しかし強い意志と温かな血が通っている。

 この感情の由縁が魔女の呪いと知ってもなお、酔っ払う程に春闌のこの体温に溺れてしまいたいと願う俺自身も、やはり矛盾している。

「レイフ、貴方はね、良い人過ぎるのよ。復讐ためならと悪人ぶっているけれど、最後の最後で悪人になりきれていないわ。普通ね、カノリア村みたいな安い報奨金の注文は受けたりしないわ。アリシアみたいな裏切ったくせに告白するような気持ち悪い女、それとその父親なんて助けたりしないわ。……でもね。貴方が良い人だから。だからグスタフに辿り着いたのよ。二千万人のこの王国で、グスタフの聖騎士紋章を作った人間と偶々巡り合って、しかも懇意になるなんて、そんな奇跡普通あり得ないわ。貴方は決断力が無くて、疑り深くて、意気地無しな人だけど。……だけどね、良い人よ。こんな血で血を洗う腐った騎士団の中で、貴方は本当に出世なんて出来るのかしら。……私、不安だわ」

 俺の肩には。

 誰かの、温かな涙が。

 そしてそれは、憎悪に濁り堕ち行く俺の心を、寸での崖際で繋ぎ止める。

「だからね、レイフ。私が、……私が傍にいてあげる」

 力無き俺達は、ただ、ただ二人で泣き続けた。

 君がいる。

 俺の傍には君がいる。

 ねぇ。

 ライラ。

 俺はね、ライラ。

 ただそれだけで。

 たったそれだけのことで。

 この残酷な世界をもう一度、生きてみようと思えたんだ。

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