30.
◇レイフ視点◇
「――フ。レイフ! しっかりして! レイフ!」
揺さぶられる身体が痛い。
もう少し寝させてくれ。
それでも止まない声に、微睡む俺は、重い瞼をようやく開く。
すると。
空が。
空が茜色に染まり、鮮やかな夕焼けが沈まんとしている。
……綺麗だ。
そうか。
これが、女神ヒルドレーナ様の御座す、天の国。
「……ライラ?」
泣き噦るのは、何より愛おしい君。
痛々しく腫れ上がる君の右頬に胸がひどく締め付けられる。
守れなかった。
君には指一本触れさせないと、必ず守ると誓ったのに。
それでも、君の美しさは陰ることを知らない。
ああ。
なんだ。
君が女神様の正体だったのか。
通りで、こんなにも、見惚れてしまうわけだ。
「レイフ!」
君は横たわる俺の胸に飛び込む。全身が激痛で悲鳴を上げる。
それでも俺は残った力を振り絞り、泣き出す君の頭をそっと撫でる。
泣かないで、ライラ。
笑って。
「良かった! 死んじゃったかと思った」
……え?
どういうことだ?
俺達は死んだはずじゃなかったのか?
ここは天国で、君は女神様、……ではないのか?
「……生きてる?」
「うん! 私達、生きているわ!」
君は俺の胸に顔を伏せたまま、あまりに信じ難い言葉を紡ぐ。
………………え?
…………ん?
空?
……空が見える?
生きているならば、ここが現実であるならば、いつの間に脱出したんだ?
「ライラ、君が俺を裏口から運んでくれたのか?」
「ううん。違うわよ。私たちは動いていないわ」
少しずつ涙の乾いた君は、ようやく顔を上げる。
……ちょっと待ってくれ。いったいどういう事だ?
「覚えてないの? 貴方が全部吹っ飛ばしたのよ。レイフ」
……は?
……ん?
言ってる意味が分からない。
俺はライラに手伝ってもらい、何とか上半身を起こす。そういえば、背中に当たるこの壁面の感触には覚えがある。確かに先程の場所から移動はしていないらしい。見渡すと数百メートル程もあるだろうか。地面は滑らかに抉れ、幾千年ぶりの陽の光を浴びている。
「これ……マジ?」
レイフは半信半疑で苦笑する。しかしライラは嘘を吐かない。
「マジよ! すごいわレイフ!」
そしてライラは再び俺の胸へ飛び込む。激痛が全身を駆け巡る。
「ライラ……痛い」
「ごめん! ……ごめんね」
ライラは慌てて申し訳なさそうに俺から離れる。その表情は少し寂しそうだ。
「いや、いいんだ。嬉しいよ。おいで」
俺は自身の肩をトントンと指で叩く。ライラは嬉しそうにその肩へ頭を乗せ、寄り掛かる。そして俺は、遂に明るみとなってしまった君への嘘を白状する。
「……俺の力、神速と膂力。これは俺の祝福じゃないんだ。あれは七年前、ヨリス村の社で見つけた、四百年前の魔女との契約で与えられたものなんだ。今まで話せなくて、ごめん」
「いいわよ。私が訊いて、嘘を吐いたわけじゃないもの。それに私の氷の力だって本当は魔法だし」
ライラは花のように笑う。何より願ったその笑顔は、いつだって、俺の心臓を新鮮に突き刺す。
今思えば、ライラは自身の力を祝福とは、決して口にしなかったな。
「それでも、あのルーナって魔女には決して気を許さないで。今日は味方だったけれど、
ライラは真剣な眼差しで釘を刺す。
「うん。分かった。教えてくれてありがとう」
遠き日の父の忠告を思い出す。赫焉の魔女の封印は決して解かれてはならない。
「俺たちは二人とも嘘を吐いていたんだね」
「そうね!」
君は嬉しそうな声。こんなにも嘘を喜ぶライラは、間違いなく初めてだ。
二人で沈みゆく夕日を眺めていると、視線の先には茜色を反射してキラキラ光る、著しく厚い地層。
「光ってる。あれはなんだろう?」
「あれはエレオナイトの原石よ。ふふ。とんでもない量ね」
「え! もうエレオナイトは採れなくなったって」
するとライラは少し自慢げな声で話し始める。
「あのね、レイフ。鉱業というビジネスは、ほぼギャンブルなのよ。どれだけ精緻な地質調査や物理探査を重ねたって、結局最後までどうなるか分からない。有ると確信して掘っても出てこないし、無いと放置していたら沢山眠ってる。そういった世界なの。今回のレイフの一撃で、財宝は遂に顔を出したのね」
採掘し尽くしたと思われたエレオナイトの鉱脈が見つかった。
……良かった。
これでこのカノリア村は平和になるだろう。
「なるほど。カノリアの銀河とはよく言ったものだ。……綺麗だな」
「そうね」
その地層はまるで天の川銀河をも思わせるように、キラキラと煌びやかにその存在を誇示している。
「人は生き返らないけど、その繋がれた命が、営みを蘇らせることはできるわ。きっとこの村は大丈夫」
ライラは穏やかな声で、未来を願う。
「見つけたのは俺達なんだ。これを独り占めしたら家名を再興出来るんじゃないか?」
「まあ! レイフは悪い子ね」
ライラは愉しそうに笑う。
「多分、それじゃダメなのよ。今は村の人達が私たちに感謝してくれるから良いけれど、その次の世代が不当な搾取だと感じるでしょう。きっと、未来のレーヴェンアドレール家にとって、それはいずれ負の遺産になるわ」
そうか。
……そうだった。
ライラは自分だけが幸せになればいいという人では無い。
人の幸せを、幸せを願うことが出来るのだ。
「そうか。惜しかったな」
俺はしかし嬉しさを隠せぬまま肩を落とす。
「いいの! レイフが私を聖騎士にしてくれるんだもん! だからきっと大丈夫」
「ああ、約束するよ」
俺は柔らかな声に決意を秘める。
「でもこれじゃ手柄を総取りできないわね。だってこの力が私じゃないって、絶対バレるもの」
「俺の力でも無理だな。というかそもそも、〈ヘクソカズラ〉をやっつけました、なんて言ったって信じてもらえないんじゃないか?」
「それは大丈夫!」
ライラは勢いよく立ち上がる。
「上代の
そしてライラは駈け出す。
「私、少し探してくる! レイフは休んでて!」
そしてライラは弾むような笑顔のまま、夕日へ向かって走って行く。
…………生きている。
俺は、今もなお、この世界に息衝いている。
……ああ、君がいるから、俺は何度でも立ち上がれる。
どうか、君の未来へ、溢れんばかりの幸せがありますように。
いつか君の傍へ、俺ではない、誰からも祝福される相応しい人が現れますように。
空を見上げる。
茜色から菖蒲色へ優美なグラデーションを帯びる紅霞と、心地よい清涼な嶺渡しの風が、俺を背中から過ぎ去って行く。
二度と見られぬと覚悟した光と風よ。
……ああ、こんなにも世界は美しい。
本当は、ずっと前から知っていたはずなのに、それでも見えないふりをしていた世界の姿。
復讐だけを見つめていた俺の瞳の黒い濁りは、いつの間にか、傍にいる君が拭ってくれたのかもしれない。
……ありがとう、ライラ。俺が復讐に手を染め、犯罪者と成るまでのその間。
どうか。
俺を。
君の傍に。
「レイフー!」
存外早く、ライラは戻って来た。
「見て見て!」
しかし、ライラの手に抱えられたのは薄気味悪いあの仮面ではなく、大きなエレオナイトの原石。
「はは。これには手を付けないんじゃなかったのか?」
「でもこれだけはもらってくわ。それくらい良いでしょ! 使用人たちの当分の給料にはなるわ。鑑定次第では門と外壁の修繕も出来るかも!」
飛び切りの笑顔。これには決して抗えない。逞しい女性だ。
「帰りは俺が持ち帰るよ」
「大丈夫! 魔法がそろそろ回復しそうなの。そしたら氷のカゴに乗せて持ち帰れるわ!」
「じゃあ、仮面は一緒に探そう」
そう言って、俺はなんとか立ち上がる。ライラは原石を放り捨て、こちらへ駆け寄る。
「大丈夫なの?」
「うん。少し楽になって来た。大丈夫だよ」
「うん。……良かった」
ライラは傍に寄り、俺の胸に顔を擦り付ける。それはかなり痛いが、この甘い匂いと多幸感で十分にお釣りが来る。
「じゃあ、二人で探しましょう!」
手分けしたほうが絶対早いが、どちらからともなく、二人は手を繋いだまま、歩き出す。
空が菖蒲色に変わる頃、ようやく仮面の半割れを見つけ、俺達は帰路へ着いた。
……しかし一つ。
消化不良の疑問が残る。
一回目のライラのキスは、魔女の契約を交わすため。
ここはいい。
問題無い。
ならば?
君は『貴方に賭けるわ』と言った後、不意に、二回目のキスを重ねなかっただろうか?
そのキスとは、一体何のために行われたのだろうか?
一回目のキスで、契約は結ばれていたはずだ。
であれば?
あのどさくさに紛れたあのキスの由来は?
キスとは一般的に愛し合う恋人同士の間で交わされるものだ。
……と、いうことは?
……つまり?
そういうこと、なのだろうか?
……ライラは、俺の事が、……好きなのだろうか?
「――ねぇ! ねぇってば!」
君のその声に一瞬で我に帰る。エレオナイトの原石と仮面の半割れを入れた氷のカゴを氷柱で押し上げ、その位置エネルギーを器用に運動エネルギーへと変換して、氷のレールの上を走らせる君。なるほど、これなら運搬は問題無いと言っていたのも頷ける。
「私の話、聞いてるの?」
君は俺の顔を覗き込み、むすりと顔を顰める。しかし、その声も半分しか届かず、俺の意識は先程重ねた君の、……桜唇へ。
「ご、ごめん。考え事してて」
「それ、私の話より大切な事?」
その柔らかい小さな唇はへの字に曲がる。
拗ねた君も、可愛らしい。
「……それとも、やっぱり身体、辛いの?」
ハッとしたように唇は少し開き、君は俺の左肩を支え始める。
「いやいや! 大丈夫だよ!」
「いいから」
密着する君の身体の柔らかな感触が、俺の冷静な思考を奪い去って行く。
「その、……助けてくれて、……ありがとね」
君は瞼を伏せ表情をこちらへ見せない。しかし、その紫紺の髪の隙間から露出するのは、真っ赤に染まる君の耳。
「ううん。いいんだ。俺達はバディだろ」
「……うん」
穏やかな返答。
その声が、俺の欲望を刺激する。
……知りたい。
君は、俺の事を、どう思っているのだろうか。
……好きで、いてくれるのだろうか。
その先に、犯罪者となる俺のその先に、何があるのかは未だ分からない。
でも。
……知りたい。
「その……」
胸から溢れる疑問を吐き出そうとした瞬間。
アリシアの、あの夜の、暖炉の赤橙を反射する艶かしい表情が脳裏を過ぎる。
……俺は、学習しないな。
結局あれは、嘘。
演技だったわけじゃないか。
アリシアが俺の事を好きだと勝手に思い込んで、勝手に傲慢な思考を巡らせていた、自意識過剰で自惚れた何とも情け無い自身を思い出す。
そして、愚鈍な俺はようやく気付く。
もし、ライラが俺の事を好きではない場合、俺は驕傲で卑陋な黒歴史を繰り返す事になる。
一方で、ライラが俺の事を好きである場合、俺は結局、その気持ちには応えられない。
どちらにせよ、答えを聞いても、……栓が無い。
……はは。
なんだ?
これ。
この感情には、行先が無い。
答えはどれもトゲトゲで、人をただただ、傷付けるのみ。
ならばこの疑問は、胸の奥底に仕舞うべき。
詳らかにしては、……ならない。
人が幸せになるのは、どうやらそんな簡単な事じゃないらしい。
……苦しい。
苦しいな。
この現実は。
「どうしたの? 何か言いかけてなかった?」
君はきょとんとした顔でこちらを覗く。
……言うべきではない。
ライラに嘘は通じない。
俺は言葉には出さず、首を横に振り、なんでもないよと意思表示をする。
「……? 変なの?」
……これで、いい。
「それよりも、君の話の続きが聞きたいな」
すると君は途端に、少し寂しそうに表情を曇らせる。
……しまった。
ダメだったか。
嘘の下手くそな自身に遣る瀬無さを覚える。
いや、別に嘘じゃない。
嘘じゃないんだ。
口下手なくせに沈黙が苦手な俺にとって、楽しそうに話す君の隣は、苦しい現実を忘れさせてくれるくらいに本当に居心地が良いんだ。
それでも、それでもなお、俺の心の奥底が『なんでもなくない!』と、叫んでいるのだろうか。
本当に俺は、自分の心が、分からない。
「……ふふ。……いいわ。…………ちゃんと聞いててね?」
君は瞳を伏せる。
俺の嘘は見破ったのだろうが、それでも君は、俺が話したくないと隠した本心を、追求したりはしない。
……本当に君は、優しさというものを、持ち合わせている人だ。
夜空を見上げれば、満天の星の中、より燦然と輝く春の大三角。
アークトゥルス。
スピカ。
デネボラ。
そして今、一筋の流星が、瞬く夜を優雅に踊り消えて行く。
今更遅いが、たった一つの願いを込める。
それは復讐ではない。
死者の蘇生でもない。
どうかこの日々が、ヘリオトロープのこの香りが、少しでも長く続いてくれますように、と。
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