3.

 ◇三人称視点◇


「こら! レイフ! どこに行ってたんだ!」

 見渡す限りの草原の中、ようやく我が家へ到着した二人を待ち受けていたのは、怒気を振舞っているものの、心の裏側の大きな心配を隠し切れない柔和な男。彼らの父親のダンである。その後ろにはシロツメクサに囲まれた庭と、石造りの小さいながらも清掃の行き届いた牧歌的な我が家が佇んでいる。

「んーーーー。ヒミツ!」

 少年は行き先を教えない。そこは二人だけの秘密の隠れ場所なのだ。少年はこの柔和な男が本気で怒鳴り散らしはしないことを、その共に過ごした九年間で知っている。そのため恐れを抱くことは無いが、それでも尊厳を失わないのはこの男の人徳なのだろう。

「お父さん。ごめんなさい。ただいまが遅くなっちゃった」

 ユリアは申し訳なさそうな顔で父親を見上げる。潤んだその瞳には溢れんばかりの可憐が漂う。この顔に怒れる人類は存在しない。

「いや! いいんだユリア! ただお父さんは心配だったんだよ。ごめんね」

 いつの間にか父が謝っている。いつ見ても滑稽な光景だ。

「ほら、皆。ご飯が出来たわよ」

 我が家の玄関には、煌めく金髪を左へ纏めた女性が朗らかな声でこちらへ手招きをする。野菜シチューの甘い匂いが鼻腔をくすぐる。

「はーい!」

 さっきまでの憂いに満ちた表情はどこへやら。妹は飛び切りの笑顔で柔らかな光の灯る我が家へ走って行った。

「レイフ、別にユリアと遠出したことに怒っているわけじゃない。でもな、今日までに庭の装飾を終わらせる約束だっただろう。いつも言ってるが――」

「自身の行動には責任を持て、だろ」

 父が少年にいつも口酸っぱく聞かせる言葉。少年ももう流石に何を言われるか予想がつく。

「分かっているならいいが」

「大丈夫。明日で遅れは取り返すよ。月華祭まではまだ時間があるだろう」

 月華祭とは、元々はこの村に封印された魔女様を慰めるためのお祭りなのだそうだ。

 しかし発祥から約四百年。長い長い年月が、段々とその責務と伝統を薄れさせ、いつしかそれは豊穣を祈り、死者を悼む祭事へと姿を変えていった。

 少年は今日そのお祭りのための庭の装飾を任されていた。

「まあお前はなんだかんだでいつも約束を守る男だからな。心配はしてないさ」

 柔和な男はいつもの笑顔に戻る。少年にとっては一番に見慣れた顔だ。

「さあ、ご飯にしよう」

 一足先に我が家へ戻る父。少年もそれに続く。

「ただいま、母さん」

「おかえり。上着はユリアに貸してあげたのね。良い男になったわね、レイフ」

 そう言って金髪の美女は、慣れた手つきで少年の髪をそっと撫でる。この女性は彼らの母親のヘレーナだ。

「それにしても八歳にしてあの振る舞い。ユリアは将来魔性の女になるわね。流石私の娘だわ」

 そういって母は愛娘の揺れる背中を誇らしげに見つめる。ユリアもまた母親に似て、整った顔立ちをしている。

「同感。悪い虫が付かなきゃいいが」

「大丈夫。頼りになるお兄ちゃんがいるもんね」

 そう言って母はもう一度、少年の頭を撫でる。まもなく反抗期を迎えるであろう少年には少しむず痒い。

 父と妹が晩ご飯の準備を進めている。決してそんな高いお肉や香辛料が並ぶわけではないが、それでもここには細やかな幸せが咲いているのは、九歳の少年にも理解できた。

「……母さんはどうして父さんと結婚したの?」

 少年は予てからの疑問を母へぶつける。なんとも取り柄の無い父を、聡明で快活、なにより村一番の美女である母がどうして選んだのか、傍から見れば不釣り合いな関係に見えてしまう。

「まあレイフ! ついに恋愛について興味を持ち始めたのね! 相手は誰? やっぱりカタリーナ?」

 カタリーナは近所に住む女の子。一つ下のユリアと同い年で三人は幼馴染だ。

「違う!」

 思春期真っ盛りの少年には、親と自身の恋愛話なんて耐え難い。変な話を振ってしまったと少年は激しく後悔した。

「なによ! 何も恥ずかしいことじゃないわ!」

 とはいえ、息子の成長を喜ぶように母は話し始める。

「お父さんとはね、私がまだ王都へ住んでる頃に出会ったの。お父さんは村の人のために王都まで薬を買いに来てたんですって。でも初めて王都に来たお父さんは案の定道に迷ってたわ。それなのにお父さんはね、道で困ってるおばあちゃんを助けてあげたのよ」

 そして母は誇らしげに父の背中へ目を向ける。

「……え? ……それだけ?」

「それだけよ。でも私にはね、電撃が走ったの。この人が運命の人なんだって」

 あまりに予想外の回答に少年は閉口する。それでも母親は自信に満ちた声色で話を続ける。

「結局ね、私の直観は大当たりだったわ。お父さんは甲斐性もないし、いつも失敗ばかりだけど、でもね、とっても良い人なのよ。そして何より、お父さんと結婚したから貴方たちに会えたのよ。二人とも私たちにとっては何より大切な掛け替えの無い宝物だわ」

 母は慈愛に満ちた表情で息子の瞳を見つめる。

「私はね、レイフ。私の美貌とお父さんの人格、それが貴方たちにも受け継がれていて本当に嬉しいわ。……まあ、ユリアにはちょっと、私のずる賢さが混じっているけれど」

 母は結構自分の美しさを自覚し、それを武器として利用するタイプだ。我が母ながら強い人と思う。

「レイフ、あなたにもいずれそういう出会いが訪れるわ。その時はね、恥ずかしくても素直に愛を伝えなきゃダメなのよ。意地を張ってしまっては、他の人に取られちゃうかもなんだからね」

「母さんのアドバイスはいつも的確だけど、俺にはまだ早いよ」

 そう思いつつも少年はまだ見ぬ未来の彼女について想いを馳せる。

「お母さん、レイフ! ご飯の準備出来たわよ! 冷める前に食べましょう!」

 その夢想を断ち切るように、しかし栄養の足りていない華奢な手にはスプーンとフォークを握ったまま、ユリアが満面の笑顔で駆け寄ってくる。母の優しい表情に促されるまま少年は歩き出す。そして家族四人で食卓に着く。

「いただきます!」

 ユリアの元気な声と共に食事を始める。少年は野菜シチューの甘味を味わいながら、ただ安らかな幸せをも噛み締めていた。

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