揺れる黒百合

第一章

2.

　◇三人称視点◇

「お兄ちゃん！　待ってよ！」

「ユリア！　早く！　間に合わなくなるぞ！」

　黒髪の少年は踵を返し、この世で何よりも大切な妹の手を引く。その宝物の疲れた様子を気にしながら、歩幅を調整し丘を駆け上がる。

「着いたぞ」

　鮮やかな赤茶に染まる林には、秋の涼しげな風が吹き抜ける。汗まみれの少年達はようやく開けた丘の頂上に辿り着く。ここは村の中でも少年しか知らない秘密の場所だ。

「ユリア」

　少年は繋いだ手をそっと前へ引いて、妹の視線を促した。

「わぁ！　……キレイ」

　さっきまでの疲労感の漂うその宝物の表情は、みるみると花の咲くが如く、歓びの色に染まっていく。

「落ちるなよ」

　少年は、今度は逆に繋いだ手を優しく引き、妹を傍に寄せる。二人の目の前に広がるのは夕焼けに溶ける地平線いっぱいの黄金。それは少年達が住むヨリス村の唯一の名産である小麦の海。一年にこの時期だけの命が実るこの景色を、少年は愛している。

　王都からずっと東の辺境に位置するこの村は、決して裕福ではない。それでもこの秋風に揺れる黄金と、この温かく小さな手が、少年に幸せの形というものを教えてくれた。

「ユリアにずっと見せたかったんだ。ユリアももう八歳になるから、そろそろ一緒に登れると思って」

　妹から返事は無い。どうやらヨリス村が初めて見せる新たな一面に黄昏ているようだ。良かった、と少年は胸を撫で下ろす。連れてきたのは正解だったようだ。

　少年は妹が我に返るまで傍らで寄り添う。

　茜色の夕焼けが菖蒲色へ移りゆくに連れ、秋風が熱を失っていく。そろそろ戻らないと宝物の身体に障る。

「ユリア」

　少年は自身の上着をそっと妹へ羽織らせる。すると、ようやくお姫様は意識を取り戻す。

「あったかい。お兄ちゃん。お兄ちゃんの匂いがするね」

「え！　……臭くないか？」

　少年は驚いて汗を吸収した肌着の匂いを嗅ぐ。

　もしかして少し汗臭いか？

「ううん。良い匂い。とっても落ち着く匂いだよ」

　そして少女はその両袖で鼻元を覆って見せる。どうやら嫌な臭いではないらしい。少年は安堵する。この宝物に臭いと思われては少年は生きて行けない。

「そろそろ戻ろう。もうすぐ暗くなる」

「うん」

　今度は少女から少年の手を握る。少年達の帰りはゆっくりと。徐々に濃紺が顔を覗かせるその空を見上げれば、秋空唯一の一等星、フォーマルハウトが輝いていた。