第11話


さて、結論から言えば母とその娘はリュシヴィエールに与えられた家に住み着いてしまった。


経緯としてはこうだったらしい。母は父から解放されて(とご本人がおっしゃった)、すぐさま王都の恋人と結婚したが破局。その後は恋人たちの家を渡り歩く生活を送り、やがて運命の恋人のキリアンと巡り合う。二人の間には愛しいサンドラが生まれたが、キリアンにはいじわるな婚約者がいてこのままでは命が危うい。二人は大事なサンドラちゃんのため、泣きながら愛の逃避行に至り、こんな辺境まで来るはめになってしまった、というわけである。


――どこからどう突っ込めばいいのかわからない。


キリアンはといえば、ある日ふらりと従者と一緒に馬で出かけてしまい、それ以降帰ってこない。母は気が触れたようになって窓の外の何もないところに罵詈雑言を浴びせた。遠乗りに行ってくると言い置いての外出だった。はたしてどこまで駆けているのやら。


三か月が経った。年は明けて、アルトゥステア歴七百十五年の三月八日。


エクトルは帰ってこなかった。便りも何もなかった。


母の衣類は減らないまま、使っていない部屋にあらかた移してもまだ残りが応接間に積み上がっている状態である。


リュシヴィエールは父に現状を知らせる手紙を書いたが、返信はなかった。知らぬ存ぜぬを決め込みたくなるのもわかる。彼は今、幸せなのだ。水を差す権利は厳密にはリュシヴィエールにないのだろう。


母はリュシヴィエールとアンナに世話を焼かれることを好んだ。リュシヴィエールは心を空っぽにして耐えた。アンナは涙ぐみ、


「こんなの、聞いてません。あたしはお姫様のお世話しろって言われて……」


とぐちぐちいうものの、とうのリュシヴィエールがすすんで母に自分の部屋を明け渡し、サンドラの頭を撫でるのだから下女は従わねばならない。


「なんでお姫様、あのお母様のこと好きなんですか?」


と聞かれ、リュシヴィエールは目を逸らす。母を――愛しては、いない。けれどもしリュシヴィエールが母に衣食住を提供できなくなれば、エクトルが金の無心をされかねなかった。


母の貴婦人としての名誉はすでに地に落ち、失うものは何もない。家名も、若さも、美貌さえ衰えつつある。何も持たない者は、怖い。前世のほのかな記憶が警鐘を鳴らす。


(エクトルを巻き込ませては、いけないのよ)


その気持ちだけがリュシヴィエールを支えていた。


朝、リュシヴィエールは早く起き出し手早く身支度を済ませる。寝台のぬくもりが消えないうちに部屋を出て、母の部屋へ向かうのだった。


母の部屋は、元はリュシヴィエールの部屋だった。つまりこの屋敷で一番奥まった、一番大きな部屋ということである。応接間より大きな暖炉があり、寒さとは無縁である。窓はないものの調度品もシャンデリアの魔法灯も申し分のない上等さで、寝台も大きい。


途中で使用人部屋から出てきたアンナと合流し、リュシヴィエールは母のものになった部屋の扉をノックした。


「お母様、おはようございます」


返事はなかった。リュシヴィエールは中に踏み入った。寝台の上、母は愛娘と一緒に寝ている。母であろう大きなかたまりは動かなかったが、それにくっついた小さなかたまりはもぞもぞ動いて、やがてぴょこんと金の頭が覗いだ。


サンドラは春の空のような青い目をきらきらと煌めかせ、にこにこしている。


「おはようございます、お姉さま!」


「おはよう、サンドラ。起こしてしまったかしら」


「いいえ。今起きたとこなのぉ。――おはよう、お母様!」


と、彼女は母を揺り起こす。母は唸って抵抗したが、やがて観念したように動き出した。


リュシヴィエールたちはその間、暖炉に薪を足して湯を沸かし、着替えを用意しと動き回る。まるきり使用人の仕事だが、リュシヴィエールに屈辱はなかった。何も思わなかった。無関心に近い、これさえしていれば近寄らないでくれるのならそれでいいわ、そんな気持ちだった。


「おはよう、サンドラちゃん」


母の声はとろけるような熱を帯びる。


「今日もとってもかわいいこと! ああ、かわいい娘っていいわね。かわいい娘はそれだけで世界一よ。愛する気にもなるわ!」


と、くすくすわざとらしい大声で笑うのだった。


理屈としてはこうである。


母にとってリュシヴィエールは大切な娘である。だって血筋の上ではお妃様にだってなれる身分だ。自分譲りの美貌だ。いつかこの娘のおかげで更なる名声を手に入れることができると信じてきた。当然、そうなるべきだと思ってきたのだ。


なのにリュシヴィエールは火の中で焼けた。


母が十月十日苦しみ、血を流しながら産んでやったのに。母が与えてやったものを勝手な判断で台無しにした挙句、生きている。いっそ子供たちが二人一緒に死んでくれていたら母は思う存分嘆きの貴婦人になれた。リュシヴィエールたちが生きているせいで他の貴婦人たちに責められた、噂された、嘲笑われた。母親がそばについていなかったから。放っておいたから。新年でさえおうちに帰らないんだもの、あの方。


……夫はそうではなかったというのに。到底、許せるものではない!


リュシヴィエールたちは母に嘲られながら朝の支度を手伝い、部屋をあとにした。


「散歩に行きましょう、アンナ」


「はい、お姫様」


と行ってさっさと外出する間も、母がのべつまくなし喋り続ける声、サンドラが相槌を打ち笑い転げる声が響いている。


「リュシヴィエールは馬鹿な子だったの! 顔がよくて若いからって殿方にちやほやされていい気になって――でももうお顔はねえ? もうだめよねええ? ふっしぎー! ああ、なんてこと! あんなにかわいい顔だったのに、なんてことでしょうねええ!?」


「キャハハハハハ、キャハハハハハ!!」


――おいたわしい。


と、ごく自然にその言葉が頭の中に沸いてきた。母もそうだが、サンドラに対してもまた。


(わたくしがエクトルを必要とした理由と同じに、お母様にもサンドラが必要だったのかもしれない)


ならばリュシヴィエールと母は、ほとんど同一の存在だということにさえなる。ああ。同じことを母と娘で繰り返しているということになる……。


先導するアンナが振り返る。女主人を罵られる悔しさのあまり瞳が潤んでいるのがいじらしい。


「お姫様?」


「今行くわ」


そうして眺めの散歩に二人は出かけ、【暁の森】のかたわらの道を歩いた。リュシヴィエールはわざと母にも異父妹にも関係のない話をした。最近の天気の話だのソーマ茶の茶葉がどこからくるのかだの、そういった話を。そのうちにアンナは落ち着いて、徐々に口を開いた。コーンウェール伯爵領シュロトカについて、アンナが暮らしてきた素朴な生活について、彼女はリュシヴィエールに語った。


口をきく魔法のリスが枝の王国と落ち葉の王国の戦争を止める話。森の中で永遠の冒険を繰り広げる夭折した子供たちの魂。泉の中から現れる女神。太古の伝説を歌う美しい少年の霊が森の中から手招きすること。森から彷徨い出てきた妖精たちが輪になって踊り、その輪の中にうっかり踏み込んでしまうと数十年は見つからない……。


それはリュシヴィエールにとって、御伽噺そのものの世界に思われた。


「ここは神秘が残っているのね。【暁の森】の周辺には」


「はい。あたしたちは神様を信じてますが、精霊も妖精も信じてます。不信心って、言われるかもなんですが」


「そんなこと思いやしないわ。わたくしも目に見えないものがいて、助けてくれたらいいと思うときがあるもの」


と、ひそやかに秘密を分かち合うように囁きあった。アンナはリュシヴィエールの傷を、とろけて潰れた鼻や頬に空いた穴や垂れた瞼、ありとあらゆる皮膚の赤さと黒さを憐れんだが受け入れてくれたから、リュシヴィエールは彼女が好きである。


家に戻ると母とサンドラは衣装合わせをして遊んでいた。彼女たちにいつか向き合わなければならない、父は逃げ続けるだろうから。リュシヴィエールまで逃げたらエクトルが代ろうとしてしまうかもしれない。それだけは……いやだ。


(わたくしの光、希望。わたくしの唯一。エクトル)


悲しみも汚れも苦しみも知らず、つらい思いなど何一つせずに生きていてほしいのだ。リュシヴィエールの身代わりとして。


一番広い窓のない部屋の中を覗くと、母がリュシヴィエールを見つける。ぱあっと顔を輝かせ、


「キャーアアアアアっ」


とわざとらしい悲鳴を上げた。


「キャー! キャアアア。鏡で顔をよく見てごらんなさい、リュシー! おまえなんかと肩を並べたいご婦人も騎士もいやしないわ!!」


……リュシヴィエールは火傷を負い、母は負っていない。これこそが、母がリュシヴィエールに負けていないという証明なのだった。


サンドラはひっくり返ってきゃらきゃら笑った。


「へーっんな顔っ。おねえさま、へーん!」


その声はあまりにカン高く響いた。許してやらねばならない、彼女は何もわかっていないのだから。サンドラに罪はない。


リュシヴィエールが母と異父妹を悲しく眺めるうちに、それが偶然、目に留まった。何故だったのだろう――サンドラの小さな手が何かを弄んでいた。ごく小さな薄っぺらいもの。ファッションのアクセントにするため手にもつ小物。


押し花の栞だった。……ヒトキミで見たことがある。エクトルルートで出てくるキーアイテムだ。


その栞はエクトルが母親にもらった思い出の品のはずだった。エクトルと母親の唯一の心の繋がりだ。乙女ゲームでもエクトルの母親は彼を捨てて家を出ていってしまうのだが、こちらとは違ってエクトルが八、九歳くらいになるまでは一緒にいたようなのだ。王立学院で栞をなくした彼が半狂乱で探しているところに、偶然通りかかったヒロインが栞を見つけて手渡す。それがエクトルとの出会いイベントだ。


リュシヴィエールはそれらを一気に思い出した。


ヒトキミのストーリーはプロローグとエピローグが共通で、メインになる攻略ストーリーだけが各キャラごとのオリジナルだ。


攻略ルートが終わるとどのキャラが相手でも同じ結末の字幕が流れ、最後にそれぞれのキャラクターとヒロインが微笑む宣誓式のイラストが出る。【癒しの歌の聖女】として神殿の巫女服を着たヒロインと攻略キャラクターのイラストはそれは美麗だった。攻略されたキャラは永遠にヒロインを支えると誓い、聖女の専属護衛騎士となる。たとえ王太子キャラであっても地位と将来を投げ捨ててヒロインを選ぶのだ。意地でもハッピーエンドにしてやるという脚本家の気合が伝わってくるラストである。


キーアイテムはそれぞれの攻略キャラの過去に関連する、それを取得できないとそのキャラの攻略ルートに入れないくらい重要なものなのだ。


「なぜ、あなたがそれを持っているの?」


と静かにリュシヴィエールは聞いた。サンドラはきょとんとしたあと、怒られかかった子供そのものに我が身を守るように腕を交差する。ついと目を逸らし、


「知らないのぉ? なんで? あたしのおねえさまなんでしょ? なんで知らないの?」


と歌うように言う。


娘の怯えに反応して母がリュシヴィエールに近づいた。


「ちょっと、何いじめてんのよ」


リュシヴィエールは勢いよく母を振り返る。母は自分に近づく火傷まみれの顔を見てひいぃっと怯えた。


「近いわよ! 離れて!」


と肩を突き飛ばされながら、母より身長の高いリュシヴィエールは揺れることもない。杖はちょっと絨毯の上を滑ったものの、踏ん張って踏みとどまる。


「あれは……もしかしてお二人で、お作りになったのですか? 手ずから?」


と聞きながらもほとんど確信していた。エクトルの過去エピソードはそうだったから。クロワ侯爵邸の中庭、降りしきるピンクの花、母と二人で一番見た目のいい花をえり分けて選んで、押し花にした。エクトルの唯一の、一番大事な思い出だ。


「はあ? 何わけわかんないことを……」


「お答えくださいまし。お母様」


リュシヴィエールはあまりに鬼気迫っていた。母は気迫に押され、だが確かに頷いた。


「そんな……」


へなへなと力が抜けて、寝台の端に腰かけた。サンドラは栞を取られないよう後ろ手に隠したが、リュシヴィエールは栞が欲しいわけではなかった。


この世界は乙女ゲームではない。それでも栞とそれに付随する思い出はエクトルのものだったはずだ。思えば当たり前のことだった。エクトルをクロワ邸に預けてすぐに母は去り、それ以来親子は会っていないのだから。


この世界では……その思い出すらエクトルには許されないのか。リュシヴィエールはエクトルを殴らないけれど、父母には愛されず、父に暗殺者にされることはなかったようだけど、王立学院に放逐された。


栄光のすべてを手に入れるのはヒロインだ。それはわかっている。エピローグのスチルでは、ヒロインと攻略キャラが【癒しの歌の聖女】のひとつの冠を神像の前に掲げ、二人で永遠を誓う。その描写があるからこそ、『一つの冠をいっしょに~キミと運命の分岐点~』なのだ。


世界の中心であるヒロインに選ばれ、エクトルが幸せになれたとしても。かつて母親に愛された記憶があるのとないのとじゃ、大違いだ――。


今更ながらにすべてを突きつけられた気持ちだった。果たしてその悲しさの絶望の、何割がエクトルへの憐れみで、また自己憐憫なのだろう? リュシヴィエールは動揺して、それを考えてみる余裕もない。


サンドラはにやにやしながら栞をぱたぱた動かして、


「おねえさまぁ、これほしい? ほしい? ほしいの? あーげないっ!」


と楽しそうにうねうね身体をくねらせる。


リュシヴィエールは立ち上がった。背中が硬くこわばり、火傷のひきつれと相まって老婆のような歩き方で彼女は扉へ向かう。


母が異変に気付いたのは、さすが王宮に仕えた侍女だっただけはある、ということか。残念ながら遅すぎた。もう。喧嘩を売る相手、虐げてもいい相手を母はよく見極めるべきだった。足蹴にする相手がいなければ立ってもいられない人であったなら、なおさら。


――たとえ悪意がなかったからといって、エクトルに関わることであればリュシヴィエールは冷静ではいられない。


「待ちなさいよォ! 何しようとしてるわけぇ!?」


「この部屋は閉じます。少しの間、中でおふたり、静かにしていてくださいまし」


リュシヴィエールはごく平静に見えた。錯乱を見せようとはしなかった、ごく身分の高い令嬢の常として。傷のすべてが消えて、かつて美しかった頃に戻ったかに見えた。


母は扉に飛びついてこじ開けようとしたが、力が足りなかった。リュシヴィエールは強引に扉を閉めると、外側からだけ操作できるノブの裏側の細工をいじって鍵をかけた。ゴン……ッと大きな振動がして、壁の中に嵌め込まれた歯車が回り、頑丈な閂が扉を封鎖する。


元々、精神や立場に問題のある女性を閉じ込めるために建てられた屋敷である。このような仕掛けはいくらでもあり、窓がないつくりも、奇妙に豪華な内装もその仕掛けを目立たせないためにある。


扉ごしに母はリュシヴィエールへ叫んだ。


「待って! 待ってよリュシヴィエールっ、お母様を脅してタダですむとでも思ってるの!?」


「しぃーっ。お静かに、お静かに。お母様、お下品でしてよ」


「許されないわよ、許されない! あたくしの愛も恋も全部おまえが奪ったくせに!」


きゃいいいいい、と母が悲鳴を上げ、地団駄を踏む音。サンドラがきゃああああと叫び始めた。分厚い扉と壁はそれらを余さず吸収する。


「――あたくしの人生をおまえが壊したくせにぃいぃ!!」


リュシヴィエールはそこを後にした。

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