第10話


不吉な森で最悪な出会いをした、と思いながら家に逃げ帰ると、塀の前に馬車が止まっていた。


――イヤな予感が、する。全身の毛穴から冷や汗が滲み出るような。火傷あとがピリピリと痛み出した。


リュシヴィエールはアンナと目を見合わせた。おそるおそる中へ踏み入ると、そこはトランクが所狭しと積み上がり、山をなしていた。色彩が渦巻くようである。目をチカチカさせつつ、とろけた顔の下がった瞼ごしにリュシヴィエールはそれらを見た。


何十年かぶりに見たような気さえした、ドレスの山である。ボンネット、ガウン、ローブ、おびただしい数の手袋とハンカチと靴下の山。ピンクと水色、黄色にオレンジ、若草色、シルクの白、麻のワンピース生成り色……目の前の成人男性でも抱えられないほど大きな、旅行用革鞄から覗くのは、夜用の細見な黒いレースドレスだ。


リュシヴィエールは深い深いため息をついた。歯の隙間、頬の傷からそれが漏れた。


アンナは戸惑うばかり、おろおろとリュシヴィエールの顔色をうかがう。他の使用人は姿を見せやしない。


この屋敷は屋敷とは名ばかりの小規模なもので、平屋で二階がない。前世でいう学校の体育館くらいの広さはあり、そこが正方形の部屋に区切られている。手前から応接間兼玄関、食堂、使われていない客間や何の用途にも使える小部屋たちに使用人が寝る。一番奥の窓のない部屋がリュシヴィエールの寝室だ。このように主と使用人が同じ空間を共有するのは、古い時代の伝統的な家屋の特徴だった。


リュシヴィエールは家の奥へと足を進めた。杖についた泥を玄関マットでこすり落とすのももどかしい。胸の奥がざわざわする。――悲しい? 悲しみだろうか、これは? 怒りかもしれない。


応接間を出もしないうちに、向こうから扉が開いた。怒りに潤んだ目がリュシヴィエールを睨みつけたが、すぐにその顔は驚愕に変わり……母の口は大げさなほどに大きく開く。


「――キャ、キャアアアアアアアアアアアア!! イヤアアアアアアアアアア!!」


と叫んで母は目を閉じがくっと膝をついた。リュシヴィエールはそれを黙って見ている。支えてやれ、と頭の中で誰かが囁いた。八歳のリュシヴィエールのようにか細くいとけない、だが大人の男じみて低い声だった。彼女はそれを無視して母の上にかがみ込んだ。


「お母様、大丈夫ですか」


「ひ、ひいいいいぃ! おばけええええぇっ!」


と叫び、母は絨毯の上でのたうち回る……ような仕草をする。社交界、とくに夜会で貴婦人が殿方の気を惹くためによくやる、失神ごっこの仕草だった。これをされた場合、紳士であればすぐさま彼女を助け起こし甲斐甲斐しく介抱しなくてはならない。


「お母様、お声を低めてください。【暁の森】が驚きますわ」


「いやああああーん、きゃああああん、リュシー。ああ、リュシー! ひどい顔だわ!! ひっどい顔ねぇぇえ! キャーかわいそうっ、かわいそぉおおぉっ!!」


と、母は両手をわななかせくねくねした。アンナはリュシヴィエールの横から手をだしかね、ひたすら目を丸くする。


とたたたた、と軽い足音が屋敷の奥、母の後ろからやってきた。母にそっくりのかわいらしい少女だった。五、六歳くらいだろうか。少女は母のおしりを眺めていたが、そのうちリュシヴィエールに気づいてぽかんと口を開けた。


そして子供らしい、潰れた蟻を見るような残酷な好奇心でもってしげしげと彼女の顔を、身体を一通り眺めると、


「きゃっ。おばけー。んきゃー! おかあさまをいじめるなぁっ!」


金でできた鈴のような声だった。すでに身についた貴婦人らしい社交と立ち回りのための演技は完璧で、頬に手を当て母親の身体に寄り添う。残念ながらにやにやしながらだったので、説得性はなかった。そんなところまで彼女たちは瓜二つだった――すなわち、リュシヴィエールと同じ顔ということである。


「突然の訪問に驚きましたわ。どうしたんですの?」


「どうしたもこうしたもないわよォ。娘が大怪我したって聞いたもんだから来てあげたのにー、なんでそんなひどいこと言うの? ひどいっひどいっ!」


「ひどいひどいっ!」


「――一年も経ってから?」


苦笑して肩をすくめるリュシヴィエールに、母は冤罪に立ち向かう戦乙女のようにキリッとした顔で立ち上がった。


「聞、い、た、のが昨日だったのよぉ! 仕方なかったんだもぉおん!!」


立ち上がり、まだまだ豊かな胸を張り、誇り高く顎をあげる表情も勇ましい。少女が母のスカートの裾にまとわりついて、キャッキャと楽しそうに迎合の笑い声をあげた。


「仕方なかったー、仕方なかったんだもおーん。おかあさまを許してよー」


「アンナ、こちらのお嬢さんにお茶とお菓子を。そうね。裏の木の下がいいでしょう。他の人と協力してテーブルを出して。おまえがお相手なさい」


アンナが明らかにひきつった作り笑いを浮かべたが、頷いて子供の前にかがみ込んだ。子供はきゃーあああ、とカン高い悲鳴のような声を上げた。


「やーっ、使用人なんか汚いよっ。サンドラは貴婦人だっもぉーん!」


リュシヴィエールは母を見たが、彼女は興味なさげに自分の赤く塗った爪を見るだけ。子供の躾は貴婦人の仕事ではないからだ。


だがリュシヴィエールの見る限り、応接間を埋め尽くすありとあらゆる衣服のうち、ほんとうに質のいいものは一握りだった。下品な光沢は上等のシルクではないし、レースも工場の量産品だ。色合いもとりあわせも蓮っ葉で、クローゼットから目についたものを掴み取ってきたような乱雑さである。浮かれた若い娘のような、娼婦のようなセンス。貴婦人の持ち物ではない。


アンナがどうにかこうにか子供を宥め、足を蹴られながらも少女の手を引いて下がっていく。かわいそうに、あとで手当てを出そう。


リュシヴィエールは母にソファを示した。


「なにこれえ? 犬の寝床?」


と母は鼻を鳴らしたが、座るところがそこしかないと知るとしぶしぶ腰を下ろした。昔からそうなのだがこの母は、娘相手ならば何を言ってもいいと思っているふしがある。


「それで――」


「こんなとこしかないの? ほんとに? これしかないの、ほんとにないの? 侯爵夫人たるあたくしに――ああ、ああ! 耐えられないわ! なんて不幸なのかしら」


母が両手で顔を覆うと、ふわふわと若い未婚の娘のような髪型の金髪がふわふわ顔の周りを彩った。ゆるくうねる膝までの巻き毛である。天然ものの。リュシヴィエールと同じ色の青い目が楽し気に輝くのは、美しい男と語らうときだけ。


リュシヴィエールはスカーフを取り、頭巾姿のまま静かにお茶を待った。台所女が太った身体を引きずってやってきて、ティーセットを机の上にえっちらおっちら並べ、無表情に一礼して去っていく。母はそれを見て露骨に表情を歪めた。使用人の躾はリュシヴィエールの責任だから。


「お母様、感情は抜きにいたしましょう。何をしにこんなところまでいらしたの?」


フン、と美しい女は膝を組む。美しい造形の顔の向こう、露骨な感情がちらちらと見え隠れする。


「何を言わせたいわけぇ?」


「ただ真実を。いったいどうなさったの、お母様?」


「あたくしは不幸だわ! 不幸なのよ!」


「怒鳴らないで。ええ、お伺いしますから」


母はしばらくぐじぐじと、リュシヴィエールが生まれてからの結婚生活の不満を並べ、やっと離婚して幸福になれたと思った、なのにまた不幸に転落したのだと語った。


ソーマ茶の湯気の向こうで母の美貌が醜く崩れるさまは、風雨にさらされ台無しになった彫像のよう。


「なにもかもお前のせいよ! お前みたいな傷物の欠陥品が娘だって知られたからっ、だからあの方はあたくしを捨てたんだわああああーっ!!」


母の喉の奥に絡むごろごろした音が、そのまま声に滲んでいた。


ふと、前世の記憶を思い出した。母の声は前世の母親に似通っていた。どうやらリュシヴィエールはこういう女の腹から生まれてくることに縁があるらしい。


(どうしようもない)


と思い、お茶を啜った。気を抜くと口に入れたものが頬の傷からあふれてしまうので、慎重に首を傾けて。


母はそんな状態のリュシヴィエールを見、欠けたふちのカップをいやいや手にしたが飲むことはなかった。本能的な心配が、かすかに美貌をよぎる。こんな貧乏している家にやってきてしまった――という、子供を抱えた母親に特有の心配だった。これからの生活を思う心が確かに彼女にはまだ、あった。


しかしそれはすぐに訪れたらしい次の怒りにかき消されてしまった。


「あたくしたち、ここに住むからっ」


と放り投げるように言う。それからにまにまと前かがみになり、聞いている者もいないのに声を低め、


「お前はもう結婚は無理でしょう? あたくしが世話してあげるわ」


「結構です。父が使用人とお金をくださいましたから。手は足りております」


母の顔に明らかな嫉妬が浮かんだ。


「ふうん? まだあの男と繋がってるんだ。へええ? そんな顔で? 貴族の女の義務は結婚よ! 結婚できないくせにっ、結婚できないくせにっ! 生意気ィ」


リュシヴィエールはちらりとトランクと衣類の山を見る。


「ところでお母様、あれらはどうなさるおつもりで持ってきたの」


「サンドラが大きくなって、社交界に出るまで大事にとっておくのー」


「その頃には古びてしまってますよ」


「だから何? 知ってるわよ。あの子なら古いドレスも着こなせるわよ。あたくしのこと馬鹿にしてる?」


リュシヴィエールは黙りこくった。母の表情が異様な熱を帯びている。こういうときに迂闊なことを言うと泣くまで怒鳴られ続けるはめになる。


(占いクッキー)


を、作った誕生日を思い出した。赤ん坊のエクトルがやってきた日のことを。食べてもらえなかったクッキーはどうなったのだろう。せめて使用人か、小鳥のお腹に入っていればいいのだが。


「あの子はサンドラというのですね? 父親は誰です?」


「なあに? サンドラちゃんはずるーいってこと? あたくしと一緒にいられたから。イヤダァ。あんたいくつよ?」


母はじろじろとリュシヴィエールの姿を、簡素なドレスと風変わりな頭巾、潰れた爪のついた手や上手く動かない身体を眺めた。頭の上からつま先まで。そして視線を外し、鼻で笑った。


母の中にも一人前の人間として、母親としての情はあるのだと思う。ただそれらを塗り潰してしまうほどに王宮の闇は深く、そこに適応した母はもはや人間には戻れない。もちろんお妃様や王女様、侍女の方々みんながみんなこうなるわけではないと思うけれど――


(お母様はお心がお弱い。こうなる以外、自分を殺して足の引っ張り合いに迎合して……。汚いところが自分の本性だと思い込む以外、生き残るすべがなかったのだわ)


かわいそうに。


リュシヴィエールは自分の組み合わせた手をじっと見つめる。魔法は万能ではない。歪んだ爪や皮膚が元通りになることはない。それでも今の生活、今の自分に、リュシヴィエールは絶望していない。


彼女が再び顔を上げると、母はその憐れみを敏感に察知した。老い始めてもなお麗しい美貌が真っ赤になり、親への尊敬の念が足りない娘を怒鳴りつけてやろうと腰を上げたとき。


「あれ? おや、ここでいいのかい? おおーいサンドラ。おじさまだよーう。いる?」


と、玄関から足音も軽く男の声がした。【暁の森】で出会ったキリアン、あの青年の声だった。外からは馬のいななきと、従僕の声もする。


母のドス黒かった怒り顔が、途端に女になった。それどころかきゅっと口角が上がり、目じりが下がり、往年の美貌が余すところなく浮かび上がる。皺さえすみやかに輪郭の隅に退いていった。足取り軽やかに玄関へ向かい、


「キリアンさまぁっ。遅かったですのねえ」


「はははっ、あなたはいつまでも若い娘のようだ」


と、青年と抱擁しあうのだった。


リュシヴィエールの胸に静かな……なんだろう、これは。呆れ、ともまた違うし、絶望、のざらざらした悲しみは含まれない。


前世で見たワイドショー。今世の新聞のゴシップ欄。何もそこまでこじれなくてもいいのにというほどこじれた家族経営の旅館の廃業、資金繰りがうまくいかず自転車操業を続けた末に倒産した企業、そういうものを見たときの感情に似ていた。もつれにもつれてしまった絹糸の束がどうしても解けなくて、仕方なく捨ててしまうときのような。


キリアンはきらきらした安っぽい誠実さをまとい、


「ああ、またお会いしましたね、ご令嬢!」


と笑う。


彼の腕にかじりついた母が、娘と青年を見比べ歯を剥き出して威嚇の表情を浮かべる。


リュシヴィエールは部屋を立ち去った。挨拶もなにもしなかった。裏庭から少女に髪の毛を引っ張られるアンナの悲鳴が響いていた。



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