第7話


「無事でよかった」


とクロワ侯爵は言ったが、これほど平坦で心の籠らない無事を喜ぶ言葉はこの世に二つとないだろう。エクトルは毒気が抜けたような、拍子抜けした気持ちで礼儀として頭を下げる。


「ご健勝そうで何よりです」


「心にもないことを言うな。我が娘の容態はどうか」


「峠は越したと医者は言います」


「ふん」


と鼻を鳴らし、侯爵は安楽椅子に深々ともたれた。疲れ切ったため息は、むしろこちらがついてやりたいほどだ。


焼け残った一階の一画に倉庫に残ったありあわせの家具類を並べ、一応の応接間とした空間。堂々とくつろぐ姿勢をとってもなお、侯爵はどこか神経質な怯えを見え隠れさせていた。


彼は膝の上に腕を乗せ、声を低めた。


「単刀直入に言う。お前、ティレルに教わった技術の研鑽はどの程度だ?」


まるでごく普通の父親が子供に、学校の勉強はどうだと聞くような口調である。


エクトルは後ろに手を回し肩幅に足を開き、休め、の姿勢のまま淡々と答えた。教わった通りに。


「一通りのことは習得しました」


「人を殺したことは?」


「あります」


「ほう。誰をいつ、どんなふうに? そして何故だ?」


「……姉上の求婚者だった、成金の商人を。七百十一年の七月でした。不埒な真似に及ぼうと計画していたので」


侯爵の顔に奇妙な微笑が浮かんだ。彼は間違いなくエクトルのその行動を称賛していたが、それは決して娘の身辺と名誉が守られたことへの喜びではなかった。


「いいだろう、いいだろう。――よし、よし。うん。それではお前、来年から王立学院に通え」


「――は?」


思わず凄む声音になったのは、無理もないことだろう。急に話が飛んだ、ようだった――この男は何を言う?


「お断りします」


「それはならん。断る権利はお前にない。もし断るというのなら、侯爵の権限において娘リュシヴィエールはどこぞの商家に嫁がせる。庭師ティレルとそれに付随する密偵どもは、そうさな、ゴッシュリックの子爵家にでもまとめて売ってしまうか。あそこは手駒を欲しがっている」


エクトルはぐっと喉の奥で感情をこらえたが、それが外からわかってしまうほど幼い動きになっていることには気づけなかった。


「卑怯者め……」


「なんとでもいうがいい。我が血に連ならぬ厄介者のお前をここまで置いてやったのはなんのためだと? 王立学院にて王太子のために働け。クロワ侯爵家を王家に売り込むのだ」


「そんなことをしたところで、今の没落がマシになるとは思えませんが?」


「家のことなど知らぬわ!」


侯爵は吐き捨てる。


貴族とは家のために生まれ、家のために生きて死ぬ、そのための歯車に過ぎない人間たちである。稀にその重圧に潰れる者が出て、周囲みんなが迷惑する。エクトルの前にいる男のように。


「家が私に何をしてくれた? ふん。私には真に愛する妻と、子供たちがいる。私の残りの人生は本当の家族のために使わせてもらう。お前たちなどどうとでもなるがよい。――が、お前の働き次第では、姉の落ち着き先を考えてやらんこともないぞ」


血走った黄色い白目の目がエクトルを見据えた。その青い色がリュシヴィエールと同じ、貴族の空の色だと気づいて、心臓のあたりがざわざわする。


「返事は?」


エクトルは息をついた。


「謹んで拝命いたします、侯爵」


侯爵は立ち上がり、ぶつぶつと口の中で文句を呟きながら足早に部屋を、屋敷を後にした。早く汚い場所から立ち去りたがっているのは目に見えた。


彼が立ち去るまでエクトルは下げた頭を上げず、


(いつか殺してやる)


と腹の底で思うにとどめた。実行にうつさなかったのは隠匿が困難であること、まだ未成年の身の上で戸籍上の保護者を失うことがどれほど不利に働くかくらいの分別はついたこと、そしてリュシヴィエールが悲しむだろうことがわかっていたからだ。――彼女はこんな形になってもまだ、家族というものに幻想を抱き追い求めている。


(生かしておいたところで奴らがあなたを見ることなんてないのに、姉上。どうして)


歯がゆく、むなしく、悲しいことだった。けれどエクトルはリュシヴィエールのそういう甘ったるいどうしようもなさを含めて彼女を愛していた。


彼はリュシヴィエールの寝かされている小屋へ向かった。医者はおらず、助手が包帯を片手に振り返った。


「姉上は?」


「眠っておられますが、そろそろ眠り魔法が切れる頃合いです」


「わかった。あとはやっておくよ。休んでて」


と手を振る少年に、三十がらみの女の助手は困った顔をしたものの、最後には引き下がった。大人として子供の気持ちを汲んだのが目に見え、少しばかり腹がたつ。


パタンと扉が閉まってリュシヴィエールと二人きりになると、エクトルはその枕元に座り込む。どっと疲れた気持ちだった、あるいは引っ込めていた怯えが表に出てきたような。


「姉上、俺、学院に行くんですって。なんなんだろうね、急に。俺に学を付けさせて何をさせようっていうんだろう?」


と軽口をたたき、包帯の隙間から覗くリュシヴィエールのくるりと丸い額を見つめる。……火傷あとは、残るだろうと言われていた。


治療魔法はあくまで延命のため、致命傷を避けるため体内の損害を先に治す。そうすると表の皮膚や髪の再生は後回しになるのだと。魔法は万能ではないのだ。それは仕方ない、わかっている。


エクトルはそうっと新しい皮膚が張り付いた姉の冷たい手をなぞった。指は焼け落ちるところだった。それが保たれたのだ。医者には感謝すべきだろう。


「あんなにお美しかったのに……」


と嘆く声が、潰れた喉から転がり出る。――皮膚がぐじゅぐじゅに融けて赤身が剥き出しの部分が、組織液や血液でしとどに濡れた残酷なその有様が、ひとまず、治ったのだ。元通りではなかったけれど。命の危機が去り、エクトルは安心していた。それは事実だ。その安心と同じくらい大きく、失われたかもしれないリュシヴィエールの美を惜しむ。それが彼のせいであれば、なおさら。


「……後悔はして、なくてよ」


小さな声がした。エクトルがハッとして顔を覗き込むと、リュシヴィエールの青い目が包帯の隙間からかすかに覗く。まだ定着しきっていない瞼が乾燥しているようで、上がらない手でどうにかしようとする。


エクトルは小机を探って医者の作った点眼薬を見つけ出した。見様見真似で目に入れてやると、リュシヴィエールは気持ちよさそうに瞬きする。


「姉上。具合はどう?」


「痛くはないの。麻痺させられていて」


「寝ている間も苦しんでいたよ。ありったけの魔法をかけてくれと頼んだんだ。意識がなくても痛い眠りは辛いだろ?」


「まあ」


リュシヴィエールの胸元からくぐもったコロコロとした音が聞こえ、それが今の姉の笑い声なのだった。


「後悔はしてないの。だから……おまえも後悔しなくて、いいのよ」


夢見るように潤んだ瞳が、以前と変わらない美しさで遠くを見つめる。エクトルは焼けた睫毛ごしの姉の目を覗き込んだ。自分と同じようで少し違う、古い血族の青い目を。


「おまえが……ちゃんと。――学院ですって?」


「うん。春から通うことに、なりました」


「そう。よかったこと」


ふっとリュシヴィエールの意識が途切れる。エクトルはその場から動けない。


時間だけがむやみに過ぎていく。二人のための鳥籠のようだったクロワ侯爵領キャメリアは終わった。


次の世界に旅立たなくてはならないときだった。



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