第6話


エクトルは手のひらの傷を見つめ、時間が過ぎるのを待っていた。リュシヴィエールが生きるか死ぬかを知る時間など、待ちたくはなかった。


飛んできた木っ端が突き刺さった傷口は、包帯の下、生々しくぱっくりと赤く開いている。


(姉上……)


時間が止まった心地が、した。頭の中では延々と同じ情景が繰り返し再生され続ける。リュシヴィエールが燃える家に呑み込まれるところが。頭の中から消えない、消えない。エクトルはずっとそこばかりを見ている。


姉の金の髪が燃えるのをエクトルは見た。姉が押し潰されるのをエクトルは見た。轟音と共に屋敷は崩れ去った。瓦礫の下から姉の手が見え、細い指が見えた。――あと一歩、あと少しだけ、半歩でもこっちにいたら。リュシヴィエールは潰れなくてすんだ。エクトルを突き飛ばすため、その場にとどまらなければ。


けっほ、と吐瀉物未満の酸っぱい唾液が口から飛び出る。エクトルは口に手を当てて唾を飲み込んだ。


ふと、思い出す声がある。もちろんリュシヴィエールの言ったことだ。いつだったか彼女はこう言っていた、ひどく達観した表情で遠くを見て。


……これから先もずっと政略結婚の駒でしかないわ。結婚出来ても夫の持つたくさんの穴のひとつにすぎないわ。とびきり上等の、教養じみたことを口走る穴。


なんてことを言うのだと驚愕した。だがそれに反論した覚えはないので、ひょっとしてエクトルは昼寝でもしていて、だからこそリュシヴィエールはそんなことを口にできたのかもしれない。


そこに至るまでの会話は、どんなものだったのだろう。あんな顔をさせたいわけじゃなかった。それだけは確かだ。


エクトルは十二歳の小童にすぎないが、自分の中のリュシヴィエールへの想いが通常のきょうだいのそれでないことは分かっている。父母の悪影響だろうか。あるいはエクトルが元からおかしかったのか。


彼はのろのろと自分の腕をさすり、爪を噛む。貧乏ゆすり、頭を掻き毟る。昔ティレルにやめさせられた貴族らしからぬ悪癖が、全部復活してしまった。


瓦礫の下からリュシヴィエールを引きずりだしたのはティレルに指揮された下男たちだった。そのうち何人が彼に従う密偵で、魔法の力を振るったか否かもエクトルにはわからない。何もわからず、何もできなかったまま。


クロワ邸は全焼してしまったため、リュシヴィエールが寝かされているのは屋敷の裏に建つ下級メイドたちが住むための小屋である。粗末な寝台に寝かされて呻く包帯まみれのリュシヴィエールの姿は、エクトルにはなおのこと惨めで哀れでちっぽけに見えた。


近所の医者が呼び立てられ、治療に当たっている。あとは彼と助手の腕を信じる他ない。


明日にはクロワ侯爵が帰ってくるそうだ。近場に住む父の秘書だった老人が、早馬を飛ばしたのだという。侯爵夫人には連絡が付かない。ついてほしくもない。


……今更、戸籍上の父にあたる人たちの顔を見て、エクトルに平静でいられる自信はない。お前のせいで、と襲い掛かってしまうかもしれなかった。リュシヴィエールの心をひとつも慮らず、すべてから逃げ出したお前の――お前たちのせいだ、と。


実際、守りの魔法がただしく起動すれば火事はあれほど広がらなかったはずだ。屋敷にかかっているはずのそれは、発動しなかった。古びた呪文と魔法陣には魔力が残っていなかったのだ。貴族の家は通常、契約した魔法使いが年に一度やってきて守りの魔法をかけ直す。――クロワ邸の契約はずいぶん長い間放置されていた。父が金を払わなかったのである。


赤紫色の火は、明らかに魔法によるものだった。害意を持って屋敷を襲った誰かの意図が姉を燃やした。


エクトルはポケットの中の骨で作られたナイフの柄を撫でる。


(姉上を軽んじ、踏み躙り、俺がいなけりゃ心を保てないほどにしておいて。とうとうめちゃくちゃに壊した。全員許さない、許さない……)


「おう、こら。やめろと言ったのがわからんか」


温かく乾燥した大人の男の手が伸びてきて、エクトルの頭をぐわしと掴んだ。頭蓋骨の連結がみしみし音を立てるほどの力で握られ、痛みは痛みとしてあったが、


「師匠、しばらくそれやっててくれますか。俺が誰か殺さないように」


とエクトルはティレルに頼んだ。庭師姿の煤けた男は盛大なため息をつき、首を振って少年の横の壁に寄りかかる。


「心配なのはわかるが、あの医者の技術は確かだよ。俺の仲間も何度か看てもらったが、回復した」


「――密偵を看るほど侯爵に気に入られているのか。じゃあ姉上の敵じゃないか」


男の手に力が籠った。エクトルの首がぶらぶら揺らされ、ぎしぎしと音を立てた。少年は睫毛を震わすこともなく、女の子じみた美貌は人形のように静かだ。


「誰かが聞いたらどうする」


「誰もいないよ、師匠」


ティレルは手を離した。エクトルは誰もいない廊下の壁紙をじっと見つめた。姉の無意識の鋭い苦痛の声に、ざわり、髪が逆立つかと思うほどの怒りが心を掠める。


「いいか、侯爵は殺すなよ」


「なんで」


「姉が悲しむだろ」


ごく平然とティレルはそう言い、エクトルは勢いよく彼を振り仰いだが表情は窺いしれなかった。しかしそれは実際そうだった。


リュシヴィエールは諦めと無関心を貫くことで心を保とうとする小娘で、本当にエクトル以外の世界のすべてに興味がないかに見える。しかしそ内面に潜むのはとてつもなく繊細な理想論だ。――まるで別の世界で生まれたのではないかと思うほど、彼女は人を分け隔てしないのだ。


リュシヴィエールは下級使用人に挨拶をするし、ありがとうもごめんなさいも口にする。スープが熱いからとメイドに投げつけるだの、面白半分に従僕を食器で殴るだのといったよそのご令嬢のような真似は決してしない。


父母に見捨てられようが泣き言は言わず、慣れない家内仕事を文句ひとつ言わず請け負った。貧乏が徐々にクロワ邸に侵入してきても、庭の花が徐々に萎れ、新しいドレス、髪飾りのひとつも新調できない新年も……リュシヴィエールが己を憐れんで泣くことはなかった。


行き場のない下級使用人がまだ居着いているのは、ひとえにこの屋敷において貴族に襲われたり殴られたり家族を面白半分に虐げられる心配がないからだ。違法な人身売買で売り飛ばされる恐れ、なんなら楽しみのために殺されることも、リュシヴィエールならしないと断言できる。


それがどれほど得難い資質なのかを、貴族とも平民とも距離を置いて育ったリュシヴィエールは知らない。


エクトルの目には彼女が輝いて見える。たとえ木の寝台の上で哀れにもがいていても、顔も身体も包帯まみれでも、膿と血と焦げた肉の悪臭を纏ってもなお、純粋無垢な天の使いの仲間に見える。


だからエクトルはため息を吐いて、静かにティレルの言うことを了承した。


「わかった。手は出さない」


「医者もだぞ」


「医者も殺さない」


「たとえ治療に失敗してもだな?」


少しの間があった。


「――たとえ治療に失敗してもだ」


エクトルからリュシヴィエールを奪ったら、その一因といえど関わったのなら、たとえ悪意がなかったとしてもわからない。


ティレルは気づかないふりをして壁から背中を離す。これまで教えなかったことを告げる気になっていた。エクトルを動揺から少しでも気を逸らせる必要があった。


「俺をお前につかせたのは侯爵閣下だし、俺にお嬢さんとお前をまとめて見守らせたのもあいつだよ。許してやれとは言わないが、わかってやってくれ。あれでも若い頃はちょっとした見どころのある男だったんだ」


エクトルは目を瞬いた。さも魔法灯が眩しいのだというように。天井付近に設置されたそれには蛾が集り、羽音がうるさかった。


「なあ、ティレル」


「うん?」


「俺はいったい誰なんだ?」


ティレルの重たい瞼がピクリと動く。エクトルは作り物めいた美貌にかすかな微笑みを浮かべ、小首を傾げた。そうすると、この少年は本当に置き物や陶器の仲間に見えた。丹念に作り上げられた傑作に。


「侯爵がただ妻が浮気してできた子にそこまでするとは思えない。クロワ邸を放置したことだってそうだ。貴族が先祖伝来の屋敷をほったらかして愛人の元へ入り浸る? 社交界での今までの地位全部をなげうってまで?――どう考えてもおかしいだろう。お前たちには何かがある。俺に言ってないことがあるな、ティレル?」


「もう寝ろ。姉が気になるなら医者の邪魔にならない壁際に椅子でも並べて寝ろ」


ティレルは踵を返した。エクトルは追いすがるような真似はしなかった。エクトルの師匠は――育ての親にして暗殺術を仕込んだ本人、そしてクロワ侯爵の密偵頭であるティレルは、子供の甘えからくる無礼を許さない。


「俺が古い血筋の目を持つことと、関係があるのか?」


答えはなかった。天井裏や柱の影に潜む顔見知りの密偵たちも、音すら立てない。エクトルはその気配を感じとることができた。


彼はわざと小さな音を立てて扉を開け、義理の父のような男に言われたとおり、固い椅子を並べた上で眠ることにした。眠りながらも片耳は起きていて、万一リュシヴィエールに再び危機が迫るようなことがあればすぐさま飛び上がれるようになっていた。無意識のうちに。


壁ごしに漏れてくるリュシヴィエールの苦悶の声を聞くたび肩が跳ねた。眠りは悪夢の片鱗を連れてきたが、エクトルはかすかに起きている意思の力でそれを跳ねのけた。――死ぬ、のだろうか。リュシヴィエールは。そうしたらエクトルが生きている意味もなくなる。


彼はリュシヴィエールが思うようなかわいいばかりの弟ではない。肉体的にも精神的にも、そんな時期はとっくに通り過ぎた。


エクトルは人殺しである。それもとびきり上等で、有能な。


リュシヴィエールが守りたかったものはすでにクロワ侯爵家にはない。何一つ、どこにも、残っていない。彼女は苦しく暗く悲しい幻想の中で守られながら煩悶して生きてきた。エクトルもその檻を作る手伝いをしたし、鉄格子の一本でもあった。


そのことを知られるのが怖くて仕方がなかった。これからどうなるのか、明日に何が起きるかもわからずエクトルは眠りを貪った。



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