第4話


燃える廊下を二人は必死に逃げた。使用人たちの悲鳴や走り回る音が階下から聞こえてくる。


白い煙がもくもくと廊下に充満しつつあった。火元はどこだ? 広間の暖炉か、使用人がランプを倒したのか。それにしては火の回りが早すぎる。混乱した頭では考えがうまくまとまらない。


まだ猶予はあったはずの窓枠のひとつから、赤紫の火がボッと燃え上がった。熱によって膨張したガラスがパリンと割れる。リュシヴィエールは寝間着のままエクトルの頭を抱いて庇った。腕の中の少年はなんとか姉の拘束を抜けようとしながら叫ぶ。


「これは普通の火じゃない、姉上!」


「わかってるわ、これは魔法よ」


恐怖に躍り上がった心臓が、まるで耳元で鳴っているかのよう。煙を避けて身をかがめ、這うようにして廊下の端の階段へ。二人の後ろをリュシヴィエールの部屋から熱と煙が追ってくる。


何の前兆もなかった――きな臭さも、煙に目をいぶされることも、パチパチ爆ぜる火花の音も。ただ突然に部屋が燃え上がったのだ。そうとしか考えられない。


転げるようにして階段まで辿りついた先、手探りで手摺を探し当てる。目は涙で使い物にならない。


「お嬢様! 坊ちゃま!?」


と階下から声を張り上げるのは、長く祖父の代から仕えてくれている老メイドだろう。


「わたくしたちは大丈夫よ! 早く逃げなさい!」


と階段に向けてリュシヴィエールは叫び、煙を吸って激しく咳き込んだ。


「姉上、口に手を当てて。なるべく浅く息をして」


とエクトルは彼女の肩に手をかけ、強い力で階下へ誘導する。知らないうちに弟はずいぶんと逞しくなっていた。足を踏み外さないよう警戒しながら、必死に古い絨毯の敷かれた重厚な階段を下がる。いくつかの段にすでに引火しているのに血の気が引いた。熱気のあまり眼球が乾く。髪の生え際がチリチリ音を立てる。


どうにか階段の終わりまで、一階に到達した。すぐ先に玄関ホールがある。大理石の床のそこは鉄板じみて熱を発していた。観音開きの大きな、馬車さえ入りそうな中央玄関は開け放たれている。その向こうで使用人たちは飛び跳ねるように手を振っていた。早く早く、とせかされ、気ばかり焦った。


リュシヴィエールは力の入らない身体を叱咤し、よろめきながら足を進めた。室内履きごしに感じる熱に足の裏が焼けそうだ。


「エル、おまえ、足っ」


と短い悲鳴が喉をひきつらせる。エクトルは裸足だった。強い怒りと焦燥に満ちた青い目が、銀色のふちも露わにリュシヴィエールをねめつける。


「そんなの、どうでも、いい!」


二人の身長を超えるほどの火が目の前に出現した。魔法の火。不可思議の火。誰かの意思で動く赤紫の火だ。炎自体は動かず、ただ燃えるものもないはずの大理石の上に堂々と揺らめくだけ。


脱出したければこの炎を突っ切っていかなければならない。熱のあまりパリンと床の大理石が割れた。


「姉上、息を止めて。目を伏せて」


とエクトルの手が伸びてきて、リュシヴィエールを肩にかつぐようにする。少年の片手がぐっとリュシヴィエールの脇腹を掴み、決して自分から離さないと告げる。


「エル、エル……」


ぜいぜいと呻きながら、リュシヴィエールはその通りにした。


息を止めながら走る初めての経験に、もはや心は忘我の状態だ。熱も痛みも感じない。リュシヴィエールはなるべく火からエクトルを庇ったつもりだったが、果たしてどこまで役に立ったことか。細かい火の粉によって身体にはいくつかもの火傷ができる。無我夢中だった。髪の毛が燃える。足の裏が、鼻の奥が、身体じゅうが熱い。


やっと玄関扉を走り出られる、と思ったそのとき。外の風を感じ、使用人の歓声が耳に届き、一瞬だけ気が緩んだ、その間際。


ひときわ大きな爆発音とともに、天井が崩壊した。古い重いシャンデリアが爆ぜ、クリスタルが割れながら四方八方に爆ぜる。炎を纏った木っ端、火が付いたまま飛ぶ壁紙、割れ砕けた石材。二階の床が、柱が、落ちてくる。


咄嗟にエクトルがリュシヴィエールの頭の上に覆いかぶさろうとした。そのことが分かった瞬間、リュシヴィエールはエクトルを投げるように突き飛ばした。玄関の外、大理石の階段に彼はだんっと転がった。


「リュシー――!!」


絶叫は耳と言うより頭蓋骨の中でわんわんと反響する。


最後にリュシヴィエールは微笑んだ、のだろうか。そんな綺麗な終わり方を選べたのだろうか。


使用人たちがわあわあと投げ出されたエクトルを掴み上げ、屋敷の火勢の届かないところへ引きずっていった。エクトルは泣きわめき、暴れ回る。すべてがゆっくりに見えた。自分に倒れかかってくる無機物のなにもかもを含めて。


(エクトル。……学院、幸せな結婚、桜みたいな木。癒しの力を持つ特別な女の子)


単語がくるくる、表れては消えていく。


リュシヴィエールは肩から床に倒れ込む。熱い。灼熱の大理石が衝撃で割れ、破片が目に入らないよう硬く硬く目をつむった。頭上から轟音がした。軋むようないやな音だ。腕で頭を抱え歯を食いしばった。熱と痛みから逃れるように。


二階を支える柱がリュシヴィエールの上に落ちてきた。炎を上げながら。


人間の力では持ち上げられない重量に身体が潰される。


リュシヴィエールは単語と踊る舞踏会の夢を見た。



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