第3話
アルトゥステア歴七百十二年、七月七日。今日は流星群が降るとされる恋人たちの祝日で、日本でいうところの七夕伝説の男女のような星座が二つ、昇るはずだった。しかし残念ながら朝から曇り。このぶんでは星空は見えないだろう。
「綺麗なお星さまのためにー、頑張ったのに曇り空。つまらなくてよー」
と歌うように愚痴りながら、リュシヴィエールは針を動かした。刺繍である。無心になれる作業は好きだ。ゲームの周回に似ている。
「しょうがないじゃない。お空のご機嫌ばっかりはどうにもならないよ」
と笑うエクトルは、珍しく昼日中にクロワ邸の中にいた。
使わない部屋は全部家具に埃除けをかぶせて締め切ってしまい、解放されているのは二階リュシヴィエールの部屋と図書室、それから一階の朝食室、何かの時のための応接間くらいだった。使わない金の燭台だの見せるための食器だのはまだ暖炉の上を飾るけれど、そのうち売り払わなくてはならなくなるだろう。
「姉上、何やってるの?」
「おまえのためにハンカチに刺繡をしてあげてるのよ。貴婦人手ずからの刺繡が入ったハンカチは騎士の名誉ですからね」
彼女と一緒に買ったペアリング、彼氏に買ってもらったブランドバッグみたいなものである。エクトルが王立学院に行っても思い出してもらえたらと思って。
「ふうん。俺は別にどっちでもいいけど。もらってくれって言うんなら、もっていってあげるよ」
と、憎まれ口とは裏腹にエクトルは嬉しそうに足をぱたぱたさせた。夜の口づけの気配のかけらもなく、エクトルは正しく少年である。
いつもエクトルの面倒を見てくれる年嵩の騎士が、娘が産気づいたというので帰省していた。だから今日のエクトルは鎧磨きや巡回の手伝いをすることもなく、屋敷で勉強である。
もう年だからこれを機に戻ってこないかもしれないと心配するエクトルを慰めつつ、騎士一人分の給金が減れば楽になる――と一瞬でも考えてしまった。リュシヴィエールはいつから商人になったのだろう。
曇り空の最中に稲光がした。遅れてゴロゴロという轟音も。昼になる前に雨戸を閉めた方がいいかもしれない。
「姉上、ここの解説が納得いかないよ。教えてくれる?」
「ん? これはねえ……」
と、くっついて構文集の問題を解く。これもリュシヴィエールが使っていたもののお古だ。
エクトルは身体を動かすのも勉強も好きなようで、どちらかといえばどっちも嫌いだったリュシヴィエールとしては珍獣にも見える。貴族社会から縁遠くなりつつある今、知らない貴族の大人たちとの会話文例などは異世界の言葉を学ぶようで面白いらしい。外国語も数学もエクトルは好きだ。
勉強道具を並べ、インクが切れたら自分でつぎ足す。水差しの中身も自分で汲みに行く。暖炉の火を熾すのも、眩しいからとカーテンを閉めるのも。何から何まで自分たちで用意した空間は心地よかった。そうした仕事をするはずの侍女や上級侍従のほとんどが暇をもらって出て行ったので、屋敷に残ったのは下級使用人ばかりだ。掃除や洗濯、キッチンは回るから、なんとか屋敷の切り盛りされている。けれど残った上級使用人の家令一人では正餐会も昼食会も開けない。
クロワ侯爵家は――クロワ侯爵領キャメリアは貴族社会から落ちこぼれ、あとは衰退を待つばかりである。あとに残るのは逃げられない者たちばかり。
それでも人の血に濡れて歩む道よりはずっといい、はずだ。
リュシヴィエールは玉止めした刺繍糸を糸切りハサミでぱちんと切った。窓の外で雨が降り始めた。
「ああ――もう、星は諦めなくてはダメね」
「そうだね。でも雲の上に星はあるよ。見えなくなっただけ」
リュシヴィエールは立ち上がって換気のために小さく空いていた小窓を閉めにいった。席に戻ろうと振り返ると、思った以上に近いところにエクトルが立っている。
少年は濡れたような目でじっとリュシヴィエールを見つめていた。口づけを望む目だった。彼女は静かに首を横に振り、エクトルの横をすり抜ける。
「姉上……」
母犬に邪険にされた子犬のような声は切ないが、そこばかりは譲れなかった。
ロンド王国では文化的に親愛のキスは認められるが、頬や額へするのが一般的だ。本当に、よっぽど仲のいい、たとえば兄弟姉妹やいとこ同士であれば口に軽く口づけることもある。リュシヴィエールとて木石ではないから、エクトルの望む口づけが親愛以上の意味を求めていることくらいわかる。
「勉強しないのなら別のことをしなさい、エクトル。それともわたくしが出て行った方が集中できる?」
リュシヴィエールは隣の席を指し示してそう言った。目は不自然にエクトルから外していた。おまえなど眼中にない、と言外に強く示した。
エクトルはすごすごとリュシヴィエールの隣、きょうだいとして正しい距離の椅子に戻り、背中を丸めて教本の上にかがみ込む。
いくら親に見捨てられ妙な求婚者しか望めず、二十歳にもなって婚約者すらいない寂しい令嬢とはいえ、半分血の繋がった、それも十二歳の男の子相手に発情するほど見境なしではない。
閉ざされたキャメリアの地の、さらに寂れたクロワ邸で同じ顔ぶれとばかり付き合っていては、世間からずれるのも当たり前である。エクトルは王立学院に行って同じ貴族身分の少年少女たちと交わり社会を知っていく中で、姉に対して何らかの気持ちを抱いたことなど忘れるだろう。いわゆる黒歴史になるのかもしれない。
(この子もかわいそうなのよね。わたくししか対等な身分の人間がいないのだもの。ああ、早く本編が始まればいい)
そしたらエクトルはあの素晴らしい、女の子じみた美貌の少年になるのだ。ヒロインや他のキャラクターたちと華やかな学院生活を送ってくれる。
やがて雨が本格的になり、暖炉の熾火も徐々に灰色になっていく。早い夕暮れののち、夕方になったがエクトルが北の塔に戻りたいと言い出すことはなかった。代わりに彼は、リュシヴィエールの目を下から覗き込むようにして言った。
「姉上、今日はこの家で眠ってもいいですか?――変なことは、しませんから」
「……よくてよ」
「ありがとうございます。ほんとはずっと、来てみたかったんです。このお屋敷に」
エクトルはほっとしたように息を吐き、肩の力を抜く。伏せられたふさふさした睫毛ごしに青い目は潤んでいた。
パンと冷肉、チーズの冷たいものだけの夕飯をすませると、エクトルはリュシヴィエールの部屋の隣で眠ることになった。そこはお嬢様のための使用人の控室で、ようやく寝台を置けるだけの広さしかない。すぐに使える部屋といえばそこしかなかったのだった。
お腹が満たされると姉弟の間の奇妙な緊張感は跡形もなく消えていた。二人は夜遅くまでカード遊びに興じ、笑い声を上げ、夏の前だというのに冷え込むキャメリアの夜を楽しんだ。
うとうとするエクトルを隣部屋に追い出してしまうと、リュシヴィエールは幸福な気持ちで寝台に潜り込み、夢も見ずに眠った。
熱さに目覚めたのは深夜。壁にかけられた水魔法盤が熱のあまり解呪され、ただのガラスの盤に戻って床に落ち、砕けた。
「――えっ?」
「姉上!!」
彼女が身を起こすのと、エクトルが駆け込んでくるのはほぼ同時。
灼熱の炎が寝台の天蓋に燃え移り、燃え上がる。リュシヴィエールは悲鳴を上げて寝台から転がり出た。
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