シュレディンガーの犬

@MomoFragil

第1話

『6月17日午後3時頃、北海道中標津町東32条南1丁目の道道でひき逃げが発生しました。女の子は病院に搬送されましたが意識不明の重体で…』

速報をテレビで目にした夫婦は膝から崩れ落ちた。被害者は先ほど外出を見送った一人娘だったからである。


 その被害者の少女、黛結衣は飼ってまもない愛犬のホワイトトイプードル「リルル」を傅き、誇りに思っていた。リルルのチャームポイントは両の耳に結かれた青いリボン。人間のように代謝を行わず、従属する栄養源の固形物や水分を必要としない。従って排泄や排尿もせず、その目が瞬く事もない。体温調節にパンティングをする舌先は、常に口内に張り付いている。決してハイエンドなロボット犬などではない。常ならず、他の生物と等しく最期を迎える。斯くして粗相をしない彼女、リルルは紛れもなく烹らることのない良狗である。


 少女はある日の学校の帰り、自身が飼っているリルルにそっくりなトイプードルのぬいぐるみを近所のゴミ捨て場から拾ってきた。それも明々白々に実在しないであろうピンク色の毛色がその柔い肢体を象っており、無論、正体不明の染みが所々に模様を作っていた。リルルは穴が開くほどぬいぐるみを凝視しながら垂れた尾を後ろ足に巻き込んだ。すると少女に命名されたそのぬいぐるみ「はいり」の淀みもない瞳に見つめ返される。瞳に反射した自分の姿を見て、更に不安感を掻き立てられる。

ペットの立ち入り禁止施設、ペットホテルなど、これまでに直面したペット忌避の事例が脳内を駆け巡る。これらの事態に直面した時、ぬいぐるみであるはいりを同伴者として自分の代わりにする動機に十分になり得るだろうと予期したリルルは、はいりを軽蔑の目で見つめた。何より、少女がはいりを自分とそっくりだという理由で拾って来たのが彼女は気に入らなかった。


やがて憶測は確信に中る。一家が旅行の際、リルルがペットホテルに居る間も、はいりはリュックサックに入れられていた。皆が自宅に帰還した暁には、深夜に家族の目を盗んでリュックサックから狙いの獲物を引きずり出すと、摺り込むように噛み潰し、強か抛って投げ、はいりを完膚なきまでに虐待した。偏執的な僻んだ心は、時にぬいぐるみの無機質な顔を悲しく見せた。その柔らかい体が弾けそうになる音と嘆声が聴こえ、錯覚のあまりの生々しさに戦いた。すると、ぬいぐるみのはいりは確かに千鳥足で床から自立したのだ。フローリングに立つ「それ」は顕現し、小気味悪くこの世の物ならざる雰囲気を醸し出している


「はなせ」


 声帯を持たないはずの「それ」は鳴き声と思しい音で此方に話しかける。夢か、はた現実か。受け入れ難い現実を前に頭身の毛も太る。リルルは人間が寝静まる夜に夢でも見ているのだろうと思い、数秒前までの出来事を曇らせて返答した。


「喋るぬいぐるみ!?」


 確かにぬいぐるみは口を開いた。いや、これまで閉じていたのだろうか。

返答をひたすら待っていると、はいりはもう脱力して動かなくなっていることに気づいた。結衣が寝室にはいりを持ち込むのを忘れて取りに戻って来ていたのだった。彼女は命を吹き込まれたおもちゃのように、人間の前ではおもちゃのふりをしていた。リルルは少女に起きている自分をアピールするも、その日はそのままリビングの犬用ベッドで一夜を明かすことになった。


そうして、リルルは単なるぬいぐるみに感けて、迫害をやめなかった。この奇しき眉唾物はいかよう善後策を講じて然るべきだと、再びゴミ捨て場に放り棄てる。しかしてんで終結すること能わず。何度も、何度も彼女は帰って来たので、ゴミ捨て場と家を幾度と行き来する羽目になった。加えて身体の悪臭とぬいぐるみの汚れからしつけ役である主人に悪戯を見破られ、はいりとの心の距離は一入遠ざかるばかりである。

数日後。リルルはまたあの憎きぬいぐるみを訝しげに見つめていた。結衣はすっかり気に入った様子で、何処に行くにもあのぬいぐるみを持って行く。それは今日も変わらなかった。リルルの散歩の最中にもぬいぐるみを連れて行くのだった。


態度を改めてはいりと共存する道を選択しようと志したのは建前で、ぬいぐるみよりも動物としての自分の良さに気づかせようと目論んでいるのが本音だった。

 少女の足は歩道と道路の境に差し掛かる。横断しようと歩みを進める最中、背の小さな少女は手を挙げようとして胸に抱えていたはいりを路上に落としてしまう。リルルの脳内に憂いを生ぜしめる。ついぞ起きた事のない事象を眼前に想像せずにはいられない。交通事故の虞だ。信号の色が青から赤色に変わる。屈んだ少女がフロントガラスに映らない中型トラックは、少女をめがけてタイヤを回し続ける。間一髪の距離に差し迫ったと同時に、リルルは決死の覚悟で身を投じたのだった



—午後3時。ひき逃げが発生して間もなく、私は死の恐怖に瀕していた。仰向けになった脚は動かし方がどうにも思い出せない。日差しを受け、天を摩する太陽の眩しさを朧げに受け入れる。意識が所を異にするまでに走馬灯のように様々な雑念が頭をよぎった。はいりを置いて歩道まで誘導できたのではないのか。せめて私が無傷であれば、遠くまで助けを呼びに向かえたのではないか。酸素が回らなくなった身体では意思が霞がかって覚束ない。尊敬の意を微塵にも体現できなかったと思い、自身の無力さを痛感するばかりだった。私は決して結衣が誇れるような良狗などではなかったのだと。

 ようやく片頬を寝かして横を見やると、視界に赤く映ったのは生傷から流れ出る鮮血か。違う。胴から飛び出していたのは、「綿」だった。それは、自分の傷口から溢れていた。


はいりはまた千鳥足で此方に向かって来た。はいりに前足を差し出されると、反射的にお手をして自身も自立したのである。そうすると、はいりはこう言った。


「ねえ、どうして貴方から綿が出ているの」


 リルルは無視して横たわる結衣の方を見遣った。しかし、はいりは視線を自分の方へ正し、首を横に振った。リルルは呵責のあまり力んだが、その瞳には何も滲まなかった。

 だからなんだと言い返そうとした刹那、首を噛まれて歩道の草むらに吸い込まれた。歩行者がついにこの事故現場を発見したのだ。リルルは妙に泰然とするはいりを一瞥する。


「貴方が拾われてから全てが狂った。貴方がいなければ結衣は事故に遭わなかったのに」


はいりも負けじとこちらを睨みながら言う。


「私を拾わなければ、こうもならなかったのに」


 直後にはいりがむせ出して赤い液体のようなものを吐いた。吐血のような反応に戦慄する。


「血液が…」

「近くの団地の裏に連れて行って。そうしたら全て話す」


倒れている飼い主を前に治療を施せない自分は無力だと悟り、リルルははいりを背負って団地へ向かう。

団地の裏に着くと、自分たちと同じ四足歩行の生き物がいた。側にペースト状の食べ物らしきものが皿に盛られている。横たわったのを見て我関せずと食べ物を口に運んだはいりは言う。


「此処にいつも食べ物が置かれているから、頂戴しているの」


それを見て再び戦慄する


「犬は、食べ物を食べないわ」

「何を言っているの。リルルはぬいぐるみだからでしょう。私は犬よ」

「ぬいぐるみって…私こそ犬よ」


あまりの話の噛み合わなさに困惑する。はいりは見るからにぬいぐるみである。


「臓器が詰まっているのが、私のような『本物の犬』よ。リルル。」


自分を見つめる瞳が瞬いたのを見て、はいりの言う「本物の犬」は自分の考えとは逆説的に人間のように代謝を行うのだと分かった。従属する栄養源の固形物や水分が必要不可欠で、従って排泄や排尿もするし、体温調節にパンティングをする舌先はハァハァと息遣いが感じられるものだった。つまり、私が偽物だと言いたいのだろうか。違うだろうと、考えうる限り反論する。


「自分の中身なんて、見たことがあるの?どうして、本物の犬には臓器が詰まっているって分かるのよ。はいり。貴方は見るからにぬいぐるみよ」

「その名前で呼ばないで」


癪に触ったのか、はいりはむしゃくしゃしながら言い返す。


「自分の中身を見たでしょう?どうしたら、犬から綿が出てくるのよ。リルル。でもなんで貴方はぬいぐるみなのに犬の見た目をしているの」


リルルは視界からはいりの尻尾にないものを見つけた。はいりには付いていない、自分には付いている尻尾のタグを見て、思い出したかのように提示する。


「これを見なさい。きっとこれが、私が『本物の犬』である証よ」

「それこそ、ぬいぐるみである証拠なのよ。手洗いするように書いてある」

「犬は洗濯でしょう!?」

「犬はお風呂!!」


ゼエゼエと全身で息をする。つまり、ぬいぐるみの見た目をしている犬がはいりで、犬の見た目をしているぬいぐるみが私、ということだろうか。


「あなたは…私は何者なの」


私はゲシュタルト崩壊を起こしかけていた。疑問点が沸々と湧き上がってきそうで曖昧に消えていく。

本当の成り代わりは、私だった。ならば『私』自身は何処にいる。私の名前は。私が私として生きている証は。


「偽物なら分かっていると思うけど、貴方は不老不死。原型を留めているうちは」


混乱している私を見かねてはいりが言う。

偽物、とは私のことだろうか。

生命体である条件は三箇条。体が細胞でできていること、繁殖などで自身を複製することができること、物質を取り込み分解する代謝を行うこと。

私が生命体でないと思っていた犬は、生命体であったらしい。私は幻覚から目覚めた。本物の犬は人間と同じく外界と細胞膜で仕切られており、身体に含有する栄養素と体水分で代謝を行い、エネルギー源の摂取を必要とする。


「飼う」と「買う」の違い。私たちは、偽物のぬいぐるみと、偽物の犬であった。はいりと自分の「犬」という概念がないまぜになる。自身が「偽物」であり、超常現象のような生き物であることに、ショックを隠せない。

暫くして、事故現場の近くに駆けつけた結衣の両親に見つかり、はいりと私、そしてその場に居合わせた生き物と一緒に家へ帰ることになった。

車にある謎の数字を覚えたところで一体何が分かる。この偽物の鼻で犯人を嗅ぎつけることができるのか。遠吠えを助けを求める声だと認識する人間はいるのだろうか。

風が吹いても出かけた頃の爽快さはもうとうに、ない。あるのは深い、深い絶望感。私たちは生きる寄す処を失った。

ああ、そうだったのだ。始まりは全て数日前のあの日、はいりが拾われてきたことによる、惨事だった。もうはいりにその責任を問う余裕もない。

私たちは我が家に戻ってきた。


「どうして逃げなかったの」


唯一の疑問をはいりに投げかける。

結衣によるはいりの扱いは一見ぬいぐるみとしてはこれ以上ないまでに幸せそうだった。自分が虐待した経験があるので嫌でも分かってしまう。その身体の中には本物の犬と同じ内臓物が、守る外壁もなく薄い膜の中でざわめいていたのだ。握る、絞る、弄ばれる度に内臓が破裂しそうになるのを、なぜ抵抗もせずに受け入れていたのだろうか。


「私にも貴方のように愛される権利があると思った」


結衣に扱われた時もそこにあるのは玩具への愛情であって、生き物である「犬」に対するものではない。リュックサックに入れられ監禁、力強く握られ身体が悲鳴を上げることもしばしば。はいりにとっては私が想像したような楽園ではなかった。当然、餌や水分も与えられず、彼女は飢餓状態だった。通りで身体が細かったのかと今となっては思う。

はいりは仏壇に盛られた離乳食と思しき物を口に掻き込んだ。彼女の背中を遠くから眺めていると、その瞳からほつれ糸のような透明な涙が止め処なく落ちていったのが分かった。


辛かっただろう。しんどかっただろうと、言葉をかけて慰める権利が私には、ない。恐らく、私が彼女を妬んで羨んでいたように、はいりも私を羨望の目で見ていたに違いない。相手が望まぬところで、私ははいりに同情した。出会いの場もゴミ捨て場だったのだから。「自分」という概念が迷子になっている私と背景を重ねた。不老不死の私が、なぜ、人間の監視下に置かれているのだろう。「偽物」が、愛されているのだろうと、自責の念がどんどん脳内を支配する。偽物という言葉にここまで心労するとは思わなかった。


「殺される前に殺そうと思った」


はいりの口述が、胸を衝く。絶望が憎悪に変わる瞬間だった。

貴方が結衣にかけていた感情は、期待ではなく、殺意だったのだと。


「どうして逃げなかったの!」


逆鱗に触れて憤りを抑えられないまま、再び問い質す。


「逆らえなかったから」


その一言に今までの恨み辛みが詰まっていると感じた。或いは、後悔。


「どうして、どうして」


いずれ反応がなくなったのを感じて、その一言がはいりの最期の言葉でもあったのだと察した。正しくぬいぐるみのようになったはいりという名前が懐かしく、恨めしく、尊いものになった。


団地にいた生き物。結衣の弟もまた、餓死で亡くなったらしい。

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