第四章

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 中古車の買取販売で有名なスーパーモータースの本社は、東京にある。その日、社長の鈴木茂太は社長室で全国の各支店からの実績報告書に目を通していた。そこには引きで撮影した店舗の写真も添えられている。

「いかんな、この店舗は美化活動がなっていない。ひとつ、支店長に脅しをかけよう」

「またパワハラですか」

 部長の財津は、鈴木の傍らで呆れたような微笑を浮かべた。彼は長身だが、すぐ横に立っていてもなぜか存在感がない。気配がないのだ。端正な顔立ちは青白く、幽鬼のような気配のなさとあいまって、さながら妖刀のような雰囲気を漂わせていた。

「何がパワハラだ。こいつは、我が社の社会的地位を保つための適切な社員指導だろう」

 鈴木は可笑しそうに笑いながら、店舗前の清掃を徹底すべしと指示する内容のラインを送った。「環境整備0点。。。」と入力してから、死刑、という単語を何回も入力する。これで社員たちは震え上がるのだ。近いうちに自分が査察に行く頃には、落葉や雑草どころか街路樹も根こそぎ取り除かれているに違いない。

 財津が、報告書の一部を手に取って言う。

「〇〇支店などは、もう少しノルマ管理を徹底した方が良さそうですよ。実績が全然足りていません。一台ごとの修理費用で十五万円という目標管理が、これじゃ意味がありませんね」

「俺は数字はよく分からない。とりあえずそっちの支店長も指導しておくか」

 鈴木はまたラインを送った。全支店の支店長をはじめ、役付の社員の連絡先は全てスマホに登録されている。

 彼は昔から名前を馬鹿にされてきた。家族以外の人間は、誰もが自分の茂太という名前を「しげた」と読まずに「もた」と読み、「モタモタすんな」などとふざけて言うのだった。そんな彼が立ち上げた会社の名前がスーパーモータースなのはほとんどコンプレックスの反映でもあるのだが、本人はそれに気付いていない。そして今日も、社員たちにはラインで「実績足りない。ふざけるな。モタモタするな、殺すぞ」とメッセージを送っている。

 こういう行為が、今で言うパワー・ハラスメントに該当するかも知れないことを、鈴木は頭の中では理解していた。だが彼にとって、こうして日常的に社員へ圧力と脅しをかけることは単なる「習慣」であり、ラインで送る言葉も彼にとっては「冗談」にしか過ぎないのだった。死刑とか殺すぞとかいう脅しの言葉なんて、冗談に決まってるじゃないか。俺はただ、冗談が通じる相手に冗談を言っているだけなんだ――。

「パワハラだなんて他人が口を出すような話じゃない、こんなのはな」鈴木はスマホの画面をタップしながら、独り言のようにつぶやいた。「これは俺と、社員一人ひとりとの個別のコミュニケーションなんだ。せっかく毎日汗水流して働いているのに、クビや降格なんてことになったら可哀想だろう? だから俺はこいつらが路頭に迷わなくても済むようにありがたい指導をしてるわけだ。これくらいの地位の人間から直接指導していただける企業なんて他にはないぞ。ええ、そうだろう? 財津」

 長いつぶやきの最後のところで名前を呼ばれた財津だが、最初から呼ばれることを分かっていたかのように笑みを浮かべた。

「ニッポン損保とのつながりも盤石ですしね。その盤石さの上で働けるんですから、皆幸せでしょう」

「その通りだ。弱い立場の社員たちに社員に幸せを噛みしめてもらいたい……それが俺の望みだ」

 鈴木はラインで死刑、という言葉を繰り返しているうちに、気持ちが昂ってきたようだ。送信ボタンを押したところで大きな声で笑い出した。

 しかしその笑い声は長くは続かなかった。財津の表情が硬くなり、口に人差し指を当てて「シイッ」と静かにするよう促してきたからだ。

「どうした」

 鈴木が訪ねた。財津は社長室の扉の向こうを凝視している。

「気のせいですかね。変な物音が」

「音? どんな」

「そうですね、人が倒れるような――」

 鈴木はスマホを手にしたまま、不安げに眉をひそめた。

「物騒だな、また侵入者か? 前にどこぞの産業スパイが入り込んだことがあったが」

「あの時は用心棒たちが捕えて、〇〇社に熨斗をつけて送り返しましたね」

「そうだったな。何も心配いらないだろう」

 鈴木はそう続けたが、財津は依然として扉の向こうを凝視して気配を伺っている。しかも、いつの間にか左手を横に突き出して鈴木をかばうような仕草をしており、そうしながらごく僅かに扉の方に向かってにじり寄っているのだった。

「おい財津、用心棒を雇うべきだと言ったのはお前だぞ。そこまで警戒しなくても――」

「シイッ」

 口から、鋭く突き刺すような空気音を発して、財津は黙っているよう促す。異様な緊張感が社長室に満ち、鈴木もその空気にあてられて動悸が激しくなってきた。

「社長、念のため伺いますが――今、面会や面談の予定はありませんよね」

「ない。お前が知らないなら、ないに決まってる」

「そうですね」

 やがて、扉の向こうから、ペタペタともパタパタともつかない怪しげな音が聞こえてきた。今度は鈴木にも分かる。聞き慣れない誰かの足音が、廊下を進んで近付いてきている――。

 やがてノック音がした。コツコツという、ごく控えめな音だった。

「誰だ」

 鈴木が尋ねるが、返事はない。

「どうぞ、お入り下さい」

 財津が声をかけると、勢いよくドアが開いて、一人の女が社長室へ踏み込んできた。最初、鈴木は我が目を疑った。その女はグラビア女優のような魅惑的な体型で、真っ赤なビキニの水着姿だったのだ。

 だが、さらに目を疑ったのは、次の瞬間の財津の行動だった。彼はその女の姿を目にするや否や、「社長、早く部屋を出て下さい」と鋭い早口で告げたのだ。鈴木は次の瞬間、財津がいかつい拳銃を握りしめるのを見た。その拳銃はまるで空中から出現したかのようで、財津はそれを躊躇せずに女に向かって何発も発射していた。

 激しい銃声が響き、硝煙が部屋に満ちる。

「おい財津、なんだこれは!」

 鈴木が呼びかけると、財津は弾倉が空になったらしい拳銃を床に放り投げた。室内は白煙が充満し、あの女の姿は見えない。おそらく今の銃撃で蜂の巣になっただろう。だが財津は、依然としてその白煙を凝視しし続けていた。まるで猛獣が潜んでいる草むらを睨むように――。

「私は逃げろと言ったんですが」財津は答えた。「あれは殺し屋です。ビキニ姿の女――近衛有明です。私たちの業界では超がつく有名人ですね。出くわすのは初めてですが」

「水着だけがトレードマークになってるのも可笑しいけどね」女の声がした。「最高に動きやすいんだよ。おかげさまで銃弾も全部かわせる」

 白煙の向こうから、ぬっとビキニ姿の長身の女が姿を現した。ショートカットの髪に、銃撃で砕けた壁の破片や粉が付着して痛々しい。近衛有明、と財津が呼んでいたその女に睨まれて、鈴木は悲鳴をあげた。

「なんだお前は。殺し屋だと? 俺を殺しに来たのか。どうして俺を」

「どうしても何も、アンタさんざん悪いことやってんでしょ。修理で持ち込まれた車をワザと傷つける、保険金を過剰に受け取る、やってもいない架空の作業を請求書に計上する、過剰なノルマ、連日のパワハラ。――いつか誰かに殺されるかも知れないって考えたことがないなら、頭ン中はお花畑だねえ」

 近衛有明は鈴木の顔を直視して、自分の頭をトントンと指でつつきながら一気に説明した。すると財津が、

「もちろん考えていますよ。だからこの建物は、要所要所を用心棒で固めているんですが」

 女は、ハッと笑った。

「あの、靴下に入れたゴルフボールとかドライバーで武装した皆さんかい? 全部投げ飛ばして背中から地面に叩きつけてやったよ。受け身もろくにできない連中で、みんな今頃酸素が欲しくて鯉みたいに口パクパクさせてるさ。――アンタは? さっき、私たちの業界がどうのと言ってたけど」

「財津陽一郎(ざいつ・よういちろう)。この会社の人事部長兼総務部長兼社長秘書です」

「ちょいと兼務が多すぎるんじゃないかね」 近衛は鈴木を見た。「人が少ないのか、人材が少ないのか、どっちなのさ」

「マネジメント業務が専門なもので、多少仕事量が多くても問題ありません。私の全てはそのためにあります」

「名前の陽一郎は、どういう字を書くんだい」

「太陽の陽ですが」

 すると近衛は少しだけ目線を泳がせてから、こらえ切れないように笑って言った。

「アンタ、友達いないだろ」

 そこで財津が動いた。銃を撃った後、彼は直立してじっと近衛有明を睨みつけていたのだが、腰の後ろに回していた両手がゆっくり近衛の方に向けられたのだ。

「私は仕事に人生を捧げておりますので――」

「だろうね。仕事運は上々でパーフェクトだよ」

「何の話ですか?」

 財津の手の動きはどこか神秘的ですらあった。彼の手が、煙のような滑らかさでゆらりと動くと、近衛も鈴木も、その場にいた全員の視線が引き付けられた。しかし次の瞬間、驚くべきことが起きた。彼の両手に、まるで空中からいきなり湧いたかのように巨大なナイフが現れて、財津はそれをくるくると何回転かさせると逆手に握ったのだ。

 もしも社長室に他にも人がいれば、誰もがその手さばきに見入っていただろう。財津はそうしてターゲットの目を釘付けにすることで動きを封じ、いつもその喉元をかき切ってきた。だから今日も、この目の前の女はそうなるはずだった。彼は素早く一歩踏み込むと、近衛との距離を一瞬で詰める。

 しかし、ナイフが近衛の首を切った――と思った瞬間、彼女はそこにいなかった。財津の動きよりも早く、とっさに身を低くしていたのだ。

「すごいすごい。マジックショーだ」

 ビキニ姿にも関わらず、大股を開いてしゃがみ込み、拍手をしている近衛。

 財津は戸惑ったが、次は、彼の革靴から銃弾が発射された。爪先の仕込み銃である。しかしこれも、近衛は横に転がって避けた。それから、彼女はよっこいしょ、と年配の人間のような声を上げて立ち上がる。

「アンタ、マネジメント業務とか言って、明らかに本業それじゃないね。アタシと同類項じゃないのさ」

「殺し屋のような連中と同類項扱いされたくはないですね。殺し屋は殺すのが仕事でしょう。私たちの本業は用心棒で、誰かを守るために戦うのが仕事です。――そうですね、鈴木社長」

「そうだ」社長席の椅子の後ろに隠れながら、鈴木は叫んだ。「財津は用心棒たちの中でも凄腕なんだ。女なんかひとたまりもないぞ」

「ハア、こりゃ時代錯誤なおっさんだねえ。女なんか、と来たよ」近衛が嘆息して呆れる。「財津さんとやら、クライアント守るのは結構だけどさ。手品じゃアタシは殺せないと思うよ」

「手品ではありませんよ」財津は言うと、握っていたナイフを手の中で一瞬のうちに消してみせた。「翻訳すればマジックには違いないかも知れませんが――私が使うのはマ法です」

「へええ、ハリー・ポッターみたいな? アタシ、なにげに全巻読んだよ」

「私も映画は全部観ました。――しかし私のはそれではありません。マネジメント業務を極めたマネージャーのみが使える法――すなわちマ法です」

 それを聞いて、近衛の表情が引き締まる。財津は妖しい笑みを浮かべた。

「近衛有明さん。あなたと同じ【法】使いなのですよ」

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