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 廃工場を出た後、とりあえず腰を落ち着けようということで喫茶店「陽だまりの猫」に向かうこととなった。

 空はまるで雨など降っていた気配を感じさせないような、オレンジ色の夕焼けに染まっていた。微かに湿っている地面と、雨上がりの独特の匂いが、先程確かに雨が降っていたことの証拠だった。

「なんか……オーラのある人だったね」

「半グレ……ていうかヤクザだなあれは。五年前からあんな感じだった」

 今の年齢は二十台半ばほどだろうか。五年前も風格がある男だったが、この五年でそれはより一層増してるように思えた。

「五年前……。東雲くんはあの人と何かあったんだよね? それに……」

「ああ。赤い傘の女にも会ってる。隠してるようで悪かったな。昨日言おうと思ったんだが」

「ううん、隠し事なんて誰にでもあるし、気にしないよ。……私も隠し事、してたし……」

 最後の江崎との会話のことか。確か──

「鮮血の雪女……だったか?」

「ううううううう。あのことはこっちでは隠してきてたのにいいい」

 唸り声を上げながら雪月は頭を抱えている。

「いや、別に話したくないのならいいぞ? 忘れるから」

「ううううんんん。でも、他の人から聞かれるよりは自分から……」

 まあ、正直、そのネーミングのインパクトの強さ的に忘れられないし、気にもなってはいるのだが。

「……えっとね、さっき喧嘩したことがあるって言ったでしょ? 中三の冬の話なんだけど──」

 なんとも複雑そうな表情で雪月は語り始めた。

 なんでも、友人のA子が当時の彼氏と揉めていたらしい。いわゆる男女間のトラブル。だが、不幸なことにその彼氏は半グレグループの一員だったらしく、A子は男共に攫われて監禁されたらしい。そこでヒーロー、つまり雪月の登場というわけだ。その話を聞いた正義感最高潮の雪月は、単身で監禁場所へと赴いた。もちろん、最初は話し合いで解決をしようとしたらしいが、馬鹿な男供は雪月も監禁の標的と定めてしまった。つまり手をあげたわけだ。そこからは正当防衛、という名のヒーローショーが開催されたわけだ。雪の降り積もる中、真っ白な地面を赤色に染めて。

「相手にしたのは何人ぐらいだったんだ?」

「大学生ぐらいの男の人たちが二、三……」

「中学生でそれは凄いな」

「二、三十人ぐらい……」

「は!?」

「し、仕方なかったの! 全然話を聞いてくれないし、次から次へと人が増えてきて……。後になればなるほど凄い形相で」

 それはそうだろう。女子中学生が、大の男をバッタバッタと薙ぎ倒していったわけだ。前に暇つぶしで観たアクション映画を思い出す。確かアレも棒とか使って何十人と相手にしていたな。……あれが現実に? 魔法使いの僕が言うのもなんだが、バケモノかコイツは。

「か、勘違いしてほしくないんだけど、別にケンカとかが好きってワケじゃないの。私、昔から色んなことに手を出してきたからコツを掴む? みたいのが得意なんだけど、なぜか格闘技系は特にあっという間で。あの時もさっきも、そうするしかないって思って」

 聞くところによると、親御さんがスポーツの一環として道場に連れて行ったらしい。その上達ぶりには師範代も驚愕したとのことだ。そしてあっという間に誕生したのだった。大の大人を蹴散らす、最強の女学生が。

「ひ、引いちゃうよね……。女の子が喧嘩強いなんて……」

「いや、イメージとかけ離れてて多少驚きはしたけど、別に引いたりはしないよ。そもそも僕は魔法使いなんだから。常識とかけ離れてるのは専門分野だ」

「あ、ありがとう。……うん、東雲くんがそう言ってくれるなら、大丈夫!」


 そうこう話してるうちに目的地に着いたのだが……

「……定休日だって」

「みたいだな」

 どうやら今日はお休みらしい。まあ、仕方ない。個人経営の小さな喫茶店が年中無休の方が驚くぐらいだ。

「どうする? 今日は雨も降らないらしいし、解散にするか?」

「うーん……もし東雲くんが良ければなんだけど……」

 俯きながら雪月はモジモジと体を左右に振っている。なんの動きだそれは?

「ね、ねえ。さっきも大変な思いをしたし、息抜きも必要なんじゃないかなーって。なんて、思ったり」

「息抜き……ねえ」

 息抜きとは緊張を緩め、休むことを言う。それぐらい僕も知っている。だが、その手段を知らない。思えば、魔法を覚えたあの日から、僕は息抜きをしたことがあっただろうか? 雨の日は魔法の修練に勤しみ、晴れの日は憂鬱に淡々と日常を横流しに過ごしていく。そんなつまらない日々の中で、ある種の緊張は常に付き纏っていた。魔法使いとしての正体を隠すこと。それともう一つ。くだらない、意味のないことだと、普通の日常を意味のないことだと遠ざけ続けてきた日々。

「東雲くん、つまりね……」

 それは人生で初めての誘いだった。

「これから、私とデートしませう!」

「……しませうっていつの時代の人だ」

「か……噛んだの!」

「はいはい、しませうしませう」

「もう! 馬鹿にして……って、いいの?」

「断る理由もないしな。だけど僕は……なんだ、そういうのが得意じゃない。だからどこで何するとかはわからないぞ」

「──任せて! 私も初めてだけど、脳内で予習済ですから! ふふ、ありがとう! 灰夜くん!」

 雪月は時々、僕のことを下の名前で呼ぶ。不思議と違和感も、ましてや嫌悪感もない。どことなく、懐かしい。そんな不思議な気分になるのだった。


「まずは定番のここね!」

 意気揚々と始めに連れて行かれたのは駅前のゲームセンターだった。

「東雲くんはゲームセンターで遊んだりする?」

「いや、全く。中学の時に沢田に無理やり引っ張られて、中をちょっと見たことあるぐらいだ」

「よし! じゃあ手加減をしましょう!」

 レースゲームでは巧みなハンドル捌きでぶっちぎられ、太鼓のゲームでは僕が四苦八苦してる中で店内スコア一位を叩き出し、バスケボールを投げるゲームでは力無い僕のボールはゴールの枠に届かない横で、全発ゴールに入れて文句なしのトップスコアラーになり、ガンシューティングゲームでは僕が明後日の方向に銃口を向ける傍で、一人でゾンビを殲滅していく。まるで容赦のない雪月だった。

「……手加減とは?」

「いや、よく考えたら勝負事で手加減は失礼かなーって思って」

「まあ、あからさまに手を抜かれたら気持ちのいいものじゃないな。というか、何でもかんでも雪月は上手すぎないか? 常連か?」

「そんなことないよ! コツを掴むのが人よりちょっと得意なだけ。それにね、不得意なものもあるよ」

 そう言って指差した先にはクレーンゲームが並んでいた。

「アレだけは駄目なんだよね。欲しいものほど絶対に取れなくて」

 二人で見て回っていると、突然雪月は足を止めた。

「こ、これ可愛い──!」

 雪月が目を輝かせている先には、水色の……うさぎ? いや、たぬき……か? よくわからない生き物のぬいぐるみがこちらを見ていた。

「よ、よし! 五百円だけ……絶対に取るよー!」

 そうして雪月と謎の生き物の戦いは火蓋を切って落とされたが、結果は惨敗。ほとんど元の場所から動かないまま、つぶらな目でこちらを見つめ続ける謎生物の勝利に終わった。

「駄目かあ。やっぱり、私これだけはセンスないなあ……」

 しょげながらも、視線は標的から離れぬままだった。

 ふむ、と考える。何でもこなす雪月が出来ないことを僕が出来るとは思えないが、これは何だかいけそうな気がする。要は空間把握が肝なわけだ。それは魔法の修練で鍛えてきたことだった。

「ちょっとやらしてみて」

 コインを投入して、アームを動かす。ちょうどぬいぐるみの真上にアームを止めて様子を見る。下がったアームはぬいぐるみを少し持ち上げたが、アームから逃げるようにコテンと横に転がった。

「え、すごい! ちょっと動いたよ!」

「……なるほどね。こんな感じか」

 次のコインで勝負はあっけなく決まった。取り出し口から相変わらず何がモチーフかわからないぬいぐるみを取り出して、雪月に差し出す。

「す、すごーい! すごいよ東雲くん! 得意なの?」

「似たようなことを雨の日に家でしてるから。欲しかったんだろ、これ」

「うわー! ありがとう! 大事にするね! おもちちゃん!」

 雪月の中では生き物ですらなかったのか……。

 まあ、喜んでくれて何よりだ。子供のようにはしゃいでいる雪月を見ているのは、何だか悪い気はしなかった。


「よし! 次はボウリング……は潰れちゃったんだった。じゃあカラオケ! 東雲くん、歌は得意?」

「……歌ったことない」

「え?」

「授業でしか歌ったことないな。しかも口パクだ」

「それって歌ったとは言わないんじゃ!?」

 聴く専門で構わないと伝えて、次の目的地はカラオケになった。

 僕は音楽に興味がないので詳しくはないが、雪月の歌声は心地いいものだった。技術としてもそれなりなのだろう。さっきから毎回高得点の採点を叩き出している。

「東雲くん、本当に歌わなくていいの?」

「ああ、雪月が歌上手いから退屈しないよ」

「え、そ、そうかな? でも、褒めてくれるのは嬉しいな」

 心底楽しそうに歌っている雪月を見て、僕は考え込む。うん、これも悪い気はしない。何故だろう? 雪月の笑顔を見てると、胸の内が暖かくなってくる。今まで感じたことのない感情に、僕は名前をつけられない。知らないことは、当然知らないことなのだった。


「ちょっとお腹空いてきたかも。東雲くんは?」

「そうだな。僕もそれなりには」

「うん、じゃあ次は私のお気に入りの喫茶店に行こう? 陽だまりの猫と同じぐらい、お気に入りなんだ」

 そうして雑居ビルの二階にある、小洒落たアンティークな喫茶店に入った。

「コーヒーも美味しいんだけど、ご飯も品揃えあるし、どれも美味しいの。料金も意外なことにそんなしなくてね。隠れた名店なんだ」

 僕は雪月の一押しだというクリームパスタを頼むことにした。先に届けられたアイスコーヒーを片手に外の景色を見る。夕焼けのオレンジ色よりも、真っ黒い夜空の割合が強まってきている。次期に日暮れとなるだろう。

「夕焼け、綺麗だね。夜空との境界線があんなにくっきり。まるで絵の中みたい」

「ああ、そうだな」

 その景色は、まるで人生で初めて見たもののように、鮮明に脳裏に焼きつく。いや、実際に初めてなのかもしれない。雨空以外の景色を、雨の中以外の世界をこんなに意識して見たのは。

『魔法以外にも素晴らしいものがあるんだ』

 女の言葉を思い出す。そんなわけあるか、と五年前の僕は心の中で吐き捨てていた。いや、つい最近まで思っていたことだ。そんな腐り切った心に何かが差し込んできたのは、あの日から。空から落ちてきた、雪月を助けてから何かが変わり始めたのだ。

「雪月、さっき江崎に話してた五年前のことなんだが──」

「待って! 私も話したいことがあるの。隠してた……ことになるのかな。それに、ここだと他の人に聞かれちゃうかもしれないし。ご飯食べたら、最後に行きたいところがあってね。そこで話そう?」

 雪月のいう通り、こんなところで話すことではなかった。どうも僕としたことが気が緩んでいたらしい。やはり、雪月といると調子が狂う。その理由を、僕は見つけられないまま、その店を後にすることになった。


 最後に雪月が行きたいと言った場所は、駅前の喧騒から少し離れた自然公園だった。それなりな広さで、学校の敷地と同じぐらいの面積はありそうだ。完全に日も暮れているからか、人気はない。街灯が照らす木製のベンチに並んで座ることにした。

「今日はありがとね。ほとんど私ばっかり楽しい思いをしちゃってたかもだけど」

「まあ、雪月が楽しんだならよかったじゃないか」

「東雲くんは? 楽しかった?」

「……息抜きにはなった」

 嘘だ。息抜きなんてものじゃなく、僕は違う感情を抱えていたはずだ。そう、それはいうなら──

「──いや、楽しかったよ。魔法以外のことも悪くないなって思えた」

「本当に! よかったあ!」

 雪月は僕の答えにほっと胸を撫で下ろしている。なんで雪月は安堵しているのだろうか。

「ねえ見て?」

 雪月が空を見上げているので、僕も何かあるのかと顔を上げる。灰色の雲が所々で夜空を隠しているが、その隙間からは小さな光の点が見え隠れしている。

「ここね、夜だと周りに明かりが少ないから、星が綺麗に見れるの。流石に街の中だから、田舎とかよりかは見えないかもだけど」

 この時、僕は初めて灰色の雲を退けたい、と思った。それほどに隙間から見える星空は綺麗で、見ていて気持ちのいいものだったからだ。

「星空を見上げるとね、思い出すんだ。とっても素敵で、大切な宝物の思い出を」

 そう言って僕に顔を向けた雪月の顔は、今まで見てきたどんな笑顔よりも、一段と柔らかくて、優しい微笑みを浮かべていた。

「私ね、むかし交通事故に巻き込まれたことがあるの。もう八年前になるかな」

 唐突な告白に、僕は首を傾げるしかなかったが、雪月は気にせずに話を続けた。

「奇跡的に外傷はほとんど無かったんだけど、頭を強く打ったせいでね、記憶喪失になっちゃったんだ」

「記憶喪失って……。それまでのことは何も?」

「あ、生活するためのことは大丈夫だったんだけどね。自分のこととか、家族のこととか、友達のこととかは全部思い出せなくて。だから、目覚めた時に心配そうに顔を覗き込んでくるお父さんとお母さん、お見舞いに来てくれる友達、みんな私にとっては知らない人だった。もちろん、忘れちゃったのは私で、みんなの心配が本当のことなのはわかってた。だけどね、頭ではそうやってわかったつもりでいても、どうしても信じられなかったの。家族との関係、友達との関係、みんなが言う私という存在が」

 それまでの人間関係を断たれる……。それはどこかで聞いたような話だった。もっともそいつは、自らで断ち切ったわけだが。

「だから私は孤独だった。突然、異世界に放り込まれたみたいな感じで。みんなの相手をする時も辛かったけど、特に夜は怖くってね。孤独なのがより一層心を締め付けてきて。毎晩泣きながらうずくまってた」

 辛い記憶だろうに、話す雪月の表情からは辛さを感じさせなかった。自分の子供の思い出話をするような、そんな穏やかさで話し続ける。

「ある時にね、病室にいるとまた知らない人が訪ねてくるのが怖くて、病院の屋上に上がったことがあるの。そこには誰もいなくて、でも晴れた青空を見上げてるのは、夜みたいに心細くならなくって安心した。いい逃げ場所を見つけたなって思いながら、上機嫌にスキップしながら病室に戻ろうとした時、階段で足を踏み外しちゃったんだ。手すりに伸ばした手は空を切って、『あ、もう駄目だな』って思った。せっかくいい場所を見つけたのに、ここで死んじゃうんだって。……でも、私は助かった。ううん、助けてもらったの。それも当時の私と同じぐらいの男の子に」

 それはとても綺麗な話で。雪月が本当に大切にしている、宝物の記憶なのだろう。雪月はその胸の内に当時の記憶を抱えているように、胸に手を当てながら話し続ける。

「尻餅をつきながらもね、私を抱き抱えて助けてくれたの。その男の子はね、『おじいちゃんのお見舞いに来てるんだけど、お父さんが外で待ってなさいっていうんだ。だから一緒に遊ぼう』って。二人で屋上に戻って、色んな話をした。私の記憶喪失のことも話したの。そうしたらね、その男の子が言ってくれたの。『じゃあ僕と友達になってよ。今の君との、本当の友達に』って。私の初めての友達。私の憧れのヒーロー。その男の子の名前は──」

 雪月が告げたその名前は──東雲灰夜。

 その男の子とは、僕のことだった。

「その日の別れ際に、また一緒に遊ぼうって言ってくれて。その日から、私は夜が怖くなくなったの。その日の夜に見た満天の星空。今でもはっきり覚えてる。──それからも何度か一緒に遊んだんだけど、私の方が退院と同時に親の都合で引っ越すことになってね。退院の日もその男の子は会いにきてくれて。私、本当にみっともないぐらい泣いたなあ。お父さんとお母さんに無理やり車に乗せられても、泣きじゃくりながら窓から顔を出してその男の子に手を振り続けた。男の子も私が見えなくなるまで、ずっと手を振りかえしてくれてた。──これが私の大切な宝物の話」

 胸に手を当てているその仕草は、まるで本当に胸の内に仕舞っているモノに触れているように見えた。

「引っ越してからは、その思い出を忘れずに、心機一転頑張ろうって思ってね。私は失った記憶を埋めるように、色んな事に挑戦した。勉強も、習い事も、あらゆることに挑戦し続けた。それはね、私もあの男の子みたいなヒーローになりたかったからなんだ。格闘技を習ったのもその中の一つね。前に話したお気に入りの本ね、がむしゃらに頑張ってたその頃に手に取ったの。主人公の女の子が困ってる人たちを助けるお話。そうして私は困ってる人たちの力になれるようがむしゃらに動き回った。今の学校でもヒーローツッキーなんてあだ名があるみたいだけど、中学の頃も似たような名前で呼ばれてたなあ。私はまだまだ、本物のヒーローに追いついていないのにね」

「雪月、僕は──」

「僕はヒーローなんかじゃない。って言うんでしょ? でもね、この話には続きがまだあるの」

 心を読まれた僕は、まるで魔法みたいだ、なんてくだらないことを思う。

「引っ越した先では私のことを周りの人は知らないのが当然だから、友達もいっぱいできた。だけどね、どうしてもお父さんとお母さんとの関係はギクシャクしちゃって。二人が本当に私に愛情を注いでくれていることは考えるまでもないことだったけど、それでも……どうしても薄い透明な壁を私は作ってしまう。だから、高校デビューと共に一人暮らしを始めたの。親は最後まで心配だからと反対してたけど、最後は私の粘り勝ち。そうして私はこの街に戻ってきた。この街の学校を選んだのは勿論、もう一度あの男の子に会うため。まさか同じ学校で会えるなんて思ってなかったけど」

 フフッと柔らかく微笑む雪月。ここまでの話で思い当たることが一つだけある。それは、確か入学式の時。面倒な行事を終えて、帰ろうとした時に下の名前で呼びかけてきた女子がいたような──

「私は奇跡だって思った。あれから七年経ってたけど、名前も忘れるわけないし、ちょっと顔つきが変わってたけど、面影もあった。『灰夜くん! 久しぶり! 私、雪月晴月。あの病院以来だね!』って声をかけたんだ。その時のこと、覚えてる?」

 悪戯な笑みを浮かべて聞いてくる。今の今まで、記憶になかったことだが、必死に脳をかき混ぜて思い出す。淡々と目立たないように過ごしてきた僕にとって、あれはちょっとしたイベントだった。だから、そのかすみがかった記憶をつかみ取れる。

「……その時、僕はこう言ったな。『誰だあんたは?』って」

「そう! その通り! もう頭の上からガーンって言葉が降ってきたような衝撃! なんと! 私は忘れられてたのでしたー!」

「いや、待て、それには理由が──」

「なーんてね。大丈夫。もう気にしてないよ。その時の私は三日寝込んだけど」

「……悪かったよ」

「だからもう気にしてないって。それにね、今はこうして話せてるんだから」

 悪戯な笑みのまま、雪月は僕の顔を覗き込んでくる。その仕草で、何故か僕の胸は締め付けられる。僕は思わず顔を逸らしてしまった。

「だからね、灰夜くんは私のヒーローなの。八年前の病院でも、こないだのビルから落ちた時も、さっきの廃工場でだって、私を助けてくれた。ううん、こうして一緒にいてくれるだけで、私は助けられてるよ」

「一緒にいるだけで……?」

「うん、すっごい助かってる。だからね。──ありがとう、灰夜くん」


 どうやら僕は壊れてしまったらしい。

 抑えられない胸の高鳴り、隠しきれない紅潮した顔、いつものように適当な相槌が出てこない。

 そう、とっくに壊されてしまっていたのだ。灰色の世界に、色とりどりの絵の具を使って。見て見ぬ振りは、もうできなかった。


「──僕の話をしてもいいか?」

「うん、聞かせて?」

「五年前のこと……いや、この場合は八年前のことから話すべきだな。僕が魔法使いになって八年って話は前にしたな」

「うん、覚えてるよ」

「そう、八年前。正確には夏休みが終わって、秋に季節が移り変わってすぐの頃。つまり、病院で雪月と会った後のことだ」

 おそらく、そういうことだろう。だから、今の僕には雪月が語ってくれた記憶がない。

「入院していた祖父が亡くなって少し経った後、僕は父から大切な話があると言われた。その日の家の中はやけに空気が冷たくて、外で降る雨音も不思議なぐらい静かだった。そして父は僕の世界を作り変えた。平凡な日常から、魔法という非常識が常識となる世界へ。僕はその魔法という存在に、ただただ心を奪われた。自分にも使える力だと知って、心が躍った。その日、僕の中に新しいスイッチが作られて、そいつはすぐに仕事をした。魔法使いとしての自身が全てで、それ以外を切り捨てるスイッチだ。翌日からは、魔法に関係のない全ての日常が色を失った。モノクロの灰色な世界になったんだ。当然のように、過去の記憶も切り捨てられた。魔法使いとしての自分に必要ないことだからだ」

 その時の僕はなんの躊躇もなく切り捨ててしまった。それがどれほど愚かなことなのか、考える余地もなく、だ。

「だから、病院でのことは覚えてないんだ。すまない……」

「そんな! 謝らなくていいよ! それぐらい、衝撃的なことだもんね。魔法が実際にあるなんて」

「……そうだな、少なくとも当時の僕にはそれほどの衝撃だったんだ。それからは雨が降るたびに魔法の修練をして、雨が降らない日は、意味のないことだと淡々と心を殺して過ごしてきた。遊びに興味を無くした。友人も失った。夢もない。ただ、魔法使いとして精進する人形となった。そうして中学に上がったころ、ふと疑問に思ったんだ。僕は魔法使いとして、何を目標にすればいいんだろうって。なんのために魔法の修練をしてるんだろうって」

「確か、前に話してくれたよね? 魔法使いは、魔法を後世に残すためにあるって」

「そう、それが父から魔法を教わった理由であり、目的だ。父は何度も話していた。『生命の目的は、知識を伝えることにある』って。僕は納得できなかった。僕は自分が歯車の一つになるのが嫌だったんだ。自分が何者なのか、僕は何者かになりたかった。そんな風に灰色の世界を彷徨ってる時、あの男とあの女に出会った。それが五年前だ」

「五年前ってことは、私たちが中学一年生の頃?」

「ああ、雨の日に街で江崎とその取り巻きに絡まれて……いや、違うな。僕が絡んでいって、路地裏に引き摺り込まれて江崎にボコボコにされた。当時はまさに今僕らが追ってる天罰事件、五年前時点では最後の事件が起きた直後だった。当時から僕は犯人が魔法使いだと思っていた。ご丁寧に雨の日にしか事件は起きないからな。それに感化されてか、僕は江崎たちを……殺そうとした」

「え……でも」

「それは未遂に終わったけどな。僕が魔法を使う直前、あの女が止めに入ってきたんだ。赤い傘の、あの女が」

「それじゃあ、あの女の人は悪い人じゃない……ってことじゃ」

「どうだろうな。魔法を惜しげもなく、隠す気もさらさらなく使って江崎たちを叩きのめして逃した後、その女は自分が人殺しだと言った。どういうつもりで、何のためにやってるのかは知らないが、自らが人殺しであることを認めた。それは事実だ」

「でも灰夜くんを助けてくれたんだよね?」

「僕を助けたのか、それとも殺されかかった江崎たちを助けたのかわからないけどな。女との会話は少しだったから、その女の外見と魔法使いであること、それと……名前ぐらいしかわからない。雨宮暁子(あめみやきょうこ)と名乗っていたが、偽名の可能性もある。つまり、だ。僕は赤い傘の女と面識があるが、持ってる情報はそれだけしかない。とはいえだ。黙ってて悪かったな」

「そんな! 謝ることじゃないよ。……でも、やっぱりその人と会って話したいって気持ちは強まったかな。どうしてあんな酷いことをするのか、その理由が知りたいの」

「……もしその理由が、やむを得ない事情だったらどうする?」

「それでも──人殺しはよくないってやめさせるよ。人の命を奪うってことはその人の過去と未来を奪うことだから。許されていいことじゃない」

「……そうだな、その通りだ。僕はヒーローなんかじゃない。一歩間違えればあの女と同じ、人殺しになっていたんだ。雪月が憧れるような東雲灰夜は、もういないんだ」

「でも灰夜くんは、その一線を越えなかった。そうでしょう?」

「僕が越えられなかったんじゃない。止められたからだ。あの女が止めに来なければ、僕はその一線を越えていた」

「それはもしもの話だよ!」

 気づけば、雪月は僕の左腕を強く握っていた。

「もしかしたらそうなってたかもしれないけど、逆にそうしなかったかもしれない。灰夜くんはその道を選んだようで、一歩を踏み出してない。誰だって誰かを殺してやりたいってほど憎むことだってある。でもその道を踏み出さない。灰夜くんだって踏み出してない。だからおんなじなんかじゃないよ!」

 僕の腕を強く握る右手と、涙が滲む瞳が隣にある。どうやら僕が認めるまで、離してくれそうにない。

 僕は自分のことが嫌いだった。何者にもなれず、何にも興味が持てない。一歩間違えていたら人殺し。最低なやつだ。

 だけど、雪月の瞳にはそんな風には映っていないらしい。

 雪月にとってのヒーロー。それを言うなら、僕にとってのヒーローは──

「……そうだな。わかった。僕が悪かったよ。後、結構左腕が痛い」

「あっ! ご、ごめんね! 傷もあるのに……ってそれは右腕だったね。もう傷は大丈夫なの?」

「ああ、跡は残るだろうけど問題ない。雪月が手当してくれたおかげだ」

「そっか。何度も言うけど、ありがとう。次は絶対に足引っ張らないからね!」

 いつだったか、あの水の化け物なら何とかできるかも、と言っていたのを思い出す。あの時は不思議に思ったが、確かに鮮血の雪女なら対処出来そうだと今なら思う。僕一人ではあの女に敵わないけど、雪月もいればあるいは──。可能性はあるかもしれない。いや、その可能性を掴まなければ僕たちは殺されて終わりだ。そんなつまらないルートには踏み出すわけにはいかない。

「ああ、僕も努力するよ」

 そうして二人でしばらく夜空を眺めて過ごした。満天の星空とは言えないけど、この夜空は僕にとって特別なものだった。これは忘れることのない、確かに今の僕に刻まれた思い出だった。


 そうして夜は更けていく。事が起きるのは午前零時を回った頃。雪月と別れ、すでに寝入っていた時に、新たな惨劇は起きていた。

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