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 雪月の住まいは、クリーム色の五階建てマンションの一室だった。エレベーターで最上階に上がり、一番奥の扉へと入る。

 家族は? と言う僕の問いに、一人暮らしだから、と雪月は寂しそうに答えた。

 渡されたタオルで髪を拭きながら、案内されたリビングへと入る。雪月という名前らしい、白を基調とした明るい部屋だった。暗闇に目が慣れていたので、蛍光灯の灯りが眩しくて目を細める。

「濡れてるのは気にしないでいいから、座って待ってて。すぐに着替えてくるから。……女物しかないけど、東雲くんも着替える?」

 雪月のおずおずとした提案を却下すると、「だだだよね!」と慌てながらばたばたと忙しなく廊下へと消えていった。

 部屋の中央にガラス製の足の低いテーブルがあって、周りにカラフルなクッションが置いてある。僕は少し悩んでから、赤色のクッションに腰を下ろすことにした。

 他人の家にあがったのなんていつ以来だろうか。少なくとも魔法使いとなった八年前からは記憶にない。それ以前はあったのだろうが、思い出すことはできない。魔法使いになる前の常識の中で生きていた自分は捨ててきたからだ。思い出す必要もないので、記憶はない。

 それよりも考えることがある。

 僕は咄嗟のこととはいえ魔法を使って助けたことにより、魔法使いであることが雪月に知られた。魔法使いであることを隠さなければならない、魔法を他人に見せてはならない、という二つの掟。この二つを僕は破った。雪月の記憶を消す、なんてことができればいいのだが、生憎そのような魔法を僕は使えない。なので、なんとしても口止めをしなければいけない。

 そしてもう一つの問題。あの幽霊ビルを出た時に見た、目撃者のことだ。どこまで見られたのかはわからない。それなりに距離があったが、僕の顔は見られただろうか。雪月の口止めに成功したとしても、もしあの目撃者に僕の正体を言いふらされたら。もしそれが『委員会』の耳に入ったら。僕は命を狙われる。魔法使いとしての正体を委員会に知られた時点で詰みなのだ。

「……はあ」

 もはや赤い傘の女に会いに行くどころじゃない。僕はこれから、委員会からの刺客に怯えながら生きていかなければならない。

 どうしてこんなことになったのか。それは単純で、僕が雪月を助けたから。なら何故助けたのか。……これがわからない。考えても答えが出ない。僕以外の人間なんて、どうでもいいのではなかったのか。

「ごめんね、お待たせ!」

 出て行く時と同じようにばたばたと忙しなく雪月が部屋に入ってきた。白いTシャツに白のハーフパンツへと着替えていて、首には白いタオルがかかっている。手には救護箱が抱えられていた。

 雪月は僕が怪我をしている右腕側に腰を下ろす。

「手当するから、上着脱いでもらってもいい?」

 僕は黙って上着を脱ぐ。予想通り、擦り傷というには深い切り傷だった。今になってようやく痛みを感じ始める。おそらく縫うほどではないだろうが、今も血は止まらずにいた。

「まずは消毒ね」

 そう言って慣れた手つきで雪月は手当を始める。

「慣れてるんだな」

「え、そうかな。前にちょっと勉強したことがあるから、かな」

 照れたそぶりをしながらも、テキパキと手当は進んでいく。

「東雲くん、ちゃんと髪拭いた? まだ濡れてるよ」

 そう言って首にかけていたタオルを頭に被せてくる。なんだろうか。面倒見のいいやつなんだな、と思う。少し異常な正義感といい、ヒーローと呼ばれるのも頷ける。やっぱりこいつは僕とは正反対だな、と改めて感じた。

「──包帯巻いて、と。うん、これで大丈夫」

 顔を上げた雪月と目が合った。雪月は寄り添うように近づいて手当をしていたので、お互いの顔はかなり距離が近い。雪月は驚いたように目を丸くすると、顔を真っ赤にして僕から飛び退いた。なんなんだいったい。

「えと、あの……暖かいのでも入れてくるね! 東雲くんは珈琲とか平気?」

「ああ、大丈夫だけど」

 コーヒー党の僕としてはありがたいことだった。「わかった!」と大きな声を響かせながら、雪月はキッチンへと消えていった。


「東雲くん、本当にありがとね。助けてくれて」

 向かいに座った雪月は、湯気の立っているマグカップで手を温めながら僕に頭を下げた。

「それに、あの水の化け物みたいのが出てからも……。足をひっぱちゃった。魔法ってあんなこともできるんだね」

「まあ魔法使いなら誰でもってわけじゃないが。そのことも含めてだけど」

「うん、わかってる。秘密……だよね?」

「話が早いな」

「私は今まで生きてきて魔法使いの人と出会ってこなかったし、存在も知らなかった。それは正体を隠して生きているから、だよね」

「……その通りだ。魔法使いは正体を明かしてはならない。魔法使いの大原則だ」

「ってことはあれかな、東雲くんとあの女の人以外にも、他にも魔法使いの人がいる?」

「そうだな。みんな普通は大原則を守るからな。あの女は例外だが」

 人間業とは思えない殺人方法で巷で騒がれながら、あの女はあのビルの屋上に立っている。まるで誰かを待っているかのように。

「とにかく、僕が魔法使いであることは黙っていてほしい。他言無用は絶対だ」

「秘密なのはいいけど……、どうしてそんなに隠すの? 魔法使いなんて凄いことなのに」

「魔法使いであることがバレると命を狙われるからだ」

「え、それはどうして?」

 雪月は純粋に気になっているのだろう。さて、どこまで話したらいいのか……。悩んだが、もはや正体はバレているのだ。ここまできたら理由を話したところで変わらないだろう。

「……魔法使いを目の敵にしている『委員会』という組織がある。そいつらは魔法使いを殺すための組織だ。魔法は人の扱うものではないと、魔法という存在そのものを根絶やしにするつもりらしい。幸い僕は会ったことはないが、目的のためなら手段を問わない。そういう連中だそうだ」

 物騒な話だが、雪月は黙って真剣に僕の言葉に耳を傾けている。

「その魔法使いの人となりは関係ない。そいつらに言わせれば、魔法使いであること自体が罪なんだそうだ。だから、魔法使いは正体を隠している。僕もその一人ってわけだ」

「……凄い話だね。でも信じるよ。東雲くんが言うのなら」

 何を持って僕の言葉を信頼しているのかはわからないが、素直に信じてくれるのは助かる。

「少し疑問に思うんだけど……。私を襲った魔法も凄かったけど、東雲くんもパイプ椅子を触らずに動かしてた。あれも魔法だよね。あんな魔法を使えるなら、委員会って人達も倒せそうだけど」

 確かに、雪月の言うとおりだ。これまでの説明だけならば。

「魔法使いはな、いつでも魔法を使えるわけじゃないんだ。『雨が降っていること』、これが魔法を使える大前提だ。雨が降っていなければ、他の人間と何も変わらない」

「委員会の人達は雨が降ってない時に襲いに来る、ってこと?」

 僕は頷いて肯定した。理解が早くて助かる。

「これでわかったろ。僕が正体を隠す理由。雪月には黙っていてもらわないとならないし、それにあの目撃者もなんとかしないと……」

 これが一番、頭を悩ませていることだ。相手の姿は見えなかった。もはや祈るしか僕に出来ることはない。

 僕は手元のカップを手に取り、湯気だつ珈琲を口に運ぶ。うん、甘い。僕はブラック派なんだが……。

「目撃者って、あの幽霊ビルを出た時にこっちを見てた人だよね?」

「ああ、雪月も見てたのか」

「うん、顔までは見えなかったけど、うちの制服だったね」

「うちの制服? そこまで見えたのか!?」

「えっと、うん。何か羽織ってたけど、確かにうちの制服だったよ。あれはうちの高校の男子だった。私、昔から視力良くて」

 雪月の言葉に僕は天井を仰いだ。これは不幸中の幸いだ。目撃者はうちの高校の男子だった。これだけの情報ではまだ見つかるかはわからないが、一筋の光だった。これは雪月を助けていたからこそ得られた大事な情報となった。

「東雲くん、私、あの男子を探すの手伝うよ」

「……なんで?」

「なんでって、東雲くんの命がかかってるんでしょ? 力になれるならなんでもするよ!」

 雪月は身を乗り出しながら大きな声で言う。人付き合いを全くしてこなかった僕からすれば、人探しに協力してもらえるのは正直助かるが。

「その代わり、ってわけじゃないんだけど。お願いがあるの」

 姿勢を元に戻しながら静かに雪月は言った。

「私、あの犯人が許せないの。殺された人達がいくら不良だったり、半グレ? って呼ばれる悪い人たちだからって、許されることじゃない。でも、警察の人たちは捕まえられずにいる。しかも犯人は魔法使いだから、警察の人たちが犯人を見つけても返り討ちに合うかもしれない。そんなの絶対だめ」

 静かな声だが、その言葉には強い想いがこもっている気がした。雪月は本当に犯人を許せずにいるようだ。

「なんだ? 雪月は知り合いでも殺されたのか?」

「ううん、殺された人たちは知らない人たちだけど。でもそんなの関係ないよ。犯人は平和な日常を壊している。それは許せないこと。だから私にできることがあるなら何かをしたいの」

 雪月の想いは、僕には理解できないものだった。殺された被害者たちが何者でも関係ない、知り合いでもそうでもなくても関係ない。それはそうだ。どうでもいいから。どうでもいいから誰が殺されようが関係ない。僕はそう思ってる。雪月は僕とは正反対だ。正反対だから、理解できない。そもそも他人の想いを理解しようと思ってこなかった。

「でも、私一人じゃ何もできずに殺されてた。だから東雲くん、私も一緒に、犯人を捕まえるのを手伝わせて欲しいの」

 やっぱり理解できない。二度も殺されかけたというのに、雪月の心は折れていなかった。

 それに、今の雪月の言葉に引っ掛かるものがあった。犯人を捕まえるのを手伝わせてほしい、そう言ったな。雪月は勘違いしてる。僕は何も事件を解決するために動いてるわけじゃない。

「雪月、何か勘違いしてるようだが──」

「あぁあ! ごめんね! いつもの癖で珈琲に砂糖入れちゃった! もしかして東雲くんはブラックのほうが良かった?」

 入れ直そうか、なんて言いながら腰を上げようとする雪月。違う、そうじゃない。そうなんだが、そうじゃない。

 ……うん、なんだかどうでもよくなってきてしまった。珈琲の甘さが僕の脳を溶かしてしまったのだろうか。それとも、雪月の暖かなオーラがそうさせるのか。

「珈琲はこのままでいいよ。それと犯人を一緒に捕まえるって件も、また足を引っ張ったりしなければ。僕もあの女には用がある」

 僕の言葉を受け、雪月はぱっと明るく笑った。

「ありがとう! 東雲くんが一緒なら頑張れるよ!」

「いいけど、知っての通り相手は魔法使いだ。次も助けられる保証はないぞ」

「さっきは面食らっちゃったけど、次は大丈夫。自分の身は自分で守るよ」

 雪月は力強くガッツポーズして見せた。


 雪月から借りたビニール傘を手に持ちながら、僕は灯りの乏しい帰路を歩いている。雪月の家を出る頃にはそれまでの降りが嘘のように雨は弱まっていて、差し出された傘を一度は断ったのだが、「風邪ひいちゃったら大変だよ!」と強引に渡されたものだった。

 予想通り、歩き始めてすぐに雨は止んでいた。雨が止んだのなら、あの廃ビルに引き返す理由はない。もし引き返していたとしても、雨が降っていなければあの女には会えないだろう。なぜかその考えには確信があった。

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