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 自分が魔法使いであることは隠さなければならない。これは魔法を教えてもらった八年前のあの日、初めに教えられたことだ。


 学校から足早に帰宅した僕は、玄関の脇にカバンを置いて二階に上がる階段を横目に廊下を進む。正面のリビングへと続く扉を前にして足を止める。左手でざらついたクリーム色の壁に触れた。なんの変哲のない壁だ。そんな何もないように見える壁を正面に見据える。

 その無機質で冷たい壁に触れながら、僕はいつものように呟く。

「ein Engel geht durchs Zimmer」

 僕の言葉に反応して、触れていた箇所から壁に波紋が広がった。まるで水面のように波立つ壁に、触れていた手が吸い込まれる。そのまま足を進め、壁を通り抜けていく。

 壁を通り抜けた先には、石壁と石段が下へと続いていた。所々の壁にくり抜かれて置かれたランタンが、ぼんやりと地下へ続く石段を照らしている。

 初めてここに足を踏み入れたときは、まるで中世ヨーロッパの城の地下に迷い込んだのかと思った。だが、別に時間旅行をしたわけでも、空間転移した訳でもない。元々この家に隠された場所に来ただけだ。

 コツコツと靴音を響かせながら石段を降りきると、木製の古びた扉が待っていた。その部屋は魔法使いだけの秘密の部屋、僕にとっては魔法を修練する為の場所だった。

 魔法使いであることは隠さなければならない。だが、魔法の修練は雨が降るたびに欠かさず行わなければならない。なので、雨が降る度に僕はこの部屋に潜る。部屋の外では、父が付き添っている時以外は魔法の使用は厳禁だった。

 ギィと鈍い音を立てながら開く扉の先には、秘密の地下室が僕を迎えてくれた。広さは自室より少し広い、八畳ほどはあるが、地下なので窓もなく、壁面に敷き詰められた背の高い本棚のせいで、自室よりも息苦しく感じる。光源は天井から吊るされたランタンだけで、その灯りは頼りない。部屋の中央に置かれたテーブルに描かれた魔法陣を、寂しく淡く照らしている。

 ひんやりとした空気が頬を撫でる。相変わらず、この部屋は季節を問わず空気が冷え切っていた。


 僕はいつも通りに本棚から決まった本を取り出し、栞の挟まれたページを開く。そんな古びて黄ばんでいる僕の修練道具をテーブルに置いて、修練の準備を整える。

 昼間の沢田の話だと、赤い傘の女が現れるのは深夜とのことだった。それまでの時間で僕は雨の日の日課である、魔法使いとしての修練をすることにした。

 改めて考える。赤い傘の女に会ったとして、僕はどうしたいのだろうか?

 何を話したいのだろうか?

 何を伝えたいのだろうか?

 何を求めているのだろうか?

 僕は世間知らずの上に、自分自身の心にも疎いようだった。

 魔法使いとして、魔法の修練をこうして続けるしかない。それだけ。今の僕には、本当にそれだけしかなかった。

 僕はいったい、何者なのだろうか?

 僕はいったい、何者になりたいのだろうか?

 独りの僕の問いに答える者はなく、虚しい自問自答は虚空を彷徨い、冷えた空気に溶けて消えていった。


 深夜にかけて、雨足は強くなる一方だった。風も強く吹いていて、まるで嵐のような雨の中、僕は噂の廃ビルに向かって歩いている。いつもの灰色の傘をさしてはいるが、横殴りの雨は容赦なく僕の体を濡らしていく。

 家から目的地の廃ビル、通称『幽霊ビル』までは歩いて三十分ほどだ。当然のことに月明かりはなく、この時間帯は明かりを灯している家などほとんどない。点々とある街灯だけがぼんやりと力なく照らす、人気のない住宅街を抜けていく。


 時刻は午前零時をすぎたところ。噂通りならば会えるはずだ。赤い傘をさした、あの女に。

 深夜という遅い時間に加えてこの天気だからか、目的地までは誰ともすれ違うことはなかった。賑やかな駅前の大通りを通ることがないルートとはいえ、少し気味が悪い。まるでこの世界から人が消えてしまったかのよう。それはそれで気楽な気がして僕は苦笑する。そんな下らないことを考えながら、目的地の幽霊ビルに辿り着いた。

 僕は意を決して、八階建ての屋上を見上げた。雨のせいで視界が悪いが、そこには確かに人影が見えた。

「……なんだ、あれ」

 そこには噂通り、赤い傘をさした人影がある。その人影は屋上の縁に立っていて、赤い長髪が風になびいていた。

 ここまでは聞いていた通り。噂は本当だった。だが、僕が驚いているのはそこではない。

 赤い傘の女の正面には、別の人影がビルから突き出されたようなところで浮遊していた。

 浮遊している? いや、あれは正確には浮遊させられている、だ。その証拠に、浮遊している人影は足をばたつかせてもがいている。

 予想通り、あの赤い傘の女は魔法使いだ。おそらく僕が以前会ったあの女と同じ──

「──なっ!」

 それは何の合図もなく、唐突だった。赤い傘の女が魔法を解いたのだろう。浮遊していた人影が重力という常識を取り戻し、地面へ向け落下してきた。


 八階建てのビル。その屋上から人が落下している。

 考えるよりも先に体が動いた。

 傘を放り出して全速力で駆ける。

 後から遅れてついてきた思考が騒ぐ。

 ──絶対に間に合わない!

 それよりも、間に合ったとして受け止められるのか?

 いや、そもそも何故自分はこんなに必死に駆けているのか?

 魔法以外はどうでもいいと生きてきて、煩わしい人間関係を絶ってきた僕が、なぜ他人を助けをしようとしているのか?

 ……いや、そもそも間に合わないのだから助けられない。

 数秒の後、地面に叩きつけられて醜く潰れた死体を想像する。そんなモノを見ても自分は何も感じない、そういう人間だと思ってきた。

 胸がざわつく。

 吐き気がする。

 乱れる息が苦しい。

 防げない他人の死には何も感傷はない。きっと僕はそういう人間だ。

 だが、防げる死を見過ごすのは違う。そう心の奥底から、何かが、誰かが訴えかけてくる。

 だがどうしろっていうんだ? 物理的に、僕がどれだけ全力で駆けても間に合わないのだ。

 ならばどうする? 

 その答えを、その力を僕は持っている。

 常識では助けられないのなら、非常識で。

 不可能なら、それを可能にする。

 そう、そんな空想こそが魔法だ。 

 魔法を使えば、目の前でこれから起きる死を回避できる。

 瞬間的にイメージを作り上げる。

 想像(イメージ)する。

 創造(イメージ)する。

 今にも地面に叩きつけられて、確実な死が待っている誰かを助ける。

 決して届くことの無い手を伸ばして、よりイメージを明確にする。

 今まで人間相手に使ったことは無い。

 ──だが、やるしかない。

(私は自分勝手に生きるって決めてるんだ。君も少しは自分に素直になったらどうかな?)

 頭の中でいつかの誰かの声がした。


 ──死の形が出来上がる筈だった場所まで辿り着くと、少女がふわふわと宙に浮いていた。非常識な光景。僕の魔法によるものだ。

 ゆっくりと降りてくるその体を、両腕で抱き抱える。雨ですぶ濡れになっているからか、その体は驚く程に冷たい。まさか既に死んでいるのかとも思ったが、僅かに胸の辺りが上下していることで、息があることがわかる。

 それにこの顔。この少女を僕は知っていた。雨に濡れた黒髪のショートヘア。色白だが、不健康さを感じさせない淡麗な容姿。そして何よりも、ずぶ濡れだがよく見慣れた、僕が通う水上高校の制服。

「……ん」

 腕の中の少女がゆっくりと目を開いた。涙か雨か、潤んだ瞳は僕と目が合うなり大きく見開かれる。

「……え……灰夜……くん?」

「雪月……だよな?」

 落下してきたその少女の名前は雪月晴月。僕のクラスメイトだった。

 こんな時間にこんな場所で何を? という疑問と、急に下の名前で呼ばれたことへの驚きで僕が言葉に詰まっていると、雪月は安堵したようにふふっと笑みを浮かべて言った。


「灰夜くんはやっぱり、ヒーローなんだね」


 ヒーロー。その言葉は僕にとって、とても縁遠い言葉だなと思った。

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