エピローグ

エピローグ

「それが、夢咲雪奈との出会いか」


 僕と雪奈さんの出会いを語り終えた直後、一言も声を発することなく話を聞いていた対面の男が、身に纏う濃紺色の衣服で手汗を拭い、僕に言った。テストの問題が解けない受験生のように悩ましそうな表情で、メーカー不明のボールペンをこめかみに押し当てている。視線を少し下に向ければ、数十分前まで白紙だったコピー用紙には多くの文字が記されていた。逆さのため読みづらいが、内容は僕が語った思い出話を要約したもの。話に耳を傾けながら、熱心にメモを取っていたらしい。

 用紙から視線を外し、僕は男に頷きを返した。


「ここから先は、ありきたりで退屈な話しかありません。恋人になって、平凡な生活を送って、彼女と暮らすために転職して、同棲して、身体を重ねて……生きていれば誰もが経験する、真新しさもないつまらない思い出ばかりだ」

「聞いている限りだと、順風満帆なように思える。不満の一つもないとは言わないが、世間一般的で言えば十分以上に幸せな生活だろ」

「でしょうね。僕も、幸福だとは思っていました」

「だからこそ、理解ができないんだ。幸せを感じていて、満足の行く生活を送っていて──」


 こめかみに押し当てていたボールペンを右手の指の間で何度も回転させ、男は『警視庁』という文字がプリントされた胸元から一冊のメモ帳を取り出し、僕を目を睨みつけるように覗き込んだ。


「なんで──夢咲雪奈を殺したんだ」

「……」


 即答することなく沈黙を挟むと、男──取調官は手に取ったメモ帳を開き、そこに記されているのであろう事件の一部を読み上げた。


「四乃森蒼二。お前は同棲していた恋人の夢咲雪奈を出刃包丁で滅多刺しにして殺害した後、遺体の首を切断した。推定死亡時刻のおよそ10時間後、被疑者であるお前自ら警察へ通報し、事件は発覚した……あまりにも残忍で、惨たらしい。ただの喧嘩じゃない事情があるのかと思っていたが、話を聞く限り、お前は夢咲雪奈を恨んでいたわけではない」

「えぇ。僕は雪奈さんのことを全く恨んでいませんよ。寧ろ、今でも好きで愛しています。だからこそ僕は、息絶えた雪奈さんを10時間近く抱きしめていたんですから」

「抱きしめていた?」

「はい。正確には──彼女の首を」


 取調官は手にしていたボールペンを机上に落とし、唖然とした表情で僕を見つめた。この男は頭のネジが外れているんじゃないか。そんな疑問が視線には多く含まれているのがわかった。

 そして同時に、彼は思っている。

 調べたはずだ。僕が幼少期に経験したことを。それを知っているからこそ、何故また、同じことをしているのだ、と。


「なんで、首なんか──」

「休職中に言った東京旅行で、学んだんです」

「……何をだ」

「破壊の快楽を」


 告げ、僕は机上で両手を組んだ。


「ナイトクラブで知り合った男に連れられて行った薬物バーで、教えて貰ったんです。人間は一生懸命、苦労して作ったものを一気に壊すことに楽しみを覚える生き物だって。苦労して作ったものほど、壊した時の快感が大きくなるって。思い返してみれば、心当たりがあった。あの日、あの時、父が母を殺した時、父はとても楽しそうだった。切断した母の首を、まるで手柄のように持ち上げて、満面の笑みを浮かべていた。何年もかけて作り上げた家庭を壊した快感を味わっていたんです。僕は──それが欲しかった」

「……」


 呆然とした様子で僕の話を聞いていた取調官は我に返り、慌てた様子で今しがた僕が話したことを紙面に記入する。次いで、書き終えた文を自ら読み直し、指先でこめかみを引っ掻き再度僕に尋ねた。


「首を切り落とした理由はわかった。で、もう一つ、その首を抱きしめた理由は?」


 その問いに、僕は両手にその時の感覚を呼び起こし、心地よさを覚えながら答えた。


「安らぎが欲しかったんです」

「安らぎ?」

「はい。小さい頃に母の首を抱きしめた時、僕はとても安心した。母は口を開けば宗教のことばかりで、僕に暴力を振るい続けていましたが、あの人が息絶えて何も喋らなくなり、動かなくなり、静かに僕の胸に収まった時、心が安らいだ。その時のことが──僕はずっと忘れられなかったんです」


 今になって考えてみれば、きっと僕は、雪奈さんの首を抱くために彼女を助けたのだろう。薬の依存から脱却させ、彼女の母と理想的な最後を提供したのも、僕の欲求を満たすため。母親から愛されたいと思っていたなんて、時には思ってもいない嘘も吐いた。そのことに罪悪感は抱いたけれど、それを我慢し、胸の奥底に沈めた甲斐もあって……僕は目的を果たすことができた。

 満足だ。目的を果たしたことに、僕はとても満足している。


「……狂人だな」

「それ、差別用語ですよ」

「これ以外にどうやってお前を表現できるって言うんだ……で」


 カタ、と音を立ててボールペンを机上に置いた取調官は一呼吸置き、一番聞かなくてはならないことだと前置きした質問を僕に投げかけた。何としてでも聞き出す、という固い意思を感じさせる視線で、僕を射抜きながら。


「お前が被害者を手にかけた動機は、何なんだ?」

「ややこしいものは何もないです。至極単純で、シンプルなものです」


 隠すことなど何一つない。僕は取調官の鋭い視線を正面から受け止めた。

 最初から不変だ。僕の目的はただ一つであり、一ミリも変化など生じていない。シンプルで誰にでもわかる、とても明快な理由。

 上体を僅かに前へと傾け、腕を置いた机に体重を預け、僕は胸に満ちる満足感にこの上ない幸福を表現する微笑を浮かべ──告げた。


「ただ、楽しくなりたかったんです」

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ただ、楽しくなりたかったんです 安居院晃 @artkou

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