第6話 死兆星を見ましたが、記憶を取り戻しました。
私は剣道の道場主を父に持つ娘。
傍目には由緒正しい士族の娘に見えたらしいけど、内情はまるで違った。
警備員のバイト中、私は亡くなった。
『板垣真矢、死んでしまったのはこちらのミスよ。あなたは本来、家族との確執を乗り越え、結婚して幸せな家庭を築かなければならなかったの。お詫びに記憶を残しておくわね』
天の采配により、私は板垣真矢としての記憶を持ったまま、クレイン帝国のカーライル公爵の第一子として生まれた。
つまり、転生。
揺り籠でゆらゆら揺られている頃から、板垣真矢としての記憶があった。おむつの交換が恥ずかしかったものよ。
お父様は恋人のヘンリエッタを愛したまま、西国の王女のお母様と結婚した。けれど、大貴族としての立場をよく理解していた。表向き、お母様を大事にして夫婦生活を続け、私が生まれたんだ。
「アイリーンはそなたによく似ている」
お父様とお母様は乳母に抱かれた赤ん坊の私を楽しそうに眺めた。
「まぁ、手や足の形は閣下に似ていらっしゃいますわ。閣下のように長身になるとパメラが申していました。楽しみでございます」
「皇帝陛下に皇子が誕生されたら、アイリーンと婚約させる。よいか?」
「素晴らしいご縁でございます。異論はありません」
私が一番幸せだった頃。
お父様はヘンリエッタを忘れられず、愛人として別宅に囲ったけど、私とお母様の生活に異変はなかった。夫人と愛人の差は比べようもない。コーネリアス殿下が誕生され、婚約し、貴族子女として輝かし未来が約束された。
けど、お母様が亡くなって私の環境は一変した。
お父様は喪が明けた途端、妊娠中のヘンリエッタを後妻に迎えた。私が乳母とともに離れに追いやられる。
「……お、お父しゃまは? どうして?」
「アイリーン様、おいたわしい」
ヘンリエッタがアンジェリカを生んだ後、私の悲劇に加速がついた。
優しかった乳母が解雇され、ヘンリエッタは躾と称し、毎日、私が気絶するまで鞭打ち。
最低限の食事も与えられず、離れの物置小屋に閉じこめられる。前世の記憶がなければ壊れていた。
「アイリーン、ヘンリエッタの言うことを聞きなさい。皇太子殿下の婚約者として、恥ずかしくないように教育してくれているんだ」
お父様はヘンリエッタとアンジェリカに夢中で虐待に気づかない。ヘンリエッタの意を受けた使用人にもいじめられ、私は身も心もボロボロ。
けれど、皇宮に皇太子の婚約者としての恒例の挨拶に上がった時、挙動不審な私に皇后陛下が気づいてくれた。
「皇后陛下、アイリーンは出来が悪く、皇太子妃としての資質がありません。婚約を破棄させてください」
ヘンリエッタは虐待を隠そうとしたけれど、皇后陛下は頑として譲らなかった。
「婚約破棄はありえません。皇太子妃は私が預かります」
皇太子と婚約しただけだから、私はまだ皇太子妃ではない。なのに、皇后陛下は私を守るため、皇太子妃と呼んだ。
「滅相もない。皇后陛下のお手を煩わせるわけにはいきません」
「未来の国母です。私が責任をもって教育します。任せなさい」
皇后陛下に引き取られ、皇宮での生活が始まったけれど、私の心身は壊れていた。前世の父や兄が懐かしく思えるぐらい。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。私は悪い子です。血筋だけが取り柄のゴミです。ゴミ箱に捨ててください」
私は何もしなくてもヘンリエッタに鞭打ちされた。視線が合っただけでもよく殴られた。皇后陛下にも怯えた。
「アイリーン、いったいどんな扱いをうけたの?」
皇后陛下は恐怖に怯える私を優しく抱きしめてくれた。
「殴らないで。鞭も痛いです。私はクズです。私の母は最低な女です。夫人は素晴らしい女性です。私と母がいけないのです」
ヘンリエッタに繰り返した言葉を口にすれば、皇后陛下の目に憐憫と怒気が混じる。専属侍女も侍女長も顔色を失った。
「アイリーンに非はありません。アイリーンの御母堂様は尊敬する淑女でした」
皇后陛下は北の大国出身の王女だ。亡き母とは同じ王女として通じるものがあったらしく仲がよかった。
「私は馬鹿女が生んだ馬鹿女です。床に落ちたパン一切れでもいいからください」
床に頭を擦り付けてこのセリフを言うまで食事は与えられない。当時の私の口癖になっていた。
「……あぁ、こんなことなら、すぐに引き取ればよかった」
私は皇后陛下の愛で壊れた心と身体を直した。無償の愛を注いでくれた第二の母だ。何度ヘンリエッタに求められても、私をカーライル公爵邸に戻すことはしなかった。皇帝陛下も気にかけてくれて、何気なく父に注意してくれたという。大魔女のパメラも助けてくれた。肝心の殿下は素っ気なくて寂しかったけど。……そう、年下の婚約者が一番冷たかった。身長が私より高くなってから。
「帝国の輝かしい未来にご挨拶させていただきます。眩い光です」
「…………」
「コーネリアス殿下?」
「…………」
皇太子と婚約者の間で決められている時間もドタキャンされたり、散歩の途中で消えられたり、ダンスの授業の最中に逃げられたり、皇帝夫妻主催の舞踏会や晩餐会のエスコートをすっぽかされたり。
「コーネリアス殿下はどちらに?」
皇太子の婚約者がほかの男性のエスコートで公式行事に参加できない。
「アイリーン様、申し訳ございません」
「侍従長、誰も侍従長を責めているわけではございません」
カーライル公爵家に帰りたくないから、皇太子の婚約者として頑張った。前世とヘンリエッタの虐待に比べたらお妃教育はちょろい。
けれど、アンジェリカが華々しいデビュタントをすませると、暗雲が立ちこめた。皇太子殿下とアンジェリカの恋が電光石火の速さで駆け巡る。私がアンジェリカに嫉妬したひどい異母姉という噂とともに。
「お姉様、コーネリアス殿下のため、どうか身をお引きください」
アンジェリカが皇太子殿下の御学友を従え、私を囲んだ時は辛かった。何せ、全員で私を糾弾する。
「私の結婚は皇帝陛下とカーライル公爵がお決めになりました」
厳しいお妃教育のおかげで感情を顔に出さずにすんだ。婚約破棄されたら、カーライル公爵家に戻らなければならない。傷物として良縁は望めないだろう。修道院に送られるのならばいいけれど、ヘンリエッタに尖塔か地下牢に監禁されるかもしれない。地面に這いつくばって古いパンを懇願する日々は二度といや。
「コーネリアス殿下は私を愛しています」
アンジェリカがピンク色の目を潤ませると、周囲の男たちがいっせい見惚れた。確かに、私とは真逆の可愛さ。
氷の殿下と呼ばれるクールな皇太子が魅かれてもおかしくない。……胸は痛む。言葉では表現できないぐらい辛い。けれど、決して感情は爆発させない。お妃教育の賜物。
「コーネリアス殿下が誰を愛されても、殿下と私の意志は考慮されません」
コーネリアス殿下がアンジェリカを愛していても、私から婚約破棄を願ったりはしない。何より、殿下から婚約破棄の話は一度も出たことがない。……まともに話し合う機会もないけれど。
「ひどいわ。そんなに皇太子妃になりたいの?」
「陛下にご進言あそばせ」
皇帝陛下に言えないから私を責めている。それはわかっていた。
「リーヴァイはどうするの?」
アンジェリカの口から専属騎士の名前が飛びだし途端、周囲の空気が変わった。まるで断罪イベントが始まるようなムード? アンジェリカご執心の令息が通信の魔道具を隠れて操作している?
「リーヴァイは私の専属騎士です。それ以上でもそれ以下でもありません」
リーヴァイは忠実な専属騎士だ。腕は立つし、長身でイケメンだから、貴婦人の間でも人気が高い。
「リーヴァイはお姉様との罪深い関係を告白したわ」
予想だにしていなかったことに動転した。……けど、辛うじて態度には出さない。ギリセーフ。
「身に覚えがないわ。リーヴァイを罰せなければなりません」
たぶん、これ以上、相手にしたら断罪イベントが始まる。私の浮気相手やら証人やら集められて、私は吊るしあげられるだろう。
私は淑女の仮面をキープし、アンジェリカに背を向けた。
「お姉様、話は終わっていないわ。どこに行くの?」
どんな噂が立とうとも、足早に逃げる。
リーヴァイはどうしてそんな嘘を言ったのか?
皇太子殿下とアンジェリカが愛し合って、邪魔者の私を排除しようとしているのかもしれない。
このままだと不義を働いた婚約者として断罪される?
手を打たないと危険。
皇后陛下に相談したいけれど、皇帝陛下とともに国交の問題で飛び回っているから無理。
相変わらず、コーネリアス殿下には避けられ続けている。結婚式の準備もすべて私に丸投げ。
「コーネリアス殿下のご希望は?」
「すべてアイリーン様にお任せする、とのことです」
殿下はそんなに私との結婚式がいやなの?
焦燥感に駆られるまま、目の前に迫った結婚式の準備に追われて時が流れる。身に覚えのない噂が皇宮で留まらず、帝都を駆け巡っても手が打てない。皇帝陛下も皇后陛下も皇太子殿下も噂を知っているのにスルー。
アンジェリカとヘンリエッタは変わらず。
マイラが体調を崩して寝込んだ日、リーヴァイが私のベッドルームに忍んできた。気づいた時は遅かった。
「アイリーン様、もう心を偽ることができません」
「リーヴァイ、気が触れましたか?」
「愛して……」
リーヴァイの言葉を遮るように、私はきつい声音で言い放った。
「それ以上、言ってはなりません。専属騎士の任、解きます。出ていきなさい」
「もう遅い。すべてが遅いのです」
リーヴァイが懊悩に満ちた顔でうなだれた後、一陣の風とともに大魔女のパメラが現れた。杖で床を三回突く。
「アイリーン嬢、優しすぎる。そんなんじゃ、どのちみち皇宮では生きていけない」
「パメラ?」
「悪く思わないでおくれ。私の命と引き換えだからさ」
そこで記憶が途切れた。
目覚めたら、檻の中。
……あぁ、そうだ……全部、思いだした……私は転生したんだ……私は西国の国王の血を受け継ぐカーライル公女のアイリーン、コーネリアス殿下の婚約者……うん、婚約者にスルーされ続けた哀れな女で、パメラに記憶を封印されたんだ。けど、パメラは『アイリーン・ディアドラ・オブ・カーライル』の名前で記憶の封印をした。稀代の大魔女も私が前世を覚えているなんて知らないんだ。おかけで、板垣真矢としての記憶が残って、カメリアの花園で用心棒として雇ってもらった。不幸中の幸い、前世の記憶がなかったら終わっていただろう。
私の冷たい婚約者。
なのに、私が消えても婚約破棄しなかった。
どうして?
私が消えた時点で優位に婚約破棄できたはず。
エルドレッド様の話を聞いただけで助けに来てくれた。
女将さんや娼婦たちによる、タイプ別のトリセツが脳裏に蘇る。高位貴族にありがちな面倒な奴。
こうやって振り返れば、なんとなくわかる。私のことを嫌いじゃない。命がけで助けにくるぐらいは好きなのかな?
ふたつという歳の差に引け目があったのは私だけじゃない。
お互いに不器用すぎた。
殿下、次に会ったら、私がプライドもメンツも捨てて折れます。
どうか、殿下も正直な気持ちを教えてください。
意識を覚ました時、私は天蓋付きのベッドで寝ていた。皇太子宮の皇太子妃候補として与えられたベッドルームだ。
傍らでは皇太子殿下がこの世の終わりのように頭を抱えている。
子供の頃から変わらない、左巻きの妙な感じのつむじ。
……そう、すべて思いだした。転生して、精神年齢はおばちゃんなのに、若い皇太子殿下が好きだったんだ。なのに、私は一言も口にできなかった。皇太子の婚約者として感情を顔に出すこともしなかった。皇宮の人形のように、言われるがままいただけ。
「……アイリーン?」
皇太子が私に気づき、身を乗りだした。
「コーネリアス殿下、お慕い申し上げております」
無意識のうちに、私の口が勝手に動いていた。今まで一度も自分の想いを告げることができなかったのに。
なんでも言葉にしないと伝わらない。それはカメリアの女将さんや娼婦たちにしつこく言われた。確かに、私とコーネリアス殿下に言葉が足りなかった。ふたりで過ごす時間もなかった。
「アイリーン、思いだしたのか?」
私の告白を聞き、氷のような容貌が解ける。目元もほんのり赤くなり、腕を震わせた。……嘘、こんな殿下は知らない。
「私は殿下に疎まれていると思っていました」
過去を振り返れば、嫌われるとしか思えなかった。コーネリアス殿下にとっては、生まれる前から決まっていたような縁談だ。帝国では年上の妻を持つ夫も少ない。
「違うっ」
「何も仰せになってくださらない殿下を誤解していました」
「……母上にも言われた」
年下の殿下は気まずそうに視線を逸らす。奇跡のアイテムでもない限り、この面倒な婚約者に告白させるのは無理だ。
それでも、何か意思表示してほしい。氷の殿下の異名通り、あまりにも今までがひどかったから。
私は花台に飾られている薔薇の生花を人差し指で差した。
「殿下、私のことを少しでも想ってくださるなら、そこの薔薇をください」
私が言うや否や、氷の殿下は目にもとまらぬ速さで動いた。
ガバッ、と花瓶に生けられていた深紅の薔薇をすべて抜き取り、乱暴な手つきで私に差しだした。
ポタポタポタポタッ、と薔薇の茎から水が滴り落ちる。
育ちのいい王子様とは思えない。巷の乱暴者でももう少し手つきが優しいような……けど、これが私の知る婚約者だ。
「一本でいいのに」
私は濡れるのも気にせず、薔薇の花を受け取った。
「…………」
いつもとなんら変わらない表情だけど、耳元も赤く染まっているし、肩が震えている。照れ屋で口下手な婚約者は何かあると逃げてしまった。もう逃げようとはしない。
「私が殿下を裏切った事実はございません」
私が真剣な顔で言うと、殿下は鋭い目をさらに細めた。
「あぁ」
「殿下、私を信じてくださいますか?」
「あぁ」
「私をいつも無視したくせに」
思わず、深淵に沈めていた鬱憤が飛びだした。
「…………」
「私を煩そうに追い払ったこともありましたよね」
建国の式典、揃って参加しなければならないのに、犬のように手で払われた時、私は情けなくてたまらなかった。淑女仮面をキープした自分を全力で褒めたい。
「……すまない」
一瞬、聞き間違いだと思った。驚愕のあまり、私の手から薔薇が落ちる。
「今、謝りました?」
「…………」
「まさか、殿下の謝罪を聞けるとは夢にも思いませんでした」
「……こ、後悔した……お前のそばにいると苦しくなったから避けたんだ……」
感極まったように抱き締められ、私の胸が高鳴った。……や、苦しいなんてもんじゃない……けど、嬉しいし、恥ずかしいし……駄目だ。
暫くの間、抱き合ったままフリーズ。
いったいどれくらい時間が流れたんだろう。一〇年ぐらい抱き合っていたような気がしないでもない。
伝達の魔道具が青く光った時、私は正気を取り戻した。
「記憶を取り戻して、私も後悔しました」
私の心魂から迸るような想いに、不器用な婚約者が答えてくれた。
「僕が悪い。お前を意識しすぎて……すまない」
「私より身長が高くなった頃から、意識してくれました?」
二歳と四歳の差も一二歳と一四歳の差も大きい。私は長身の父に似て背が高く、なかなか二歳の差は埋まらなかった。視線の高さが変わった時、皇太子殿下の態度が確実に変わった。
「近寄られるとおかしくなった」
視線を逸らしたまま、歯切れの悪い声でポツリ。
「それで避けられたのですか?」
「すまない」
「私がどれだけ辛かったか、わかりますか?」
この際、吐きだすだけ吐きだしたほうがいい。何しろ、私にはアイリーンとしての鬱憤がメガ盛り。
「結婚するから」
抑揚のない声でボソッ、と年下の婚約者は呟くように言った。
「……はい? 結婚するからどう扱ってもいいと?」
「僕はお前だけ。わかっていると思った」
私と殿下は想い合っているのに、こじれにこじれた。私にも問題があるかもしれないけど、殿下に問題がありすぎると思う。
「あれではわかりません。これからわかりやすい愛でお願いします」
「どうすればいい?」
以前ならば、絶対に聞いてくれなかった。不器用な婚約者は私とやり直そうとしてくれているんだ。胸が疼く。……これが胸きゅん?
「私を避けないこと」
「おかしくなる」
「おかしくなってもいいから避けないこと」
どんなにおかしくなっても構わない。正直、氷の殿下がどうなるのか、見てみたい。
「…………」
伝達の魔道具が光り続けているから、いつまでも語り合っている時間はない。まず、差し迫った問題を処理しなければ危ない。
「パメラは?」
私がいきなり話題を変えると、殿下の鋭い目がさらに鋭くなった。
「死んだ」
パメラが私の記憶を封印した。おそらく、依頼主はアンジェリカだろう。けれど、証拠がない。
私の記憶が戻ったのは、パメラが亡くなったから?
「リーヴァイは?」
噂の熱愛相手の名を出した途端、氷の殿下に殺気が漲ったような気がした。心なしか、部屋の温度が下がったような感じ。
「尋問中」
「捕縛したイーモンや奴隷商人は?」
「死んだ」
生き証人の死亡に愕然とした。
「どうして?」
「食事に毒を盛られたようだ。調べさせている」
口封じだろう。私の耳にはイーモンと奴隷商人の言葉が残っている。ふたりとも誰かの依頼で私を扱ったはずだ。イーモンや奴隷商人は私を始末したがった。けれど、依頼人は私を娼婦に堕としたがった。
どうして、そこまで娼婦にこだわった?
「アンジェリカは?」
「煩い」
「正直に言えば許します。アンジェリカに魅かれたことはありませんか?」
アンジェリカに夢中になる貴族子弟が多すぎたから不安だ。……や、父に溺愛された異母妹に対するコンプレックスかもしれない。
「一度もない」
殿下に憎々しげに言われ、私は皮肉っぽく微笑んだ。
「信じてあげます」
「信じろ」
コーネリアス殿下に真摯な目で見つめられ、私の胸の鼓動が早くなった。ビジュ良すぎ。
けど、胸きゅんしていられない。
「皇帝陛下と皇后陛下はすべてご存じですよね?」
真実がどうであれ、最終的な決定を下すのは帝国に君臨する君主だ。
「皇室とカーライル公爵家の縁談を希望している」
「私じゃなくてアンジェリカでもいいんですよね?」
幼い頃からカーライル公爵もヘンリエッタも婚約者の交替を口にしていた。私ではなくアンジェリカを、と。
「いやだ」
「私は娼婦に堕ちたと思われています」
何者かに誘拐されたということだけでも傷になり、婚約破棄される貴族子女は多い。皇室ならばなおさら。
「皇位継承権を返上する。そなたがいればいい」
「本気だったんですか?」
「あぁ」
コーネリアス殿下が皇位継承権を手放したらどうなる? 皇宮を去り、ふたりだけの生活が始まる?
皇宮で私はいつも慎重に言葉を選び、周囲の顔色を窺っていた。特にカーライル公爵夫妻の機嫌を損ねないように神経を尖らせていた。少しでも認めてほしかったんだ。無駄なのに。痛恨の極み。
「……ならば、私も腹を括ります。カーライル公爵家を捨てます」
前世の記憶があるから、身分にはなんの未練もない。大事にしてくれない家族を守る必要はない……や、家族か? 家族じゃないよね?
「僕がいればいいな?」
「……はい、と言いたいところですが、私は市井で暮らし、お金の大切さを学びました。愛だけでは生きていけません」
愛でお腹は膨れない、と私は固く握った拳を振り上げた。どんなに愛し合っても、金がなければ儚く散る。前世でも娼館でも痛感した。
「頼もしい」
どん引きされると思ったけど、理解してくれたみたい。
「私、ビスケットやケーキを焼くのが好きなんです。砂糖やカカオを気兼ねなく買える経済力は欲しいです」
「わかった」
「私の特製チョコケーキを殿下に召し上がってほしい」
「楽しみだ」
コーネリアス殿下の弾けるような笑顔を見て、早速、チョコレートケーキを焼きたくなった。
チョコ熱を語った後、私が三日間、眠り続けたと聞き、顎を外しかけたのは言うまでもない。
殿下、早く言って。
私たちがこじれた原因、そういうところだと思う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます