生首、一寸一服(12日目:湖)

 その湖の水面は澄み渡り、まるで鏡のようであった。

「このようなところがあったのだね」

 ランフォードはほうと白い息を吐いた。その手に抱えられたコンラートはと言うと、湖を一心に見つめている。

「儲けたな。汚れを洗い流せるぞ、首だけ騎士」

 ジェフがおもむろにコンラートの首を掴んで湖につけようとしたから、ランフォードは慌ててコンラートの首を取り返す。

「ジェフ。きっと湖の水は凍りつくように冷たいだろう。そんなところでコンラート君に寒中水泳を強いたら、また風邪をひいてしまうよ」

「冗談だ、冗談」

 ジェフは肩をすくめた。どうもその発言は信用ならないね――ランフォードは、口には出さなかったがそう思った。コンラートも同様だったようで、胡乱げな瞳でジェフを見つめている。

「何だその目は、首だけ騎士。――要は温泉に入れてやればいいんだろう?」

「勿論そうだよ、ジェフ。君のせいで、コンラート君は疲れているだろうからね。温泉に入れてあげるのが良いと思うよ」

「ちょっと待ってくれ。温泉って何なんだ?」

 コンラートの初めて聞く言葉が出てきた。オンセン。それは何なのだろう?

「あれ、温泉を知らないのかね、コンラート君?」

「まあ、首だけ騎士が知らなくとも無理は無いだろう。首だけ騎士の屋敷は川の側だった。川の側だと、温浴よりも蒸し風呂が多いはずだぜ」

 前から感じてはいたが、ジェフはこの地方に住まう人間の習慣や風俗に滅法詳しい。ランフォード同様、人間ではなく異種族――魔族のはずなのに。何故そんなに様々なことに詳しいのか、実はコンラートは前から気になっていたりする。

「まあ、温泉にしてあげようね。未知の経験も、なかなか良いものだよ、コンラート君」

 ランフォードが目線を合わせて微笑んでくれたので、釣られてコンラートは頷いていた。



「これが温泉か……」

「まあ、擬似的なものだけどね。気持ち良いかね?」

「とても気持ちいい。これは、疲れも全部飛びそうだな」

 コンラートが湯に浸かって満足気に目を閉じるのを、ランフォードは微笑んで見つめていた。

 二人がどうやってコンラートに温泉を用意したかは、実に簡単で。盥を出して湖の水を盥いっぱいに張り、その水に魔法をかけて温泉水にしたてたのだ。コンラートは首だけだから、これでも充分なサイズだったりする。

「汚れは私が洗ってあげようね」

 先程坂道を転がったために髪や顔についている土汚れを、ランフォードはそっと洗い流していく。

「温浴に洗髪か。……ずいぶんな贅沢をしている気がする」

 この地の風呂屋には、洗髪をしてもらうサービスがあるが、当然ながら有料である。コンラートは騎士だが、そんなに裕福な方ではなかったので、そういうサービスにはあまり縁が無く、実のところ慣れない。

「この地の風呂屋風にするなら、ワインが要るな。飲むか、首だけ騎士?」

「……いや、今は要らない。しかしよく知っているな、ワインを飲んだりすることまで」

「俺様、色々と知っているからなあ?」

 くっくっく、とジェフは低く笑った。こういう笑い方をするときは、彼が心底愉しんでいるときだ。そのことはコンラートも、最近は何となく理解出来ていた。

 水面を吹き抜けてくる風はひんやりと冷たいが、お湯に浸かっているせいか、寒さはあまり感じない。

 静まりかえった湖面は、澄んではいたが空の色と同様、どこか重い色をしている。

 あの色を見ると、前立ち寄った街であったことを否応なくコンラートは思い出す。

 己の姿をしていた、ドッペルゲンガーとしか思えない存在――。

「……ここには恐ろしいものはいないよ、コンラート君」

「――ランフォード?」

 コンラートは視線でランフォードの方を窺った。ランフォードは小さく笑みを浮かべている。その黒い瞳は、何かを憂えているようだったが。

「今は少しの間だけど、ゆっくりすれば良い時間だよ、コンラート君。何も怖くないからね」

「――ありがとう、ランフォード」

 憂い顔が気にかかったが、ランフォードが気遣ってくれたのには間違いない。コンラートは素直に礼を言った。

 ジェフはというと、いつも以上に考えを読ませない瞳をしている。――あの街で、何故あんなものが現れたかは考えておくとはっきり言ってくれた彼。その後、何か新しい考えは浮かんだのだろうか?

 静かな湖を見つめていると、ついいろいろなことを考えてしまう。

 これからどうするのかという不安。それから――どうしてこのような、生首の姿になっても意識があるのだろうかという、疑問。

 それらのコンラートの想いも、湖は全て飲み込んでしまうかのようだった。

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