猫の王(お題15「猫」)

「神よ……」

 思わず口からこぼれ出た祈りの言葉は虚しく風に散らされた。

 分かっている。神は私を……いや、私の愛する国も、民も、救ってはくれない。

 私は悪魔に屈したのだ。

 私が最期に目にしたもの。それは赤々と煌めく炎の舌に舐め尽くされ、灰燼と化していく街の姿だった。

 城の塔に向かって巻き上げられてくる風には人々の絶望の叫び声が混じっている。

 私の心は悲しみと怒りに打ちのめされ、もはや涙の一滴を流せるだけの気力も残っていない。

 私の耳元に、ひび割れた薄茶色の唇が寄せられる。ぞっとするような冷たい息がかかった。

「王よ……」

 嗄れた低い声。魔術師は私の喉元に鋭い刃を当てる。

「己の短慮を悔やむがよい。お前のために、この国は、そして民達はこうして地獄の炎に焼き尽くされていくのだ」

 ヒヒヒヒヒ……と耳障りな笑い声が鼓膜を撫でた。

「私は……間違ったことはしていない……」

 私は残された力を振り絞り、頭を上げ、目玉のギョロついた骸骨の如き男の顔を睨みつける。

「ただ一つ後悔するとすれば……もっと早くお前をこの国から追い出しておくべきだった……。私が王座についた時……いや、それよりも前から。元より私はお前を信用してはいなかったのだから」

「まだ減らず口を叩くか! 若造!」

 魔術師のブーツの先が私のこめかみを勢いよく蹴りつけた。

 両腕を後ろに縛り付けられた私の体は、冷たい石の床に叩きつけられる。頭から流れた血が石を濡らした。

「先王は俺を重用してくれた。俺の力をよく分かっていたからだ。それをお前は……この俺を追放だとは! 罰当たりめが! 恩知らずめが! ここまで来てまだ俺の力が分からんのか。俺の呪いによって国を灼かれて、民草を殺されてもまだ……!」

「邪悪なるものは取り除かねばならない。私はお前を追放したことは後悔はしていない。ただその時が遅過ぎただけ……」

「小癪な!」

 魔術師は剣を振り上げた。

「せめてもの温情でこのまま命を絶ってやろうと思っていたが……こうなったら貴様には永遠の苦しみを味あわせてやるとしよう」

 もはやここまでと思い、目を閉じた。その瞬間、私の耳にニャァーゴォ! という獣の鳴き声が届いた。

「アウラ!」

 私は叫び、目を見開く。

 小さな黒い影が疾風の如く駆け抜け、魔術師の腕に跳びかからんとするところだった。

 それは私の可愛がっていた愛猫アウラだった。

「邪魔だ! 薄汚い猫め!」

 魔術師は歯を剥いて怒鳴りながらアウラを思い切り振り払った。

「ギャッ……!」

 私を助けようとしてくれたアウラは叫び声を上げ、可哀想に、そのまま塔の外へと跳ね飛ばされ、落下していった。

「アウラ……!」

 私は思わず、アウラが落ちていった方へ向かって首を伸ばした。

 だが、次の瞬間、衝撃が走った。

 何が起きたかすぐには分からなかった。視界が回る。気がつけば、血を勢いよく噴き出させた首なし死体が目の前に転がっていた。

 それが私自身の体なのだと分かるのにまた少し時間がかかった。

「はははは……どうだね、王よ。首だけになった気分は! ははははは……」

 魔術師の笑い声が曇天の下に響いていた。


 そして、十年もの月日が流れた。

 その日は冬の訪れを告げるように凍てつく寒風が吹き荒んでいた。

 そろそろ雪が降るのではないか、という予感とともに、私はいつものように吹き曝しの塔の上から街を見下ろす。

 眼下には廃墟の街がひっそりと横たわっている。崩れかけた家々は、枯れ草や蔦のベールに覆われ、かつて私が愛した街は見る影もない。この十年で逞しく成長した木々達が街の跡を蹂躙し、今は骸骨の手のように、葉を落とした枝を大きく広げている。

 塔の上で、ただ一個の生首となった私は、十年の間、街が朽ち果てる様をまざまざと見せつけられてきた。

 首を切断されて私の体は死に絶えたが、魔術師の呪いで頭だけはこうして生き続けているのだ。

 私の頭の直下には、風雪に晒され続けて肉を失った体の骨が化石のように横たわっている。頭はその骨から2メートルばかり高い空中に頼りなげに浮かんでいた。

 ここから身動き一つできず、今までも、そしてこれからもずっと、街が荒廃していく様をただ眺め続ける……。それと同時に私の心もゆっくり、ゆっくりと朽ちていく。

 感情を失った私の灰色の瞳の中には、今、うすら寒く荒涼とした景色がただあるがままに広がっていた。人の気配はまるで無い。

――いや、ひとつだけあったか……。

 私は目を細め、町外れの丘の上を眺め見る。

 臙脂色のマントがはためくのがここからでもはっきりと見えた。

 魔術師がやってきたのだ。

 彼はあの後、他の国の領主に召し抱えられようといろいろ動いていたようだが、領主たちは、皆、魔術師の強大すぎる力を恐れて彼を近づけようともしなかったらしい。

 髪が白くなり、皺が増え、痩せ衰えた魔術師は、今でも時々こうして塔の上にやって来る。

 そして、自分の偉大さを認めようとしない世間に対する呪詛を散々吐いた挙句に、いつも最後には私を見てニヤリと笑ってこういうのだ。

「貴様のその情けない無様な姿を眺めることが今の俺に残された楽しみなのさ」

 魔術師は憎んでも憎みきれない私の仇、故国の仇だ。けれど私はだんだんと彼に憐れみも感じるようになってきていた。

 思えば私も頑固で清廉過ぎたのかもしれない。魔術師が危険な男であることは確かだ。けれども、先王であった私の父は彼を上手く御し利用していた。私も、たとえそれが恐ろしい猛毒のような存在であっても、無理に取り除こうとせず、我が国のために利用してやるくらいの柔軟さが必要だったのかもしれない。

 そうすれば、この街も怒り狂った魔術師の魔法によって焼き尽くされることもなく、今も多くの人で賑わい、笑い声が溢れ、私は城からその様子を眺めては、幸福な気持ちで微笑みを浮かべていたことだろう。

 だが、現実は違う。

 灰色の空。死に絶えた街。白骨化してカラカラと風に揺らされる自分の体……。

 寒風にさらされた唇がひび割れ、じんじんと痛む。

 こちらに向かってくる臙脂色のマントが風に煽られ不意によろめくのが見えた。

 その瞬間、なぜか急に強い寂寥感が私を襲った。

 私の両目から涙がほろりと零れ落ちる。

 生首になってから初めて流した涙だった。

 自分でもなんだか不思議であった。感情等というものはとうに枯れ果てたものだと思っていたのに。

 その時……。

「にゃあ」

 不意に懐かしい声が凍りついた空間に柔らかく響く。

「アウラ?!」

 私は思わず愛猫の名を叫んだが、まさかそんなはずはない。アウラは十年前、この塔から落とされて死んだはずだ。

「にゃあぁー」

 今度はもっとはっきりと、力強く……。

 カタリ、と乾いた音がして、私は視線を真下に向ける。

 一匹の黒猫と目が合った。

「迷い猫か……一体どこから入り込んだのだ」

 猫は私の骨に頭を擦り付けては甘えるようにゴロゴロと喉を鳴らしているようだった。

 猫は小さな舌を出して骨をぺろりと舐める。どうやら骨についた私の涙の雫を舐めとっているらしい。

 本当にアウラによく似ていた。

「もしやアウラが甦って私の元に戻ってきてくれたのか? いや……まさか、な……。流石に有り得ないだろう」

 私は突拍子もない自分の考えに苦笑した。

 しかし、黒猫は琥珀色に輝く瞳を私の方にじっと向けている。まるで何かを伝えたいかのように。

 それを見ると、どうしてもこの猫がアウラの生まれ変わりのようにしか思えなかった。

「猫よ……」

 私は静かに呼びかけた。

「お前がもしアウラの魂を引き継ぐものならば……頼みがある」

 猫がアウラでない以上……いや、たとえアウラであったとしても、それは不可能な願いだった。ただ気休めにしかならない戯言だ。けれど、それは私の心からの切実な願望でもあった。


「王よ……気分はどうかね? 相変わらず景気の悪そうな顔をしているな……クク……」

 景気の悪さをいうならお前だって負けていないじゃないか、と私は声に出さずに毒づく。

 魔術師は杖を傍に置き、ドッコラショと石床の上に胡座をかいて、いつものようにニタニタ笑いを浮かべながら私を見上げた。

「西外れの国の領主が病に倒れたらしい。あのクソジジイ、俺のことをペテン師だとぬかしやがった。せっかく俺が仕えてやろうと直々に申し出てやったのに、あの馬鹿が……」

 不気味な笑みを顔に貼り付けたまま、血走った目でブツブツと一人で文句を垂れる。そう、いつものように……。

「やつの病はなぁ、俺の呪いだよ。骨身を少しずつ溶かして地獄の苦しみを味わいながら死んでいくのさ。ヒヒ……いい気味だ」

 そして、魔術師は再びニヤリと俺に笑いかける。

「だが、どんなに恐ろしい呪いだとしても、貴様にかけられた呪いほど惨めなものはないだろうよ。体が朽ちてもそうやって首だけで青い顔をして浮いているなんて……なんて間抜けな姿だ……ヒヒヒヒヒ……ギィヒヒ……ヒヒ……ひひひひひぃ……」

 魔術師の笑いは発作的になった。体を痙攣されるように震わせている。本当におかしくて笑っているのだろうか、と私は純粋な疑問を抱く。

「なぁああー」

 そこへ、一声、猫の鳴き声が響いた。

 魔術師は笑うのをやめ、不審げな顔をした。やがてその表情は驚愕と恐怖に塗り替えられる。

 彼の視線の先には獣がいた。

 私も目を見開く。

 黒い猫……いや、もはや猫とは言えない。黒豹の如き体躯の巨大な野獣が牙を剥き、瞳を爛々と光らせながら魔術師を睨みつけていたのだった。

「アウラ……!」

 私は再び、古き友の名を叫んだ。

 先程の迷い猫、そして、目の前の巨獣はやはりアウラなのだと確信した。

 アウラは死んだ。今はもうこの世のものではないのだ。主人を殺された恨みだけが残り、凝縮され、それが十年の月日を経て、私の涙に感応するように魔物と化して今ここに甦ったのだとしたら……。

「何者だ、貴様は?!」

 魔術師は杖を手に取り立ち上がる。

 アウラは、ゴオオオ! と猫らしからぬ声で吠えた。すかさずに魔術師に飛びかかる。私の願いを叶えるために……。

「化け物めがぁ!」

 魔術師は杖を振るう。冷たく鋭い光が煌めいた。仕込み杖だ。杖の中から現れた刃はアウラの首に正確に叩きつけられた。

「ギャッ!」

 叫び声とともアウラの頭が床に転がる。血が噴き上がった。

「アウラ……! アウラ!」

 私は必死でアウラの名を呼ぶ。

「……にゃあ」

 アウラの頭は死んでいなかった。弱々しくはあるが、はっきりとした鳴き声で私に応える。

「何?!」

 魔術師が怯む。その隙にアウラの頭が空中にふわりと浮がり、次の瞬間には魔術師めがけて突進していた。

「ぐああああ!」

 魔術師はのけぞって悲鳴を上げた。

 アウラの頭が魔術師の喉元に噛みついたのだ。

 魔術師は床を転がり、なんとかアウラを振り落とそうともがいていたが、アウラの執念に勝てるはずはなかった。

 やがて、魔術師はカッと目を見開いて口から血の泡を吹きながら動かなくなった。

 静寂が訪れた。

 ひゅるひゅると風の音だけが耳を打つ。

「アウラ……私の願いを叶えてくれたのだね……魔術師を殺しておくれと言った、私の願いを……」

 しかし、アウラからの応えはない。魔術師に噛みついたまま、それ以上動く気配はなかった。

 そして、魔術師が死んだというのに、私自身の頭も相変わらず空中に浮かんだままであった。

「アウラ……また、私を一人残して、逝ってしまったのか……」

 私は震える声で呟いた。

 魔術師を殺して欲しいという私の願い……それは、すなわち、私の死をも意味していた。

 彼が死ねば、私にかけられた呪いもきっと解ける。苦しみから解放されて、私も死という永遠の安らぎを得られる。そう思っていたのだ。

 けれど、私は生きている。生首のままで、こうして、いつまでも……。

「やはり、この呪いは永久に……」

 気が遠くなる想いでそう呟いた時だった。

 カタリ……。

 私の体の骨が音を立てた。

 頭を失い、私の体の骨の上に倒れていたアウラの体が不意に動いたのだった。

「アウラ!」

 アウラの体はゆっくりと起き上がった。

 そして、空虚な首元を私に向けた。

 不思議なことに、今までずっと同じところに静止していた私の頭は、アウラの体に引き寄せられるようにゆっくりと下降していく。

「アウラ……そうか。生きてくれるというのか。私とともに……。ありがとう、アウラ……ありがとう」

 私は生首になって初めて心から微笑んだ。


 そうして、さらに三百年の月日が流れた。

 城下町の遺構は生い茂る木々に完全に覆われ、今は深い森の奥に眠っている。

 近隣に住む者たちは決してこの森には足を踏み入れようとしない。

「森には猫の王が統べる猫の国がある」

 人間たちは、皆、口を揃えてそう言うらしい。

 確かにそうかもしれない。私の元にはいつの間にか数知れない猫達が集い、崩れかけた城の周りで自由気ままに過ごしている。

 たまに森の中に彷徨い込んでくる人間もあるが、私の姿を見ると慌てふためいて一目散に逃げ出してしまう。

 森の奥には、体が巨大な猫、頭が人間の恐ろしい化け物が住んでいる……村に戻ってきっとそう言いふらすのだろう。

 それでいい。猫達の平穏な生活が守られるならばこの姿を化け物と呼ばれることも本望だ。私の今の体であるアウラもきっとそう思っているに違いない。

 私は今でもよく塔の上を訪れる。

 城はところどころ崩落してはいるが、猫の体であれば、瓦礫の山を超えて石組の城壁をよじ登ることなど容易いのだ。そして、私は、眼下に広がる緑の海やその中に点在するかつての城下町の名残を眺める。

 塔の石床には未だ古びた骨が散乱しているが、それが私の骨なのか魔術師の骨なのかはもう判別がつかない。

 全てが自然に還ろうとしている。

 だが、ただひとつ……あの魔術師のマントだけが石垣の隙間にかろうじて引っかかり、風化に抗うように未だその存在を主張していた。

 風に翻る臙脂色。

 私にはそれが猫の国の旗印のように思えると同時に、魔術師の悔しがる顔がまざまざと目に浮かぶようで、思わず微笑を浮かべてしまう。

 そして、私はいつも風に向かって叫ぶのだ。

「にゃあ!」と一声。

 人としての苦しみや悲しみから解放された、自由な声で。

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