涙を奪わないで

かどの かゆた

涙を奪わないで

 いつも通りの水曜日だった。

 その日は首を限界まで上げても見上げきれないくらいに入道雲が大きく、ほんの数分の外出でBの額からは汗が流れた。青空に染め抜かれた世界は影さえ青く、温められた草と土の匂いがする。


「あれ」


 声がして、Bはベンチの方へ視線を戻した。


「どうかしたか」


 そう声をかけても、返事は返ってこない。ベンチに座るAは、ただ俯くばかりだった。

 Bはしゃがんで、彼女の顔を覗き込んだ。


「何だろう、これ」


 Aは、その瞳から塩辛い水をぽろぽろと流していた。雫は形のよい顎を伝って、熱されたコンクリートの上にじゅわっと落ちる。


「……涙だよ」


 Bは当たり前の返事をしながら、事の重大さに慄いていた。

 人は、泣くことがある。Bだって、赤ん坊の頃はよく泣いていたし、今だって時々涙を流す夜がある。しかし、Aは人ではないのだから、彼女が泣くということは、とても大きなことだったのだ。


「私、どうして、泣いてるんだろう」


 しゃくりを上げながら、Aは涙を拭う。顔を上げた彼女の首には陽光に透けて接合部の筋が薄く見えていた。


「悲しかった?」


 Bがそう問いかけても、Aは首を横にふる。高性能カメラの瞳が潤んで、特殊な合成樹脂の唇は細かく震えていた。

 Aはロボットだった。




 数時間後には、Aが泣いたということは世界各地で報道されていた。

 ついに人間を再現した、という触れ込みで発表された人型ロボット「A」。世界中の興味は、彼女に本当の心が宿っているか、ということだった。

 実際のところ、心があるかどうかを証明することなど不可能であるということは、研究者だけではなくみんな分かっていた。どんなにAがそれらしく振る舞っても、学習の結果と言われてしまえばそれまでだ。涙だって、流す機能があるのだから、条件さえ揃えば泣くことくらいある。それも皆分かっているはずだった。

 しかし世界は、気になったのだ。いったい何がAの琴線に触れたのか。人型ロボットは、どうして涙を流したのか。


「彼女は、久々の外出で、夏の景色に感動したのではないか」


「いや、彼女は長く研究室に閉じ込められており、そのストレスから……」


「もしかしたら、将来が不安になっていたのかもしれない」


「それとは関係なく考え事をして……」


 研究所のミーティングルームでは、大の大人が何時間もそんな議論をしていた。

 そして、その下の階にあるAの部屋では、聞き取り調査が続けられていた。


「悪いが、あの時のこと、出来るだけ詳細に思い出してくれるか」


「うーん……」


 Aは木の椅子に深く腰かけて、薄紫色のシャープペンシルを回していた。目の前のノートには無秩序に殴り書きされた単語が並んでいる。彼女の機嫌がどんどん損なわれていくのを目の当たりにして、Bはソファにどかっと座った。

 Aの部屋は、人間のワンルームマンションを再現した間取りだった。少女が一人で住むには豪華すぎる部屋だ。かわいらしいクローゼットや本棚、テレビなどの家電も揃っていて、キッチンやトイレすらあった。しかし、人が生活している部屋特有のにおいが全くしない。


「どうして泣いたか、って、そんなに難しいか?」


 眉間にしわを寄せるAを見兼ねて、Bはそんな問いかけをする。


「難しいっていうか、うん、なんかね」


 Aはとうとうペン回しをやめて、頬杖をついた。ここ数日、彼女はずっとこんな調子だった。


 Aが泣いた、あの日。感情の昂ぶりを測定した研究者たちは、すぐにその場にやってきて、その涙が乾かぬうちにAの身体検査を行った。結局、何の異常も見つからず、再起動されたAを科学者たちは問い詰めた。


「なぜ、君は泣いたのか」


 しかし、Aはちゃんとした答えを話してはくれなかった。

 本当に分からないのか、人間を信用していないのか。とにかく彼女はうんうん唸るばかりで、返事は要領を得ない。その結果、研究者たちはたった一人の少女の心の内を必死で議論することになった。


「……まぁ、何か思い出したこととか、気付いたことがあれば教えてくれ」


 Bは困り笑いを浮かべながらも、ぐっと姿勢を前に出してAの言葉を待っていた。

 彼がAの担当者になったのは数か月前のことだった。理由は「若いから」だ。非常に優秀な研究者だったBは研究所唯一の20代で、比較的若いから少女と話が合うだろうという無根拠な推測でこの研究をすることになった。

 しかし、今の仕事はあまり好きではない。ロボットとはいえ、一つの人格をずっと観察し、一挙手一投足を測定するのは、良い気分ではなかった。

 

「気分転換」


 すると、Aが口を開いた。


「え?」


「気分転換させてよ。ここ数日、ずっとあの時のことを思い出して、疲れちゃった」


 Aは立ち上がり、窓を開けた。むわっとした夏の外気が入ってきて、部屋が一気に明るくなる。


「気分転換って、何するんだ?」


「あの時みたく、散歩とか」


 カーテンが広がり、BからはAの表情が見えなかった。

 おそらく、これは彼女なりの譲歩なのだろうとBは思った。関係ないことをしたいから、そこに無理やり理由をつけたのだ。


「じゃあ、行こうか」


 二人は外に出て、あの時と同じようにベンチの傍まで歩いた。Aは厳重に警備され、余計な情報を学習しないよう隔離された環境にいる。だから、彼女にとって外出とは研究所の敷地内を散歩することだった。


「どうして、泣いたんだろうね」


 Aはまた空を見上げて、他人事のように言い放った。


「分かってないのか」


 Bはきょとんとして、振り返る。Aは目を合わせず、やや硬い表情をした。


「普通の人って、自分の気持ちを簡単に言語化できるものなの?」


「どうだろう。出来るんじゃないのかな」


 Bは口元に手を当てて考える。鼻の下にはもう汗がにじんでいた。自分の今の気持ちは言葉で表せるだろうか。出来ると思ったが、すぐに言葉は出てこなかった。


「涙くらいで、騒ぎすぎだと思う」


「いや、騒ぐだろ。生まれて初めて泣いたんだから」


「たった一回でしょ? 実験なら、もっと私の心をかき乱してよ」


 からかうような軽い調子だったが、声の響きにはどこか真剣味があった。矛盾しているようだが、Bはそう感じたのだ。


「何をすれば?」


「自分で考えてよ。それがお仕事なんじゃないの?」


「記録をとるのが仕事で、君の心をどうこうするのが仕事じゃないよ」


 二人は同じベンチの両端に座った。


「例えば今、抱きしめて愛を囁くとか」


「それで証明できるなら、するけど」


 そうは言いつつも、一つも身体を動かす気配はない。Aは唇を尖らせて「つまらないなぁ」とわざわざ聞こえるように呟いた。


「今つまらないのは言えるのに、どうしてあの時の気持ちは隠したがるんだ?」


 その言葉に、Aは虚を突かれて固まった。それから目を閉じて、ベンチの背もたれに寄りかかる。


「別につまらなかった訳じゃないよ。なんかイライラして、ちょっと悪態をつきたくなっただけ。口に出したことをそのまま受け取らないで欲しい」


「イライラ?」


「イライラ、っていうのかな、これ。なんかこう、モヤモヤするっていうか、色々混じってる感じ。何となく分からない?」


「分かるような、分からないような」


「イライラって言葉にすると、他の感じてることが削ぎ落されていく感じがする。正確な意味じゃないっていうか。伝言ゲームみたいに、人に伝えれば伝えるほど別物になっていく感じ」


 Aは横目でちらと見て、隣へ手を伸ばした。


「私の心は、私のものだから。誰かに形を決められたくない」


 指先が、手の甲に触れる。その肌は人間のそれをよく再現していたが、体温が

無かった。しかし、Bは、この指を人間の指だと思った。


「だから、泣いた理由を話したくなかった?」


「……うん」

 

 Aは目を細めた。


「決めつけられたくない、か。そうだよなぁ」


 それはまさに、Aの見た目通りの思春期によくある悩みだった。しかし、その根の深さは「よくある」なんて言葉で片づけて良いものではなかった。


「何やってんだろうなぁ、俺」


 二人は触れ合ったまま、動かなかった。

 そして、Bは耐えかねて、思ったことをそのまま口にしていた。


「逃げようか」


___________________________________


 それは犯罪だった。

 職場の重要な「物」を勝手に持ち出すのだから、当然だ。

 そして、逃げ切れるはずがないことも分かっていた。

 それでもBはAを乗せて車を走らせた。理由は誰にも、Aにさえ口にしなかった。父性、同情、愛着、色々なものがないまぜになったこの理由を、他人に決めつけられたくなかった。


「どこに向かってるの」


「北」


「どうして?」


「逃げるときは北って決まってるんだよ。理由は知らないけど」


 車窓からの景色はどんどん見たことのない田舎の景色に変わってゆく。

 カーテレビからは世界に誇るべきロボットを盗んだとんでもない犯罪者のニュースが流れてくる。


『どうして犯人はこのような犯行に及んだのでしょうね』


『それは……』


 コメンテーターが、犯罪者の気持ちを聞いてきたみたいに語る。それはその時々によって全くの的外れだったり、なんとなく納得してしまうような意見だったりした。


 でも、本当のところは誰にもわからない。Bにだってちゃんと言葉にするのは難しかった。感情というものは、本来そういうもののはずだった。


「今日はここで寝るか」


 すっかり陽が落ちた頃、Bは雑木林に隠れた一台分のスペースに停車して、トランクから毛布を取り出した。


 Aは助手席で、走るのを止めた車から、動かない暗闇を見つめていた。


「私、どうしてここにいるんだろう」


 その呟きを聞いた瞬間、Bは全身の力が抜けた。Aが何を考えているのか、全く分からない。分からないことだけが、分かった。

 苦しんでいるんだと思っていた。救われたがってるんだと思っていた。でも、考えてみたら彼女は率直に自分の心のうちで起こったことを教えてくれただけで、何をして欲しいとか、どうしてくれとか、そういったことは何も言ってはいなかった。


「俺が、連れてきたからだよ」


「どうして?」


「俺が、君を連れて行きたかったからだ」


「私のこと、好きなの?」


 真顔で聞かれて、Bは面食らった。


「そうなのかもしれない」


 口をついて出た言葉だった。どれくらい好きなのか、どんな風に好きなのか。それは分からない。でも、嫌いなロボットのためにこんなことはしないだろうという自己分析だけはできた。


「ふーん」


「ふーん、って」


 淡白な反応に苦笑し、Bは気を取り直して運転席の椅子を倒した。

 静かに車窓を眺めるAの背中からは、察せられるものは何もない。


「余計だったかな」


 不安になってそう問いかけると、Aは振り返った。


「分かんない」


「俺も、分からないや」


 全てが曖昧な会話だった。それでも、何かが伝わったようにBは感じた。これも勝手な押し付けかもしれない。でも、そう信じたかった。


___________________________________


 なんとも間抜けな話で、結局二人はそのまま眠って、起きた時には警察が車の周りに集まっていた。


 当たり前の話だが、Aの身体には非常用に位置情報を発信する機器がついている。見つかるのは時間の問題で、寧ろ二人は一日もっただけ健闘した方だった。


「これから、どうなるのかな」


「多分君は、研究所に戻るだけ」


「あなたは?」


「どうなるだろうね。何にせよ、旅はもうおしまいだ」


 Bは捕まって、パトカーでどこかへ運ばれていった。Aは研究所の専用車が来るまで、警官と待機することになった。


「おしまい、かぁ」


 口からこぼれたその声は、まるで人が吐いたような湿度があった。

 警官が思わずそのロボットの方を見ると、高性能カメラの淵からは無色透明な雫が垂れていた。ぎょっとして、警官は持っていたハンカチを差し出した。


「黙っていてくれませんか」


「え」


「私が泣いたの」


 ハンカチを目頭にぎゅっと押し当てる姿は、どう見ても人だった。警官は、もとより研究などどうでも良かった。仕事だったから、泥棒を追いかけて捕まえただけだ。目の前の盗まれた物……少女については、壊さぬよう回収するほかに指示は受けていない。


「じゃあ、迎えがくるまでには泣き止んでくれ」


 Aは、未だ止まらない涙が浸み込んだハンカチを、潤んだ視界で見つめた。

 彼女は今、誰にも奪われない涙を流していた。誰も訳の知らない、意味の分からない涙だった。

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涙を奪わないで かどの かゆた @kudamonogayu01

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