第26話 移動

 私が館を出たのは、時計が正午を知らせる音を響かせた頃だった。

 事前に準備していた使用人が運転する車に乗り込み、憂鬱な気分はそのままに、流れる景色を窓から眺めた。

 道を歩く人々──特に、仲睦まじく並んで歩いている男女を見かける度に、気分が重くなった。とても幸福そうな彼らに、嫉妬が芽生える。

 本当ならば、自分もそちらの仲間入りをしていたはずなのに。ドロドロとした黒い感情が心で渦巻き、しかし、それを発散させる術はなく、ただ深い溜め息を吐くだけ。

 自分が世界で一番不幸なのかもしれない。

 不意に、頭の中にそんなことが浮かび、即座に、首を左右に振った。

 何を悲劇のヒロインぶっているんだ、自分は。胸中で呟き、自分自身を嘲笑した。

 そもそもの話、自棄になって縁談を受け入れたのは自分だ。それを今更嘆き、悲観したところで、運命は何も変わらない。

 選んだのは自分だ。文句を言わずに、納得しろ。

 私は自らに何度も、何度も言い聞かせる。受け入れろ、余計なことは考えるな。妙な願望は持つな、と。

 しかし……理性と感情は相反し、心は頑なに現実を受け入れようとしなかった。駄々を捏ねる子供のような自分に、また嫌気が差す。

 頭の中で色々な思考がグルグルと渦巻き、自分に対する嫌悪感を増幅させている内に、車は目的地──五百旗頭伯爵本家の館に到着した。

 近代的な外国風な建築、と伝統的な華蓮式建築が融合した白い屋敷。足を踏み入れるのは久しぶりで、懐かしさすら覚える。

 けれど、嬉しさは皆無。今日はここに、楽しい思い出を作りにきたわけではない。自分の今後の人生を決定するために、やってきたのだ。

 館を見上げていた私はやがて、正面の本館に向けて足を進めた。

 既に準備されているはずの花嫁装束に着替えなくてはならない。予定通りであれば、両家の当主は既に儀式の間にいるはず。開始時刻まではまだ時間があるとはいえ、のんびりはしていられない。

 途中で待機していた使用人に連れられ、私は赤い絨毯が敷かれた廊下を進む。少し俯き、猫背気味の姿勢になりながら。

 その、途中。


「透花様」


 かけられた声に私はその場で足を止め、声のしたほうへと顔を向ける。

 そこには、私の婚約者──大志さんがいた。儀式用の黒い正装に身を包んでいる彼は微笑を浮かべ、私の下へと歩み寄る。

 婚約者を前に暗い顔をするわけにはいかない。

 思い直し、私は無理矢理、大志さんと同じような微笑を浮かべた。


「大志さん。随分とお早いですね。まだ、儀式まで時間があると思いますけど……」

「そんなことは……いえ、そうですね」


 訂正し、大志さんは頷いた。


「少しばかり、気合が入っておりまして。婚姻の儀は一生に一度のことですから、緊張で……家で待っているとソワソワしてしまい」


 お恥ずかしい、と後頭部に手をやり笑う大志さんに、私は必死に笑いかけた。

 これが正常なのだ。儀式を前に緊張しながらも、これからの生活を思い描いて楽しみに胸を膨らませる。今の大志さんの姿こそが、本来あるべき婚姻前の姿。

 私もそうあるべきなのだが……どう頑張っても、心を切り替えようとしても、大志さんのようにはできない。自然な笑みを浮かべられない。喜びの声を上げられない。これから先の未来に希望を抱くことができない。

 自覚すると共に、大志さんに対する申し訳なさや、罪悪感が胸を支配した。


「あの、透花様」」


 どんよりとした透花の雰囲気を察したらしく、大志さんは不安そうな表情で、尋ねた。


「隊長のこと、まだ……」

「! ……ごめんなさい」


 私は謝ることしかできなかった。

 これから結婚するというのに、その相手ではなく、以前の婚約者のことが忘れられないなんて……本来許されることではない。過去を忘れ、前を向き、これからの未来を見据えるべきだというのに。

 我ながら、酷い女だ。

 自分をそう評し、私は大志さんに頭を下げる。

 激高してもおかしくない場面。だが、謝罪を受けた大志さんはそっと透花の肩に手を置き、慰めるように言った。


「隊長のことは……私にも非があることです。いや、私が一番罪深い。奇襲を受けたとはいえ、自分一人だけが生き残ってしまい。当時は、その場で腹を切ることも考えました」

「……大志さん」

「でも、思い直したんです。隊長が残してきたという、婚約者の貴女を」


 真っ直ぐに私の目を見つめ、大志さんは続けた。力のこもった声で。


「ここで死んでしまったら、貴女に真実を伝えることができない。隊長の戦死という事実だけが伝わってしまう。そして……貴女を支える人がいなくなってしまう、と」


 大志さんは私の手を取り、優しく握った。


「これは、私にとって贖罪でもあるんです。貴女の大切な人を死なせてしまったことに対する。私を好きでなく、隊長を好きという気持ちは持ってくださって構いません。ですが、何かあった時には私を頼ってください。これからは私が、貴女を助けますから」

「……ごめんなさい」


 私は再び謝った。本来持っていてはならない気持ちを露呈しただけではなく、大志さんに大きな気を遣わせてしまったことが、とても申し訳ない。それに加えて、いつまで経っても大人になれない自分に対する怒りと、情けなさを覚える。

 これ以上、大志さんの前にいることも辛い。

 衝動的に、私は『着替えがありますので』と理由を告げて、逃げるようにその場を後にした。


「透花様……」


 背後から大志さんの心配そうな声が聞こえたけれど、私は頑なに振り返らない。

 大志さんは頑張って自分を元気づけようとしてくれたのだろうけど、自分はそれに応えることができなかった。そっけない態度を取ってしまった。

 相変わらず、変わっていない。楽しい時はとことん明るいのに、暗い時は周囲を不安にさせるほどに暗くなる。

 そんな自分が、誰よりも嫌いだ。

 不思議と湧いた悔しさに下唇を噛みながら、私は着替えの部屋へ入った。

 婚姻の儀で着用する衣装は、真っ白な白無垢と定められている。

 新しい人生を無駄な色のない清らかな心で迎えるため、という意味が込められているらしい。一生に一度。神聖な儀式に相応しい意味合いだ。けれど、白無垢に袖を通した私には、この衣装が死装束のように思えてならなかった。これまでの人生を捨て、幸福を捨て、人に定められた人生を歩むだけの……自分らしさの死を暗示するものに。

 憂鬱な気分だからか、考えることが全て負のほうへと働いてしまう。

 白無垢に身を包んだからといって、自分の心が清らかになるわけではない。今の自分は、儀式の前には相応しくない心情をしているのだから。

 着替えの手伝いをしてくれた使用人に見送られ、私は部屋の外へ出た。

 ここから先は、決められた順番通りに儀式を行っていく。清められた水で手を洗い、親族や斎主と共に館の離れにある神殿へと移動し、様々な儀式を行っていく。私は全ての手順を覚えているわけではない。ただ、最後にある最も重要な儀式──婚姻を交わす盃の儀が近付くにつれて、重い気分はさらに重くなった。それは気分や心だけではなく、足取りも。


「お待たせしました、大志さん」


 部屋の外で待っていた大志さんに声をかけ、皆が待っている外へ行こうと促す。大志さんはそれに頷きを返し、背中を預けていた壁から身体を離し……足を動かす直前、白無垢に身を包んだ私に、やや照れ臭そうに言った。


「その、とても綺麗です」

「……ありがとうございます」


 その誉め言葉に、私はややぎこちない笑みと感謝の言葉を返し、本館の出口に向けて足を動かした。

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