第8話 時には心の休息を
時の流れというのは速いもので、気が付けば書庫に入り文献を漁り始めてから一週間が経過していた。起床して、調べものをして、食事をして、調べものをして、眠る。集中が途切れた時などに入浴などを済ませるけれど、それ以外は書庫から出ない。陽の光はほとんど浴びておらず、そのせいか、ここ二日はかなり気分が沈んでいる。
毎日毎日、全く同じ生活を繰り返しているだけ。今の私は人間というよりも、本を読むために生まれてきた生命体と表現したほうが適当だろう。文字列から目を離して身体を横にしている時も頭は働き続けているため、休まっているとはとても言えない状態。日を重ねるにつれて寝つきが悪くなり、集中力も低下している。
普段は疲れていると自覚することはあまりないのだけど……ここ最近は、疲労が蓄積していることを自認している。一日中本を読み続け、また陽の光に当たらない生活は、人としての何かを失ってしまいそうな気がした。この生活が続くならば、いずれ気が狂ってしまう。
「……成果なし」
手元の本を閉じて呟き、私はそれを持ったまま席を立つ。目を通した書物の数は既に百五十を超えており、脳も目も限界を迎えつつあった。
けど、休んでいる暇はない。頑張って、有益な情報を見つけないと。
その一心で、疲労を訴える自分の身体に鞭を打ち、読み終えた書物を本棚に戻すために、それらを両手に抱えて席を立った。
「ぁ」
フラフラと覚束ない足取りで本棚の間を歩いていた私は少し気を抜いた瞬間に躓き、前のめりに倒れてしまった。すぐに襲ってくるであろう床との衝突による衝撃に、咄嗟に目を瞑る。が、一瞬後に私の身体を走ったのは衝突による痛みではなく、誰かに抱き留められる柔らかい衝撃だった。
「大丈夫ですか? 先生」
鼓膜を震わせた声に顔を上げると、そこには史輝の端正な顔があった。彼はとても心配そうに私を見つめており、表情には不安も含まれていた。
これ以上心配させまいと、私はすぐに身体を史輝から離そうとする。が、上手く身体に力が入らず。やがて諦めた私はそのまま史輝に身体を預けた状態で、自分の容体を簡潔に告げた。
「……とても大丈夫とは言い難い」
「そうでしょうね。この状態で大丈夫と言われても、全く信用する気になれません」
私の返答に苦笑した史輝はそっと、私の髪を手櫛で梳かした。
「根を詰めすぎです。夜に寝るからと言って、途中で休憩を挟んだりしていないでしょう?」
「最低限はしてるつもり。けど、休憩してる時間が勿体ないと思ってね。おかげで頭がずっと起きてる感じがする……」
「そんなやり方では倒れるに決まっています。目元に大きな隈ができていますし、疲れているのが一目でわかるくらいには顔色が悪い」
「え、嘘……」
史輝に指摘され、私は自分の目元に手を当てた。
寝不足で疲労困憊である自覚はあったけれど、そんなに酷い顔をしているとは思わなかった。状態の悪い顔を史輝に間近で見られていることに、徐々に恥ずかしさが芽生える。
無理矢理気力を振り絞った私は史輝から身体を離し、傍の本棚に背中を預けた。
「そんなに酷い顔してるなら、休まないわけにはいかないね。今日は少し仮眠するよ。疲れているだけだから、多分眠れば直ると思う。いやぁ、流石にずっと頭を動かし続けるのは疲れ──」
「先生」
私の言葉を遮った史輝は真っ直ぐに私の顔を見つめ、次いで、扉のほうに親指を向けて言った。
「少し、外出しましょう」
「……へ?」
突然の提案に、私は思わず首を傾げた。
◇
半ば強引に書庫の外へ連れ出された私は、史輝に手を引かれながら街中を進んだ。
久しぶり浴びる陽光に心地良さを感じながら十数分ほど歩いた後に、辿り着いたのは皇来では非常に有名な高級ホテル──その最上階にある喫茶店だ。
富裕層向けのホテルの最上階にあるだけあり、店内は街中にある一般的な喫茶店とはまるで違う。椅子やテーブルは超一級品、漂う空気も何処か上品で、お茶や食事を楽しんでいる他の客も上流階級と思しき人たちばかり。
そこはかとない場違い感を覚えながら、私は対面の席で優雅にほうじ茶を啜っている史輝に尋ねた。
「なんでこんなところに連れてきたの? しかも、いきなり」
「先生に十分な休息を取っていただくためですよ。睡眠以外のね」
特徴的な形状の湯呑を置き、史輝は私の問いに答えた。
「今の先生に必要なのは身体の休息ではなく、心の休息です」
「心の休息?」
「はい。幾ら身体を横にして眠っていると言っても、それはあくまで肉体的な回復に過ぎません。あんな太陽の光も当たらない閉鎖的な書庫では、身体はともかく精神は全く休まりません。寝不足も、精神的な疲労が取れていない証拠です」
自分の目元に指先を当てた史輝に、私は「確かに」と納得した。
思い返してみれば、心の底から落ち着いた時間はこの一週間で一度もなかった。眠る直前まで魔骨について考えを巡らせ、起床した直後から止めていた思考を再開させる。なるほど確かに、それでは疲れが取れないわけだ。
「久しぶりに日光に当たったけど、凄い気持ちよかった」
「暗い場所はどうしても気分を沈めますからね。先生に気分転換とリラックスをしてもらうために、ここに来たんです。今くらい、仕事のことは忘れましょう」
机の上に置かれていたケーキ、その頂に君臨していた赤い苺をフォークで突き刺した史輝は、それを私の口元へと移動させる。その行動の意図がわからないほど、私は鈍くはない。一瞬躊躇しながらも、私は口を開いて差し出された苺を受け取った。
口内に広がる甘酸っぱさを味わいつつ、慈愛に満ちた瞳で自分を見つめる史輝に、私は苺を咀嚼しながらジトっとした視線を向ける。
「本当、平気でこういうことするんだから」
「相手が先生だからです。お望みでしたら、もっと過激なこともできますよ?」
「誰も求めてないからやめなさい。あと、周りは上流階級ばかりなんだから変なこと言わない」
「わかりましたよ、先生」
予想に反してあっさりと引き下がった史輝に、私は安堵の息を吐いた。
この喫茶店は言わば、貴族の溜まり場のようなもの。多くの特権を持つ権力者が多くいる中で変に悪目立ちするようなことがあれば、嫌悪に満ちた視線を向けられることだろう。心身のリフレッシュなんかできないほどに、居心地が悪くなってしまう。
ここに来た目的のためにも大人しく、慎ましやかにお茶菓子を楽しむに尽きる。
久しぶりの甘味が身に染みる。
私は自分が注文した栗のケーキをフォークで小さく切り分け、それを口に運び、思わず口元を緩めた。苺とは違う甘さ。味蕾を刺激する繊細な味わいは、値段相応のものと言えるだろう。高くとも、納得できる。
と、甘味を堪能して頬を綻ばせている最中、史輝がジッとこちらを見つめていることに気が付いた。一度認識すると気になってしまうもの。私はフォークを噛んだまま、その理由を史輝に尋ねた。
「な、なに?」
「いえ? ただ、食べている姿が可愛かったので」
「……どんな風に?」
「テナガエビのようでした」
「まさかの水棲生物!?」
全く予想しなかった回答に、私は驚愕の声を上げた。
訳のわからない回答が来るとは思っていたけど、まさかの水棲生物という想像の斜め上を行くもの。いや、そもそも史輝を常識の範囲内で推し量ろうとしたこと自体が間違いなのかもしれない。この男は私だけではなく、常人とは全く別の思考を持っているのだから。
……思えば、こんなやりとりをするのも一週間ぶりかも。
何処となく感慨深さを感じながら、私は先ほどから手が止まっている史輝に促した。
「史輝も食べたら? 私だけ食べてるところ見られるの、何だか恥ずかしい」
「そうですね。では、いただきます」
言葉を返し、史輝はとても上品な所作で苺の消えたケーキを口に運んだ。
元々の容姿が絶世なだけあり、物を食べているだけでとても絵になる。最近は外国から入ってきたカメラを趣味にしている人も多いので、いずれ被写体の依頼が来るかもしれない。勿論、そんな依頼が来れば、私は断固として拒否するけれど。下手にファンが増えた結果、探偵事務所に乙女が殺到することになったら敵わない。仕事にならないし、一緒にいる私に対して嫉妬の念が向けられることになるから。四六時中命を狙われる生活は御免だ。
ケーキを食べる史輝を眺めながら色々なことを考えていると、不意に、史輝が「ところで」と話題を変えた。
「この一週間で、何か成果を得ることはできましたか?」
「仕事のことは忘れるんじゃなかったの?」
「そう思いましたが、先生は自分から話し始めそうだったので」
図星でしょう、とでも言うかのような史輝の笑みに、私は苦笑した。
「そうだね。多分、結局仕事の話になると思う」
「もはや職業病の域ですね。……それで?」
促され、私は溜め息を吐きながら首を左右に振った。
「残念なことに、努力も虚しく有益な成果を出すことはできておりません」
「まぁ、疲れ切った顔を見れば何となくわかりましたよ」
「成果があればすぐに共有するからね」
角砂糖を投入した珈琲をかき混ぜ、再び溜め息を吐く。
求める情報が記載されていそうな書物に多く目を通したものの、今のところ有益なものを得ることはできていない。特に、捨てても元の場所に戻ってくる魔骨に関するものなど、掠りもしないほどに皆無。前例のない事象だとすれば、今回の魔骨事件は本当に厄介極まりない。
「私の手に負えない事件かもしれないって考えてる」
「努力しても成果が出ないと、投げ出したくなる気持ちもわかります。
史輝の提案を、私はすぐに断った。
「引き受けた以上はそんな無責任なことはしないよ。それに、一切情報を得られなかったわけじゃない」
「それは?」
首を傾げた史輝に、私は超時間に及ぶ調査の末、入手した一つの情報を口にした。
「──魔骨の形状についての文献だよ」
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