第6話 大変な作業の前、ひと時の休息

 透花様の屋敷から事務所へと帰還した、午後六時。


「あ~……癒される」


 窓を叩く雨音だけが聞こえていた事務所の書斎に、気の抜けた私の声が反響した。

 自分でも、とても気の抜けた声だなと思う。とてもこれから難題な事件の解決に挑む者が発する声ではない。今の私の声と気分は、一日を終えてベッドに横たわる前の乙女そのもの。

 けど、こんな声を上げてしまうのも仕方ない。なぜなら、事務所のソファに腰を落としている私の腕の中には、一匹の小さな黒猫の姿があるのだから。小さな身体に、手触りの良い肉体の感触。顎を撫でられている子猫は時折欠伸をしながら、とてもリラックスした様子で目を閉じている。今にも眠ってしまいそうな状態だ。

 天使。見ているだけで心身が癒される姿に、私は自分でもわかるほどに、だらしなく頬を歪めた。


「凄い発見。子猫って抱っこしているだけでこんなに癒されるんだぁ。そりゃあ、愛玩動物の中でも人気が高いわけだよ。今、私の脳内で変な快楽物質みたいなものが分泌されているのがわかる。このままだと依存しそう……いや、もうする。依存しないとこの先の人生やっていけない気がする!」

「何を馬鹿なことを言っているんですか」


 高まった気分のままに、しかし子猫の睡眠を邪魔しないように言葉を連ねていると、書斎の扉がガチャリと音を立てて開かれた。見ると、両手に盆を持った史輝の姿。彼が手にする盆の上には、おにぎりやお吸い物、漬物などの簡単な食事。漂う白い湯気が、それらの香りを私の下へと届ける。

 食事を乗せた盆をソファ前のテーブルに置き、史輝は子供の行動に呆れる母親のように、私に言った。


「言われた通り、軽食を作ってきたので食べてください。あと、子猫には変な中毒成分はありませんからね。ただ可愛いだけです」

「本気で言ってるわけじゃないよ。ただ、あまりにも可愛すぎるこの子の表現がそれくらいしか思いつかなかっただけ。ご飯、ありがとね」


 史輝にお礼を言った私は子猫を彼に預け、一度書斎を出て洗面室で手を洗う。流石に、動物に触れたままの手を洗わずに食事をするわけにはいかない。水と石鹸で汚れを落とし、付着した水分をタオルで拭き取り、足早に書斎へと戻り用意してもらった食事に手を付ける。お吸い物が注がれたお椀の端に口をつけ、透明な汁を啜る。


「……うん。今日も美味しいです、料理長」

「どうも」


 史輝が表情に浮かべたのは当然だ、と言わんばかりのドヤ顔だった。

 世間一般で言う助手の仕事には含まれていないと思うけれど、事務所に住み込みで働いている史輝は、私の食事を作ることが多い。理由はとても単純で、私があまり料理を得意としておらず、一人にすると碌な食事を取らないという悪癖を持っているから。自分で料理しようとして食材をダメにしたり、不味い物を作ってしまったり、幾度となく失敗を繰り返してきた。その結果、食事は外で済ませることが多くなり、忙しくなれば食事を抜くこともザラにある。

 そんな私の食事状況を見かねた史輝が私の食事を作ることを提案し、今に至る。

 少し前までは、男が調理場に立つことは良くないこととされていた。料理とは女がするものである、と。しかし、近代化によって外国から様々な物や人、文化が入ってくると同時に、その考え方も廃れるようになってきた。近年は料理学校に入学する男性もそれなりに多く、近い将来には、男が調理場に立つのは当たり前、という常識が生まれるかもしれない。

 食事に舌鼓を打っていると、不意に史輝が腕に抱いた子猫の頭を指先で撫でながら私に問うた。


「結局飼うことにしたんですか? この子猫」

「うん。引き取り手を探すのは面倒だからね」


 肯定し、大きな欠伸をした子猫に視線を向けた。

 雨の降る街で拾ったこの子猫は、今日からうちで飼うことにした。一度助けた以上は再び街中に放つことは躊躇われた上、この子は私や史輝にすぐに懐いてくれたので、かなり愛着が湧いてしまっている。


「動物病院で獣医さんにも飼うことを勧められたし、良い判断だと思うよ」

「そうですね。まぁ、僕は先生がこの子を手放すとは最初から思っていませんでしたけど」

「え? なんで?」


 私の問いに、史輝は無駄に良い笑顔を作り答えた。


「先生は一度気に入ったものは絶対に手放さない、赤ん坊みたいな人ですからね」

「おー? 本当に赤ちゃんみたいにここでオギャリ倒してやろうか?」

「どうぞお好きに。哺乳瓶は購入済みですよ」

「何でそんなの買ってるのッ!?」


 一体何処から取り出したのか、史輝は右手に哺乳瓶を持ち、それを私に見せつけた。まさかそんなものを用意しているとは思わず、私は手にしていたおにぎりを落としそうになる。

 いや、なんでそんなもの買ってるの? え、まさか本当に……。

 不明な使用用途に様々な推測と憶測が脳内で渦巻く中、ふと、私は一つの可能性に辿り着いた。


「史輝……このやりとりをで見てた?」

 

 問い、私は史輝の両目をジッと見つめる。

 未来視。それは史輝が持つ神力であり、彼は先の時間に起きる事象を事前に見ることができる。具体的にどの程度の未来を視ることができるのかはわからないけれど、私が不幸に見舞われる時は比較的余裕を持って助けてくれるので、少なくとも数分先までは視えるのだろう。最大でどれくらいなのかは、史輝は誰にも明かしていないので知ることはできない。

 私が疑念の視線を向け続けると、やがて史輝は首を左右に振った。


「流石に俺の神力でも、何時間も先を視ることはできません」

「だ、だよね……でも、そしたら何でそんなもの買ってるの?」

「純粋に、先生が使うと思って」

「今なら史輝を張り倒しても怒られない気がする」

「そうしたら僕は先生を押し倒しましょう」

「クビにするぞッ!」


 食事の手を止めた私が犬歯を剥き出しにして威嚇すると、史輝は楽しそうに口元に手を当てて笑い「冗談ですよ」と訂正した。


「子猫用に買ったんですよ。ほら、みてください。人間が使うにはあまりにも小さいでしょう?」

「だったら最初からそう言ってよ……」

「良い反応を返す先生が悪いのです」

「責任転嫁はんた~い」


 いつも通りと呼べるやりとりを中断し、私は残っていた食事を平らげた。

 空腹感が払拭された腹部に手を置き、空になった食器を乗せた盆を持ち上げた史輝を軽く睨んだ。


「もう、私は遊んでいる暇なんてないんだけど?」

「最初に猫と遊んでいたのは先生ですよ。それこそ、責任転嫁というやつです。この後の予定は?」

「事前に言ってあった通りだよ」


 湯呑に注がれたお茶を啜り、ソファに置かれたクッションで丸くなる子猫を一度見やった後、ふわついた空気を引き締めて告げる。


「帰り道でも言ったけど、しばらくは地下の書庫で魔骨に関する情報を集めることになる。何の手がかりもない今では、何も行動することができないから。あの魔骨はかなり特殊なもので、どれくらいの時間がかかるかはわからないけど……頑張るしかないよ」

「そうですか……心配ですね」


 私の話を聞いた史輝の反応に首を傾げる。


「心配? 何が?」

「先生の生活が」


 お盆を持ったまま、史輝は続けた。


「書庫に籠って調べものをするということはつまり、先生は一日の大半をそこで過ごすことになります。先生は一つのことに没頭すると他のことが疎かになるダメ人間なので、食事や入浴を忘れるかもしれません」

「おーい笑顔で人をダメ人間って言わない。泣くよ?」

「どうぞ、こちらに」

「遠慮しとく」


 両手を広げて胸を貸そうとした史輝に断りを入れた。

 本当に泣くわけじゃないし、間違っても抱き着きに行くわけにはいかない。何か、安心してそのまま眠ってしまいそう。いや、それどころか変に依存してしまいそうだから。

 心配する助手を安心させるために、私は自分の胸を叩いて言った。


「大丈夫だよ、史輝。最低限、人間としてやらなくちゃいけないことはできるから」

「説得力ありませんよ。以前も書庫で三日も徹夜していましたし」

「あれは徹夜じゃないよ。ちょっと延長戦に入っちゃっただけ」

「意味のわからないこと言わないでください。あれは徹夜です。仮に徹夜じゃなかったとしても、あんな魂の抜け殻のようになっている時点でおかしいと気づいてください」


 全く。と、呆れたように呟いた史輝は次いで、私に言った。


「放置しておくと、先生は落とした豆腐のようになってしまうかもしれません。ですので、食事や入浴、睡眠の時間などはこちらで決めさせていただきます。これは先生を健康な人間の状態に保つための処置ですので、ご理解ください」

「もしかして私って、一人だと何もできないと思われてるの?」

「寧ろ、一人で生活できると思っているのですか?」

「心外である」


 とは言いつつも、私自身、一人でやっていける自信は薄かった。

 食事だけではなく洗濯や掃除などの家事に加えて、大変な仕事、神出鬼没で襲ってくる不幸への対処など、やることは山積み。それらを一人でとなると……うん、多分無理かな。史輝がここに来る前のことを振り返ってみるとそれなりに──いや、かなり酷い生活をしていた記憶がある。栄養の偏った食事に、埃の積もった部屋がある事務所、辛うじてまともに出来ることと言えば買い物くらい……かも。

 そこまで考えて、私は思考を止めた。これ以上は自分の心を抉るだけになる。今は史輝がいるのだから、大人しく彼の手を借りよう。この話題で彼と言い争っても、私は数分と経過しないうちに敗北を宣言する自信がある。

 悟り、私はソファから立ち上がった。


「と、とにかく行こう。先人たちの知恵と知識を借りに行こうではないか」

「露骨に話を切り上げましたね。負けると悟って」

「そういう細かいこと言う男の子はモテないよ?」

「僕は先生を落とすことができればそれでいいです」

「だからそういうことをさぁッ!?」


 再び繰り出された不意打ちの言葉に私は大きな声を上げ、それに対し、史輝が楽しそうに笑う。

 本当に、この助手は油断も隙もない。

 そんなことを考えながらも和やかな雰囲気を漂わせ、私たちは書斎の扉を開けて廊下へと出た。

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