第三節 別れ

第三十六話

 生誕の儀のあと、清白王きよあきおうはすくすくと育っていった。

 通常、生まれる前に乳母の選定がされるのだが、そもそもの政治的混乱と慌ただしい即位による政務の煩雑さにより、清白王きよあきおうの乳母は生誕の儀のあと決められた。


「乳母は、ははき氏の阿胡あこさまがいいわ」

 嘉乃よしのはきっぱりとそう言った。

「どうして知っているのだ?」と清原王きよはらのおおきみが聞いても、嘉乃は「絶対に阿胡あこさまがいいわ」と言うばかりだった。調べてみると、帚阿胡ははきのあこは双子の男の子を出産していて、しかも実に評判のいい女性だった。

「よい方でしょう?」

 自信たっぷりに言う嘉乃が、ふと消えてしまいそうで、清原王きよはらのおおきみは嘉乃を抱き締めた。

「月原さま?」

「嘉乃。どこにも行かないでくれ」

「……行かないわ。ずっと一緒にいるわ」

 そう言う嘉乃はやはり透けて見えるのだった。


 このごろの嘉乃は、美しさにさらに磨きがかかり、ずっと一緒にいる清原王きよはらのおおきみでも溜め息が出るほどだった。その透明な美しさは、つとどこかに消えてしまいそうな美しさでもあり、清原王きよはらのおおきみの中には、震えるような哀しい予感が芽生えていた。

 出来る限り、嘉乃に触れていたいと、清原王きよはらのおおきみは思った。

 嘉乃は、阿胡あこを乳母に決め、御所に阿胡あこ阿胡あこの双子の息子、八束やつか真楯またてを呼び寄せた。御所はいつになくにぎやかになった。明るい声で満ちていた。

 どう考えても、幸せそのものであった。


 清原王きよはらのおおきみと嘉乃の婚姻は最初のころこそ、ほとんど受け入れられていなかったが、白い髪と金色の瞳を持った清白王きよあきおうが生まれたことで、風向きが変わった。清白王きよあきおうが生まれたとき、素晴らしい祝祭が天から降り注ぎ、みなが認めたのだ。

 清白王きよあきおうこそ、次代の天皇であると。

 素晴らしい力を備えていると。

 そのことで、清原王きよはらのおおきみと嘉乃の婚姻も、当初ほどの反発はなくなっていた。もちろん、ふじ氏など、今でも明らかに対立するものはいるが、一方で清原王きよはらのおおきみに協力的な氏も出て来ていた。


 だけど、と清原王きよはらのおおきみは思った。

 嘉乃を抱き締めながら、どうしてこんなに不安が募るのだろう? と。

 嘉乃はいつも、静かに微笑んでいる。

 何かを決めてしまったかのように。



 清白王きよあきおうは、八束やつか真楯またてとともに、健やかに成長していった。

 はいはいするようになり、立って歩くようになったそのころ、嘉乃は突然倒れた。



「嘉乃!」

 清原王きよはらのおおきみは周りに人がいるにも関わらず、二人だけのときの呼び名で嘉乃を呼んだ。

「月原さま……」

 嘉乃もまた、秘密の名前を口にしながら、清原王きよはらのおおきみに抱かれていた。

「嘉乃、しっかりしてくれ」

「月原さま……」

 嘉乃は清原王きよはらのおおきみの頬をそっと撫でた。

「――清白王きよあきおうを、よろしくお願いいたします」

「嘉乃、駄目だ!」

 嘉乃は静かに微笑んだ。



 *



 汝の命はもうすぐ尽きる。

 しかし、魂は残る。

 同じ象徴花しょうちょうかを持つ、もう一人の命が尽きるまで、汝の魂はユキヤナギに残るだろう。



 よかった、と嘉乃は思った。

 月原さまが生きていらっしゃる限り、ずっと見守っていられる。

 魂となっても、わたしは、自分よりも大切な愛しい二人を守ってあげたい。



 嘉乃はしばらく、夢とうつつを行き来した。

 夢の中で嘉乃は、いくつもの未来を見た。

 未来は近い未来も遠い未来も、交差して嘉乃の目前に現れた。

 そして、ある未来を見たとき、嘉乃は急に理解した。

 自分と清原王きよはらのおおきみの行く末と役割を。

 そして、同時に思った。

 こんな幸せが起こりえるのかと。

 ああ、なんて素晴らしいの、と。



 天翔あまがけうるわしの国――それを、わたしたちはきっと。




 *

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