対の月

霧谷

✳✳✳

──頭上には無機質な真円が輝く。手を翳してみればそれは遥か遠く、掴めそうで掴めない。握り拳を作ってみればその形状に影を落として歪む。誰もに等しく玲瓏な光を届ける月が、このときばかりは自らの手で形を変えられるさまが嫌いではなかった。


「届きそう?」


……そんな事を言って隣の女は笑った。柔らかな眼を縁取る睫毛は光の雫をまとって煌めきその奥の黒を艶やかに彩る。笑みの形を象った唇は時折綻んで、意味を為さぬ音、否。よくよく聞けば異国の童謡を口ずさんでいる。聞いてそれと悟るには発音はあまく、音程が外れていて別の鼻歌に近しい。


「届くなら今ごろ、この手の中に有んだろうよ」


「そうだねぇ……」


俺は半ば独り言のように呟いた。女はまたも可笑しそうにころころと笑う。伏した睫毛には月の光が絡み、黒い瞳に陰が差していた。


「でも、こうしてる時間は嫌いじゃねえ」


「その心は?」


「届かなくたってひとときでも月がこの手で歪められんなら、何度だって手を伸ばしてやるさ」


俺は握り拳を女の額へと優しく当てた。女はなおも可笑しそうに笑う。触れた額はひどく冷たく、肌の奥底に生命が息づいているのかを確認したくなる。


「月を歪めた男、か。なるほどなるほど、浪漫に溢れた話じゃないか」


「話を聞いてたのか?」


「聞いてたさ。でもねえ、君」


背の丈の低い女は笑う。眼下で有機質な深淵が嗤う。



「君もふたあつ、月を持ち合わせているだろう?」


そうか、そうか。一番近くにあって、自らの意志で如何様にも変えることが出来るものは。




──……男は虎狼の瞳を見開いた。




女はころころと笑う。




「届かない月よりも、私はこの月の方が好きだねえ。




──……どんな夜だろうと決して翳らず、綺麗だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

対の月 霧谷 @168-nHHT

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ