ポスト・アポカリプスの猫

中且中

第1話

 祖母が死んでもう十数年になる。祖母は奔放な人で、家族に迷惑ばかりかけていた。私の母がよく文句を言っていたことを覚えている。都心に住んでいた祖母は還暦を迎えた折に、自身の故郷である、内海の小さな島へと居を移した。祖母の母が、つまり私の曾祖母がちょうどその頃亡くなって、介護やら葬式やら遺産の問題やらにけりがついたというのも、祖母が移住の決心をかためた理由かもしれない。彼女は若い頃に離婚していたので気をつかう同居人もおらず、移住はスムーズに行われた。

 故郷へ戻った祖母はそれからも国内海外問わず旅に出たり、家を改築したり、農業を始めたりと、矍鑠としていたが、古希を迎えた頃から体調を崩しがちになり、それから一年も経たずに亡くなってしまった。私が大学生の頃だ。長女である母と、ちょうど夏休みで暇をもてあました私は葬式に参列するために、列車と連絡船を乗りついで祖母の故郷である小さな島へと赴いた。寂れた島の村落と空にそびえる入道雲、内海の穏やかで青い海と海風のことが今でも鮮明に記憶に残っている。小学生の頃に訪ねたきりであった祖母の故郷は、十年ぶりに見ると随分と寂れていた。

 船に揺られていると、ふとそんなことを思い出した。漁船のエンジン音と、吹き付ける風が耳元にうるさい。海面を滑るように漁船は進んでいく。海の匂いがした。照り付ける日差しが季節が夏であることを告げている。夏は、祖母の葬式の季節であり、小学生の頃に祖母の家に帰郷していたお盆の季節であった。夏の匂いが思い出を喚起したのだろうかと、私は思った。

 祖母の故郷に、私は十数年ぶりに再び向かっていた。

 かつて運行していた連絡船は数年前に島民がすべていなくなってしまったことで廃止されていた。祖母が亡くなった頃、既に二桁であった島の人口は、それからの十数年で高齢化も相まって激減し、とうとう数年前に最後の島民が本土の介護施設に入ったことで零になってしまったのだ。私は本土の漁師に頼んで、船を出してもらうこととなった。漁師である老人は、ときおり、廃墟マニアであったり、私のようなかつての住民やその関係者といった、島を訪れたい人向けに、渡し船のビジネスを行っているようだった。

 港に入り、漁師の老人に礼を言って島に上陸した。港にはコンクリートの埠頭があり、船の脇からそこにタラップ代わりに板をかけて、乗り降りするのだ。立てかける板は細長く、高さもそれなりにあるので、私は足元をあまり見ずに一気に駆け下りた。ちょっとしたアトラクションのようで面白い。どうやら地元の漁師がちょっとした休憩所、または嵐などの際の避難所として島の港を整備しているようで、港には綺麗な状態の小屋が建っていた。漁師の老人は船で私が帰るのを待っていてくれるようで、私がもう一度船に向けて目礼をすると控えめに手を振ってくれた。それから私は村落跡へと歩を進めた。

 私がこの島を訪れたのには当然、理由がある。両親から頼まれたのだ。母は数年前から認知症を患い、今までは父が介護を行っていたものの、最近になって施設に入ることが決まった。母は祖母の故郷の島をしきりに懐かしがるようになっていて、祖母の様子を尋ねてばかりいた。祖母の故郷は祖母の一族が古くから暮らしていた土地で、母にとり祖父母の家であり、彼女が幼少期に祖父母の家にあずけられていたこともあって、彼女にとっても故郷であったのだ。懐古の思いが湧き出したのかもしれない。彼女の精神はもはや現在になく、祖父母の家に帰ることを楽しみにしていた子どもの頃に戻ってしまったのだ。

 母は迷惑ばかりかけられていた奔放な祖母のことを嫌ってばかりいるものだと思っていたので、私は驚いたが、その真意を問うことはもうできない。母が故郷の島に帰りたいというものだから、父はせめて写真だけでも見せてあげようと思ったのだが、写真などを残すことを嫌った母は、故郷に関しての写真も数枚しか残していなかった。それも残っているのは人物の写真で、風景の写真は少ない。

 それが故に私は父から、母の故郷であり、祖母の故郷である島の写真を撮ってきてくれないかと頼まれたのだ。いくらか自由の効く職業をしていることもあって、兄弟のなかで私はそのような頼まれごとをされることが多かった。母の願いも父からの頼みも無下にするわけにはいかないので、私は別件で内海のあたりを回る用事があったついでに、祖母の故郷へと十数年ぶりに赴いたのである。

 島には入り江があり、その奥には村落があった。入り江は山に取り囲まれている。島は大雑把に言えば三日月の形をしていた。入り江の港から、南向きの比較的傾斜のゆるい山の斜面の中腹にかけて数十の家々が軒を連ねている。かつては村の横には田畑があったのだが、今は緑に飲み込まれ、原野となっていた。山のてっぺんには神社があり、少し下には学校校舎がある。役場は村の中心部、祖母の家は村の外れにあったはずである。村は斜面につくられているため、道は坂道か階段である。限られたスペースに密集して家屋が建てられているために、道の幅は狭く、家々の隙間もほとんどない。

 家と家の隙間の道を歩きながら父からこれで撮るようにと厳命されたカメラで村の写真を撮っていく。家は多くが荒廃している。蔦が這い、瓦が落ちて、窓ガラスは割れていた。家ごとに荒廃具合に差があるのは、放棄された年数の違いだろう。中には風化と自重で傾いている家もあった。

 どんどん村の奥へと入っていく。階段を登り終えると、二階建ての家屋が身を寄せ合うように建っている隙間を、細いみちが通っているのが見えた。通路は家屋により日が遮られて薄暗く、隧道のようにも思える。この隧道のような通路を抜けると、そこには小さな広場があった。太陽の光が射しこんでいて、広場の中心がスポットライトを当てられたように眩い。ふと、私はその広場の真ん中になにかふわふわとしたものが横たわっているのに気がついた。それは白い猫だった。猫が広場の真ん中で日向ぼっこをしていたのだ。

 私は思わず「わっ」と声をあげてしまったけれど、猫はこちらをちらりと見るばかりで、逃げるそぶりはみせなかった。私は立ち尽くしたまま、呆然として猫を眺めた。野生の猫だろうか。どうやって餌を得ているのだろう。この島には鼠や鳥ぐらいしか猫の餌となるものはいないだろう。それとも漁師が面倒を見ているのだろうか。いや、流石に無人島で猫を飼うというのは考えにくい。

 猫は毛並みもよく、まるまると太っていた。なにかの拍子にごろごろと転がってしまうのではないかと思うほどだ。誰かが面倒を見ているとしか思えないのだが、誰が面倒を見るというのだろう。私はそうっと猫に近づいてみた。まだ逃げる様子はない。一歩二歩三歩と接近し、とうとう手をのばせば触れられるほどの近さまできた。私は屈みこんで猫を眺めた。眼を細めて、半分眠っているようである。夏の燦と照る太陽の光は肌をじりじりと焼く。暑くないのだろうかと思うが、気分はよさそうである。もともとこの島のある地域は都心ほど気温が高くない。それになにより湿度が低く、乾燥しているので、体感気温は低いのだ。それほど心配する必要はないのかもしれなかった。私は立ち上がり、心の中で猫にわかれを告げ、村はずれにある祖母の家へと向かった。

 急な階段を足元に気を付けてうつむきながら登っていて、あとどれくらいあるんだろうと思い、顔を上げたら、ちょうど目の高さのあたりの階段に猫が寝転がっていた。私は驚いて、声は出さないまでも肩をびくりと震わせた。今度はぶちの猫で、まん丸い瞳で私のことを一心に見つめていた。私はなんの気も無しに声に出して猫に訊ねた。

「なにをしているの?」

 当然、返答はない。あるいは、言わないでもわかるだろうと言った様子でごろんと仰向けになった。私は猫の隣に腰を下ろした。猫の腹をそっと撫でる。ふかふかとして柔らかい。二、三度撫でると猫は起き上がり、階段を登っていってしまった。私はぼんやりと階段から見える景色を眺めた。海がここからは見えた。水平線と空を流れる積雲を眺めていると、母も祖母もそしてその一族も、そうして過去の私も同じような風景を見ていたのだなと思って、小さな島の風景の背後に渺渺びょうびょうたる過去が存在することを感じ、恐ろしいような不可思議な気分になる。けれど、果てしの無い過去から続くこの島の歴史は数年前に途絶えてしまったのだ。ここは崩壊してしまったのだ。ありとあらゆるものが時間の流れの中に埋没しつつあるのだ。そう考えるとこの土地が完全に埋没する前に、何らかの形で記録を残しておくことがなにか崇高な使命のように思えてくるから愉快だった。私は立ち上がって再び、階段を登り始めた。

 階段の終わりについて、飛び込んできた光景に私はおもわず笑ってしまった。猫が三匹ほどめいめい座ったり寝転んだりした状態で、階段を登る私を見下ろしていたからだ。三匹のうち一匹は階段の途中であったぶちの猫だった。一体全体この猫たちはどうやって暮らしているのだろう。どの猫も毛並みが良く、健康そうである。

 私は猫たちの横を通り過ぎて、三叉路を左に曲がった。この先に祖母の家があるのだ。

 [[rb:路 > みち]]を行く途中にちらちらと猫の姿が見えた。寝転んでいたり、[[rb:路 > みち]]を横切ったり、毛づくろいをしたりしていた。どれも違う猫だ。三毛猫、虎猫、錆猫、黒猫。その他様々。ある一匹の錆猫は屋根の上からじっと私を見つめていて、私は咄嗟に会釈してしまった。その猫はおおきく欠伸をして、私に返答した。どうやらこの島には多くの猫が生育しているようだった。どういう理屈で、というのはわからないし、ここまで乗せてくれた漁師の老人も猫についてはまったく語らなかった。寡黙そうな見た目の割に話し好きの人物だったので、島に多くの猫がいるなんていうことは、真っ先に話のネタにしそうなものであるが、話さなかったのは彼も知らなかったからなのだろうか。私にはわからなかった。いったいどうやってこの猫たちは餌を得ているのだろうと、坂道と階段を登り通して疲弊した頭で考えるのだけれど、見当もつかなかった。

 祖母の家に着いて、私はその荒廃ぶりに唖然とした。家は傾き、草はぼうぼうと生い茂り、屋根の一部が崩落して、その穴から大きな樹が姿を見せていた。とんでもなく大きな樹だ。御神木として祀られていてもおかしくはないだろう。葉や幹から見るにくすのきと思われた。祖母が亡くなってから育ったにしてはあまりに大きすぎた。十年でここまで成長できるはずがない。樹齢何百年と言われてもおかしくはなかった。楠の威容に私は圧倒されてしまって、しばらく呆然自失としていた。いったいなぜこのような樹が祖母の家に生えているのだろうか。さっぱりわからなかったが、ともかく楠が写りこまないように、祖母の家の写真を撮っておいて、なんとはなしにスマートフォンを取り出して楠も撮っておいた。これは自分用だ。なんとなく楠の姿を記録に残しておきたかった。

 家の中に入るのは遠慮しておきたかったが、私はなぜだか知らないけれど、家に入らなければいけないような気が猛烈にして、半ば無意識に祖母の家に足を踏み入れていた。壊れた玄関の戸の脇から屋内に入る。土間の薄暗がりの下から「にゃあ」と音がして、私は驚いて音のしたほうを見た。灰色の猫が土間に寝ていた。頭だけを起こして私を見ている。「お邪魔するね」と私は小さく猫に言い、少し気は引けるものの土足で床に上がり、居間に向かった。家の奥、ちょうど奥の間のあった場所に楠がはえていたはずだ。私はそこを目指していた。

 灯りのない屋内は暗い。畳はとうの昔に腐っている。床板もところどころ腐って、床に穴が開いている。玄関を抜け、中の間、居間を通り、仏間に入る。この横に奥の間がある。襖は倒れていて、奥の間が既に見える。やはり天井が崩落していたようだ。奥の間の方から光が漏れていた。仏間はぼんやりと明るい。

 奥の間に入る。床もまた崩れ、天井とともに瓦礫の山となっている。真ん中には楠の大木が根を下ろしている。なにより驚いたのが、水の音がすることだった。楠の周囲を沢が流れていた。山の上から流れてきて、楠の周囲で小さな池をつくり、それから家の床下を通って海まで流れているらしい。楠とそれを取り囲む池は、天井に開いた穴から射し込む陽光に照らされて、陰影が際立ち、別世界のようにも思えた。

 ここにも猫はいて、様々な毛並みの猫が楠の周りに集まって、沢の水をなめたりしていた。それなりに数がいて、十匹ぐらいが、瓦礫の上や楠の枝の上などに各々勝手に居る。

 楠の根元に白い大きな猫がいて、私は「あ」と声を出した。初めてこの島で出会った猫だった。あの広場の真ん中で日向ぼっこをしていた猫である。猫は欠伸をして、右足を舐め、それから喉を鳴らした。私はゆっくりと猫に近づいていった。池の浅いところを渡り、白猫のもとへたどり着いた。白猫は微動だにせず、私のことを見つめていたけれど、私が近づくと、立ち上がって楠の裏に行ってしまった。咄嗟に私は追いかけて、楠の裏に回って、白い尻尾が楠の陰にふっと吸い込まれるように消えるのを見た。消えた箇所をよく見れば、そこには大きな洞が空いていた。この中に白猫は入っていったのだ。中を覗くと暗く、よく見えないが、だいぶ広さがあるようだ。

 追いかけてみよう、と私は思った。首にかけていたカメラをリュックにしまい、屈んで洞に身を滑り込ませた。入口は狭かったが、入ってみると洞の中は広々としていた。地面の辺りに穴が開いていた。どうやら洞窟のようである。樹の根が梯子のように穴に垂れている。私はそれをつたって洞窟に降りた。

 内部は暗いが、左の方向に光が見えた。私は左手で洞窟の壁面をさわりながら、光明をめがけて歩いた。冷涼な、音の無い、暗闇の空間の中にいると感覚が曖昧になる。自分がどれだけ歩いたかがわからなくなるし、どれだけ歩いているのかもよくわからなくなる。洞窟は急峻な上り坂になっていて、一歩一歩足場を確認して歩まなければならなかったし、時には四つん這いになって進まなければならなかった。

 進むにつれて光は段々と大きくなっていき、とうとう私は洞窟の出口へとたどり着いた。地面に空いた堅穴といった様子で、上部からこれまた光が射していた。木漏れ日のようで、それほど光量は強くない。堅穴の壁面、やや傾斜の緩い所を慎重に登り、地上へ出た。

 周囲を見て、私は驚いた。鳥居が見えた。石の鳥居だ。そこは神社の参道だった。私が出てきたのは神社の境内に空いた堅穴だったのだ。そのことにも驚いたけれど、鳥居の真ん中に私を待ち構えていたようにさきほどの白猫が座っているのには、より驚かされた。白猫は私を見るとゆっくりと近づいてきて、私の足に体を擦り付けてきた。そうっと喉のあたりを撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。それから猫は私の傍を離れ、鳥居をくぐって社殿の方へと歩いて行った。参道は階段になっている。私は猫の後を追った。

 階段が終わって社殿の前に着くと、私はそこにあった奇妙な光景に目を見張った。一匹の猫が社殿の近くに丸まっていたのだ。それは真っ白な猫であった。だが、驚いたのはそこではなかった。その猫は大きかった。軽自動車ほどは大きさがある。虎や獅子を思わせるが、そのような獰猛さはあまりない。ただ猫を巨大化させた感じだ。巨大な猫が一匹そこに寝転んでいたのだった。私を案内してくれた白猫は、手水舎のほうに言って水を舐めていた。私は巨大な猫と独り相対していた。慄然として私は一歩も動けなかった。

 そうしているうちに猫が閉じていた眼を開いた。大きな、真っ青な瞳が私を見据えた。猫は動かず、私も動けなかった。すると一声、小さな猫の鳴き声が聞こえた。足元を見ると私を案内した白猫が私の足を後方から押していた。たいした力があるわけではなかったが、私は驚いて一歩前に出てしまって、その勢いのまま、二歩三歩と大きく進んでしまった。しまったと思って前を見たら、目の前に巨大な白猫の顔があった。

 巨大な白猫は私を眺めて、目を細め、雷のように喉を鳴らした。ちょっと機嫌を損ねれば、噛みつくなりされて死んでしまうかもしれないと思うと、恐怖よりももはや畏敬の念がわいてきた。私の命、人間の命など、この猫にとっては些事でしかないのだろう。

 そう思っていると突然、猫がその大きな前足を私の方に伸ばした。前足は鉤のように曲げられて、私にそっと触れた。背中に巨大な肉球の感触と、体温が感じられた。そのまま、ぎゅっと背中を押される。私はよろめいて、前へ倒れた。地面にぶつかると思ったが、なにかクッションのような、柔らかい感触が顔を包んで、からだを優しく受け止めた。白い毛布に顔をうずめたかのようだった。顔を抜き出して、私はようやく、巨大な猫の胸元に頭から飛び込んだのだと気がついた。咄嗟に逃げ出そうとしたが、なにか大きなものに背中を押さえられて動けない。首を反らせて確認すれば、猫が前足で私を抱えているのだ。私は身動きができずに、あまりの成り行きに驚いて呆気にとられてしまった。

 猫は遊んでいるのか、二つの前足でころころと私を転がした。背中を舐められ、地面を転がされ、肉球でやたらめったら触られた。最初は恐怖のあまり硬直してしまっていたが、どうやらこの猫は、私が怪我をしないようにできる限り丁重に扱っているのだとわかると、そこまで恐ろしくなくなった。むしろ楽しいとさえ少しばかり思えた。一方的に私がおもちゃとして弄ばれる時間はそう長く続かなかった。ふと、猫は遊ぶのをやめてしまった。ひとつ大きな欠伸をして、目を閉じて気持ちよさそうに寝てしまった。

 私はよろよろと立ち上がって、埃を払い、境内で安眠する巨大な猫を眺めた。超然としていて、この神社の神様だと言われても信じられた。いったい、この猫はなんなのだろうか。いったいどこからやってきてこの島に住み着いたのだろう。島にやたらと猫がいるのは、この巨大な猫がいるからなのだろうか。なにもかも不思議で、奇妙だった。あるいは今見ているのは、私が白昼みた夢なのではなかろうかとさえ思えた。はたと、私は足元に一本の長い毛が落ちているのに気がついた。白く、太いが、しなやかな毛だ。猫の髭だろうと私は気がついた。なんとなく貰っておこうと思って私はそれをポケットに入れた。猫はぐっすりと眠っている。私を案内してくれた小さな白猫の姿はもう見えない。

 巨大な猫を少しだけ撫でて、私は神社を去ることにした。階段のあたりまできて振り返ると、大きな猫が私のことなど気にも留めずに眠っている。私は愉快な気分になった。こんな自由奔放な猫が住んでいるのなら、きっとこの島も寂しくないだろう。人が誰も住まなくなっても、こうして猫が住んだのなら、村は寂しくないはずだ。

 私はこの村は崩壊してしまったのだと思ったけれど、果てしの無い時間、歴史の流れが途絶えてしまったのだと思ったけれど、案外それでも良いふうに世界は回るものなのだ。崩壊後の世界には猫たちが暮らしていた。理由はさっぱりわからないけれど、でもわかる必要なんてあるのだろうか。この島はもはや人の手のうちにあるのではないのだ。人の手の離れたところで、人の常識の埒外のことが起こったって、そこは人の場所ではないのだから、別にかまわないではないか。私はそう思い、そうして、もしこれから、私の住む国が、あるいは人類が滅びることがあったとして、そうしたら、その崩壊後の世界には、この島のように猫たちが過ごしているのだろうかと考えた。そうであれば面白いなあと私は思った。

 社殿と猫とに礼をしてから、参道の階段を降りて、港へつながる道を下っていく。幸いさんざん猫に弄ばれたにかかわらず、カメラやスマートフォンといった荷物は無事だった。

 港へ帰ると漁師の老人が、猫にもみくちゃにされてくたびれた格好の私を見て、たいそう驚いていた。ちょっと転んでしまってと言い訳をすると親身に心配してくれた。猫のことは訊ねなかった。私の心の中の秘密にしておこうと思ったし、ひょっとしたら夢なのではないかと疑っていたからだ。けれど、その疑いは宿に戻って、ポケットの底に巨大な猫の髭を見つけたことで消えた。

 それから何日か別件の取材をして、私は自宅のある都心に戻った。島で撮った写真は母に好評で、父から礼を言われた。スマートフォンで撮っていた楠の写真は、プリントアウトして小さな写真立てに入れて飾っている。

 拾った巨大な猫の髭、あるいはもしかしたら貰ったのかもしれないと私は思っているが、それは常にお守りとして袋に入れて、出かける時などに持ち運んだ。奇妙なことに猫の髭をお守りとして持っていると、やけに猫に好かれるのだ。友人の家に遊びに言った時、その飼い猫に友人よりも懐かれてしまったほどだ。野良猫も私のもとにやたらと寄ってくる。周囲の人間は不思議がったが、私は「私の人徳のなせる業だろう」と冗談を言ってごまかした。

 今度の夏にでも、またあの島に行こうかなと思っているが、もしなにもかもが幻で、再び赴いた時に猫の姿なんて影も形もなかったらどうしようかとも考えて、如何とすべきか迷っているところだ。


終わり

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