第01話   魔王ディオメリス

「ほら、靴下も脱いで! ぐずぐずしない!」


 小さな小さな幼い女の子が、養母に強い口調で急かされながら、裸にされていった。暖炉の炎は小さくなっていたが、少女のために乾いた薪を足してくれる大人はいない。


「さあ! 聖なる泉に急ぎなさい。他人の時間を奪うものではありませんよ」


「さむいよぉ……」


「当たり前でしょう! 冬なんですから」


 頭を小突かれながら、元孤児院の古ぼけた裏口へと連れていかれる。


 そこには、今朝降った新雪に縁取られた大きな池が……。少女は足がすくんで、うずくまった。


「さむい……」


「寒いのはみんな同じですよ」


 養母は自身の首に巻いた狐の毛皮のマフラーを片手で手繰り寄せながら、そっけなく言った。


 抵抗をあきらめて先に進むと、水の底に、大きな黒い魚が。寒さに鈍った尾びれをくねらせ、じんわりと二人に近づいてきた。


「おさかな、こあいよぉ」


「怖いものですか。日々己の糧とするために、獣や魚を焼いて食べている人間の方が、よほど汚らわしく恐ろしい生き物ですよ。お魚はあなたにひどいことを言いますか? 何を恐れることがあるのです」


「え、えっと、わかんない、です」


「わからないのは、あなたが何も学ぼうとしないからですよ。さあ、聖なる泉で身を清め、強く賢い乙女へと成長なさい。全ての疑問の解を得られるのは、日々の鍛錬に耐えてきた者だけです」


「……わかりません」


 養母が少女の両脇を持ち上げて、池の中にポイと放った。


「ギャアアア!!!」


「では、不勉強でわからずやなあなたにも、わかりやすく教えてあげましょう。今から二時間、聖なる泉に肩まで浸かって過ごしなさい。さもないと、今日の朝食とお昼と夕飯は出ませんよ」


「ええ〜!?」


「温かいミルクも出しませんよ。人間は報酬を得るために、常に何かを犠牲にしているのです。それは幼子のあなたにも当てはまる社会の常識! たったの二時間をボーッと過ごすだけなんですから、楽なものでしょう!」


 養母は少女を残して、室内へと戻っていった。扉が軋むほど乱暴に閉められる。


「さぼってはなりませんよ! 定期的に見回りが来ますからね!」


 少女は自身を抱きしめるようにして縮こまり、ガタガタと震えて立っていた。肩まで水に浸かってしまって、寒さで逃げだしたくなるのを、食べ物を理由に必死で耐える。


 歯がカチカチ鳴って止まらない。顔色はみるみる蒼白し、くちびるの色は紫を通りこして黒くなってきた。


 窓から他の子供たちが気づいて、池で耐えている少女の今にも失神しそうな様子に、怯えて顔をゆがめた。


「今日はあの子の番、でも明日はわたしの番だわ! もうイヤぁ! 耐えられない!」


 カーテンがシャッと閉められた。


「たたたたえられないのは、ここここっちだよっ」


 少女の意識がいよいよ遠のいてきた、そのときだった。


「なにしてるんだぁ?」


 非常にゆったりした低い声が、降ってきた。少女が見上げると、褐色肌の妙齢の男が、毛皮付きだが派手に前を開けたジャケット姿という独特なファッションで立っていた。裸の胸板は分厚く、この寒さにも凍えている素振りがない。


 彫りの深いエキゾチックな顔立ちに、無造作に伸ばされた茶色い髪がゆるやかに掛かる。それを豪快に片手で掻き上げ、おでこが見えた。


 知らない人とは話さない、ついて行かない、と教え込まれてきた少女は、どうすることもできないまま水中で震えていた。


 謎の男は、ぼろぼろの建物を見上げた。


「ああ、ここは聖堂とやらの別荘だったか。周りからそれっぽく見えないように、わざとボロ屋を使ってるんだよな」


 少女はなんの疑問も口にできなかった。半分意識が無くなっていたから。


「毎年毎年、身寄りのない子供にひでぇことしやがる」


 謎の男は、大股開きでしゃがみこんで少女の顔をのぞきこんだ。


「助けてやろうか?」


 その言葉に、遠のいていた意識がハッと戻ってきた。再び目に輝きが灯った少女に、男はニヤリと笑ってうなずいた。


「それじゃあ、三つ条件を出すぞ。その一、この俺『魔王』ディオメリスの配下になること。そのニ、俺と会ったことは誰にも言わないこと。その三、成人したら必ず魔王城に来ること。約束できるか?」


 うんうんうん、と頷いた。


「それじゃあ今から水をあっためる『魔法紋』を、お前の体に刻みこんでやる。けどな、これには『素質』が必要なんだ。それが無ければ、俺はお前を助けられないし、この取り引きも無効になる」


 なにを言われているのか全くわからなかったが、少女は助かりたいあまりに全て誓った。背中に一瞬だけ燃えるような熱さが走り、びっくりして振り向くと、水中に沈んでいるはずの背中から黒い煙が出ていた。炎を模した抽象的な紋が、右の肩甲骨付近で赤く輝いている。


「それじゃあな。しっかり練習しとけよ」


 男の姿は、忽然と消えていた。


 背中に深く刻まれた紋は、痛くはなかった。ほどなくして煙が消え、気が付くと、二時間経過したと告げながら養母が扉から出てきた。


「んまあ! 気絶もせず逃げだしもせずに、耐えきったというのですか!? 本当に!? あなたごときが!? ズルもせずに!?」


 疑われた少女は、もう二時間、水に浸かっているよう命令された。今度は見張りの大人が椅子を持ってきて、窓から少女をきっちり見張った。


 何時間経とうと、少女は長く池の中に入っていた。冷たい水中でしか生きられない生き物が、腹を見せながらぷかぷかと浮き上がる中で。


(わたしにしか、みえないんだ、このせなかのヘンなマーク……)


 少女は聖女の素質アリとみなされ、馬車で運ばれて聖堂へ軟禁された。そこには、少女と同じく素質アリと判定された子供たちが十名ほど集められていた。


 冷笑を崩さない若い養母が、パンパンと手を叩く。


「ようこそ、初めまして皆さん。さあ、今日からこの新たな学び舎で、真の『聖女』を目指して励みましょう」


 断食の修行。耐えきれず壁を掻きむしって脱走しようとする者が続出する中、少女だけは平然と過ごしていた。あの男性ディオメリスが、以前と同じ条件と引き換えに、特別な魔法紋を刻んでくれたから。


 鞭打ちの修行の際には、あまりの過酷さに命の危機を感じた少女が、自らディオメリスへ祈りを捧げて召喚することに成功。鞭使いを部屋から出さない魔法紋を教わり、その後は一度もぶたれずに過ごした。


「おめでとう、あなたが真の聖女だったと判明いたしました」


 国を挙げてのパレードが行われ、その日は国民の祝日と定められたが、少女のいる場所は牢獄だった。


「これからは名を生贄の羊肉アリエスと改め、魔王討伐の一団に参加し、その身を賭して魔王を封印し――」


「私は、魔王様のモノ」


 養母の口上をさえぎり、少女アリエスは誕生した。


「なんですって?」


 檻の前にいる大人たちがざわめく中、少女は格子を両手で掴んだ。


「お前たちが魔王様を呼び捨てできるのも今のうちだ!」


「なんてこと……。聖なる修行に打ち負けて、とっくに狂ってしまっていたのですか。どうりで、あなただけが平然と過ごしていたわけです」


 一つだけ説明がつかないのは、鞭打ちの修行の日でも少女だけが負傷していないことだったが、見た目だけは麗しいので体でも売って見逃されたのではないかと放置されてきた。きちんと食事を摂ってきた少女は、健康そのもの。この場の誰よりも美しく、そして強かに成長していた。


 このような成長を遂げた聖女を、誰も見たことがなかった。


 養母の口角が、強烈な歯ぎしりと共に歪む。


「育ててやった我々に報いる気がないのなら、あなたを聖堂に置いておくわけにはいきません。お望み通り、魔王城に捨て置いてあげましょう」


「あらまあ、至れり尽くせりで申し訳ありませんわ」


 少女は誰よりも上品に嗤った。


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