最終話

それから、6年の月日が流れた。

「おい、修平!お前、二回金メダル獲ったからたって、調子にのってんじゃねーぞ。俺が大人になったら、修平なんか、一発でやっつけてるんだからな」

オリンピックを終えて帰国してきた修平君が、土曜の練習日、突然道場へと顔を出しに来た時のことだった。

 お迎えに来ていた保護者たちが周り中の窓から道場内を覗き込んでいて、修平君の姿に悲鳴とも取れる歓声が沸き上がる。スマホで写真を撮っている人もたくさんいた。市役所も、とにかくすごい人でごった返すらしく、修平君は、しばらく練習を休むように言われたらしい。

「は?この生意気なクソガキめ。口の聞き方を知らねーのか?」

三歳児の両頬を片手で掴み、グリグリと横へと振る。

「ちょっと!何してんの!」

美園ちゃんが、後ろから怒る。

「親のしつけがなってねーぞ」

「は?昔のあんたより、全然マシだけどね」

「ママ!」

三歳児の、美園ちゃんと純平さんの子である耀平君が、美園ちゃんに抱き付く。美園ちゃんは、純平さんの家で同居していて、耀平君を純平さんのお母さんが働く保育園に預けながら、個人病院で看護師の仕事をしていた。

「あんたの血が混ざってんだから、仕方ないでしょ。純平さんだけの血だったら良かったのに」

「性格の悪さは、お前に似たんだろーが」

美園ちゃんの拳が、世界一の男の背中に飛んだ。

「いって…、てめ…」

懐かしいこの感じに、思わず笑顔が零れてしまった。

「ママ、持って来てくれた?」

「うん。持ってきたよ」

美園ちゃんが、耀平君に何かを手渡す。

「葵に、これ、やる。保育園で作った」

「え?」

僕はしゃがんで、耀平君に目線を合わせた。

僕に差し出してくれたのは、折り紙で作った指輪だった。

「俺が大きくなったら、葵と結婚する。だから、これ大事にしとけよ」

「本当に?ありがとう。嬉しい。大事にするね」

何てかわいいんだろう。自然に頬が緩んで笑顔になってしまう。

「あと、これ。いつものお花。100個になったら、約束通りほっぺにチューしろよな」

そう言いながら、耀平君は、いつも、練習日に僕へと必ず折り紙の花をくれる。

「この、マセガキが」

修平君が、先ほどより強く頬を掴み、耀平君の唇が、より尖る。

「って言うか、人数多すぎねぇ?」

修平君が立ち上がり、帰って行く門下生達を見る。

「修平のせいで、空手ブームだからな。俺も仕事終わりは必ずここに来て指導に駆り出されるし、美園も二人目妊娠中なのに、まだ指導に出てるしな」

大学を卒業して理学療法士の資格を取得した聡史君は、こっちに戻り、規模を大きくした伸哉さんの整骨院で働いていた。

「何よりも、葵さんが黒帯を取って、小学生の指導してるっていうのがすごいよな」

聡史君が、修平君の肩に手を置き、顔を近付けて笑う。

「修平、いつまでいる?」

耀平君が、修平君の側に来て、下から見上げる。

「あ?何だ?寂しいのか?」

「ううん。ママが、修平がいる間は、葵の家に行ったらダメって言う」

「は?お前、葵の家に来てんのか?」

「うん。土曜は次の日お休みだから、お泊まりしに来ていいって葵が言うし。お風呂も寝るのも一緒で、楽しいから、修平、早くまた遠くに行けよ」

「この、クソガキ。俺ですら、まだ一緒に風呂なんて…」

言いかけた修平君の言葉を遮って、

「あのっ!僕、着替えたら先に帰るね。修平君、実家でゆっくりしてきていいから。じゃあ、またね」

「葵、周りにいる保護者たちがはけたら、すぐに帰るから」

そう言った修平君の声を背に、僕は更衣室へと向かった。


「葵さん、健気だよなー。ほんと、我慢強いって言うか。見てて、かわいそうになる時があるよ」

聡史が葵の背中を見て言った。

「私も、しんどそうだな、って思う時がある…」

美園が同調する。

「葵が?何で?」

「お前、マジで何も分かってないんだな。自分の人気の凄さを。無駄にイケメンすぎるし、取材もインタビューも拒否してて、上から目線の俺様な性格を知られてないせいか、テレビで修平に会いたいって言ってる、女子アナとか女優とか、女芸人も、めちゃくちゃ多いんだぞ?」

「そうそう。修平の追っかけとかもめっちゃ増えてるし、隠し撮りのインスタ上げてたり、YouTubeに上がってるいろんな動画の再生回数もかなりだもんね。しかも、タチの悪い女子アナいて。オリンピックの会場で、修平の近くに行って、ツーショットの写真何枚も撮って『すごい近くて感激~』とかインスタ上げてて。心配にもなるよ」

「ふぅん」

修平は、全く興味がないという感じで、気のない返事をしただけだった。


「ただいま」

玄関を開き、中へと入る。リビングに、布団が敷いてあった。

「お帰り。お風呂上がったら、お湯抜いて、換気扇回しておいてもらえる?」

「ああ」

「僕、今日こっちで寝るから。修平君、疲れてるだろうし、ベッドで一人でゆっくり寝て」

僕は、そそくさと布団に入った。

「葵…?」

「ごめん、ちょっと疲れてて。先に寝るね。リビングの電気、少しだけ暗くさせてもらうね」

「ああ」

ダメだ。修平君の顔が見られない。見ると、きっとまた感情が表に出てしまう。こんな時、一緒に住んでいることの不便さを感じてしまう。

修平君が、脱衣所へと入り、扉が閉じる。僕は少しホッとして体の力が抜けた。

「今のうちに、眠らなきゃ…」

僕は顔が見えないようにするために、布団へと潜り込んだ。そして翌朝、朝ごはんを準備し、まだ寝室で眠る修平君に「今日、用事で出かけるから、お昼、自分で食べてね。夕飯の時間までには帰って来るから」と声を掛けて、僕は出かけたのだった。


その日の、お昼過ぎのことだった。修平のスマホに着信音が鳴り響く。小嶋からだった。修平は、まだベッドに横になったままだった。

「…何だよ…」

『何だ?寝てたのか?』

「何か用か?」

『今日、葵ちゃんは?』

「は?何だよ急に。知らねーよ」

『一緒じゃないのか?』

「朝早くに、出かけた」

『そっか。いや、今、伸哉さんといるんだけど、さっき葵ちゃんに似た人が知らない男と二人でいるところ見かけて。ジュエリー店で、二人して楽しそうに指輪見たりしてたから。一応、報告しておこうと思って』

「何の報告だよ」

『別に、気にならないならいい。じゃあな』

そして、電話が切れた。


「ただいま。ごめん、遅くなっちゃった。すぐに夕飯の準備するね」

アパートに帰ると、修平君がソファに座り、テレビをつけたまま、スマホをいじっていた。いつもは、僕が帰りを待つ立場だったせいか、その新鮮な姿に、嬉しさと感動で、ニヤけてしまった。

「あれ?朝ごはん食べてないの?」

朝に準備して行った朝食が、食卓に置きっぱなしになっていた。スマホに夢中で聞こえていないのか、修平君は返事をしなかった。

買い物した荷物をリビングの端の方に置き、食材だけを持ってキッチンへと向かう。

「明日、11時だったよね。修平君の家に集まるの。一応、耀平君の誕生日プレゼントと、修平君の家に持って行く用に、菓子箱だけ買ってきたよ」

手を洗いながら声を掛けたけど、返事がない。

僕が振り向くと、急に修平君が真後ろに立っていた。

「ビックリした。何?」

「単刀直入に聞くけど、今日、誰とどこで何してた?」

「え?何って。今も言ったけど…」

「新しい男でもできたのか?」

「新しい男…?」

「さっき、小嶋から、知らない男と葵に似た奴が一緒に買い物してるって連絡あった」

「あ…」

「指輪でもねだってたのか?お前、昨日の夜も、様子おかしかったもんな」

「ち、違うよ。会社の同僚が、奥さんに指輪買うから、買い物に付き合ってほしいって言われて…」

修平君から目を逸らし、しどろもどろになりながら答えると、

「奥さんに指輪買うなら、夫婦なんだから、本人を連れてきゃいいだろ?まぁ、今のお前の態度で、嘘ついてんのバレバレだけどな」

修平君が背を向けて、

「別れたいなら、そう言え。二股とか、最悪なやり方してんじゃねぇ」

そう言うと、玄関に向かって歩き出した。

「どこ行くの?」

「不動産屋。部屋探す」

「ちょっと待ってよ!ちゃんと聞いて」

僕は慌てて修平君の腕を掴み、そしてそのままリビングの端にまとめて置いてあった荷物の中の一つを取り出した。

「会社の同僚に頼んで、これ、一緒に選んでもらってた。高倉って言うんだけど、結婚もしてて、子供も二人いる。だから、耀平君のプレゼントの相談にも乗ってもらってて…。とにかく、座ってよ。お願いだから」

僕は修平君の腕を掴む手に力を入れた。

修平君が、キッチンの椅子に腰かける。僕も椅子に腰かけると、手に持っていた紙袋から、ラッピングしてある箱を修平君に差し出した。

「オリンピック、二度目の金メダルおめでとう。それと、付き合って七年になるのに、一度もプレゼントとか渡したことなかったから。本当は夜に渡そうと思ってたんだけど…」

修平君が、プレゼントの箱に視線を落としたまま、動かない。

「僕が開けてもいい?」

言いながら、箱を開け、そして、宝石店で購入した時計を取り出し、修平君の手首へと嵌めた。

「やっぱり似合うね。すごく悩んだけど、これにして良かった。移動が激しいから、時計が欲しいって、ずっと言ってたから」

僕は、すごく時計の似合う修平君の綺麗な手をしばらくずっと見ていた。

修平君が、ガタン、と椅子から立ち上がる。顔が近付いたかと思うと、いきなり唇が重なった。激しいキスへと変わる。

「ちょ…待って…」

僕の言葉も、修平君からのキスで消えて行く。そこに『ピンポーン』と、インターホンが鳴った。二人して、ハッと我に返る。

「あ、はーい!」

僕は慌てて玄関へと向かった。扉を開けると、美園ちゃんと耀平君が立っていた。

「ごめん、葵さん。耀平がどうしても渡したいって聞かなくて」

「これ、明日の誕生会の招待状。絶対に来いよ」

「ありがとう。明日、楽しみにしてるね」

僕は、耀平君が持って来てくれた封筒を受け取る。

「今日、お泊まりしたらダメ?」

耀平君が聞いてくると同時に、修平君が玄関へとやって来た。

「葵、鍋、火にかけてたんじゃないのか?」

「え?そうだっけ?ごめん、耀平君。ちょっと待っててね」

僕は慌ててキッチンへと戻った。

「耀平、今日はダメだ」

「何で?」

「美園、察しろ」

「はい、はい。あのね、耀平。ずっと葵さんに会えなくて寂しかったから、今日は、修平が葵さんと一緒にお寝んねしたいんだって。だから、耀平は、今日は我慢して、ママとパパと一緒にお寝んねしよう」

「え?修平、大人なのに一人でお寝んねできねーの?」

「おい!言い方」

「仕方ないでしょ。子供に分かるように説明すると、こうなるから。イチャつきすぎて、明日寝坊しないでよね」

「てめ…」

言いかけた途中で、バタン、と扉が閉じた。

「鍋、大丈夫だったよ。あれ?帰ったの?」

「ああ」

「そっか。耀平君、わざわざ招待状持ってきてくれるなんて、本当にかわいいよね。癒されるなー」

夕飯の準備をしようと、キッチンに立つ背後から、突然、修平君に抱き締められる。初めての出来事に戸惑って、心臓が跳ねた。

「ど、どうしたの?」

「夕飯の準備とかいいから」

腕を引かれて、脱衣所へと連れて行かれる。修平君がお風呂にお湯を溜め始めた。

「脱げよ」

「え?」

「いいから脱げ」

僕の服に手を掛け、服を容赦なく脱がす。

「ちょっと…恥ずかし」

その手を止めようとするけど、修平君は僕が口答えできないように、唇をキスで塞いだ。

修平君に促されるまま、僕たちは一緒にお風呂に入ることになり、そしてそのあとベッドへと移動し、今までにないくらい、激しくお互いを求め合った。


息を切らしながら、修平君がベッドの上で仰向けになる。僕も、うまく息が整わないまま、修平君へと寄り添った。

「どうしたの?急に…。いつもとは全然違う行動ばっかりで、戸惑うんだけど…」

「お前こそ、何で昨日は一人で先に寝たんだよ」

「あれは、修平君のプレゼントを買うのが楽しみすぎて、ニヤついてるのバレたくなかったから…」

「あの日、聡史と美園に、散々、お前がしんどそうだって聞かされて。そこであの態度はないだろ」

「しんどそう、って?」

「知らねーよ。インスタがどうとか、女子アナがどうとか…」

修平君が起き上がる。

「僕、SNSは見ないようにしてるから。見ちゃうと、不安で押し潰されそうになるし、嫉妬でケンカになるから…。たまに職場の女の人たちが修平君の話題で盛り上がったりしてるけど、修平君、いつもちゃんと僕のところに帰ってきてくれるって信じてるし。だから、しんどくても頑張れてるよ」

修平君がベッドから降りて、まだ片付けきっていない荷物の中から、ラッピングされた箱を取り出した。

「あっちで買ってきた」

ぶっきらぼうに、僕へと手渡す。その箱を丁寧に開けると、高級ブランド品の、バングルのブレスレットだった。

「うそ…。すごくカワイイ。これ、僕に?」

「ああ」

「ありがとう。大事にする。毎日付けるね。しかもお互いにプレゼント準備してるって…タイミング合いすぎ…」

ヤバい。感動しすぎて、泣けてきてしまう。

「泣くな」

「ごめん。嬉しすぎて…」

もう一度唇が重なって、そのまま押し倒される。

唇が離れ、修平君が言った。

「お前、耀平と風呂入ってんじゃねーよ。しかも一緒に寝てるとか、ふざけんな。あいつ、あのあとも、体も洗ってくれる、とかめっちゃ勝ち誇ったように話してた」

「まだ三歳だよ?」

「いや、あなどれねぇだろ。あの歳で、ほっぺにチューしろとか、結婚するとか言ってんだぞ?」

真面目な顔で話す修平君を見て、思わず笑ってしまった。

「耀平君、小さな修平君みたいでかわいいから、つい。口の悪いところとか、上から目線のところとか…」

「ディスってんのか?」

「ううん。修平君といるみたいで、楽しいってこと」

「何か…すげぇ微妙だな」

僕たちは微笑み合うと、ゆっくりと唇を重ねた。


「葵、昨日は修平と一緒にお寝んねできたのか?」

みんなで食卓を囲んでいると、突然、耀平君が言った。

「お寝んね?」

僕は耀平君に聞き返した。

「昨日、葵の家に泊まりたいって言ったら、修平がダメって言った。修平が葵とお寝んねしたいから、我慢しろってママにも言われた」

僕は思わずむせてしまった。修平君のお父さんとお母さんもいるのに!純平さんが、口の前に拳を当てて、肩を揺らして笑う。

「美園ちゃん、その言い方は…ちょっと語弊が」

「正直に話しただけだから」

「耀平、昨日は、お寝んねだけじゃないぜ?一緒に風呂も…」

話し出そうとする修平君の言葉を遮って、

「あっ!そうだ!耀平君、プレゼント、気に入ってくれた?」

すかさず興味を逸らす。

「うん!めちゃくちゃ欲しかったやつ!葵、ありがとな」

「良かった」

「葵、あとで一緒に遊ぼう」

「俺が遊んでやる」

修平君がすかさず横から口を挟む。

「修平の方が、よっぽどガキじゃん」

美園ちゃんが呟く。

最後にみんなでケーキを食べたあとに、修平君のお母さんが「美園ちゃん、少し休んできたら?朝からいろいろ準備もしてくれたし、妊婦さんは疲れやすいから」と、声を掛けた。

「でも、片付けが…」

「大丈夫。やっておくから。純平、足元心配だから、部屋まで連れて行ってあげて。あと、ソファーで酔い潰れてるお父さんに、あとで毛布でも掛けておいてもらえる?」

「分かった」

そして、臨月に入っている美園ちゃんを連れて、純平さんもダイニングをあとにした。

「僕、手伝います」

僕はテーブルに並んでいるお皿を下げ、洗い物をするのにキッチンに立った。

「そんな。いいのに」

「修平君のお母さんも、疲れてると思うんで、休んでて下さい」

「ありがとう」

そう言って、僕の横に立つ。

「葵さん、修平のお世話、大変でしょ?」

「え?いえ。そんなことないです」

「あの子、昔から人に興味なくて、自分勝手で冷めた子だったから。空手だけは一生懸命やってたけど、純平が空手を辞めることになった時、結構荒れ方がひどくて。キャプテンだったし部活動に迷惑をかけないようにはしてたけど、部活がない時は家に帰って来なかったり、無免で友達のバイク運転してケガして帰ってきたり…。部活を引退したら、この子、どうなるんだろう、ってものすごく心配で。とにかく人の言うこと聞く子じゃないし、いつか、人に迷惑かけるんじゃないか、って。その頃は『俺なんか、別にどうなったっていい』が口癖みたいになってて。本当に危なっかしくて、見てるのが辛かったの」

修平君のお母さんの表情が、同時を思い出したのか、悲し気に歪んだ。

「でも、葵さんに出会ってから、また空手にも真剣に取り組むようになって、人に対しても、以前と比べものにならないくらい優しくなったような気がするって、純平が。私もね、最近は自分のことも大事にしてくれるようになったな、と思ってて。たぶん、葵さんのために、っていう気持ちが、そうさせてるんだと思うんだけど」

「そんなこと…。修平君は昔から優しかったです。実は僕、電車の中でずっと迷惑行為を受けてて、助けてくれたのが修平君で。それが出会いだったんです。小嶋君も、中学生の頃、クラスのみんなから、からかわれていた時に、修平君がその子たちを注意して助けてくれたって言ってました。修平君、口は悪いけど、本当は小さい頃から優しい子だったと思います」

「ありがとう。私は、カワイイ二人の素敵なお嫁さんに恵まれて、すごく幸せね」

「え…?」

「早く日本でも同性婚が認められるといいのに」

修平君のお母さんが、僕を見て、優しく微笑む。

「はい。ありがとうございます」

今が幸せすぎて、修平君との結婚なんて、考えたことなかった僕は、照れながら俯いて、つい笑顔になってしまった。


アパートまでの帰り道の時のことだった。

「やっぱ、一回、お前の親に挨拶に行かなきゃだよな。ガラじゃねぇけど」

突然、修平君が言った。

「え?何で?」

「葵、もう29歳だろ?親に結婚しろとか言われてんじゃねーの?」

「あ…、うん。確かに最近よく言われる、かな。でも、妹が結婚して実家に旦那さんと住んでるし、子供も二人いるから、そこまでうるさくは言われないよ」

「それでも、ずっと葵とこの先も一緒に生活して行くつもりでいること、ちゃんと伝えといたほうがいいだろ?」

修平君が、僕との将来のことを真剣に考えてくれていることに驚きすぎて、僕は修平君のことを凝視したまま、その場から動けなくなった。

「何だよ」

「今の、夢かな…、と思って」

「は?」

「ありがとう。幸せすぎて、胸が痛い」

「すぐ泣く。早く帰ろうぜ。ここじゃ、抱き締めてやることもできねぇし」

道を歩いているだけでも、すれ違う人たちが振り返りながら、小さな歓声を上げる。

「いつがいいか、聞いとけよ」

「うん。分かった。聞いとく。でも、妹も旦那さんも、修平君の大ファンで、子供にも空手やらせてるし、妹家族がいない日の方がいいかな。ほら、市役所で作った修平君の市のアピールポスター、わざわざ市役所まで行って、写真に撮ってプリントアウトしたの、家に何枚も貼ってあったから」

「あのポスター、マジでだるい。でも市長から言われると断れねぇから」

「市の広報だけの取材は受けてるもんね」

「仕事だし、兄貴にも怒られるしな。マジでイヤだけど」

「その写真とか市の広報に載せてる写真、報道関係の人たちが、高額で買い取りたいって、すごく殺到する、って純平さんが言ってたよ。市はそんなことできない、って断ってるみたいだけど」

「まあ、そのうち飽きるだろ?明日から、仕事も練習も来ていいって言われたし」

「でも、電車通勤はダメなんでしょ?駅でいろんな人たちに取り囲まれるから」

「遅刻しすぎて、注意されたからな。車通勤の方がラクでいいけど」

「うちの親、ビックリしすぎて、悲鳴上げるかも」

「言ってないのか?俺と住んでること」

「一緒に住んでる人がいる、とは言ってあるけど、それが修平君とは言ってない」

「別に相手が俺でも驚かないだろ」

修平君は、本当に分かっていない。自分の人気ぶりを…。「氷結王子」が、どれだけ世間を騒がせているかなんて、全く興味がない。

まあ、そういうところも好きなんだけど…。

「修平君、ありがとう」

「何が?」

「僕のこと、大事にしてくれて。最近、修平君の方が僕に夢中だよね。耀平君や、同僚の高倉にヤキモチ妬いたり。プレゼントも急にくれたり」

「は?ふざけんなよ」

「ありがとう。修平君に出会えて、本当に良かった。僕、こんなに幸せでいいのかな、っていつも思ってる」

僕が立ち止まって、修平君の目を見て言うと、修平君も立ち止まった。

「葵がいなかったら、俺、本当にどうなってた分かんねぇし、小嶋のアホがキッカケだったけど、また空手に戻してくれた葵には感謝してる」

そして、僕の手を握る。修平君の左手の時計と、僕の右手のブレスレットが、密着して横に並ぶ。何だか胸がくすぐったくなって、ニヤけてしまうのを我慢しながら、

「ダメだよ。道を歩いてる人たちに、写真、撮られるかも」

と、小さな声で呟いた。

「別に、俺は全然いいけど」

修平君は、気にすることなく、僕と手を繋いだまま、アパートまでの帰り道を歩いて行ったのだ。


僕は実家の駐車場に車を止めると、先に車から降りていた修平君の横に立った。

「緊張してきたかも」

「嘘でしょ?オリンピックでも緊張しないのに?」

「あれは、ただの試合だから」

「いや、ただの試合じゃないよ。全国民の期待、背負ってるから!」

「生まれて初めてかも」

「何が?」

「この、緊張みたいな感じ」

「オリンピックより、僕の両親に緊張って、ウケるんだけど」

いつもなら、ここで「は?ふざけんな」とか反発するのに、僕は、強張った修平君の顔を初めて見て、思わず笑ってしまった。

「表情が全く変わらない氷結王子の、そんな顔を見られるの、恋人の僕だけの特権だね」

ベッドの中で僕を抱いてる時の顔や、整った寝顔や、寝起きの子供みたいな顔も…。

「頼むから、今は、からかうな」

一点だけを見つめ、そう言った修平君が、本当に可愛くて、愛おしいと、心から思う。

「いい?開けるよ」

「ああ…」

修平君が、ふーっ、と息を吐いた。

「ただいま!」

そう言いながら、開いた玄関の扉が、まるで二人の先の未来へと続く扉のように、僕にはすごく眩しく感じたのだった。(完)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

上から目線の氷結王子、引き受けます 多田光里 @383103581518

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ