第1夜


 黄昏時。

 窓ガラスを黄色から橙そして朱色に染めながら、じわじわと潰れるように没していく夕陽を、佐伯節子は凝視していた。

 彼女の瞳は、これから繰り広げられるはずの素晴らしく愉快な奇跡への期待に燃えている。

 いよいよ今夜、若返りを実行するのだ。

 彼女の第三の人生を左右するであろう重大要素、朝夜間におけるホームへの入出経路は、確保済みである。

 幸運にも、節子の部屋は非常階段へ通じる扉と向かい合わせに位置する。

 内側から解錠する非常扉を開けて、何度か非常階段を降りてみたが、最下段にはスタッフ専用の角形灰皿が設置されているだけで、職員が喫煙している時を除けば、難なく通過可能であった。

 節子は、仲のいい介護福祉士の丹下靖子から夜間の見回りを行う時間帯と巡回順序を聞き出し、夜勤に入る職員で特に喫煙者の喫煙頻度と時間を調査した。更に、同敷地内に自宅を構える『スノードロップ』館長の井出妙子と、同居している一人息子、介護士兼運転手の井出勝一ことカッツー、愛犬チャッピイの夜間行動を把握。

 非常扉の解錠理由としては、同じ階に住まう三股氏を利用させてもらう。

 穏やかでない苗字を持つこの八十代男性は、節子より五年ほど長く『スノードロップ』に住む徘徊癖のある認知症翁である。

 日に何遍もホーム内の要所を巡回する習慣がある三股翁は、若い頃に泥棒に入られた経験から戸締まりにはうるさい質だったらしいが、中年になってから被災した大地震で閉じ込められてしまったため、鍵という鍵は全て解錠して回る癖がある。財産より命が大事だと身を以て知ったのだろう。その時の体験か文句か呪文かを低声で呟きながら、夜明け前から巡回を開始するのである。三股以外にも、暁起している入居者は大勢いた。非常扉が施錠されていた場合であっても、散歩を装い自然に紛れ込むことは可能だろう。

 そうして約一ヶ月間に渡り、彼女の計画は遺漏なく丹念に練られ続け、機が熟した今日であった。

 若返った時の着替えは、娘時代のお気に入りだった千鳥柄のAラインワンピースと、黒いウールのステンカラーコート。どの程度若返れるのかは不明だが、三十代や四十代なら、無難なデザインなのでストッキングでも履けば大丈夫なはずである。五十代以降ではさすがに膝丈は厳しいので、どこかで調達するしかない。でも・・


 せっかく若返るなら、せめて四十以前くらいには、なりたいわねぇ・・


 お願いします!と、合掌した後、アラいけない、これじゃ神様へのお願いになっちゃうわね、と慌てて枕元においてある煌びやかなハンドバッグから逆五芒星ペンダントを取り出して掲揚し、悪魔に希う。

 彼女の新たな持ち物、アナスイのハンドバッグ。夜を思わせる黒や紺、紫や赤紫などの暗色系スパンコールが宇宙のように散りばめられ、蝶を象ったスワロフスキーガラスのチャームが揺れるバッグは安くなかった。一週間前の外出で丹下に案内された洋品店で、一目惚れしたのだ。

 ちょっと・・可愛らしすぎじゃないですか? と、目元の泣きぼくろを歪ませて苦笑する丹下の忠告を無視して購入。節子の歳では不相応であることは重々承知であるが、問題ない。若返り時に使用する予定なのだから。

 腹の虫が鳴いた。そろそろ夕餉の時刻である。

 食堂に向かう道すがら、計画の大胆さにニヤつきが止まらない老婆。以前の後ろ向きで卑屈な自分では到底考えられなかったことである。これも、朝に晩に愛読している『THE SATANIC BIBLE』の賜物かもしれない。

 当初は拡大コピー数枚だった『THE SATANIC BIBLE』だが、節子を悪魔協会に引き込んだ当事者の丹下が原本と巨大ルーペをプレゼントしてくれたのである。ジャングルみたいな名前の通信販売で、千いくらかで売っていたらしい。お陰で、サタニストとしての心得が備わり、今回の夜間脱出計画を決起するに至ったと言っても過言ではない。


 早々に夕食を済ませた節子は部屋に引き上げると、足元には着替えが入った紙袋、手にはアナスイバッグを抱きしめながら、テーブルの上の置き時計と睨めっこを始めた。

 時計の横、水を満たしたガラスのコップには秋桜が一輪挿してある。ホームの庭に咲いていたものだ。秋桜は、あと、一時間以上ある時の速度にやきもきしている彼女の気息で、微かに揺れていた。就寝時間としてメインルームが消灯し、廊下の明度が落ちるのは二十時である。

 『スノードロップ』は他の老人ホームより早い消灯時間らしい。介護度の低い元気な入居者達からは、子どもじゃあるまいし今時二十時はない、と不満の声が上がってはいるようだが、職員のシフトの都合からなのか未だ無視されている。しかし、節子には好都合。二十一時消灯では、店が閉まってしまう。百貨店や洋品店などは閉店している可能性があるので、買い物は難しいかもしれない。だが、飲み屋なら開いているはずである。どうせなら、あれこれやりたいのだけど、まずは若返ってみてからだ。

 いつの姿に若返ることができるのだろうか。首尾よく若返れたとしたら、なにをしようか。そして、本当に若返ることができるのか・・

 想像すら叶わない未知の領域だったが、ゾクゾクするような興奮が止まらない。それなのに、とっくに日は暮れている。

 太陽が沈んだ時点から若返り可能なのに、無駄に溶かすアイスのような勿体無い時間。


 もう、焦れったいったら!

 この一日が、あたしの貴重な半年なのに・・!

 でも、こんな老年になってから、こんな奇跡が起ころうとは、誰も予想しなかったでしょうよ!


 そして、迎えた消灯時間。計画実行の時である。

 手早くベッドのセッティングを終えた節子は、薄く開けた出入り口の隙間から廊下の様子を窺った。

 明度が落ちた廊下の先を、時々、認知症患者と思しき背中が湾曲した影がゾンビのように現れては消えていく。タイミングを見計って廊下に出ると自室の鍵を閉め、非常扉を開けて素早く中に滑り込んだ。

 夜勤の職員は二人とも館内の消灯を確認しているはずだが、時間を食い過ぎると、見回りを片付けた職員が喫煙に来てしまう。今夜の夜勤面子は、カッツーと若い男性介護士のはずである。節子は非常階段の手摺に捕まり、足音に気を配りながら階段を慎重に降りていく。

 階下の庭園を見下ろすと、俄に懐中電灯の光がふっと一瞬過った。

 慌てて跼する。間を置かずして犬の吠える声がする。


 あの鳴き声・・チャッピーかしら・・

 まさか・・だって、まだ散歩の時間ではないはずよ・・


 節子の調査によると、チャッピーの夜の散歩は、二十一時。一時間後のはずである。

 再び、犬の激しい吠え声。

 節子の膨らんだ勇気が、不安の針に突かれてしゅるしゅると萎んでいく。

 それでも、挫けそうになりながら踞って様子を見ること数分。背中に冷や汗を感じつつ、獲物を探す梟のようにじっと目を凝らす。非常階段の柵越しに漂う暗闇を、不気味な静寂が支配している。『スノードロップ』の前の公道を行き交う車の音が遠くから時々聞こえてくるだけだ。


 やっぱり今夜は、止しとこうかしら・・


 いつもなら勝るはずの不安や迷い。

 だが、今夜に限っては若返りという魅力的な誘惑の前で敢えなく惨敗した。


 いいえ!今夜、やるのよ!


 意を決した節子は、腰を庇って再び立ち上がると、足音を忍ばせてゆっくりと階段を下りる。着地前にそっと灰皿付近に目を凝らす。喫煙者はまだ現れていない。今、しかなかった。

 節子はカラクリのお茶運び人形のように、外界に向かって突進した。そのまま、住宅街の灯り目掛けて公道に踏み出そうとした時、自転車に乗って巡回している警察官とあわや衝突しそうになったのである。先に気付いた節子が慌てて身を引き、事なきを得たが、危機一髪であった。身を潜めて警察官が行き過ぎるのを待ってから、改めて夜の公道に降り立つ。


 ・・やったわ!


 振り返ると、廃墟のように真っ暗な『スノードロップ』が聳えている。所々に灯った常夜灯が青白い霊魂のように見えて不気味そのものだ。節子は足早にその場を後にする。

 群青色の空には、気持ちばかりの星が瞬いている。闇夜に紛れるには絶好の晩だ。

 次に目指すのは、荻窪駅の公衆トイレ。

 『スノードロップ』の最寄り駅の中でも特に個室が三つあって、チャイルドシートが設置され比較的清潔なトイレがある荻窪駅は予めリサーチしていたので、迷わず向かう。変身した後は、そこから丸の内線にでも乗れば怪しまれることはない。

 行き先は、まだ決めていなかったが、とにかく若返ってみてからだ。合い言葉は、一語一句暗記済み。

 丹下に薦められて最近切り替えたICカードを翳して駅の改札を早足で抜けた節子はトイレに駆け込む。さながら、突然襲われた尿意が限界に近付いている高齢者にしか見えないだろう。平日の夜、時間が時間だけに、トイレは全て空いている。ラッキーだ。一番手前の広めのトイレに陣取った。

 首尾よく若返れたら、まず着替えをして・・そこで、はたと気がついた。合い言葉を唱える前に、どこかで履物を調達しようとしていたことを。足元は、年紀の入った下駄である。だが、もう待てない。逸る気持ちを押さえることは不可能だった。節子は、深呼吸をした。

「と、時よ戻れ!汝は・・い、いかにも、美しいっ!」

 節子の全身を燃えるような熱が駆け抜けていくのを感じた。思わず小さな悲鳴が漏れる。

 熱は頭頂部から始まって顔を通過して首、胸、そこから三つに分かれて二つは両腕から指先へ、一つは腹、腰、両太腿、脹脛を経由して爪先に向けて抜けていった。まるで、一瞬で熱いシャワーでも浴びたような気分だった。体中の細胞が活性化して、力が漲ってくるようである。

 あんなに脅かされていた腰痛が水に溶けるように消え、背筋がすんなりと真っ直ぐになっている。見下ろせば、シミと皺だらけの枯木のような手が、一点の滲みもない白く瑞々しいふっくらした手になっていた。筋張って色のなかった爪は、凹凸のない滑らかな形になり、根元の白い山からうっすらと桜色にグラデーションになって染まっている。巻き爪に悩み、変形して見るも無惨だった足の爪も同様、何事もなかったように白い足先に形よく並んでいる。口の中に違和感を感じて指を突っ込むと、根元から取れた差し歯が出てきた。それでも、歯は全て揃っているようなのだ。

 節子は、逸る気持ちを抑え、着物を脱いでワンピースへと袖を通した。

 ワンピースは誂えたように丁度いいサイズ感。だが、足元は薄汚れた足袋に下駄という惨めさ。けれど、一刻も早く自分の姿を確認したかった節子は、そんなことにはお構いなく、コートを羽織って手洗い場に踊り出た。

 そうして、水垢や指紋で薄汚れたトイレの鏡に映っていたのは、若い頃、恐らく二十代になったかならないかくらいの自分、だった。

 濡れたような艶を纏った少し茶色がかった緩く結った髪に、千鳥柄のワンピースと黒いコートがしっくり似合っている。

 唇と頬の血色のよさに驚いた。自分は若い頃、こんなに唇がピンク色だったのだろうかと我が目を疑うほどだ。

 ふさふさとした長く黒い睫毛が瞬きをする度に落ちる影が、アーモンド型の目と涙袋を際立たせている。陶器のような眉間からすっと伸びる鼻と、少し色素の薄い形のいい眉。当たり前だと思っていた若い時には、自分が持っている美しさ、素晴らしさには気付くことはなかったのだろう。だが、それは紛う事なき佐伯節子の若い時の顔。要するに、彼女は美人だったのだ。

「ああ・・あたし・・あたしだわ・・!」

 あまりのことに、節子は自分の顔を撫で回し、その度に驚き、鏡を見つめることを何度も繰り返す。


 ・・こんなことって、あるのかしら?!


 節子が鏡に映る自分に夢中になっていると、千鳥足の太った中年女が酒臭い息を撒き散らしながら現れた。

 安っぽいピンクのダウンコートの下からは、茹でたソーセージのようにパンパンに膨らんだベージュのチノパンに包まれた足が、寝ぼけ眼の豚のような足取りで億劫そうに動いている。鏡越しにでっぷりと肥えた女の横顔を見た節子は、どこかで見たことがあるわと首を傾げた。

 どこでだったかと考えて、すぐに『スノードロップ』のケアマネージャー、山形とう子、裏通称トンコだと判明する。

 トンコは、なにかにつけて井出妙子と蔓んで悪巧みしては入居者の痛い所をついてはチクチクと精神的ダメージを与える嫌味なケアマネである。気分のむらが激しく、苛々している時などには老人相手にストレス発散をしていると取られても仕方ないほど酷い言い掛かりをつけてくるのだった。節子も、面会にも来ない息子のことや、夫のことなど関係ないことを持ち出されて、度々絡まれたことがあるが、その都度、非情に腹が立つ思いを味わわされた。嫌な記憶が同時に蘇ってきた節子は慌てて、個室に戻ると、置きっ放しだった着物やバッグを素早く紙袋に突っ込んだ。


 せっかく変身できたのに、こんなところでトンコに妨害されるなんて、冗談じゃないわ!


 トンコは泥酔しているらしい。肉に埋もれたどろんとすわった小さな目は宙を彷徨い、呂律の回らない口で呪いの呪文のような文句らしき言葉を呟きながら便器を目指している。そんな状態なので、節子の存在には気付いていないようだった。ところが、節子が、トンコの横をすり抜けようとした時である。便器に向かって彷徨っていた視線をガクンと落としたトンコが、不思議そうに節子を振り返った。

「・・はらぁー」

 節子は反射的に立ち止まってしまった。舌っ足らずのトンコは続ける。

「れぇー・・ちょっろーはらはさぁー・・」

 節子が怖々振り返ると、トンコはだらしなくぐでんとした動作で節子の足元を指した。下駄のことだ。

「そえー・・へんれしょおーへんらよねぇー・・んらぁ?」

 節子は、凍り付いた。下駄の後ろには、『佐伯節子』と名前が書いてある。

 複数の高齢者が暮らすホーム内では、物の置き忘れや、紛失などでそれぞれの持ち物が混同しやすいため、入院患者や保育園の持ち物のように各自の持ち物には鞄から下着に至るまで全て記名が義務づけられていた。記名を怠れば、他の入居者に勝手に持ってかれて、取り返すことは不可能だ。もちろん、節子も全ての持ち物に、油性マジックペンで自分の名前をしっかり書き入れてある。それが仇になった。

「はえひひぇふほぉー? ・・ろっかれ、ひいらなまえらわぁー・・」

 トンコはアルコールが回った頭を動かして、うんうん言いながら思い出そうとしているらしい。


 やめとくれ!


 節子はトンコを突き放すようにして駆け出した。ところが、若い力が思いのほか出たのか、トンコは突き飛ばされるようにして壁に当たって木綿豆腐が崩れるような具合にぐずりと座り込んだ。

 ちょっろー!あにすんのおー!と酔っぱらいの怒声が追って来たが、無視してホームに駆け下りる節子。軽やかな足捌きと、しなやかな筋肉のバネのような伸び縮みが気持ちよかった。動機や息切れとも無縁だ。どこまででも走っていけそうだった。


 ああ!若いとは、こういうことなのね!


 折よく滑り込んできた丸ノ内線に飛び乗った節子は、興奮で胸がはち切れんばかり。大声で笑い出したいくらいに、愉快痛快な気分だ。


 さあ、どこに行こう!


 路線図を見上げた節子の目に真っ先に飛び込んできたのは、銀座の文字。


 銀座っ!

 そうよ、銀座に行こう!憧れの銀ぶらをしてみたいわ!




 国民学校長の厳格な父と、日本舞踊の師範だった作法に煩い母との間に育った節子達姉妹は、幼い頃から礼儀作法と教養を徹底的に叩き込まれ、父母の描く理想の日本人女性になるべく、厳しい規律に囲まれて成長した。

 食べ方、話し方、字の書き方に始まり、考え方、受け答えの言葉の選び方、純情で控え目で、己の意思を殺してでも相手を立て、へりくだり、卑下し、滅多なことでは意見を口にすることはなく、もちろん口答えや反抗的な言葉、怒り、悲しみも御法度だった。なにかあることに、いちいち感情を揺らすのは精神的に成長できてない証だと父は言う。

「どんな時にも潔い大和撫子あれ」

 傲慢や横柄を仇とする父母の理想とする大和撫子とは、傀儡なのだろうと思った。

 無論、各自の恰好にも厳しい規制が敷かれていた。

 洋服はブラウスやスカートなど最低限の質素なもの。飾り物は禁止で、基本は着物。色は白黒紺茶など控え目で地味なもので、柄ものはポイント刺繍に至るまで禁止。髪は伸ばして、きっちりとお下げに結わなければならない。髪飾りなんてもってのほか。十代のおしゃれ盛りの女子に、これは過酷な家訓だった。

 当時はアッパッパと呼ばれるワンピースやパンプスが流行っていた上に、髪型もショートカットやフィンガーウェーブが人気の時代。バッサリと短髪になった女学校の友人達が大胆な柄と色のアッパッパに、クローシェ帽を粋に被った大人びた恰好で日比谷や銀座に遊びに行くのを、お下げ髪の節子はいつも指をくわえて羨望の眼差しを送ることしかできなかった。

 知り合いから入手したファッション雑誌の切り抜きを、こっそり日記帳に挟んで、夜毎うっとり眺めるので精一杯だったのに、それすら、目敏い母に見つかって取り上げられてしまった。その当時には、節子だけではなく姉妹の誰もが、多かれ少なかれ日々何かを取り上げられていた。その積もり積もった鬱憤が、父が亡くなった後の惨状を招いたのかもしれない。

 様々な感情を押さえ付けていた要石ともいえる存在の唯一の男である父の葬儀後、間もなく、英才教育を施された大和撫子達は、それまでの鬱憤が関を切って溢れ出し豹変した。

 大和撫子達は狭い家に屯し、毎日飽きることなく口喧嘩をし、皮肉を言い合い、互いを罵倒し、時には掴み合い、他人を嘲り、日に日に醜い顔つきに変貌していった。女の醜悪な部分を余す所なく全開にして生きていた姉妹達。女は男がいないと性格すらも保てないのか、と意地悪で嫉妬深い姉妹を見ながら、節子は嫌悪したものである。そんな醜悪な群れに、主犯の一人でもあった母が混じっている光景は違和感でしかなかった。

 母は、圧倒的な支配力で家庭に君臨していた父の権限をあっさりと娘たちに譲り、尚且つ自分も肖ろうとしていたのだ。

 そんな狡猾な母に、節子は『卑劣』の二文字を当てた。

 何度となく母に叩かれた躾の痛みは、芸者だった粋な祖母からもらったびらびら簪やらシルクのリボンやらレースの襟などの節子の宝物の数々を容赦なく売り払ったり他人にくれてやった怨恨は、姉妹に混じって下卑た顔で笑う母をいくら見たとて一向に消えることはなく、増々軽蔑は深まるばかりで、到底許すことはできなかった。

 こんな狭い家で女ばかりが屯しているのが、そもそも衛生上よろしくないのだ。そう考えた節子は、外に出会いを求めた。そうして朴訥で優しい夫と知り合ったが、一刻も早い実家からの出奔を切望していた節子は、時を待たずして強引に結婚へと誘導したようなものである。

 白無垢姿の節子を見送る家族達の妬みや恨みに燃え盛る目は、生涯忘れない。どうして、出来損ないのあんたが、一番先に上がるのよ、おかしいわ、と無言の非難が込められた憤怒に滾る顔顔をさらっと一瞥してから、優雅に敷居を跨いで、実家を後にしたあの勝ち誇った記念日は、数少ない節子の誇りである。それなのに、なんの因果か、戦争から帰還した変わり果てた夫により、節子は一度ならず二度までも似たような辛酸を舐める羽目になってしまった。

 結局、自分の若さは、誰かの手によって大根を擂り下ろすみたいに形がなくなってしまったのである。十代から二十代、三十代にかけてのあの若い時間は、節子の、節子だけの若さだったのに、彼女が味わう前に他人に食い尽くされてしまったのだ。だけど、

 節子は誇らしげに顔を上げる。

 銀座駅の階段を登り切った彼女の眼には、煌びやかな夜の銀座が映っていた。

 お馴染みの丸いマークが目印の色鮮やかなステンドグラスのような銀座三越が右手に見える。向かい合うのは、暖色系の間接照明を幻想的に纏ったヨーロッパの古城を思わせる厳かなセイコーの和光本館。それから、白い竹細工のような精巧なデザインが目を惹くGINZA PLACEや、宇宙を思わせる色合いに装われたミキモトビル、切子硝子をモチーフにした東急プラザなど、この世のものとは思えない美しい建物が様々な光を散りばめて並んでいる。その偉観さに、空に飛び散った祖末な星の輝きなど褪せている。


 ああっ!銀座だわっ!


 節子は歓喜のあまり、眩暈した。

 二十時半だというのに、車の交通量や人通りは多く、行き交う誰もが高級な衣類を身につけ、余裕のある微笑を浮かべているように彼女には見えた。人々はすれ違い様、棒立ちの節子の足元に一瞥を投げる。それに気付いた彼女は、やっと自分の足元の事情を思い出すに至った。黒いコートに千鳥柄のワンピースまではいいが、足元は素足にボロ下駄なのだ。目立たない訳がない。


 いやだわ、恥ずかしい!

 そうだわ!せっかくだから、三越で靴を買いましょう!


 赤面した節子は、雲上を歩くような足取りで三越に向かった。

 そうして、三越の出入り口に到着した節子は、鎮座するライオン像に目を輝かせながら近付く。


 これが三越のライオンねっ!

 きゃー!


 声には出さずに興奮しながらライオンの像を散々撫でくり回してから足を踏み入れた三越は、夢のような空間が広がっていた。宮殿というところに行ったことはないが、きっと内装はこうなのだろうと思うほど豪華な空間である。

 眩いシャンデリアのような照明が垂れ下がる一階フロアは、装飾品やバッグなどの店がずらりと並び、どの店も商品から店員に至るまで全てが輝いている。節子は半開きになった口のままで、彷徨った。いいなと思う品物ばかりで、目移りしてしまう。一回立ち止まって深呼吸をする。


 落ち着いて、落ち着くのよ節子・・

 あなたは靴を買いに行かなきゃいけないの・・だから、靴の売り場を探さなきゃダメよ!


 何度も言い聞かせ、それでも、花々に浮かれる蝶のようにフラフラと奥へと進む。

 婦人靴売り場は二階だった。塵一つないエスカレーターで上に向かいながらも、いくら持ってきたかしらと、がま口の中身が気になってきた。なにしろ、一階に並んでいたバッグや宝石などの品々についた値札のゼロの数が尋常でなかったのだ。五万は持ってきたはずである。


 足りるかしら・・

 買えるかしら・・


 二階フロアは一階とは違った開放的な空間だった。

 鏡のように磨かれた床に様々なデザインの靴が映っている。長いのから短いの。踵が高いのから低いの。素材も色々である。


 選べるかしら・・

 大丈夫かしら・・


 節子はいつものように気弱になる自分に気付いた。


 ダメよ!ダメダメ!

 節子、あなたは今、九十七の節子じゃないんだから、若い節子なんだから、自信を持たなきゃ!

 誰に遠慮なんてすることないわ。自分の心に素直になるの!

 自分がいいと思ったものを、選んで!そして、買うのよ!


 気合いを入れ直した節子は、手前の店から入店してみることにした。

 狙うはヒールのあるパンプスだ。

 まずは、シャネル。

 さすがの節子もこのマークくらい知っている。ハイブランドである。もちろん、手は出ないが、節子の購買意欲は充分くすぐられた。シンプルでシックなデザインが好みである。先端のみ素材が違うキャップトゥパンプスに心を奪われた。だが、ゼロが多過ぎる。仕方なく次に行く。

 プラダだ。

 これもいい。全体的に華奢なシルエットで、黒を基調にゴテゴテしてない、さり気ない気品がいい。とてもいい。だが、がま口の中身が厳しい。次に行く。

 セルジオロッジ。

 これも、また素敵だ。先鋭的な素材とアマゾンの生き物みたいな原色が目を引く。大きなバックルがついていたり、ヒールの形が変わっていたりと面白い。だが、このブランドも高過ぎる。泣く泣く隣に移る。

 トッズ、フェラガモ、ヴァレンティノと見て回るが、なかなか難しい。

 節子はだんだん不安になってきた。このままでは、靴一つ買えないかもしれないと、憂惧し始める。


 せっかく若返ったのに・・


 彷徨わせていた泣き出しそうな目に、果物を思わせる色鮮やかなサンダルやパンプスが飛び込んできた。

 ずらっと並んだ元気なビタミンカラーの靴に吸い寄せられるようにして店内に足を踏み入れる節子。値札を見ると、所持金で充分足りそうな値段である。

 黒いタートルネックのシックな身なりをした店員が、いらっしゃいませとすぐに近付いてきた。

「どのような靴をお探しですか?」と、節子の奇妙な出で立ちにも一向動じず、愛想のいい笑みで話しかける。

「靴を・・踵がある素敵な靴を、買いたいんです!」

「かしこまりました。店内をご覧になって頂いて、お気になる靴はございましたか?」

 節子は、店内を一周して、サファイア色のオープントゥパンプスと、シャネルで一目惚れしたデザイン、キャップトゥタイプの初雪のように輝く白いパンプス。そして、深いワインレッドのエナメルが美しいオルセーパンプスの三足を選んだ。いずれも、八センチ前後のピンヒール仕様である。

「お客様の足は癖もなく甲も高くなく、パンプス栄えするお綺麗な足をされてらっしゃるので、どちらでもお似合いになるかと思いますよ」店員は、下駄を脱いだ節子の素足を矯めつ眇めつ眺める。

 そうは言っても三足とも買うことはできない。一足三万はするのだ。どれか一足を選ばねばならない。けれど、店員の言う通り、どれも似合う。悩ましい選択である。

「ああ、どれも、とても素敵!でも、お金が足りないのよ。どれにしたらいいかしら・・」

「そうですね。もしどうしても一つだけ、選ばないといけないとなれば、私でしたら、絶対に後悔しないと思うものを選びますね」見兼ねた店員が助言をくれた。

「あなた、難しいことを言うのねぇ」と、節子は悩ましげに溜め息をつく。

 ふと鏡を見ると、スツールに座って靴を悩む二十代前後の若い娘の自分と、三十代くらいの苦笑した店員が映っている。


 忘れてたわ・・あたしは今、小娘なのよね・・

 年寄りじゃないんだから、口の利き方には気をつけないといけないわね・・


 それにしても、この華やかな店内にいても、見劣りしないくらいの自分の美しさといったらなんなのだろうと、我ながらうっとりしてしまう。自分は、これほど美人だったのだろうか。それとも、ルシファーが手を加えたのだろうかと、艶容な悪魔の顔を思い出し、人知れず頬を染める節子。足元で輝くワインレッドのパンプスが彼の瞳の色を思わせた。その瞬間、節子の心は決まった。

「これを、ください!」

 店員に血紅色のオルセーパンプスを指差し、履いていきます!と、がま口を掴み出した。


 真新しいパンプスが、銀座の歩道に軽快なリズムを刻んでいく。

 待望の靴を買った後、三階に行き下着一式を購入して装着した節子。身なりを整えた彼女の手にあるのは、アナスイバッグのみ。老婆に戻った自分の衣装が全て納まった紙袋は、駅のコインロッカーに預けてきた。

 身軽な節子は時々、足元に目をやってにんまりと笑う。麗しき彼の瞳の色をした美しいパンプス。八センチピンヒールの少し不慣れな翼は、彼女を更に夢の奥深くへと誘っていくようだ。

 節子は美容院にも行きたかった。ローマの休日のオードリーヘップバーンのように髪を切ってパーマをかけるのだ。だが、その前に、歌舞伎座に行きたかった。ライトアップするようになったのだとテレビのニュースで情報を得ていた節子は、観劇は不可能であろうが外観だけでも、いつかは見たいものだと熱望していたのである。興奮を抑えながら都道沿いに歩いていくと、前方に白く浮き上がるような美しい歌舞伎座がその姿を現した。

「あららららら!まああああああ!なんて、素敵!竜宮城みたい!」

 想像に違わない圧巻な姿に、感嘆の声を上げる節子。願っていたことが次々と叶う夢のような夜であった。

 歌舞伎座を前にして詠嘆しながら涙ぐんでいると、背後から、もしもしと声をかけてくる者がある。

「突然すみません。私、こういうものなんですけど」

 黒いスーツ姿に蝶ネクタイの男は、無愛想な顔に似合わず丁寧な言葉遣いで名詞を差し出してきた。

 歌舞伎座の感動冷めやらぬ節子は、なにがなにやらわからないままに、男の名刺を受け取る。

 名詞には『クラブRapha 蕨 正 tadasi warabi』とある。

 首を傾げる節子に、蕨と名乗る男は、ホステスになる気はないか、と続ける。

「当店は、一見さんお断りの、身元がしっかりした、ハイレベルなお客様しか来ない敷居の高いクラブです。あなたは一流ホステスになれる素質がある。だから、不躾ながら声をかけさせていただきました。よかったら、今すぐでなんですけど、見学がてら、店に来てみませんか?」

 真摯な物腰の男が身振りをする度、手元から覗く腕時計が街灯を反射して銀色に光る。男が履く鏡のように磨かれた黒い革靴が、銀座の夜を投影している。そのうえ、ブラックスーツに蝶ネクタイだ。男の装いは、節子にとって非現実的なものであり、胸躍るような出来事が起こる前触れを予感させた。なぜなら、彼女が知っている洋画では、この手の恰好をした人は、パーティー会場でカクテルの乗ったお盆を運んでいたり、金持ちの家で執事をしていたり、カジノでルーレットを回していたりするものだからである。

 節子は試しに男について行ってみることにした。


 変なところには連れていかれないでしょう・・

 まぁ連れていかれたとしても、朝にはシワシワおばあさんだもの・・


「では、ご案内させていただきます」

 男について歩くこと数分。数寄屋通りに曲がったところで男は不意に止まると、こちらです、と手で看板を指し示した。

 和紙に毛筆で『クラブRapha』と素っ気なく書かれた白い看板の横には、階下へと階段が伸びている。

 優雅なピアノの音色と笑い声がさざ波のように漏れ聞こえてくる別世界への入口のような階段を、男は革靴を響かせて降りていく。節子は躊躇した。恐らく階下では、豪華なパーティーが催されているのだろうと想像した節子は、自分のような年寄りが踏み込んでいいものなのか尻込んだのである。だが、即座に戸惑いを打ち消した。


 あたしは、今、九十七歳の佐伯節子じゃない!二十歳の娘よ!

 どんなことも、恐れずに、飛び込んでいいのっ!


 覚悟を決めた節子は、ピンヒールで武装した足をそっと一段目に下ろした。

 一段共に、華やかなさざ波は明確な輪郭を持ち始め、彼女の胸は否応無しに高鳴っていく。

 そうして階段を降りた先に広がっていたのは、隅々まで拘りが行き届き一目で上質だとわかる社交場だった。

 蕨は、節子を左手奥のカウンター席に案内した。見たこともない外国酒がずらっと並んだ棚の前では、ふっくらとした温和な顔つきの眼鏡をかけた中年バーテンダーがグラスを拭いている。磨き上げられたカウンターに映るのは、肘掛け椅子に戸惑う見慣れない小娘の顔。不思議な気分だ。

 間を置かずして、蕨を随伴した和服姿の女性が現れた。

 色白の面には聖母のような柔和な微笑みをたたえた女性の装いに目がいく節子。霞色の地に饅頭菊や南天が控え目な色で描かれた彼女が身に纏う訪問着は、上品な艶から察するに恐らく正絹だろう。金糸がふんだんに織り込まれた煌めきの七宝柄の帯を合わせている。芍薬の花を連想させる女性の格が一目瞭然の服装である。椅子の背に触れる手の動き一つとっても優雅な挙措端正に惚れ惚れしてしまう。

「初めまして。このクラブのオーナー、まいこです」

 迦陵頻伽にも勝る声は、天女のようだ。まいこママは、節子が今まで出会ったどの女達とも違う。女を格付けするならば、この人は間違いなく上位に入る。或は、別格。

 すっかり恐縮した節子は、慌てて合わせた膝の上に両手を押し付けた。実際年齢では年上であろうと、教養や華や学もなく、生まれや家柄も普通の自分は、女の中では低級な部類であろうと急に羞恥心を覚えたのだ。

「あら、緊張しているのかしら。こういうところは、初めて? ごめんなさいね。今夜は若いお客様が多いから」

 階段を降りて右手奥にある空間からだろう。様々な音程のさざめきが絶え間なく聞こえていた。

「ここはお客様がお金を払って、心を癒す時間を買う場所なの」

 品よく腰掛けたママからは、馥郁たる香りが漂ってくる。

「ホステスは、心を癒すお手伝いをするんですか?」

「私たちが、癒しの時間そのものなのよ。過ぎ去っていく時の中から、止めたいほど最良の時間を買うの」

 美しい人は、その美しさと同じくらいに聡明な言葉を操るのだ。節子は、ほぅと息をつく。

「時を止めることは、できませんものね」

「記憶や心の中でなら、若さすら永遠に止まっていられるわ。時間の選択権は、いつでも心にあるものなのよ」

 自分は、自分の心に止めていた時間を再現しているのかもしれないと節子は推測した。その時間は、息子が生まれた二十歳くらいの年齢であったのだろう。その時、自分は、幸せ、だったのだろうか。

 もう、思い出せなかった。

 短い時間ですっかりママと打ち解けた節子は、その場で採用された。

 勤務日数は週に二日である。その程度なら、ホームにも怪しまれることなく通勤できるだろう。

 源氏名は『夜の』に当て字をし、一瞬という意味の『刹那』をかけた。なかなかどうして洒落ている、と節子本人はお気に入りだ。と、いうわけで、

 九十七歳の佐伯節子は、銀座の高級クラブRaphaでホステス『夜乃せつな』として、名刺が刷り上がる一週間後から勤め始めることが決定した。

 

 暁天を横目に、非常階段をひょこひょこ昇る老婆の顔は、目の下のクマが気にならないほど生気に満ちていた。

 彼女は、手に下げた紙袋の中でルビーのように輝く戦利品より遥かに素晴らしいものを得ていたのである。数時間前の夢のような一部始終を思い返す度、節子の口許は緩む。心身を爽やかに蘇らすものは、自分の魂の泉から汲み出さねばならないのだと、知った夜。刺激的な時間は非現実のようであって夢ではない。空になったがま口の中にある蕨の名詞は、紛れもない現実である。退屈に蝕まれる長い人生より、短くても刺激的な時間のほうが遥かに価値があることが証明されたのだ。


 今でも、信じられないわ・・こんなことってあるのねぇ・・

 昼間は九十七歳のおばあちゃんが、夜には二十歳の美人娘に変身するなんて・・なんて、面白いんでしょう!

 

 夢見心地の節子は、自室の扉に鍵をかけると、ダンスでもするような軽快なステップでベッドへ向かう。

 次の外出時には銀行に行って資金を補充し、せつなの服を揃えなければいけない。それから、初出勤用のドレスだ。


 ドレス!なんて素敵な響きかしら!

 女なら誰しも一度は憧れるドレスを着れる日が、まさかあたしに訪れるなんて・・!

 ルシファー様、こんな体験をくださって、ほんとうにありがとうございます!


 紙袋をベッドの奥深くに突っ込むと、ペンダントに接吻する節子。そうして爆睡し始めた老婆を。秋桜が静かに見守っていた。

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陽炎の夜 御伽話ぬゑ @nogi-uyou

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