第10話 氷晶の魔獣

「雪が、止んだ?」

 マリアナが天を見上げると青空が広がっていた。吹雪は止み、足元の雪の量も進むにつれて浅くなっていた。

 気温は相変わらずかなり低いが、風雪が止み、足元の雪も少なくなった。

「本当ね。魔獣が移動したのかしら……?」

 がむしゃらに進み続けていたシエルも、マリアナに言われてようやくそのことに気が付いた。

「いいや、もうだいぶ近いようだ」

 二人の隣に並んだルシアンは言うと、一度大きく息を吐く。

 吐いた息が凍って空気中でちらちらと輝いている。

「ほら、かなり気温が低い。それにほら……」

 とルシアンは周囲を見回す。草の茎や木の枝が真っ白に凍っている。

「それでも吹雪の中を歩くよりはマシよ」

 シエルは小隊の全員の状況を確認するために振り返る。

「あら、アリサ。思ったより元気そうね」

 アリサの顔を見てシエルは意外そうな顔をする。

 吹雪の中を通り抜けて来たが、思ったよりアリサは平気そうな顔をしている。

「う、うん。チカコのお陰かな」

「そうなの? ありがとう」

 シエルは、アリサの隣に居るチカコに向かって微笑む。

「あぁ、何というか……。気にしないでくれ」

 しかし、チカコは浮かない顔をしていた。

「君たち、これを見てくれ!」

 少し先に進んでいたルシアンが、四人を呼んだ。

 四人がルシアンの元へと行くと、彼は屈みこんで地面をじっと睨んでいた。

「これ、足跡……?」

 覗き込んだアリサは驚いた顔をする。

 凍っている土壌のうえに大きな足跡がある。

 チカコは険しい顔で足跡を睨む。

「一体どれだけ大きいんだ……?」

「恐らく、体長は十メートル前後ってところかな」

 ルシアンは身長に足跡の淵をそっと手でなぞりながら調べている。

「さて、ゆっくりしている暇はないよ。この気温じゃ、あまり長くは行動できない。早く討伐して戻らないと全員凍死することになる」

 足跡を急いで調べ終えると、ルシアンは腰を上げた。

「本当に引き返さなくて良いんだね? 正直なところ、この先は僕でも万が一のときに間違いなく全員を助けられるとは言い切れないよ?」

 ルシアンの言葉にシエルは頷く。

「それでも、やらなければいけないのよ」

 同意を促すように全員を見渡す。

 マリアナとチカコは頷いた。

「……そうかい。ならばもう止めはしない。ただし、もし危険と判断したら僕は撤収を指示するから、その時は素直に僕に従って欲しい」

「ええ、構わないわ」

「よし、それじゃあ行こうか」

 ルシアンは屈託のない笑みを浮かべる。

(うぅ、帰りたい……)

 聞かれていないが、アリサは反対だった。

 

 普通の生物と明らかに異なる存在感を放つ足跡だけに、それを追跡することは容易だった。

 足跡を辿って奥へ奥へと進んでいくと、やがて先頭を歩くシエルが何かに気が付いて足を止めた

「止まって!」

 シエルが後ろに向かって小声で言い、手で全員に身を屈めるように指示した。

「……見つけたね」

 シエルの隣に並んだルシアンが、遠くを見据えて言う。

「氷晶の魔獣、フェンリルか。本物を見るのは初めてだ」

 ルシアンは嬉しそうに笑顔を浮かべる。

 白い狼のような四足歩行の生物が佇んでいる姿が見える。

 初日に森の外で見たような醜悪で歪な姿ではなく、一見するとその姿には美しさすら感じる。巨体ながらもしなやかなその身体は真っ白な体毛に覆われており、木々の隙間から差し込んで来る陽光を浴びてきらきらと輝いている。

 全長十メートルに及ぶほどの巨大な体躯を支えるその脚は、体毛の上からでもわかるほどゴツゴツとした筋肉が隆起している。さらに地面の雪を踏みしめる足趾そくしからは鋭い刃物のようなかぎ爪が伸びている。

「フェンリルは魔獣の中でも魔力に対する感知能力が非常に高い。このくらいの距離ならすぐに……」

 ルシアンが言いかけたその時、フェンリルの顔がこちらを向いた。

「来るぞ……気をつけろ!」

 ルシアンは近くの大樹の陰に身を寄せる。

 四人はそれぞれ武器を抜いた。

 フェンリルは威嚇するように大きな咆哮を放つ。

 その咆哮は空気を大きく震わし、四人の身体に吹き飛ばさんばかりの威圧をかける。

「ほ、本当に勝てるのかしら……」

 シエルと並んで優秀なマリアナでさえ、顔が青ざめている。

「……下がっていてくれ、まずは私がやってみよう」

 チカコが前に進み出て刀を構える。

 フェンリルは猛然とこちらに向かって疾走すると地面を蹴って、巨体は軽々と跳躍させる。空中で右前脚を振り上げるとこちらに向かって振り下ろしてくる。

「逃げろ!」

 チカコが叫ぶと同時に全員が飛び退いた。武器が重く素早く動けないアリサは、マリアナが風の魔術で速度を上げて引っ張ってくれたおかげで避けることができた。

「破っ!!!」

 攻撃を避けたチカコは得意の風刃を刀に帯び、斬撃を飛ばす。

 フェンリルは飛んでくるチカコの斬撃をもろともせず突っ込んで来る。

「効かない……!?」

 チカコは間一髪で大きく横に飛び、地面を転がって回避する。

 

 回避した後、チカコは眼前のフェンリルの輝く体毛を見た。

「これは……!」

 この魔獣の真っ白な体毛は高硬度の魔氷晶に覆われて凍り付いている。

(アリサの使っていた魔氷晶か。どうりで遠くからは歯が立たないわけだ)

 すぐにフェンリルは前足を横殴りに振るう。

 チカコは後ろに身をひるがえしながら跳躍してかわした。

 着地したチカコは刀を上段に構え直す。

「風刃剣術奥義、真空斬……」

 チカコは刀から再び強靭な風の刃が噴き出る。

「我が剣身に、斬れない物はない。斬るも斬らぬも、自由自在……」

 チカコは何事か呟きながら、切先を天へと向け、自らフェンリルの巨体に向かって走る。

 上から真っ直ぐフェンリルの足趾そくしが振り落とされ、まるで地面が爆発したかのように砂煙が舞い上がる。

「チカコ!」

 遠くから見守るアリサが叫んだ。

 

「……遅いっ!」

 側面から、チカコは真空の刃を帯びた剣をフェンリルの横腹に振り抜く。

 しかし、フェンリルはどす黒い血を撒き散らしながら後ろに大きく跳躍して距離を取った。地面にばたばたと落ちたその体液はすぐに蒸発していく。

「やった!」

 アリサは歓喜の声を上げた。

「いや、まだ浅い……!」

 チカコは悔しそうに飛び退いたフェンリルを睨む。

 地面に着地したフェンリルは苦しそうに一度、地面にうずくまったが、すぐに天を仰ぐと森中に響かせるように咆哮する。

 フェンリルの周囲に目に見えるほどの強烈な冷気が渦巻き始める。そして、腹の傷が魔氷晶に覆われて、黒い体液の流出が止まった。

「すぐに治癒してしまうのか……。厄介な」

 チカコはまた刀を構えなおす。

 フェンリルは再びチカコに飛び掛かる。

(だが、その単調な動きでは私は捉えられない)

 この短い時間でフェンリルの動きを見切っていたチカコは、上から直線的に振り下ろされるフェンリルの強力な一撃を素早く横にかわした。そして、すぐに踏み込んでその身体を斬ろうとする。

「!?」

 何かに気が付いてチカコは攻撃を止めて距離を置いた。

 

「チカコ、どうして」

 大樹の影から見守るアリサは言った。

「あの冷気だよ」

 隣でルシアンがフェンリルの身体を指差して言う。

 フェンリルの周囲がキラキラと輝いている。先ほどルシアンが息を吐いたときのようだ。

「ダイヤモンドダストだ。空気中のわずかな水分さえ、瞬時に凍らせているようだね。多分、近づいたら一瞬で身体が凍りつくだろう」

 ルシアンは言う。

「え!? それじゃあ……」

 アリサはチカコに視線を戻す。

 

 フェンリルの通った後の地面が白く凍っていく。

「ははっ、まともに食らったらひとたまりもないな」

 チカコは苦笑いを浮かべながら剣を下ろす。

「剣舞、疾風はやて……」

 チカコは刀から素早く移動できるように風を身にまとった。

 

「まずい、このままだと防戦一方だね。火属性の魔術で対抗できる人が居たら良いんだけど……」

 見守るルシアンは呟いた。

 

 その間にもチカコはフェンリルの猛攻を受けている。

「くっ、潮時か……」

 チカコは退こうとした。

「十分よ!」

 と声が響き、隙を伺っていたシエルが白銀の髪をなびかせながらフェンリルに向かって飛び掛かった。

 シエルの全身が蒼白の炎に包まれている。

 手にした斧槍ハルバートを空中で旋回させると、冷気をもろともせずフェンリルの顔面に横殴りに叩き込む。

 フェンリルの顔面が横にのけぞる。

 すぐに足趾そくしを振り上げるが、まだ脳が揺れているのか、乱雑にシエルに向かって振り下ろす。

「遅い!」

 既にシエルはフェンリルの側面に回っていた。

「お父様直伝の秘技、味わいなさい!」

 シエルが斧槍を下段後ろに構えると穂先に青白い炎が吹き出す。

 そして、飛び上がりながら体を回転させ、フェンリルの横腹を斬り上げた。

 引き裂かれたフェンリルの脇腹から大量の黒い血が流れ出る。

 流石に深手となったようで悲鳴のような甲高い咆哮を上げながら、地面をのたうちまわった。

 周囲を取り巻いていた冷気も消える。

「よかった。仕留められそ……」

 とアリサが言いかけた時、何か大きな影が上を過ぎ去って行った。

「え……?」

 アリサは過ぎ去った影を目で追う。

「!?」

 猛然と迫る影にシエルが気付いたときには、アリサを飛び越えたもう一体のフェンリルが目の前に迫っていた。

 シエルは反射的に武器で攻撃を遮ろうと構えるが、鈍い音と共に身体が吹き飛ばされた。

 そして、森の地面にその勢いのまま転がっていく。

「お姉様っ!!!」

 潜んでいたマリアナが思わず飛び出していた。

 魔術で作り出した風をまとい、瞬時にシエルを襲ったフェンリルの目の前まで迫る。

 フェンリルが大きな足趾そくしを振り下ろすと、素早く横移動してかわし、フェンリルの眼球に向かって鋭い突きを放った。

 見事に眼球をレイピアの細い剣先が貫き、怯んだフェンリルは左右の足趾そくしを乱雑に振り回す。マリアナは一度、後ろに飛び退くと怒ったフェンリルはマリアナを標的にして襲いかかる。

 マリアナは迫りくるフェンリルの連続攻撃を素早くかわしつつ、シエルが復帰する時間を稼ぐ。

 

 アリサは武器を手に、何もできずに立ち尽くしていた。

「アリサ! 気をつけろ!」

 不意にチカコの声が聞こえてくる。

 そして、その声のお陰でシエルが深手を負わせていたフェンリルが息を吹き返し、猛然とこちらに向かって来ているのに気が付いた。

 アリサは盾を前に構える。その盾の周囲を光が包み、魔氷晶が覆った。

 フェンリルの足趾が横殴りにアリサを襲う。激しい衝撃とともにアリサの体は吹き飛ばされ、地面を転げた。

「立つんだ!」

 チカコが叫ぶ声が聞こえ、フェンリルの唸り声が聞こえた。

 顔を上げると、チカコが斬撃を飛ばしてフェンリルの注意を惹きつつ、果敢に戦っていた。

 地面に打ちつけたせいで身体中が痛むが、アリサはゆっくりと立ち上がった。

「アリサ、こいつは私たちでやるしかない! 力を貸してくれ!」

 チカコは迫り来るフェンリルの攻撃を必死にかわしながら叫ぶ。

 少し離れた場所に身を隠すルシアンはただ沈黙してその様子を見ていた。口元は笑っている。

(あの遠吠えのような咆哮は、仲間を呼ぶためだったのか。特異級の魔獣同士が連携するなんて、どこでも聞いたことがない。これは、大発見だ)

 根っからの研究者である彼は、魔獣の動き、反応、そして出血したときの体液の様子を見逃すまいとつぶさに観察し、目に焼き付けようとしている。

 

「チカコ! シエルを助けないと!」

 アリサは意を決したように武器を構える。

 向こう側ではマリアナが一人で必死にフェンリルを相手にしていて、逃げる余裕はない。

「その通りだ」

 戦っていたチカコはアリサの隣に戻って来て言った。

 こちらを向いたフェンリルが、低い唸り声を上げて威嚇する。

「逃げるにしても皆一緒でなくてはな!」

 チカコは再び駆け出していく。

「アリサ! できるだけ魔獣の気を惹いてくれ! 私が隙を探る」

「うん、分かった! やってみる!」

 言うと、アリサは敢えてフェンリルの目の前に行く。

 フェンリルの鋭い視線がアリサを突くように睨む。

(シエルのため、シエルのため、シエルのため……!)

 膝が震えるのを堪えながら、アリサはフェンリルが動くのを待った。

 フェンリルはアリサに猛然と向かう。

 そして、足趾そくしを振り下ろす。

「きゃあっ!」

 他の三人に比べて装備の重いアリサは、少し動いて攻撃のもろな直撃を避けているが、盾で防いでも凄まじい衝撃が身体を襲った。

 アリサはなんとか立ち上がるが、そう何度も耐えられる衝撃ではない。

 チカコは急いでフェンリルの隙を探した。

(……あれだ!)

 フェンリルの横腹に先ほどシエルが負わせた大きな傷口が、黒い筋のように見える。血液は止まっているものの、何度も深手を負い過ぎたせいで治癒力が落ちたようだ。

(あそこは治癒しきっていない!)

 思い立ったチカコは風の刃を帯びた刀を上段に構えて集中する。しかし、アリサを襲うフェンリルの動きは激しく、中々狙いが定まらない。

 アリサは何度も攻撃を受けて、頭から血を流していた。流れて来た血が片目を潰した。

(目が……!?)

 とアリサが一瞬目を擦って、正面を見た時にはフェンリルが姿を消していた。

 そして、大きな影が日を遮って暗くなる。空中からフェンリルが目の前に迫っていた。アリサの身体に喰らい付こうと顎を大きく開いている。

 

 しかし、空中に飛んだ分、動きが直線的になった。

「ここだッッッ!!!!」

 チカコは目をかっと見開いた。

 剣を振り抜くと、斬撃が飛び、フェンリルの塞がりかけの傷口を切り裂き、中にまで達した。

 身体の内部深くまで斬撃が達したらしく、フェンリルの身体は力無くアリサを逸れて地響きを立てながら転がった。

 チカコは剣を腰の鞘に収めると、うずくまったアリサの元へ駆け寄った。

「アリサ、大丈夫か!?」

 チカコはアリサの肩を抱えて起こす。

たおしたの……?」

 アリサは、くたびれたような笑顔を向ける。どうやら深手は避けていたようだった。チカコはほっと表情を緩める。

「ああ、遅くなってすまな……!?」

 何か物音がした、と二人が見た時には倒したと思っていたフェンリルが身を起こし、最後の力を振り絞って二人に向かって足趾そくしを振り下ろそうとしていた。

「しまっ……!」

 チカコが叫ぶ。死んだと思い込んで油断した。

 その刹那、突如目の前に白銀の影が舞い降りた。

「このくらいが……丁度いいハンデだわ」

 傷だらけのシエルだった。

「シエルっ!」

 無事だったことにアリサは顔を輝かせる。

 フェンリルの足趾は、シエルが振るった斧槍ハルバートの刃によって切断されて宙を舞っていた。

 さすがのフェンリルも悶絶するように鳴き声を上げてのたうちまわる。

 シエルは跳躍すると、蒼白の炎を吹く斧槍ハルバートの穂先を渾身の力でフェンリルの脳天に叩き込み、真っ二つにかち割った。

 驚異的な生命力を見せたフェンリルの目の光は消え、今度こそ絶命した。

 シエルは肩で息をしながら、死んだフェンリルの頭の上で斧槍ハルバートを引き抜く。

 フェンリルの身体は溶けて蒸発していく。

 その向こうにはもう一体のフェンリルの屍骸がもうもうと湯気を立てており、その隣で自分の肩を抱えたマリアナが、疲れた笑みを浮かべている。

「シエル!」

 アリサは思わず武器を手放して駆け寄ると、シエルを抱きしめた。

「ちょっと、痛いわよ!」

 シエルはアリサの身体を引きはがす。それくらいには元気のようだ。


「体が全て蒸発し切るまで……三十秒と少し。サンプルは……」

 ルシアンが蒸発するフェンリルの死骸の前に屈んで忙しなく動いている。

「よし、やったぞ……」

 ルシアンはフェンリルのどす黒い体液を蒸発する前に数本の密閉したボトルの中に収めると、満足げに眺めた。

「素晴らしい! 一体どんなデータが……おっと」

 ルシアンはボトルを大切そうに懐にしまうと振り返る。

「君たち、とにかくこれ以上ここに居るのは危険だ。フェンリルの爪を回収して帰ろう」

 絶命した魔獣の身体は、すぐに蒸発してしまうが、強固に形成された部位は一部が残る。討伐の際は証としてその残留物を持ち帰ることになっていた。

 フェンリルの場合は刃物のようなかぎ爪がそれにあたる。

「先生、これか……?」

 チカコが蒸発する身体の中から鋭く尖る爪を拾い上げた。

「ああ、それは形状的に右足についていたものだね。もう一体の方も同じ右足の爪を持ち帰ろう。それで二体を討伐したという証拠になる」

 ルシアンはチカコに指示をすると怪我をしたシエル、マリアナ、アリサの元へ行く。

「君たち、大丈夫かい? 運が良いことに腕の良い治癒士ならここに居るよ」

 とウインクする。三人は顔を輝かせた。


(……それにしても、寒気が収まらないな)

 三人に魔術治療を施しながら、ルシアンは身震いした。森は相変わらず凍えるような低温のままである。この異常気象の元凶でもあるフェンリルを排除したのだから、理論上はすぐに森の気温は上昇しそうなものだった。

 ルシアンは後で知ることになるのだが、他の箇所でも複数のフェンリルが目撃されていた。

 

 ロマンはレオニート皇太子、オレク、もう一人は適当な男子生徒を見繕って魔獣の探索に出ていた。森の奥へと進んでできるだけ大物を倒すという単純明快な案であった。ちなみに見守りには魔人部隊、雷鳴グローム隊の隊長、リヴが同行した。

 魔氷晶の体毛に覆われた白銀の巨体を揺らしながら、唸り声を上げてフェンリルが威嚇する。

「なるほど、大物らしい。ちょうど良かったな」

 ロマンは魔獣を見上げて涼しい顔で言う。

「イヤイヤ! デカ過ぎだろ! 倒せないって無理無理!」

 隣でオレクは青ざめている。

 レオニートはもう一人の男子生徒を連れて遠くから見守っており、フェンリルの前には二人しか居ない。

「何を言っている? やつもお前と同じだ」

 ロマンはいつもの如く無表情で振り返る。

「は? 同じって? あっ! おい!」

 オレクはロマンの背後を指差して叫ぶ。

 フェンリルが大きく口を開いてロマンに向かって飛びかかって来るのが見えたからである。

「うわああああ逃げろ!」

 オレクは背を向けて全速力で走る。

 その背後に巨体を地面に擦りながらフェンリルの身体が迫る。

「へっ?」

 オレクが振り返ると、目の前に地面に伏したフェンリルの身体が湯気を立てていた。フェンリルの上顎から上が綺麗に吹き飛び、噴水のように黒い血を噴き散らしている。

 フェンリルの巨体はあっという間に大量の蒸気を上げて蒸発をしていき、一面が曇った。その湯気の中からフェンリルの爪を手にしたロマンが現れる。

「……体毛が硬く刃が通らないなら、体毛がない口腔内に刃を入れて斬れば良いだけのこと。弱点を丸出しで迫ってくるとは、間抜けなやつだな。お前と同じだ」

 ロマンは爪をオレクに投げてよこすとレオニートの元へと戻って行く。

「は……?」

 オレクは呆然と爪を受け取る。

「……って、誰が間抜けだコラァ! ロマン、てめー!」

 思考回路が復活すると、オレクは頭から湯気を立てながらロマンを追った。

 二人はもうもうと吹き上がる湯気の中から出て来る。

「おお、終わったか?」

 姿が見えると、レオニートはロマンに聞いた。隣の男子生徒はまだ震えている。

「ああ、あの通りだ」

 ロマンは後ろ指で後方のオレクの方を示す。

 オレクは手にフェンリルの残した残留物である大きな爪を持っている。

「はぁ!? マジ……!? ただの剣術で倒しちゃったの!?」

 それを後ろから見ていた見守り役のリブは思わず呟いた。生徒たちは怪訝そうにリヴの方を振り返った。

「い、いや、私だって一人で倒せるけどね!」

 とリヴは強張った笑みで強がりを言った。

 

 同じように神楽の国から来たアキト・オオサノミヤツカサもまた、小隊を置き去りにして先行し、偶然鉢合わせたフェンリルと戦闘していた。

 十字槍の上半分が宙を舞って、穂先が地面に突き刺さる。

 フェンリルは牙を剥き、唸り声を上げている。

「ふん、面白い……」

 対峙しているアキトは折れた槍の柄を投げ捨て、背中に背負っている予備の十字槍を取る。

「これでこそ、わざわざ吹雪の中を抜けて来た甲斐があるというもの」

 アキトの手にした十字槍の周囲から揺らぐように光が湧き出で、炎に変わる。

「貴様に、葬送の炎を呉れてやろう」

 アキトは猛然と走り出し、フェンリルに突っ込んでいく。

 

 日没間近。訓練のタイムリミットが近づいた刻限に教師たちの詰めるテントへと戻って来たときに、ルシアンはそれを知らされた。

「四体も!?」

 ルシアンは驚きを隠せなかった。「ああ」とラディクは頷いた。

「ここに討伐を証明するフェンリルの爪が四体分、間違いなくある」

 ラディクはそれをテーブルの上に丁寧に並べていた。

「それは、道理で寒かったわけだ。最近、魔獣が増えすぎていますね」

 ルシアンは感心したように言いながら、爪をまじまじと眺めている。

 頭の中では既に戻った後の研究の計画が組み上がっている。

「……ああ、ただでさえ、情勢がややこしいのに面倒なこった」

 ラディクは腕組みをしながら、苦い顔をした。

 しかし、ふと表情が変わる。

「そういや、お前さんの見ていた小隊は二体倒したんだろう? 確か、ブランドード姉妹の……」

「ええ、大したものですよ。たったの四人で」

 ルシアンはフェンリルの爪から視線を上げると、笑顔を見せた。

 

「ええええ!? フェンリルを二体倒したのってアリサの隊だったの!?」

 アルマは目を丸くして驚いた。

 生徒たちの間ではその噂で持ちきりだった。

「……う、うん、まあね」

 アリサは気まずそうに視線を逸らして言う。

 確かにアリサも身体を張りはしたものの、ほとんどシエルや他のメンバーのお陰と言えなくもない。

 しかし、そんなことは知らずにアルマは目を輝かせている。

「凄いよ! これで成績の方もだいぶ良くなったんじゃない?」

「たぶん……?」

「いいなぁ~。私たちの隊はあまり大きいのを見つけられなかったから、成績は微妙かも……。探索中に魔獣のコロニーは消えちゃうしさ……」

 アルマはうなだれる。

 森の中にあふれていた魔獣たちは、コロニーの核と言える、特異級魔獣フェンリルが討伐されたことで消え去った。手ぶらで帰った小隊もあるほどだという。

「帝都に戻ったら私も頑張らなくちゃ! ねぇ、ヒルデグント? あれ……?」

 とアルマは振り返ってヒルデグントを探したが、姿がない。

 

 ヒルデグントはとあるテントの影に身を潜め、向こうの様子を伺っている。

 そこには、二人して楽しそうに話すレオニートとルフィナの姿がある。

 

 翌日には、生徒一同は森の外の拠点を引き上げて帝都へと帰還した。

「はぁ〜、疲れたなぁ……」

 雷鳴グローム隊の本拠地に戻ったリヴは、兵舎の隊長室で伸びをしていた。

 この一週間の野外演習の間、帝都に副官のヴィクトリカを残し、調査を任せていた。

 その報告を受けるべくここで待っている。

「センパーイ、おかえりなさい!」

 ヴィクトリカが部屋に入って来る。

「いい加減センパイは止しなよ。いつまでそれで呼んでんの?」

 リヴは机のうえに片肘をついて怠そうに言った。

「いいじゃないですかぁ! センパイはセンパイです!」

「隊のやつらに舐められるんだけど」

「そんなやつは私がシメますからご心配なく!」

「あんたが言うと冗談に聞こえないんだよ……」

 リヴは机の上でがっくりと項垂れながら言う。

「で……?」

 と目つきを変えてリヴはヴィクトリカを見上げ、報告を促す。

「はい、センパイ」

 とヴィクトリカがリストのようなものを机上に置いた。

「ふーん? どうやら、真面目に働いてたみたいだね。感心感心」

 リヴは口端を吊り上げる。

 

 ヴィクトリカとの出会いは、リヴが帝都士官学校を卒業し、平の兵士として雷鳴グローム隊に入った翌年であった。

 帝都士官学校の優秀な生徒を引き抜くことが多い中、ヴィクトリカは一兵卒からその実力を認められてこの隊へと配属された、若くして経験豊富な兵士だった。

 雷属性の感知系魔術に長けた雷鳴グローム隊は、斥候の任務が多い。

 このヴィクトリカとは何度も一緒に死戦をくぐり抜けた。

 敵に見つかり、二人して多勢に無勢の状況に遭遇したこともあったが、幾多の敵の返り血を浴びながら、淡々と彼女は切り抜けてみせた。

 困難に直面した時、ヴィクトリカは隠した本領を存分に発揮する。

 そして、今年隊長となったリヴは、ヴィクトリカを副官にすることを決めた。

 理由は実にシンプルだ。

 隊で敵に回したくない唯一の人物だから、である。

 

(私の人選は間違ってなかった)

 リヴはほくそ笑みながら報告を待つ。

「報告します」

 ヴィクトリカが言って、リストの一番上を指差す。

「こちらが、帝都で最もマカロンの美味しいお店!」

「は……?」

「こちらが、あの皇帝陛下御用達のベイクドチーズケーキのお店! そして……」

「いや、ちょっと待て」

「――なんですかセンパイ! ここからがいい所なのにっ!」

 ヴィクトリカが悔しそうに言う。

「いい所なのにっ! じゃねぇ!!! 隊の経費でなにスイーツ巡りしてんの、あんた!?!? 頭おかしいんじゃないの!?!?」

 リヴは口から火を噴くかのように怒鳴る。

「やーん! センパイ怖い〜」

「はぁ、前言撤回だよ、このクソボケ後輩が……」

「……え?」

 ヴィクトリカは呑気に首を傾げている。

 ちなみに、リストの店名の隣に使用した経費がご丁寧に記載されていた。

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