第12話 夢と騎士

 ひどく美しい夢を見た。


 下草は青々と茂り、樹木の翠緑すいりょくの葉がまぶしかった。木漏れ日がちらちらと漏れ落ちて、湖畔の静けさを際立たせる。どこまでも澄んだ湖の上を滑ってきた風が、心地よい冷たさで肺を洗う。


「……どうしても行かれるのですか」


 目の前の女性が問いかけた。簡易な白い衣を身にまとい、長い白銀の髪は結わずに垂らしたままだったが、その飾り気のなさは彼女の持つ素のままの美しさを際立たせていた。


「ああ」


 ひどく低く、割れた声が喉から漏れる。


 目の前の女の、うつくしい白銀の眼から涙が滲む。

 彼女の眼に溜まっていく涙を拭おうと手を伸ばす。

 差し出した手は固い鱗と鉤爪でできていて、今の自分は竜なのだと知れた。鉤爪で傷つけてしまわないように気をつけながら、やさしく彼女の頬に触れる。その鱗は、闇を吸いこんだかのように黒かった。


「血の誓いを交わした我が盟友、リヴレグラン王が危機に晒されている」


 黒竜の声を聞いて、女の眼から涙の雫がこぼれ落ちた。

 両手で顔を覆ってさめざめと泣く彼女の額に、黒竜は自分の鼻先をあてて慰める。


「誓おう。この戦いが終わったあかつきには、私はあなたのもとへと帰る」

「……ここに? 私のもとに、戻ってきてくださるのですか」

「ああ、必ず」


 濡れた女の頬を鼻先でぬぐう。

 黒竜は瞳を細めて喉を鳴らした。


「約束だ」


 ──ディアボリカには分かっていた。この黒竜がリヴレグランの地で勇者に倒されることを。けれど黒竜はその運命を知らず、勇ましく翼をはためかせ、楽園のようなこの湖畔から飛び立っていった。


 黒竜の意識が流れ込んでくる。愛しい人と離れ離れになる、胸が張り裂けるような寂しさ。この楽園に必ず帰ってくるという決意、そして彼の王への忠誠。

 黒竜は最後まで王への忠誠を貫き通した。その身を王に捧げたのだ。


 目覚めたディアボリカは頬を流れる涙を拭い、寝台に手を突いて起き上がった。窓掛けの向こうの世界が白み始めている。ヘドリックとの決戦の時は近い。


(……王への忠誠とは何なのか。黒竜が私に教えてくれた)


 まだ胸に残る黒竜の想いを留めるように、ディアボリカは胸に手を当て、立ち上がる。




   · · • • • ✤ • • • · ·




 鍛錬所に備えつけられた簡易闘技場には、大勢の人が詰めかけていた。

 模擬試合用なので闘技場の規模こそ大きくなかったが、それでもすり鉢状の壁面の客席は、七割程度が傭兵で埋まっている。ヘドリックが試合の準備をする際に、傭兵達に話を通して、その話が方々に広まったのだろう。

 領主と魔姫の対戦を見逃すわけにはいくまいと、彼らは勢い込んで席を陣取り、二人の対戦者の出場を、今か今かと待ちわびている。


 やがて、地面が揺れるような歓声が上がった。ヘドリックが登場したのだ。彼は甲冑を身にまとい、刃引きされた大剣を片手で軽々と持っている。


「デ、ディア様……っ」


 後ろに控えていたモイラの声が揺れる。ディアボリカは振り向いて、モイラを見、そして隣に立つアルセンに視線をやって、ひとつ大きく頷いた。


「行ってくる」

「ど、どうぞご無事で……!!」


 モイラが祈るように声を上げる。

 アルセンは唇を引き結び、ディアボリカにしっかりと頷き返した。


 モイラの声援を背後に聞きながら、ディアボリカは控室からまっすぐに伸びる廊下を歩き、闘技場へと足を踏み入れた。


 大きな歓声が耳をつんざく。

 吹き抜けになった闘技場からは、まるく切り取られた空が臨めた。今日は雲ひとつない青空だ。まばゆいまでの陽射しを受けながら、ディアボリカはヘドリックに目を凝らす。


 彼は大剣を振り回して剣舞を魅せ、ずしりと甲冑の肩当に剣身を預けた。


「俺はオウマが領主にして、オウマ傭兵団長ヘドリック。魔姫であるあんたと、剣を交えられることを誇りに思う」


 試合前の名乗りに応じて、ディアボリカも剣を構えた。いつも持っている銀の剣と同じ大きさ、同じ刃渡りの、刃引きされた鋼の剣だ。今身に着けている甲冑とともに、ヘドリックから借り受けた。長い黒髪は高く結い上げ、この街にいるあいだずっと隠してきた、黒髪や特徴的な瞳を衆目にさらしている。


「私はリヴレグラン王が末娘、魔姫ディアボリカ。私も、あなたとの戦いを光栄に思う」


 ヘドリックがディアボリカを見た。あいかわらず彼の表情はとぼしかったが、この戦いに対する覇気が、全身にみなぎっているのが分かる。


「答えは出たのか」

「ああ」

「そうか。ではその答え、ここで俺に示してもらおう」


 ヘドリックが肩当から剣身を浮かせた。


 ──来る。


 ディアボリカは腰を落とし、剣の柄を握る手に力を込めた。


 瞬間、眼前に切っ先が迫った。速い。ディアボリカは剣を振り上げて大剣を弾き、ヘドリックの太刀筋を逸らした。身体をひるがえして、油断なく彼に向かって剣を構える。


 剣で心を示せと言った以上、ヘドリックはたやすく勝負を決めるつもりはないはずだ。それなのに、この速さ。この強さ。柄を握る手に脂汗が滲む。


 再び彼が踏み込み、ディアボリカは全身の力を持って、彼の剣を受け止めた。今度は二度、三度と、ヘドリックが打ち込んでくる。手加減しているのかもしれないが、ディアボリカは剣を受けるので精一杯だ。ふたつの剣が陽光に閃くたびに、網膜に銀の太刀筋が刻まれていく。


 闘技場は割れるような歓声に包まれている。その声のほとんどはヘドリックの名を呼び、ヘドリックを激励している。


「俺はオウマを護る者だ」


 剣を撃ち込みながら、ヘドリックが普段と変わらない淡々とした口調でつぶやいた。


「この地の誰よりも、強くあらねばならない」


 ディアボリカは彼の剣戟けんげきを歯を食いしばって受け止めた。一撃一撃の重さに、指先がじんと痺れていく。


「強さは俺の矜持きょうじだ。ならば俺を欲するあんたは、何を示してみせる」


 今までで一番強い一撃を受け止めて、ディアボリカはよろめいた。すぐに体制を立て直したが、ヘドリックが追撃を脇腹に叩きこんでくる。ディアボリカは吹き飛ばされて地面に転がった。闘技場がひときわ大きな歓声で揺れる。


 ディアボリカはむせせながら、剣を突いて立ち上がった。ヘドリックの一撃は甲冑が防いでくれたのに、脇腹が焼けるように熱い。どくどくと自分の脈動が身のうちに響く。


 体勢を立て直し、再び剣を構える。柄を握る手が震える。さきほどの一撃のせいか、うまく指先に力が入らない。それでもディアボリカは、不敵に唇を上げてみせた。


「……私も、私の矜持を示してみせよう」

「ほう」


 ヘドリックが感嘆の声を漏らした。

 彼の覇気が膨れ上がる。次の一撃で勝負をつけるつもりだと分かる。


「ならば、あんたの矜持を見せてもらおう」


 ヘドリックが力強く一歩を踏み込んだ。


 ──この時を待っていた。

 ディアボリカは剣を胸の前で掲げ、声を張り上げた。


「我が剣よ、ここに!」


 声に応じて、頭上で剣を受ける金属音が響く。

 目の前で白い色彩が揺れる。


 ディアボリカに代わってヘドリックの剣を受けたのは、白い外套を身にまとったアルセンだった。


 ヘドリックの顔が驚きに彩られる。その一瞬をアルセンは見逃さなかった。鍔迫つばぜりあっていた剣を押し返し、たたらを踏む彼に剣戟を繰り出す。


「……っ!」


 ヘドリックは体制を崩したまま、アルセンの剣を受けてみせた。


 ディアボリカが土を蹴る。アルセンの太刀筋を通すために、アルセンの剣の上からさらに一撃を加える。


 高い金属音が響き、大剣が宙を舞う。


 二人の力に押し負けたヘドリックが武器を取り落としたのだ。大剣は陽光を照り返しながら回転して、やがて切っ先が地面に深々と突き立った。


 闘技場が静まり返る。

 一拍の空白。しかし場はすぐに、嵐のような怒号に包まれた。


「誰だお前は!」

「試合の邪魔をするつもりか!!」


 傭兵達が罵声を上げて席を立つ。


 今にも試合場に足を踏み入れようとする者達で溢れかえる客席を一瞥いちべつして、アルセンは被っていたフードを肩に落とした。

 金の髪が陽光に輝く。

 見慣れぬまばゆさに目を奪われた傭兵達が、固唾をのんで立ち止まった。


「おれの名はアルセン」


 静かでありながらよく通る声で、彼は名乗りを上げてみせた。


「魔姫ディアボリカに忠誠を誓った人間の騎士、アルセンだ!」

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