第11話  夜と望み

 空が暗く翳るころには、雨雲は遠くへ去っていた。

 満天の星がまたたいている。明朝はよく晴れるだろう。膨らんでいく月と痩せていく月、ふたつの月を眺めながら、ディアボリカは溜息をついた。


 訓練所をあとにしてすぐに「試合を放棄してください! あんな巨獣でなくても、ディア様に力を貸してくださる人を、他にあたってみればいいじゃないですかっ……!!」と、モイラは泣きそうな顔で訴えた。


 彼女の言い分は正しいのだろう。早々に諦めて次を探せば、もっと簡単に仲間になってくれる人だっているはずだ。

 けれどヘドリックが投げた問いは、ディアボリカが答えを持っていなければならない事柄だった。それなのに、怒りに目が眩んで復讐のことしか考えていなかった自分が恥ずかしい。


(ここで答えを出さずに逃げたら、きっと私は私を許せなくなる……)


 ヘドリックに意志を返したい。

 たとえそれが剣を交えるという危険な手段でも。


(……それでも、ヘドリック卿との試合は、間違いなく私が負けるだろうな)


 剣の勝負に敗れてなお、彼はディアボリカの出した答えを聞いてくれるのだろうか? 弱い負け犬の王族の話を。


(そもそも私は、セシル王子を討った後、リヴレグランを治めるつもりなのか?)


 自分が王になるなんて、考えたこともなかった。国を治める自信だってない。

 では、他人に国を託すのか?


「……あぁ、もう」


 ディアボリカは腰掛けていた寝台から立ち上がった。狭い宿部屋で悶々と自問自答を繰り返していたら、いじけた思考におちいってしまいそうだ。


 窓に四角く切り取られた夜空に見切りをつけて、部屋の扉を押し開ける。そのまま廊下を渡り、裏口から宿の外へ出た。昼間の雨で冷えた空気が、熱を持った頭を冷やしていく。


 裏口から伸びる階段を下り、視界が開ける曲がり角で足を止める。宿場は景観のよい山腹にあるので、少し歩けばすぐにオウマの街が一望できた。飾り気の少ない石造りの家々は、窓からあたたかい橙の灯をこぼしている。それらが寄せ集まって輝くさまは、胸に不思議な郷愁きょうしゅうともした。


 ぼうっと景色を眺めていると、階段を登ってくる人影が見えた。

 白いフードを被り、フードのついた外套を揺らして、こちらに近づいてくるのはアルセンだ。

 しばらくしてディアボリカの視線に気づいた彼は、屈託のない笑みを向けてきた。


「あれ、一人で外出?」

「いや……考えごとをしたくて、夜風にあたりに来た」

「モイラは?」

「宿で寝こけている」

「ああ、昼間すごい勢いで街を駆けずり回ってたもんね、彼女。疲れたのかな」

「そうだと思う。このまま朝まで寝かせるつもりだ」


 モイラは、ヘドリックと戦う意志を変えないディアボリカを見て、外傷の手当てに優れた医師や、良く効く傷薬、創傷や骨折の応急処置について書かれた書物などを探しに、オウマじゅうを走り回っていた。ありがたいと思う反面、心配をかけて申し訳ないとも思う。


「そっちは?」


 ディアボリカが話の水を向けると、アルセンは手に持っていた蝋引き紙の袋を掲げてみせた。


「小腹が空いたから、何か食べようと思って露店で買ってきた。ディアも食べる?」


 そう言ってアルセンが袋から取り出したのは、黒パンにチーズと黒すぐりのジャムを挟んだカスクルートだった。ルサールカの雪解の祭で、モイラと食べたものと同じカスクルートだ。


 ──ディアボリカがあれを食べていたとき、ノクイエは夜襲を受けていたのだろう。


 その考えがよぎると同時に、まなうらに炎の幻影が躍った。吐き気がこみあげ、ディアボリカは手で口を押さえる。


「ディア?」


 アルセンが小首を傾げる。顔をそむけてカスクルートを見ないようにしながら、ディアボリカは「いらない」と声を絞りだした。


「具合でも悪い? 大丈夫?」

「平気だ。すぐに収まる」


 胸もとを押さえて呼吸を乱すディアボリカを心配そうに見ながら、けれど彼はそれ以上何も聞かなかった。黙って階段に腰掛ける。


「ここから見るオウマは絶景だね。よかったら隣どう? 食べ物の匂いが平気ならだけど」


 そんな軽い調子で、アルセンは階段をぽんと叩いてみせた。

 ……こんなとき、事情を根掘り葉掘り聞いてこない、彼のさっぱりとした気性がありがたかった。ディアボリカはこくんと頷いて、アルセンから少し離れた段差に腰を下ろした。


 彼は黙ってカスクルートを咀嚼そしゃくする。

 ディアボリカも無言で、街の灯りを見下ろした。


 やがてカスクルートを食べ終わったアルセンは、袋をくしゃりと握りつぶした。


「……考えごとって、ヘドリックとの試合について?」


 まるで天気を尋ねるような軽い口調で問われる。

 オウマの街の灯りを見つめたまま、ディアボリカは「ああ」と返事をした。


「あれからずっと考えている。私はリヴレグランをどうしたいのか。私が出した答えを、剣で勝てるはずのないヘドリックに、どう示せばいいのか」

「そっか」


 アルセンは何も聞かない。心地よい沈黙に、胸のうちを話すことを許された気がして、ディアボリカは再び口を割った。


「ずっとセシル王子に復讐することだけを考えていた。その先のことなんて考えていなかった。でも、考えなければいけなかったんだ。私はリヴレグランの魔姫なのだから」


 ヘドリックの問いかけに、自分の未熟さを痛感した。


「私は私情でしかものを考えていなかった。王族失格だ」


 唇を噛みしめ、拳を握る。涙だけはこぼすまいと、まなじりに力を込める。


 沈黙が落ちた。やわらかな夜風がディアボリカの頬を撫でていく。熱をうばってくれる風の冷たさが、まるで慰めのように感じられた。


 ふいに、やわらかなアルセンの声が響く。


「……じゃあ今のディアは、リヴレグランに何を望むの?」


 彼の問いに、瞳をぱちぱちとまたたかせる。

 ディアボリカがリヴレグランをどうしたいのかではなく、ディアボリカはリヴレグランに何を望むのか。思ってもいなかった問いかけに、ディアボリカは思わずアルセンを見た。


 彼は、月あかりのような優しい笑みを浮かべていた。フードの下に隠れた金の髪が月光に輝いている。ディアボリカはその光を見つめながら、硬く結んでいた唇を、そっとほどいた。


「──なくなってほしくない」


 飾り気のない、素直な気持ちが口をつく。


「私の父が、私の一族が護り、育ててきた、大切な国だ。私が生まれ育った土地だ。なくなってほしくない。許されるなら、今度は私の手で護っていきたい」


 でも、と言葉を継いで、ディアボリカはうつむいた。


「私は王足りえない。魔姫はエタンセルに嫁ぐと決まっていたから、私は兄のように帝王学や政治について学んでこなかった。私に王たる資格はない。こんな気持ちだけでは、何もできやしない……」

「けど、気持ちはあるんだね」


 アルセンがつぶやく。彼が何を言いたいのかよく分からなくて、首を傾げる。


「ディアはリヴレグランの王になる気があるんだね、ってこと」


 そう言って、アルセンは眉を下げて笑った。


 ディアボリカは目を見開いた。

 彼は、自分すら見失いかけていた本心をすくい取って、目の前に差し出してくれている。


「し……しかし、気持ちだけでは駄目だろう」

「そうかもしれない。でもさ、そもそも王になる気がないのなら、どんなに優れた人だって王足りえないよ。それに、何も今すぐ王になるわけじゃない。知識が足りないのならこれから学べばいいし、ディアがそのつもりなら、あなたの仲間は力を惜しまずに協力すると思うよ。それに……」


 アルセンが夜景に視線を移す。彼の水色の瞳の下部が、街の灯りを映して薄い橙に染まる。水色から橙へ移り変わる色合いは、まるで夜明けの空のようだ。


「……おれは、あなたなら王になれると思う。ルサールカでの一件を見てそう思った。おれに言ったよね。村人を殺すなって。国をつくるのは民だ、民を護らず何が王族か、って。あのとき村人達は、たしかにあなたの言葉に心動かされていた」


 彼は夜明け色の瞳を細めて微笑んだ。


「ディアならきっと、いい王になれる」


 息が詰まって胸が苦しい。

 ディアボリカは何か言おうとして口を開いた。けれど何を言えばいいのか分からなくなって、そっと吐息だけを外へ逃がした。


 ──なれるだろうか。ディアボリカは自らに問いかける。

 私は、父王のような王になれるだろうか。


 言葉では言い表せない気持ちでいっぱいになった苦しさをごまかそうと、ディアボリカは薄く笑って視線を夜景に逃す。


「……私は、君に信用されていないと思ってた」

「え? なんで。あなたは命の恩人だって、しょっちゅう言ってたはずだよ?」

「だって、いろいろ聞いてもはぐらかされてたから」

「あー……。うーん、それはちょっとした事情があって……。それについてはおいおい話すよ。とにかく、まだ言えないことはいろいろあるけど、おれはディアのこと信頼してるから。それだけは信じてほしい」


 あやふやな言い分で申し訳ないけど、と情けない顔をして言うアルセンを見て、ディアボリカは笑みを漏らした。


「分かった。私もアルセンを信じる」


 彼を見つめて言い切る。

 するとアルセンは目をまるくしてディアボリカを見て、それからあわてて視線を泳がせた。


「あ、うん。ありがと」

「……なんだか返事が軽いな。私の言葉が信じられないか?」

「そんなことないってば。おれの口調が軽いのはいつものことだろ」

「言われてみれば……それもそうか」

「うわぁ、納得されると、それはそれで複雑だなあ」


 軽いやりとりが夜の空気に溶けていく。

 なんだか彼の隣が、とても居心地よく感じられた。


「……ね、ディアのお父さんって、どんな人だったの」


 アルセンの囁きが耳に心地よい。ディアボリカは瞼を閉じて唇を開いた。


「とても立派な王だった。家臣の言葉ひとつひとつに耳を傾け、いつも国を良くするために動いていた。そんな父王のすがたに、みな夢を見ていたんだ。この王になら身を差し出してもいいと思っている忠義者が、彼のまわりにはたくさんいた。私もそのひとりだ。王が父であることが誇らしかった。兄も同じように思っていただろう」


 まなうらに、父の忠臣を思い浮かべる。知恵ものの大臣、力自慢の騎士団長。そうだ、過去を遡れば、黒竜もリヴレグラン王と血の盟約を交わしていたのだ。


 そこまで考えて──ディアボリカは、はっと息を飲んだ。


(王より強いものは大勢いた)


 知恵でも力でも、生物のくらいという意味でも、王より優れた者は、たくさんいたのだ。それなのに、王は彼らの上に立ち、彼らもまた王に仕えていた。

 それはなぜなのか。

 王とは、何なのか。


「ディア?」


 アルセンが顔を覗きこんでくる。


 今、ディアボリカの脳裏には、ほそい蜘蛛の糸のような天啓が閃いていた。

 この糸を信じて掴んで登ったら、望むところへ行けるのだろうか。今はまだ分からない。でも、賭けてみる価値はあると、そう思える。


 ディアボリカは唇を引き締めて、隣に座るアルセンを見た。


「……アルセン、私の望みを聞いてくれるか」


 この案を実現するには、彼の助力が必要だ。

 望んでも叶わないかもしれない。失敗したとき、いっそ手を伸ばさなければ良かったと悔やむ可能性だってある。そのことを考えると怖かった。──でも、それでも。


 真剣なまなざしを向けるディアボリカを目の前にして、アルセンはまなじりをやわらげた。

 彼は胸に手を当てて、完璧な微笑みを浮かべてみせる。

 そうして、彼はこう応えた。


「君が望むのなら、如何様いかようにでも」

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