二章

第5話 死神と邂逅

「ディアボリカ様……」


 名前を呼ばれた。ひどく心許こころもとない声だった。返事をしようにも、まるで水面にゆらゆらと浮いているように、身体に力が入らない。


「ディアボリカ様」


 二度目の呼びかけ。モイラが顔を覗きこんできた。それでやっと、どうやら自分は、仰向けに寝ているらしいと分かる。馴染みのない天井が、彼女の背後に遠くに映っていた。


「ここは……」

「ルサールカの村長の家です。ディアボリカ様、村に着くなり気を失われたんですよ……」


 水の音がして、しぼった清拭布せいしきふひたいの汗をぬぐわれる。ディアボリカはぼんやりとされるがままになりながら「ターニャは?」と尋ねた。


「まだ寝ているのか……? 雪解の祭は楽しかったが、そろそろ城に戻らないと。父上も兄上もミリも、私の帰りを待ってくれている……」

「……っ!」


 モイラの顔が歪んだ。


「ディアボリカ様……っ、ノクイエと、黒城は、もう……」


 嗚咽でモイラの声が潰れていく。ディアボリカは唇をほどき、小さな吐息を落とした。


「……あぁ、そうか…………」


 あれは悪夢ではなかったのだ。

 父と兄はエタンセルの王子セシルに討ち取られ、リヴレグランは壊滅した。首都ノクイエは間もなくエタンセルに占領されるだろう。


 ターニャをはじめとする乙女騎士達は、南に発つディアボリカに追従しようとした。けれどディアボリカは、それを断った。城を護るために駆り出された男達の多くが、怪我をしたり、帰らぬ人となってしまったからだ。


 王が崩御した今、騎士団は崩壊した。乙女達は、残された家族を護ることを優先すべきだ。たとえエタンセルに下ることになっても……。


 ディアボリカは乙女騎士達に、ここに残れと、最後の命を下した。

 けれど、みなしごのモイラだけは、その命令を聞かなかった。


「大丈夫です、ディアボリカ様。モイラがお側にいます」


 モイラが、ディアボリカの手を握りしめる。

 ディアボリカはぼんやりと、別れ際のターニャの顔を思い出す。ターニャもまた、ディアボリカの手を握りしめて、何かに耐えるように笑っていた。


 ──どうぞご無事で。

 ──必要とあらば、すぐにでも馳せ参じます。私達は貴女に剣を捧げた騎士なのですから。


 最後まで忠誠を尽くそうとするターニャとの別れ際、自分はどんな言葉を掛けただろうか。彼女の心残りにならないよう、うまく笑えただろうか。あのときの自分の振る舞いは、霧に包まれたように曖昧で、正確に思い出せない。


 ディアボリカが目覚めたと聞いて、ルサールカの村長がやってきた。寝台から身体を起こそうとすると、どうかそのままで、と手で制される。


「お話は侍女殿からお聞きしました。ここは僻地へきちの村ですので、エタンセルの手が伸びるのはずっと後になるでしょう。良き判断をなさいましたな。我々のことはお気になさらず、今はしっかりと、心と身体を休めてください」

「……ありがとう。ご親切、痛み入る」


 なんとか礼を口にしたものの、自分が自分でないような心地がする。


 その後、モイラが麦粥を準備してくれたが、砂を噛んでいるように味がせず、飲み下すのにも難儀した。結局ほとんど口をつけずに、気を失うように、また眠る。眠りの世界に、ディアボリカを傷つけるものは何もない。

 ──けれど、夢のなかでも、紅蓮の炎は逆巻いた。


「……っ!」


 たまらず寝台から跳ね起きる。心臓が早鐘を打ち、嫌な汗が頬を伝った。自分の荒い呼吸を聞きながら、胸もとで硬く手を握る。


 部屋は闇に沈んでいた。隣の寝台で、モイラが規則正しい寝息を立てている。

 彼女を起こさなかったことに、ほっと安堵の息をつく。かいがいしくディアボリカの世話を焼いてくれたけれど、モイラだって消耗しているはずだ。


 またあの惨劇の夢を見るかもしれないと思うと、再び眠る気にはなれなかった。よろめく身体を起こして、夜着のままそっと部屋を出る。


 夜更けのルサールカは静かだった。どの家も灯りが落ちている。

 村長の家を出て、そのまま村の境を越える。下草がさらさらと風になびき、ディアボリカの素足をくすぐった。靴を履き忘れたことに気づいたが、そんなことはすぐにどうでもよくなる。


 小さな虫の音に誘われるように、裸足で野へ分け入り、森へと足を踏み入れる。やがて小さな渓流にたどり着いた。この川は魔光夜蟲まこうやちゅうの住処らしく、水底が青く輝いている。ディアボリカは、幻想的な光をぼうっと眺めた。


 ……ふと、金に輝くものが視界に映る。


(金色の光を放つ魔光夜蟲など、いただろうか……)


 不思議に思いながら、金色が灯る川岸へと足を向ける。


 川岸には、青年がうつ伏せに倒れていた。金色の光の正体は、魔光夜蟲と月の光を受けて輝く、青年の金の髪だった。


(遭難して流されてきたのか?)


 青年の側に寄る。青年は全身ずぶ濡れで意識を失っており、呼吸も浅い。


(めずらしい色の髪だな)


 魔族は、そのほとんどが濃い髪色をしている。王族はみな黒髪だし、モイラの薄紅の髪ですら色素が薄い方だ。金の髪を持つ人を見るのは、ディアボリカにとって生まれて初めてだった。


 金の髪に見惚みとれる自分に気づいて、ディアボリカはかぶりを振る。心が少しでも良い方にかたむこうとすると、強い罪悪感が沸き起こった。

 唇を引き結び、とりあえずこの青年が呼吸がしやすいように、仰向けに身体をひっくり返そうとする。彼が身にまとった白い外套、白い衣服は厚みのある旅装で、水を吸って重くなってしまっていた。


「……っ」


 さっきまでせっていたので身体に力が入らない。なんとか腕に力を込めて、青年の身体を反転させる。勢いあまって、ディアボリカも一緒に倒れてしまった。


 息を乱しながら起き上がると、すぐ側に青年の顔が見えた。年のころはディアボリカと同じくらいだろうか。男にしては色白で、端正な顔立ちをしている。固く閉じられた瞼は、金の睫毛に縁取られていた。


 ディアボリカは、ハッと息を飲んだ。

 魔族の特徴である、とがった耳が見当たらない。


(まさか……)


 いそいで濡れた金髪を掻き分けると、耳介じかいがまるい耳が覗いた。


(人間……!?)


 胃の底が焦げつくように熱くなり、まなうらに炎が踊る。

 黒髪がちりちりと逆立つような、激しい衝動が沸き上がった。


(──エタンセルの人間か)


 頭が真っ白になり、青年の首に手が伸びる。水で冷え切ってはいるものの、人肌の体温と、皮膚の下で脈打つ鼓動が伝わってきた。

 ……冷たくなった父と兄には、もう永遠に戻らないものだ。


 くっ、と指に力がこもる。ディアボリカはまばたき一つせず、青年の首に手をかける自分の指先を見つめた。


「うぅ、ん」


 青年がうめく。

 そろそろと金の睫毛が持ち上がり、青年の瞳がディアボリカをとらえた。澄んだ、春の空のような、明るい水色の瞳に見つめられる。

 青年は、覆い被さるディアボリカをしばらく眺めると、唇を開いた。


「……おれを殺すの?」


 澄んだ声音。その声に、息を飲む。


「あ……」


 ディアボリカは口を開き、閉じて、意味を持たない音を落とした。


(──殺そうとしているのか? 私は、この男を……)

「君は死神かい?」

「っ!?」

「黒髪なんて、初めて見たから」


 彼は手を持ち上げて、ディアボリカの黒髪に触れた。触られて、びくりと身がすくむ。そんなディアボリカの様子に構わず、彼は指で黒髪をゆっくりといた。


「きれいだね」


 金髪を初めて見たディアボリカが思ったことと同じことを、青年は口にした。

 ディアボリカは凍りついたように動けなくなった。


「綺麗な死神さん」


 青年はそうディアボリカに呼びかけて、困ったように眉を下げて、笑う。


「殺されるなら、あなたみたいな人がいいけど、おれ、まだ死にたくないなぁ」


 そこまで言うと、青年は眠りに飲まれるように、気を失った。


 ディアボリカは青年を見下ろした。渓流の流れる音と、かすかな虫の音だけが耳に届く。

 やがて、青年の首にかけた手から伝わる鼓動が、ひどく弱々しいものになっていった。


(死にたくない……)


 ──生きよ。


 青年の言葉を心のなかで反芻はんすうすると、父の残した言葉が脳裏によみがえった。


 その言葉をきっかけに、ノクイエの惨劇がディアボリカの眼前に広がった。廃墟のような街に、瓦解した城、転がるしかばね……。血だまりをつくり、眼を見開き、断末魔の顔で息絶えていた、かつて黒城で暮らしを共にした者たち。

 ディアボリカの心に、雷鳴がとどろく。


(この男は死なせない……!!)


 彼の腕を掴み、自身の肩に渡し、彼を支えながら身を起こそうと、足に力を込める。


「んぅ……っ!」


 意識のない人間は砂袋のように重い。がくがくと足が震える。自分を叱咤しったして、渾身の力を込めて、彼を抱えたまま起き上がる。


「はぁっ……はぁっ……」


 荒い息を吐きながら、震える足を一歩前に踏み出す。ずっ、と青年を引きる重みが全身にかかった。今にも膝を折ってしまいそうだ。けれどディアボリカは震える唇を引き結び、次の一歩を踏み出した。


 体が熱い。頭が熱に浮かされたように朦朧もうろうとしている。それなのに、頭の芯は刃物のように鋭く冷たく、冴え渡る。

 ディアボリカは今、ただひとつの目的に突き動かされていた。


(この男は、死なせない)


 足を滑らせて転ぶ。泥だらけになりながら、歯を食いしばって起き上がる。

 這うようにルサールカに戻ると、村の周辺を見回っていたモイラが駆け寄ってきた。


「ディアボリカ様!? どこに行っていたんですか! ああ、泥まみれ! それに、その男は……」

「手を貸してくれないか、モイラ。村長の家の寝台に運ぶ」

「えっ……は、はいっ」


 二人で青年の両脇を支えて、村長の家に転がり込む。さきほどまでディアボリカが使っていた寝台に青年を寝かせ、湯を沸かし、湯に浸した清拭布を当てて、冷えた身体を暖める。


 しばらくそうしていると、体温は戻り、呼吸も安定したが、代わりに今度は熱が出た。水で冷やした清拭布をひたいにあてる。清拭布がぬるくなったら、冷水に浸けて、絞り、また青年のひたいに当てて冷やす。


 ──私は何をしているんだ。


 冴え冴えとした意識が、ディアボリカに語り掛けてくる。


 ──父と兄の、ノクイエの皆のかたきかもしれない者を、どうして生かそうとしているんだ。


 自分で自分が分からなかった。身体の熱が、ディアボリカを突き動かす。


 今も腹の底で血潮を湧かせる熱のかたまり。どろどろと溶岩のように、熱い血が身体を駆けめぐっている。

 冷静な意識は、熱の正体を知っていた。その正体を認めたくなくて、唇を噛みしめる。けれど、そんなことをしても無駄だった。この気持ちは消えやしない。


 あぁ、と熱い吐息が落ちた。


(……こんな醜い感情が私のなかに眠っていたなんて)


 その熱は、怒りだった。

 ぼろきれのようになって死んだ父。血だまりのなか絶命した兄。痛みと絶望を抱えて力尽きたであろう同胞はらから。あのような惨劇を引き起こした者たちへの、怒りだ。

 そして、身代わりになったミリを助けることすらできない、無力な己への怒りだ。


 ディアボリカは、眠る青年の頬をそっと撫でた。

 熱い身体。彼の肉体は今、戦っている。生きるために。


(もしこの男が皆のかたきなら、私の手で殺してやる。今、こんな風に楽に死なせてなるものか)


 清拭布を堅く絞り、男のひたいに乗せる。

 ディアボリカは、瞼に隠されたを見透かすように、青年に熱いまなざしを注いだ。


(はやく、目を覚ませ)

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