第3話 雪解の祭と恋心

 その後、儀式はつつがなく終わった。一行は竜の墓守の邸宅にひと晩世話になり、翌日の朝に北に戻るために出立する。


 首都ノクイエから竜の墓までの旅路は直路だったが、帰路に選んだのは大きく迂回うかいする道だ。黒い森を避けて回り込むように歩き続けると、黄昏時には遠目にあたたかなあかりが見えるようになる。ルサールカの村の、祭の灯りだ。


「わぁ、ランタンがいっぱいですっ!」


 橙の灯りを目指して馬を急がせるモイラのあとを、ディアボリカも追う。


 ルサールカでは、樹木のあいだに紐を張って、ランタンをいくつも吊り下げていた。群青色に暮れた空に、あたたかな橙の灯が溶けあうさまは、まるで天国にまぎれ込んだかのように幻想的だ。村の中央では楽団が音楽を奏でていて、楽団の周りで村人たちが踊っている。


 村の手前で馬を降り、ディアボリカ率いる乙女騎士の一行は、ルサールカの村長を訪ねた。あらかじめ城から通達があったらしく、村長はこころよくディアボリカ達を迎え入れてくれた。小さな村の祭ではあるが、心ゆくまで楽しんでほしいと、言葉をかけてくれる。


 挨拶を済ませてしまえば、堅苦しいやりとりは終わりだ。乙女騎士たちは甲冑を脱ぎ、歓声を上げて、祭の輪へと身を投じる。


 部下を見送るそぶりをしつつ、にぎやかな祭に瞳を輝かせるターニャを見て、ディアボリカはそっと彼女の背を押した。


「ほら、ターニャも行ってくるといい。私のことは気にしなくていい」

「し、しかし、ディアボリカ様をおひとりにする訳には……」

「あたしが一緒だから大丈夫だってば。ほら、行って行って!」


 モイラもターニャの背をぐいぐいと押す。ターニャは最後まで気遣わし気にディアボリカを見ていたが、有無を言わさぬ微笑を前にして「では、すこしだけ……」と、祭りの喧騒に吸いこまれていった。


「せっかくの機会だ、モイラも混ざってくるといい」

「あたしはディアボリカ様とご一緒に、お祭りを見てまわりたいんですっ! いいですよね?」


 手を取られて祭の輪へと引っ張られる。ディアボリカは眉を下げて苦笑した。


 初めて見るルサールカの雪解の祭は、星が墜ちてきたようにまぶしくて賑やかだった。ディアボリカとモイラは楽団と踊り手たちを眺め、あちこちに立っている出店を見てまわった。出店には、冬のあいだに村人たちが作った蜜蠟みつろうや木彫り細工、寒仕込みの果実酒、つぐみの肉を炙った串焼き、黒パンにチーズと黒すぐりのジャムを挟んだカスクルートなどが売られている。


 香ばしい匂いにつられて出店の前に立ち、食べ物を仕上げて客に渡す店主の手さばきを眺めていると、モイラに顔を覗きこまれた。


「欲しいものがあれば言ってくださいね! 軍資金はばっちりなんで!」


 懐から小さな革袋を出して、得意気な顔でディアボリカの前に掲げてみせる。

 ディアボリカはぱちぱちとまばたきした。モイラが持っているのは、出立前に兄が手渡していた革袋だ。


「兄が資金を出してくれたのか?」

「えっなんで知って……あっ」


 モイラがあわてて口をつぐんだが、もう遅い。彼女は眉をひそめて、悔しげにうなった。


「うぅ……ヴラド様に、ディアボリカ様には秘密だって言われてたのにぃ」

「え、あ、す、すまない。君が兄と話しているのを、うっかり見てしまって」

「ディアボリカ様は悪くないです……。得意気に革袋を見せずに、黙ってこっそり頂いたお金を使ってれば、ばれなかったんですから。そう、これはあたしの失態……」


 どんよりとした顔で下を向くモイラを見て、ディアボリカは声を張り上げた。


「さっきのは聞かなかったことにしよう! 私は何も知らない! そうだろうモイラ!」


 あわてて彼女の手を取り「カスクルートが食べたい!」と出店を指さす。


 ヴラドが持たせてくれたお金でカスクルートをふたつ買い、ひとつをモイラに手渡す。落ち込んでいた彼女はしかし、カスクルートをひとくち食べると、たちまち瞳を輝かせた。モイラが単純で良かったと、ディアボリカはそっと安堵の吐息を漏らす。


 それからディアボリカは木彫り細工の店で、黒竜をかたどったブローチをふたつ買った。店主に頼んで、ひとつずつ綺麗に包んでもらう。

 モイラが革袋から代金を出そうとするのを「これはいいんだ」と制した。


「私も少しばかりだが持ってきた。これは私が払いたい」

「……王様とヴラド様への贈り物ですか?」

「うん。父上と兄上にも、ルサールカの祭の熱を感じてもらいたいんだ」


 ディアボリカはあたりを見回した。出店で客を呼ぼうと声を張り上げる者、串焼きを頬張る者、酒に顔を赤らめる者、楽団の音楽に合わせて足踏みをする者……皆、笑顔を浮かべている。長い冬を乗り越えて春を迎えた喜びを全身で表し、雪解の祭を謳歌している。


 リヴレグランの風土は厳しい。短い春、刹那の夏、片時の秋、そして──とこしえの冬。一年の大半が雪に閉ざされたこの国では作物が育ちにくく、小さな村や街は食べ物にすら困ることも多い。また冬期には交通網が麻痺するので、国内の物流が滞る。


 魔王と呼ばれたかつてのリヴレグラン王が、エタンセルの地の攻略に乗り出したのも、そういった魔族たちの貧しい暮らしをうれいてのことだろう。雪の降らない大地を手中に収めることができれば、極北に住む者たちも飢えずに済むのだから。


 木彫り細工の店をあとにした二人は、瓶詰めジャムの店で黒すぐりのジャムを買った。カスクルートがあまりに美味だったので、ミリにも食べさせたい、それならジャムを土産にしようと、話が盛り上がったのだ。道中で瓶が割れないよう、しっかりと布を巻いて梱包してもらう。


 最後にモイラは、ディアボリカが買ったところと同じ店でブローチを買った。彼女も、ヴラドが渡した革袋とは別の袋から、細工の代金を払っていた。


 腹も満たされ、祭の熱気を堪能した二人は、村の外れの野原に腰を落ち着ける。地面に座ると、潰れた草の青臭い匂いが弾けた。楽団の音楽は遠く、虫の音が近くに感じられる。


 夜が深まってきた。群青が山のに落ちて、墨色の闇が空を覆う。空には粉砂糖のような星々が、ちらちらとまたたきはじめている。


「あのぅ……ディアボリカ様」


 祭の光景を遠目に眺めていると、隣に座ったモイラがおずおずと声をかけてきた。


「その……改めて、ですけど。ひとつ聞いてもいいですか……?」

「どうした、めずらしく歯切れが悪い。いいよ、言ってごらん」


  安請け合いしたにも関わらず、いつもおしゃべりなモイラは黙っていた。手を組んで、もじもじと指先を合わせながら、やっと口を開く。


「えっと、エタンセルの王子とのご結婚、ほんとうはお嫌、だったりします……?」


 ディアボリカは小さく息を飲んだ。モイラが矢継ぎ早に言葉を重ねる。


「その、あの、竜の墓で、ディアボリカ様、涙をこぼしてらっしゃったじゃないですか。いつも気高くてお優しくて、あたしたちに心配かけまいと、人前で気弱なふるまいをなさらないディアボリカ様が泣かれるなんて……。もしかしたらあの儀式で、いよいよ婚姻が間近に迫ったことを実感されて、それでこう、ぽろっと本当の気持ちが涙になってこぼれちゃったのかな、なんて」

「あ……あれは……」


 泣いたことを持ち出されて、ディアボリカの頬が熱くなる。


 結局、竜の墓で見たあれは白昼夢だったのだろうか。何も分からないけれど、竜の幻を見て、強い負の感情が流れ込んできたことなどを話したら、ますますモイラを心配させてしまう。結局ディアボリカは「そうじゃないんだ」と否定するに留めた。


 モイラはまだ心配そうにディアボリカを見ている。


 ──明るくて心優しいモイラ。

 城付きの侍女である彼女と共にいられるのは、あとどのくらいなのだろう。


「その……不安……じゃないと言えば噓になる」


 ディアボリカは黒竜の話を避けるかわりに、そっとモイラに打ち明けた。


「不安だけれど……でも、私はこの婚姻が嫌だとは思ってないんだ。エタンセルの王子のセシル殿のことは、顔すら存じ上げないけれど、たいそう優秀な方だと聞いている。なんでも勇者のすえとして初めて、眠りについた聖剣を抜かれたのだとか。セシル殿は、エタンセルでは勇者の再来と讃えられているらしい」


 モイラの口から感嘆が漏れる。ディアボリカは続けた。


「そんな立派な王子のもとに嫁いで、エタンセルのきさきとして、国を盛り立てていけるんだ。たとえ盟約によるしきたりであろうと、不服などあるはずもない」


 父や兄と離れて、風習のまったく異なる国にひとりで行くのは、心細い。しかしディアボリカは魔姫だ。豊かとはいえないリヴレグランの国状を考えると、たとえ盟約がなくとも、リヴレグランの外に嫁ぐのは必定だろう。


「魔姫がエタンセルに嫁げば、リヴレグランとエタンセル、二国の安寧は保たれる。二国のかすがいになれるなら、それは私にとって至上の喜びだ」


 そこで言葉を切り、ディアボリカは唇を引き結ぶ。

 ちらとモイラに視線をやると、彼女はこちらに真摯なまなざしを向けていた。


「まだ何か抱えてらっしゃいますよね」

「そ、そんなことは……」

「お祭りは無礼講だと聞いています。この際です、全部あたしに吐き出しちゃってください」


 モイラに顔を覗きこまれて、ディアボリカは視線を落とした。知らず掴むものを探していた手が服の裾に触れる。ぎゅっと固く、裾を握りしめる。

 観念するように、ディアボリカは大きく息を継いだ。


「……………その。モイラ。君は……恋をしたことがあるか?」

「……ひぇっ!?」


 素っ頓狂な声が上がった。たちまちモイラの顔が真っ赤になる。


「え、あ、そ、そんなそんな! そんな! 恋なんてあたしには百年早いですっ!」

「君は兄上に懸想けそうしているんじゃないのか……?」


 旅立ち前に中庭で見た、熟れた林檎のようなモイラの頬を思い出しながら、ディアボリカはおそるおそる尋ねた。モイラは目をまんまるにして、ぶんぶんと首を横に振る。


「あ、あれは単なる憧れというか! ヴラド様のことは、遠目から見ているだけで、いっぱいいっぱいなんです!! それなのに突然距離を詰められて、びっくりしたというか、その……」


 語尾が小さくなって消えていく。

 羞恥で小さくなるモイラを目の当たりにして、ディアボリカはうつむいた。


「──すまない。君の心に、勝手に踏み込むような真似をしたな」

「いえいえっ! むしろ、誤解が解けてよかったです……」


 頬に貼りついた青い束髪をいじりながら、モイラは小さくつぶやいた。


 虫の音が幾重にも重なって、二人のあいだの沈黙を埋める。ディアボリカは再び口を開いた。


「………その、な。婚姻自体は嫌じゃないんだ。ただ……」


 こぶしを握って、喉に絡まった言葉を外へと押し出す。


「せ、セシル王子のことを好きになれるか、分からなくて」


 モイラが顔を上げて、こちらを見る気配がした。今顔を合わせたら、言葉が出てこなくなる気がして、前を向いたまま唇を動かす。


「私も、恋を知らない。恋がどんなものなのか、分からない。立派な方だというセシル殿に、私はちゃんと恋できるだろうか。もし……もし、セシル殿を好きになれなかったらと思うと、すこし怖いんだ」


 ディアボリカはモイラの顔を見れないまま、村の方へと視線を投げた。

 最高潮を迎えた楽団の熱の余波が、遠い野原にも伝播でんぱする。カンテラの橙の灯りがゆらゆらと揺れて、モイラとディアボリカの影を長く、陽炎のように波打たせる。


 おもむろにモイラがポケットを探り、手に握りしめたものをディアボリカの手のひらに押しつけてきた。首をかしげながら、そっと指を開いてみる。そこには、春を告げるマクアの花をかたどった、木彫りの白いブローチがあった。

 顔を上げてモイラを見ると、モイラは「えへへ」と相好を崩す。


「さっき買ったブローチです。実はこれ、ディアボリカ様に差し上げたかったんです。春の巡礼のこと、ルサールカのお祭りを一緒に楽しんだこと、ずうっと覚えていてほしくて」

「でも、これは……君が自分の小遣いで買ったものだ。君が持っているべきじゃないか」


 リヴレグランが豊かな国でないことも相まって、侍女の給金はそんなに多くない。身体を清潔に保つための消耗品や衣服の洗い替え、毎日の食事にあてるお金を除けば、小遣いとして使える額は微々たるものだ。

 けれどモイラは、ディアボリカにふるふると首を振ってみせる。


「あたしはこの旅のことは絶対に忘れませんから、いいんです。なんたってあたし、みなしごのあたしを侍女として引き立ててくださった、ディアボリカ様のことが大好きですもん」


 ディアボリカは目を見開いた。

 モイラは構わず「きっと、そういうことだと思うんです」と言う。


「恋でも、恋じゃなくても、誰かを大切に思う気持ちがあると、嬉しくなります。その人のためなら、たくさん頑張れる。ディアボリカ様も、王様やヴラド様のことが大好きですよね。たとえそれが、恋じゃなくても」


 戸惑いながらうなずくと、モイラは八重歯を見せて、にこっと笑った。


「だから、セシル様のことを立派だと思えたら、きっと大丈夫です」


 ──たとえ、恋に落ちなくても。


 ディアボリカはうつむいて、そろそろとブローチに指を這わせた。白木のマクアの花は乾いていて、ほのかなあたたかみが指先に伝わってくる。


「大切にする」


 ディアボリカは喉に力を込めた。


「エタンセルに嫁いでも、このブローチは大切にする。君のことも、忘れない」


 顔を上げる。吐息とともに、こわばっていた頬の力を抜く。


「モイラ……ありがとう」

「……はいっ!」


 モイラは嬉しそうに目を細めた。


 二人、微笑みを交わし、夜空を見上げる。満天の星が散りばめられた天幕は、ルサールカの上にも、ノクイエや黒城にも、遠くエタンセルの頭上にも、どこまでも覆い被さっているに違いない。

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