第11話 活動開始

 リュドミラの脱獄から10日間が過ぎた。その間、大きな変事は起こっていない。

 ゲオルギイの命令は全てその言葉通りに実施されたが、近衛騎士たちの必死の捜索にも関わらずリュドミラの行方はようとして知れなかった。

 だが、脱獄したリュドミラが何らかの行動を起こす事もなかった。


 リュドミラの脱獄に関しては、当然緘口令が布かれた。

 それでも、近衛騎士らの行動からリュドミラの脱獄を推測する者もいた。しかし、リュドミラが何の動きも見せないため判断に迷い、具体的な行動に移る者はまだいなかった。

 未だ王都スコビアは異様な緊張を孕んだまま、膠着している。そして、その状況はオルシアル王国全体を見ても変わりなかった。

 しかし、その日、動きは始まった。




 王都スコビアのリシュコフ公爵邸。いや、今やそれは旧リシュコフ公爵邸というべきだろう。既に王国政府に接収されているからだ。そして現在、その屋敷はリシュコフ公爵家を裏切った元使用人ドナートに、褒美として実質的に下げ渡されていた。

 ドナートは、ただジュリアン王太子に付き従っただけではなく、リシュコフ公爵家の情報を王国政府に流すなどの行為も行っておりそれが評価されたのである。


 当然、リシュコフ公爵に仕えていた者達は何からの形で全て屋敷を去り、代わりにドナートが新たに雇った使用人達が働いている。そして、屋敷の主といえるのはドナートとその幼い妹のジェシカだけだ。

 ジェシカはまだ8歳で、兄と同じ亜麻色の髪を長く伸ばしたとても可愛らしい少女だ。

 今まで、リシュコフ公爵家の者達や使用人も皆、そんなジェシカを可愛がっていた。


 しかし、今のジェシカは憂鬱だった。自分に良くしてくれていた公爵家の者達や使用人は誰もいなくなってしまい、新しく雇われた使用人にはまだ馴染めない。というよりも、その使用人たちはかなり露骨にジェシカから距離をとっている。

 幼いジェシカに詳しい事情を説明する者はいなかったが、それでもジェシカは異変を感じ取り不安を感じてもいた。

 その上、最近は兄のドナートも帰って来るのは夜遅く、時には帰れない日もあるなど、殆んどジェシカに構えなくなっている。


 今もジェシカは1人で屋敷の庭にいた。屋敷の中にいるよりはまだしも気が晴れるからだ。

 ―――ジェシカ。

 自分の名が呼ばれたような気がした。ジェシカは回りを見渡した。

 ―――ジェシカ。

 やはり、声が聞こえるような気がする。ジェシカは、その声の主を探して歩き始めた。

 

 そして、屋敷の陰になっている目立たない場所で、その人物を見つけた。

 ジェシカはその名を呼んだ。

「リュドミラ様!」

 それは確かに、リュドミラ・リシュコフだった。


 リュドミラは、ジェシカが見た事がない灰色のローブを着ていた。だが、フードはかぶっておらず、顔は顕になっている。その美しい顔を見間違えるはずがない。

 ジェシカはリュドミラに駆け寄る。

 使用人としては無礼な態度だ。だが、リュドミラは以前からジェシカにそんな態度を許していた。


 リュドミラの近くまで来たジェシカは、一応深く頭を下げ、しかし直ぐに戻して語り始めた。

「リュドミラ様! よかった、ご無事だったんですね。

 お兄様が、もうリュドミラ様に会うことはできない。なんて言うので、心配していたんです。

 公爵様も奥様も、他の皆様もいなくなってしまって。私、何だか分からなくて……」


「そう、あなたはドナートから詳しいことは聞いてはいないのね?」

 リュドミラが問う。

「はい、リュドミラ様にも、他の皆様にも、もう会うことは出来ない。と言われただけです。

 でも、心配する事はない、直ぐに今までよりずっといい生活を送れるようになるから。って、そう言ってくれるだけで……、他には何も……」 


「そうなのね、ドナートは大丈夫かしら? 何か変わった様子はない?」

「最近は、忙しがっていて余り戻って来てくれないんです。戻ってきた時にはとても疲れているようで、心配する必要はないといってくれているんですが、でも、やっぱり心配です」


「そんなに忙しいのに、ジェシカには声をかけているのね。彼は優しい? 彼はあなたにとって良い兄かしら?」

「はい、もちろん」

 ジェシカは即答した。兄はずっと自分に優しくしてくれている。良い兄だ。その事に疑問をさしはさむ余地はない。


「……そう、あなたは今も、ドナートに愛されているのね。とても、嬉しいわ」

 リュドミラはそう言うと優しそうな笑みを見せた。

「はい、ありがとうございます」

 リュドミラの言葉の意味を正確には理解できないジェシカは、ともかくそう答えた。


 リュドミラは笑みを深めてまた告げる。

「ところで、とても奇麗な花を見つけたのよ」

 そしてそう言いつつ、手にしていた一輪の花をジェシカの前に差し出す。それは、大輪の黒い薔薇だった。確かに美しい。


「本当に奇麗ですね」

 ジェシカはそう言って目を輝かす。


「良い香りもするのよ」

 リュドミラにそう言われたジェシカは、その香りを嗅ごうとして、大きく鼻で息を吸った。

 そして、そのまま意識を失った。

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