第7話 脱出と復讐の手始め

 “伝道師”は、近くに置いてあった荷物袋から黒色のローブを取り出した。

 ちなみに、“伝道師”は施術の為の道具などもその荷物袋から取り出していた。その量は普通ならその袋には入らないほどだった。恐らく魔法によって内容量を多くし、重さも感じないようにした魔法の荷物袋なのだろう。拡大された内容量にもよるが、かなりの値打ちものであるはずだ。


 黒いローブを手にした“伝道師”は、リュドミラに告げる。

「このローブには“認識阻害”の魔術がかかっている。羽織るだけでも他人から認識されにくくなる。そなたに貸そう。立てるかな? ご令嬢殿」

「はい」

 リュドミラはそう答えて、ゆっくりと身体を動かした。

 己の足で、自らの意志で立ち上がろうとするのは随分久しぶりだった。リュドミラの足が震える。しかし、彼女はよろける事なく立ち上がった。


 “伝道師”も立ち上がって告げる。

「羽織らせてやろう。後ろを向くといい」

 そして、その言葉に従って背を向けたリュドミラに、前で合わせる形になっているローブを羽織らせて、フードを頭にかぶせる。そして、振り向かせると、今後の事を指示し始めた。


「ご令嬢殿は、そのまま壁際に立って待っていてくれ。それだけで並みの者には気づかれなくなる。

 そうしたら、私が看守を呼んでまずご令嬢殿の手枷を解く。その後、看守の案内で城の外に出るからご令嬢殿は私の後を付いてくるのだ。普通に堂々と歩いていれば誰にも見とがめられる事はない。

 王城から出るには裏門の脇にある通用門を使う。だが、ローブの“認識阻害”だけでは門を守る騎士の目は欺けないかもしれない。だから、この指輪も貸してやろう」


 そして、懐から指輪を取り出してリュドミラに渡す。

「姿隠しの指輪だ。身に付けて消えろと念じれば数分間姿を消せる。門番の近くに行ったらこれを使うといい」

 荷物袋、黒色のローブに続いて、またも魔法の品である。どれも相当に貴重なものだ。個人でこれほどの魔道具を持っているとは、それだけでも普通ではない。

 リュドミラは“伝道師”への関心を一層強めた。だが、改めて問い詰めるようなことはせずに素直に答えた。

「分かりました」

 そして、指輪を受け取る。


「では、始めよう」

 “伝道師”はそう告げると、外に向かって大きめの声をあげた。

「看守殿よ、今日の治療は終わった。こちらに来て確認してくれ」


「ああ、待ってろ」

 そんな返答があり、しばらくして1人の看守がやって来る。後に続く者はいない。通常なら、看守は2人一組で行動しているはずだ。それが1人しかいない。この時点で既に普通ではない。


 看守はリュドミラの牢の鍵を開けると中に入って来た。だが、壁際に立つリュドミラに目もくれない。

 そして、それどころではない異様な事が起こり始める。


「どうだ、大分良くなって来ているだろう?」

 “治療師”がそう言うと、看守は誰も寝ていない毛布の方を見入った。

「そうみたいだな」

 そしてそう答える。


「鍵束は私が預かろう」

「分かった」

 更には、そう言って腰につけていた鍵束を治療師に渡す。無論あり得ない行いだ。


 確かに看守は“伝道師”の言うままに従うようになっている。幻覚を見ているのも間違いない。しかし、その受け答えや立ち居振る舞いだけを見れば特に不自然さはない。

 目がうつろだとか、言葉が棒読みだとか、そういった事はないのである。その事が、“伝道師”の施したという薬と暗示の凄まじさを証明していた。


 “伝道師”は受け取った鍵を使って手早くリュドミラの両手の手枷を外すと、それを床に落とした。甲高い音が響く。だが、看守はそれにも何の反応も示さない。

 “伝道師”が、また看守に声をかけた。


「もう直ぐ全快するだろう。その後まで手を出すなとは言わないが、今度は簡単に壊さないように気を付けるのだな」

「ああ分かっている」

 看守は“伝道師”に顔を向けてそう言うと、また誰もいない床に顔を戻して、ニヤニヤといやらしい笑いを浮かべながら言葉を続けた。


「今度は、やさしく可愛がってやるよ。もう、そんなんじゃあ満足できない身体になっちまってるだろうが、我慢しろよ。へへッ」

 リュドミラがそこに寝ていると思い込んで、その幻覚のリュドミラに語っているのである。


 リュドミラは、両腕で自分を抱きしめ、身体が震えるのを必死にこらえた。看守の台詞は、彼らが行った酷く下劣で恐ろしく凶暴な行いを、リュドミラに思い起こさせていた。

 まともな精神を取り戻したからこそ、その記憶は恐怖と嫌悪を想起させ、リュドミラを打ちのめす耐え難いものとなっている。


 だが、リュドミラは、それだけではなく、全く異なる種類の恐怖も同時に感じていた。

 看守は何もない床に向かって何の迷いもなく普通に話しかけているのだ。それは異常な光景だった。

 看守の口調や目つき、そして立ち居振る舞いは全く普通のものなのに、その目には現実は映っておらず、幻覚の世界に生きている。

 そのような事をなした“伝道師”は、やはり尋常の存在ではない。リュドミラはそう確信した。


「じゃあ付いて来な」

 やがて、看守はそう言うと牢を出た。“伝道師”が続く。リュドミラもそれに従った。

 その後も、全て“伝道師”が言っていた通りになった。

 リュドミラは誰からも見とがめられることなく、門番の騎士も容易く欺いて、あっけなく王城から外に出た。

 時刻はまだ昼前で太陽が燦燦と輝いている。

 

 リュドミラにとって随分と久しぶりの自由の身だった。

 しかし、リュドミラはその事に何の感慨も抱かない。今はこの後すべきことを考えなければならない。いちいち感じ入っている暇はないのだ。


 ところが、王城から出た直ぐ後に“伝道師”は奇妙な事を行った。

「ところで看守殿よ。そなたはこの後時間が空いていたな。偶には食事でも振る舞おう。付いてくるといい」

 と、そんな事を口にしたのである。


「そうか? そりゃあ、ありがたいな」

 看守はごく自然な感じでそう答える。そして本当に“伝道師”の後に続いて歩き始めた。

 リュドミラには“伝道師”の意図が分からなかった。だが、兎も角その後に続いた。




 “伝道師”は特に気負うような様子も見せずに、看守とリュドミラを従えて歩く。

 やがて、“伝道師”はある家に着いた。それは屋敷といえるほどの大きさだったが、人が住んでいる様子は全くなく、見るからに廃屋だった。しかし、“伝道師”は躊躇うことなくその中に入っていく。

 明らかに不自然な状況だが、看守は相変わらず疑う事を知らずにその後に続く。リュドミラもまたそれに従った。


 居間と思われる部屋までやって来た“伝道師”が、古ぼけたソファーを指さして言った。

「看守殿よ、そこで眠っているといい」

 看守はその言葉にも従って、ソファーに座りそのまま本当に眠ってしまった。

 

 リュドミラが堪りかねたように問いを発した。

「何を為さろうというのですか?」

「なに、ご令嬢殿に、軽く復讐の手始めでもさせてやろうと思ってな。

 ここは、私が作業所として使っている建物だ。中の音が外に漏れないように仕掛けを施している。だから、遠慮はいらない」

 “伝道師”はそう答えた。


 そして、荷物袋から紐を取り出すと、手早く看守の両手を縛り更に両足も踝の部分で縛り上げた。

 リュドミラも“伝道師”の意図を察した。その目が鋭く細められる。


 “伝道師”は改めて看守に向けて告げた。

「目を覚ませ。そして、その後は全て現実を見よ」

 看守が目を開く。そして、首をゆっくりと振って左右を見た。状況が飲み込めていないらしい。

 彼は今、久しぶりに本当の現実だけの世界を見ているのである。

 やがて、看守の目は正面に立つリュドミラの姿を捉えた。

 その目が驚きに見開かれる。


「なッ! 何で!?」

 そう言いながら飛び起きようとする。だが、手足を縛られたままではそれはかなわない。尻が少し浮くが、直ぐに倒れ込んでしまう。


 看守はそこで初めて、自分が縛られている事を知った。正確な状況が理解できない看守は、顔を目まぐるしく動かす。

 そして、リュドミラの右斜め後ろに居た“伝道師”の存在に気付いた。

「て、手前は!」

 看守の中で、“伝道師”に植え付けられた偽りの記憶や画像と現実が混濁し、その精神をかき乱す。


 “伝道師”は、看守が平静を取り戻すのを待たずに声をかけた。

「何が起こっているのか分からないか? 看守殿。

 だが、少し考えれば、これから何が起こるのかは、分かるのではないか?

 今、そなたは縛られて転がっている。そして、そなたが散々辱めいたぶったご令嬢殿が立っている。

 ご令嬢殿が何をしたいか、想像がつくのではないか」

「……」

 看守は言葉もなく震え始めた。確かに彼にも、リュドミラが何を欲するか想像がついた。


「さあ、ご令嬢殿」

 “伝道師”はそう言って、いつの間にか取り出していた短剣をリュドミラに差し出した。

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