第4話 憤激と恐怖と甦る精神

 “治療師”の行いの甲斐もあって、リュドミラの精神も多少の回復を見た。まともに思考する事ができるようになったのである。

 しかし、彼女の思考は現実から逃げる方向へ向かった。まだ幸福だった頃の家族の事を思ったのだ。

(いったい、何がきっかけでこんな事に……)

 そして、毛布の上に横たわったままそんな事を考えた。


 そもそも最初の躓きはリュドミラがジュリアンの婚約者になったことだろう。それは10年も前のことだ。

 婚約は、当時まだ健在だった前王の意向によるものだった。

 実のところ、リュドミラの父ロシエル・リシュコフ公爵はこの縁談に乗り気ではなかった。むしろ、王家と距離をおこうと考えていたのだ。

 しかし、前王に是非にと請われて断りきる事ができなかったのである。


 そうやって婚約者となったリュドミラとジュリアンの関係は、最初から良好なものではなかった。

 リュドミラは、最高位の貴族の娘の務めとして、未来の王妃となるべく陰に日向に努力を重ねた。ジュリアンともよい関係を築こうと努めた。

 しかし、ジュリアンは、むしろリュドミラが努力すれば努力するほど苛立ちを募らせているようだった。

 そして最終的に、このような結果を招いたのだ。


 実際、リュドミラの婚約は今回の変事にも影響していた。リュドミラの婚約により、公爵家一家が揃って王都にいる事が多くなったからだ。

 もしも、リュドミラが王太子の婚約者となっていなかったならば、公爵家では当主か嫡男のどちらかは必ず領地に残るようにして、2人諸共捕らえられる事はないように配慮しただろう。


 こんな事ならば、そもそも婚約などしなければ良かった。そうすれば、その後の事も全て変わっただろうに。

 リュドミラは、家族全員で幸せに過ごしていた公爵領で生活を思った。

 厳しくも頼もしかった父ロシエル。いつも優し気に微笑んでいた母エルミラ。よく共に遊んでいた兄ヴァレリー。可愛い弟のミハエル。皆、仲の良い家族だった。

 当時は、憂いなど何もないかのように思っていた。

 やり直せる事なら、あの頃からやり直したい。

 そんな事まで考えてしまったリュドミラは、その考えを思わず口にした。


「10年前に時を遡って、過去からやり直すことが出来たなら……」

 それは、誰かに聞かせるつもりなどないただの呟きだった。


 だが、リュドミラがそう呟いた次の瞬間、戦慄に値する恐るべき変化が起こった。

 “治療師”が、苛烈な反応を示したのである。

 声が聞こえた。“治療師”の声だ。だがそれは、今までてと打って変わった恐ろしい声だった。酷く陰に篭った、低く、怖気を震わせる声音だった。

「そなた、悍ましいことを考えたな」

「ッ!」


 リュドミラの呼吸が止まる。 

 地の底、いや、底のない奈落から響いてくるような、暗い声だ。そして、聞くだけで、氷の刃で身を刺し貫かれたかと思うほどの、冷たさを帯びていた。

 

 リュドミラは、身を刺すような強烈な寒気を感じ、その身体は硬直した。

 彼女は豹変した“治療師”の態度に慄きながらも、どうにか“治療師”方に顔を向ける。

 “治療師”もリュドミラの方を向いていた。

 相変わらずフードを深く被っており、その顔を見ることは出来ない。だが、そのフードの奥からとてつもなく剣呑な雰囲気を漂わせている。

 激烈な怒り、或いは嫌悪、そういったものを感じさせる気配が、殆ど物理的といえるほどの圧迫感を伴って感じられるのである。


 リュドミラの体が震えだした。

 彼女は、凶悪な暴力によって擦り切れ、磨耗し、失われてしまっていた感情が、自分に戻って来ている事に気付いた。

 それは、恐怖という感情だった。


 少し前まで、死を待つばかりだった、それどころか、死を望んですらいたはずのリュドミラは、今は恐怖に震えていた。

 それは、傷つくことや死ぬことに対する恐怖よりもずっと深い、もっと根源的な畏れだった。


 声もなく震えるリュドミラに向かって、“治療師”が語り始める。

「もしも本当に、10年の時が遡ったなら、自分以外の者達はどうなるか、それを理解した上で言っているのか? 10年の時が遡るということは、10年が失われるということなのだぞ。


 例えば、10才に満たない子供達は、その存在自体が失われる。完全に抹消され、最初からいなかった事になってしまう。

 仮に、遡った後に同じ男女の間から子が生まれたとしても、それは失われた子とは別人だ。同じ男女の間に生まれた兄弟が別人であるのと同じように。つまり、消え去った子供は、もう二度と戻って来ることはない。完全な消滅だ。

 その子供を慈しみ育てた両親の行いも想いも、全て消えてなくなる。


 存在そのものではなくとも、全ての者の10年間の行いも、全て抹消される。

 その間に、世界中の全ての者が成し遂げた、全ての事柄が、なかったことになる。それがどれほどの喪失か分かるか?

 偶々現状に絶望していた者にとっては幸運かも知れないな。或いは、漫然と何の価値もない生活をしていた者にとっては、どうでも良いかもしれない。だが、毎日を真剣に、充実して、或いは必死になって生きて来た者にとってはどうだ?


 その者たちの努力の成果が、例えば、鍛えた強さ、得られた知識と高めた知性、身に付けた技、立身出世や名誉、築いた材、勝利と敗北、成功と失敗、仲間との絆、育んだ愛や恋や友情、10年の間に成し遂げてきたそれらの全てが、その想いごと、消滅するのだぞ。

 努力と鍛錬の成果と成長が消えてなくなる。それが、どれほどの犠牲か分かるか?


 それでも、そのような犠牲を伴っても、己の人生を過去からやり直したいと思うか?

 今のそなたの境遇は、確かに同情に値する。しかし、その境遇を覆すために、全世界の全ての者の10年間を、犠牲にしようと、全て消し去ってしまおうと、そう思うのか?

 どうなのだ、ご令嬢殿よ」


「申し訳ありません」

 改めて問いかけられたリュドミラは、謝罪の言葉を述べた。それは、恐怖から逃れるためだけに述べられた言葉だった。今の“治療師”に反論する気概は彼女にはなかった。

 だが、彼女が感じた強烈な恐怖は、気付け薬のように、彼女の破壊されていたはずの精神の働きを取り戻させていた。

 殆ど反射的に謝罪してしまった後、リュドミラは自分の発言と“治療師”に言われたことについて、必死に考えをめぐらし始めた。


 もちろん、普通に考えれば、時が遡るなどということは起こりえないことだ。そんなことは神話にすら語られていない。神々にすら不可能な行いである。

 だから、「時が遡ればよいのに」などという発言は、本来ただの戯言に過ぎない。真剣に受け止めるような言葉ではない。


 だが、“治療師”はその言葉を真剣に受けとめ、苛烈な反応を示し、今もその憤激を収めていない。とても戯言として誤魔化すことなどできそうもない。

 それならば、自分もまた己の発言について真剣に考えて応える必要がある。

 リュドミラはそう思ったのである。


(例えば、仮に目の前に私たちに何の関わりもない10歳の子供がいて、この子供の存在全てを消滅させるのと引き換えに、過去からやり直すことが出来ると言われたとしたらどうだろうか?)

 リュドミラは、そんな仮定を考えた。

(……私は、そんなことは望まない)

 そして、そう結論を出した。


 家族の命を取り戻す。そして、自分の今の苦しみを消す。叶うことなら叶って欲しい。だが、その為に何の関わりもない他人を犠牲にしようとは思わない。


 しかし、もしも本当に10年の時が遡るなら、確かに1人の子供どころか、10歳以下の全ての子供の存在が消滅する。それは“治療師”の言うとおりだ。リュドミラには他の解釈は思いつかなかった。

 その結果は、大量虐殺と変わらない。いや、ある意味ではそれ以上に悪いと言えるだろう。その者達の未来を刈り取るだけではなく、過去に遡って存在の全てを消し去ってしまうのだから。


 そしてまた、世界中の者達の10年間の行いが全て無に帰するというのも、その通りだ。

 リュドミラは、そんな巨大すぎる犠牲の上に、自分達家族の幸せを取り戻そうと思う者ではなかった。

 先ほどの10年前に遡りたいという言葉は、仮にそれが実現した場合に、それによって犠牲になるものの存在を意識していなかったからこその言葉だった。


 リュドミラはその時、この世界には自分達以外にも数多くの者達が生きているという、余りにも当たり前のことを意識しないでしまっていた。

 時が遡るなどということを、本気で思って口にしたわけではないので、当然と言えば当然なのだが、どちらにしても、自分達家族のことだけを考えてそんな事を言ってしまったのである。

 今、そのことをあえて真剣に考えたリュドミラは、自分が望んだ事が絶対に許されない事だと思った。


(時が遡るということは、確かに世界に住む全てのものの行いを無に帰すという事だ。余りにも冒涜的だ。

 現実には起こらないことだからといって、戯れにも望んではならないことだった)

 そう考えをまとめたリュドミラは、どうにか半身を起し、膝を折って、可能な限り居住まいを正して“治療師”の方を向き、改めて答えた。


「時が遡って欲しい、などと考えたのは誤りでした。そのようなことは望んではならないことでした。

 そのような事を口走ってしまったことを、どうかお許しください」


 “治療師”は、幾分口調を緩めて言葉を返す。

「己自身で考えてそう思えたなら、まだ救いはある。ああ、許そう。さし許す。

 ……だが、そなたは、まだ全てを諦めたわけではないのだな」

 そして、“治療師”そんなことも口にした。


「え?」

 リュドミラは思わず声をあげた。

“治療師”が更に言葉が続ける。

「人生をやり直したい。ということは、要するに現状を変えたい。ということだ。ご令嬢殿はそれを望んでいるわけだ。全てを諦めてしまっているなら、そんなことも思いつかない。つまり、そなたはまだ全てを諦めてはいないのだ。

 だが、未だ諦めず、現状を変えたいと思うなら、それは過去に戻るなどという忌わしい考えではなく、未来に向かって考えるべきだ。全力で今を変えようとあがくべきだ」


 だが、“治療師”のその言葉は、リュドミラの心を打つことはなかった。

「今更、私に何が出来るというのでしょう」

 リュドミラは首を左右に振りながらそう告げた。実際、自分に出来ることがあるとは思えなかった。


 “治療師”の返答も冷たいものだった。

「そうだな、そうかも知れない。今更何をどうしても、何も成せず、何も変わらないかもしれない。

 この世界は、諦めなければ夢は叶う。とか、努力は必ず報われる。とか、言えるような優しいものではない。全ては無駄になるということもある。

 だが、それでも何かを欲するなら足掻かなければならない。何もせずに望みが叶うなどということは、もっとありえないのだから。

 例え無駄に終わる可能性が高くとも、より惨めになるだけだとしても、生きているなら、何事か成したいなら、全力で足掻くべきだ。

 どうだ、ご令嬢殿、そなたには成したいことが、成すべきことがあるのではないか?」


 成したいこと、成すべきことはある。

 父母兄弟の仇を討ち、父祖が守り続けたリシュコフ公爵家の家名を回復したい。しなければならない。そんな気持ちがリュドミラの中に甦って来ていた。今やそれが出来るのは、自分だけなのだ。その為に全力を尽くせというのは、確かに正論だろう。

 だが、その為に全力で足掻くといって自分に何が出来るのか。

 リュドミラはその事を考え始めた。

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