第26話 見落とし

 新年祭の日にダフネが切ったユウの髪は三ヶ月余りもすると、不揃いな箇所が目立ち始めていた。

 カルメンのような見るからに短髪にしなかったのはダフネの意思だそうで、無頓着なユウからするといっそ丸坊主のほうがいいのかもしれない。


 そんな話をユウ本人にしたら、むっとした顔をされた。それを私は部屋の壁に掛かっている鏡越しに目にする。縁が木製で縦長の八角形をした、全身を映し出すには小さい代物だ。


「あのね、わたしだって最近は髪を大事にしているんだよ? 沐浴のときだって身体より丁寧に洗っているぐらいだもん」

「そうだっけ」

「理由、わからないの?」

「髪も体の一部として大切にするのは当たり前だと思う」


 国教では、身軀の清潔の維持が重要な教義の一つとして説かれている。私のいた小さな村であっても、教会が衛生用品を無償で配布する催しがあったぐらいだ。


「うー……。リラが撫でてくれたり、こうやって櫛で梳かしてくれたりするからだよ! そうしてくれるときに、汚れていたり臭かったりしたら嫌だよね?」

「うん。それは嫌」

「ほらね」


 年が明けてしばらくしてから、エルダが友情の証にと、私に上等な梳き櫛を贈ってくれた。それを使って朝にユウの髪の手入れをするのが日課になっている。鏡と適度な距離に椅子を置き、そこにユウを座らせて私は背後に立っていた。

 このことを知ったエルダは「貴女が私の髪を何度も褒めてくれるから贈ったのよ」となぜか眉尻を下げていた。


「わたしもリラの頭を撫でたいな」

「なんてことない髪だよ。小さい頃、よく兄さんにまるで犬みたいに撫でられたっけ」


 私が父譲りの色の濃い栗色頭であるのに対し、兄は母譲りの明るめの色合いをしている。幼い日々を振り返ってみると、兄の髪に触れた覚えが一度もない。

 いつかどこかで遊んだ帰り、おんぶしてもらっていたときに彼の頭が母と同じ色をしているのをなんだか奇妙に感じた、そんな記憶がふと蘇った。


「妹でいるのってどんな気持ちなの?」

「どんなって。何も。生まれた時から妹だから。はい、終わったよ」

「じゃあ、今度はわたし!」


 私たちは場所を交代する……そのつもりだったのにユウときたら私の手から櫛を受け取らずに、椅子に腰かけた私の真正面にそのまま立つと、前髪に手を伸ばしてきた。思わず目を閉じる。


「昔ね、ダフネにお父さんがほしいってお願いしたことがあるの」

「お星様よりは現実的だね」


 私は目を開けずに、そのまま彼女に髪を触れられながら返した。

 ちなみにユウはダフネからあのとき貰った星の首飾りを眠る時以外はいつも身につけている。最初は眠る時もつけていた。でも布団の中で抱き着かれる側としては、体勢しだいでは当たって痛いから外してと彼女に頼んだのだ。


「ダフネさんはなんて答えたの?」

「『幼い頃の私はずっと逆のことを願っていたわ』って。ねぇ、逆ってなんだと思う?」


 髪に触れるユウの手が止まる。

 目を開くとすぐそこ、吐息がかかるほど近くに彼女がいて、その灰色の瞳が答えを求めている。


「ダフネさんは、たぶんお父さんと仲が悪かったんじゃないかな」

「いらなかったってこと?」

「わからないよ、ユウ。私に訊かれても、それはわからない」


 ユウは瞬きを数度してから「そっか」と言い、抱き着いてきた。私の頰に梳かしたばかりの彼女の黒髪が触れる。


「急にどうしたの」

「わたしね…………聞いちゃったかも。新年祭の日に」

「何を」

「聞かないほうがよかったこと。ダフネから聞いちゃったかもなんだ」

「もしかして右手の話?」


 ユウは頭をぐりぐりと私の首元に押しつけてきた。それが否定を表すために首を横に振ったのだと遅れて察した。


「そうじゃなくて。あのね……わたしの、お父さんのこと」

「え――――」


 ユウは森の中でダフネに拾われた。

 それが、私がユウ自身から伝え聞いていることだ。両親に森に捨てられた、そう彼女は言ったはずだ。


「新年祭の夜にね、寝付けなくて起きたの」


 あの夜、ユウは神彫院には帰らなかった。ダフネが借りていたあの家に泊まり、朝を迎えてから帰ってきた。私にとってその日の朝がいつもより寒かった記憶があるから間違いない。


「それで……ダフネが里の誰かと話しているのをドア越しに盗み聞きしちゃったんだ。少しだけだよ。夢なんだって思っていた。何度も何度もそうなんじゃないかって。でも時間が経った今でも忘れられないの」


 囁き声は暗くなる一方だ。


「ねぇ、これって現実だってことだよね」

「ええと、その内容は、その……ユウにとって悲しいこと?」


 ダフネがユウの父親に関して知っていた。いや、ダフネだけではない。あの日、あの里にそれを知る誰か、少なくとももう一人がいた? 待った、軽率に想像力を働かせないほうがいい。ユウの話を聞くんだ。聞かないといけない。


 打ち明けるのを選んでくれたのだから。


 悩んでいたはずだ。私の知らないところで。気づけなかった。彼女は悩みとは無縁だって決めつけていた節さえあった。

 三ヶ月以上も私は、灰色の瞳の奥を覗き込まずにいたのだと、たった今気づいた。


「悲しいかどうかはよくわかんない。でも、ダフネは……私のお父さんを悪く言っていた。言葉の意味はわからないけど、とにかくあの言い方は、何か悪いものを悪く言うときの言い方だった!」


 小さく叫んだ。息苦しいのか肩を上下させている。私は彼女の背に手を回して、さすり始める。


「ダフネ、怒っていた。ううん、我慢していたのかな。怒ってしまうのを」

「一つ確認していい?」

「うん」

「それって、あなたを捨てたどこかの誰かを知らないまま、罵っていただけってことはない? あなたを想って。実の娘のように、愛しているから」


 ぐりぐりと。ユウはまた否定した。


「『あの男』って言っていたんだ。ケツエンジョウはユウの父親であるあの男は、って」


 私は唾を飲み込んだ。

 血縁上の父親。そう表現された以上、ユウという一人の人間がこの世に生を受ける上で必要だった人物だ。そしてダフネはその彼を知っている。


「わたし、朝になって逃げ出すように神彫院に戻ってきたの。ほんとはね、ダフネとまたハーブティーを飲んでね、ゆっくりしてからって、そう思っていたのに。リラは寂しがってくれるかな、なんてそんなことを思ってあの柔らかいベッドに一度は入ったのに」


 抱き着く力が強くなる。それなのにその声は消え入りそうだ。私は抱き締め返すことしかできない。


「ごめん。こんなに悩んでいるのを気づいてあげられなくて」


 ぐりぐりぐりと、痛いほどにユウが無言で否定する。そしてまた、か弱く囁き始めた。


「木目を読むようには人の心は読めないってこと、わたしだって知っているよ」

「……それでも、ごめん。いつもそばにいたのに」

「ちがうよ」


 ユウが姿勢をずらして、その顔をまた私の正面に持ってきた。ついさっき、鏡越しに目にしたのと同じ表情だ。


「リラってば、ふらふらーってどこかによく消えるよ。いつもはそばにいてくれない」

「そうかな」

「そうだよ。ねぇ、あの綺麗な大人の人のところに行っているのはほんと?」

「カシラギ先生を指しているなら事実だよ。誰から聞いたの? エルダさん?」

「うん。リラが誰かに教わりに行くんだったらその人しかいないだろうからって」


 ユウとエルダに事情を話していなかったのは、そうしなくていいと考えたからだった。

 私が誰にどう習うか。ユウたちにそれを決める権利はない。そしてカシラギのもとへ通い始めたとしても、カルメンたちと良好な交流関係を築いてユウたちとの関係を蔑ろにする、そんな未来はあり得ない。


「エルダさんと同じ……とは言えなくても、今より満足のいく作品を彫りたいって気持ちが私にもある。そのために相談しに行ったんだよ。それより、さっきの話の続きを――」

「ねぇ、わたしをもっと好きになってよ」


 突然の要求に混乱する。意図がわからない。というより、裏表がないと信じているからこそ、どうしてこのタイミングでこんなことを頼んでくるのかが理解し難い。


「わたし、歌姫なんかじゃない」

「えっ?」

「わたしがもし彫れなくなったら……そんな日が来ても、リラにはそばにいてほしい」

「待って、ユウ。落ち着いて。あの夜に、何か別のことも聞いたの? ダフネさんが何か他に言っていたの? どうして今、そんなことを言うの?」

「わかんないよ!」


 そう叫んだユウの拳は、私の鎖骨付近に振り下ろされた。私は思わず呻く。するとユウは私から飛び退いた。私は彼女に微笑みかけようとした。痛くないよ、と。でもうまくできなかった。私はそんな器用で、優しい人間でなかった。


 だから……彼女が部屋から出て行くのを止められず、ただ鈍い痛みと置き去りにされてしまうのだった。

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