第14話 不安から逃れて

 エルダと交友を始めて二日が経ち、課題の提出締め切りまでいよいよ残り一週間になったのに、私はまだ木材の手触りしか掴めていない。


 母の笑顔、父の背中、兄の優しさが見え隠れする減らず口。

 あそこには安らぎがあった。私が安らぎと聞いてまず思いついたのは、家族であり家庭だったのだ。けれど、それをどうやって形にしたらいいのだろう。しかもこの解釈はあくまで自分にとっての安らぎであり、誰しもが得る安らぎではない……。


 ユウ、それにエルダは昨日から彫り始めている。エルダについて言えば、あの交友初日の晩に下絵を描き始めることができたそうなので順当な進行段階だ。


「ユウ、起きて。お願い、ほら、せめて力を緩めて」


 朝、目を覚ますとユウが私の腹部あたりに顔を半ばうずめ、両腕を腰に回し、脚部を動かせないようその身体で固定していた。

 昨夜はお互い、就寝する時は別々のベッドに入っていたのは記憶にある。そして真夜中に彼女が寝ぼけた状態で潜り込んできたのも、だ。


「どうしてこんなに幸せそうな顔をして眠れるんだろう……」


 私はユウの拘束をなんとか解いて、朝の支度を始める前に彼女の寝顔を眺めた。天使みたいだ、そんなふうに表現するのが手っ取り早い。


「でも、この髪は夜の色。真っ暗闇。なのに落ち着く、綺麗な黒」


 そう独り呟き、ほとんど無意識に私は彼女の黒髪に手を伸ばしていた。うねりの間を指が通ると、なんとも言えない心地だ。

 そして彼女が「リラ……?」とその瞼を開くまで髪を撫でるのに夢中になってしまっていた。眠りも一つの安らぎだというのが発見だった。


「おはよう。先、行くね」


 顔を洗って、着替えて、食堂に。

 そうするつもりが、離れようとした私の腕をユウが掴んでくる。その顔つきからすると、しっかり起きているのに。


「どうしたの」

「ねぇ――リラはわたしの歌、嫌い?」

「急になに」

「ううん、前から聞きたかったんだ。でも、聞けなかったの。怖くて」


 あの日、神樹の里の試験会場で試験が終わってから私がユウに謝ったときは、彼女の歌を特別だと言った。好き嫌いの問題ではないのだ、この子の歌は。


「もしも私がユウの歌を嫌がっていたら、ユウは歌うのをやめるの?」

「やめないよ」


 迷いがない。馬鹿なこと聞いちゃったなって思った。


「やめられない、と思うんだ。それが自分でわかっているの。だからリラとね、歌のせいでお別れすることになったら、こんなふうには止められない。……それが怖い」


 ぐっと掴む力が強くなる。そんな彼女に私は力なく首を横に振る。


「まだ覚悟が足りないのよ、私にね」

「覚悟? どういうこと?」

「自信って言ってもいいかな。私は歌いながら彫っているユウをまだ、今こうしているユウと同じ女の子なんだって思える自信がないの。まるで――」


 女神に祝福された彫り人がそこにいるように感じたから。


 記憶の中で再構成されるユウの姿と歌声は神々しい。それは可憐な天使に喩え難い。


 私はもう一度首を横に振り、それから微笑んだ。掴まれていない側の手の甲でユウの頰に触れてみる。なんてことない、ただの女の子だ。


 それから私はいくつか質問をした。聞かずにいるのを選んでいたことを。


 あの歌は誰かから教わったものなのか。


「頭に勝手に流れ込んでくるの。最初は歌っている自覚もなかったよ」


 何種類あるのか、歌詞の意味を理解しているのか。


「たくさん。でもダフネが言うには同じ歌だったこともあるんだって。歌詞の意味は……ちんぷんかんぷん。ダフネが調べようとしたんだけど、行き詰まってやめたみたい」


 歌っている時、どんな気持ちなのか。


「鑿で木を彫っている感じがしなくなるの。木がね、歌を聴いてくれて、時にはいっしょに歌ってくれるような」


 ユウは答えていくうちに私の腕を解放した。問いかけるのを止め、黙りこんだ私へと彼女は不安げに訊く。


「信じてくれる?」


 もちろんよ、と言えればよかった。

 でも言えない。微かに滾った嫉妬のせい。私は彫っている時に、木と歌うような気持ちになったことはない。


 そして私から出てくるのは逃げ腰の台詞。


「ユウの感覚なんだから、あなた自身が信じていればいいんだよ」

「……それ、ずるい言い方」


 言葉とは裏腹にユウは私の手の甲にその柔らかな頰を自ら擦り寄せて、笑みを零しすらした。


「あのね、リラ。見てくれないから知らないだろうけど、わたしが彫り進めている、安らぎを与えるものは……」


 その時、ノックの音がした。

直後に「二人とも、まだ寝ているの?」と声がする。

 エルダだ。どうしたんだろう。私たち二人が朝食に遅れているからって呼びにくるタイプの子では……いや、どうだろうか。

 今までは親切心を発揮する機会がなかったのが、一人でなくなってそれを自然に働かせる子かもしれない。


 私はユウの頰から手を離し、「起きているよ」と扉の向こうへ声をかけ、ベッドからやっと出た。

 扉を開けると、既にきっちりした格好のエルダが真正面にいる私、奥にいるユウ、そしてまた私へとその視線を移して小さく溜息をついた。


「エルダさん、あなたが世話焼きになる必要はないよ。でも、来てくれてありがとう」

「どういたしまして。明日以降はよしておくわ。ところで、念のために訊いてもいい?」

「お腹は空いているよ。たぶんユウも。だから朝食を抜く気はない」

「早合点しないで。聞きたいのは、リラさんとユウさんはただの友達なのかってこと」


 目の前にいる金髪の伯爵令嬢が頰色を仄かに赤くし、密やかに囁いた内容が何を意味して、意図しているのか私はわからず「つまり?」と訊き返した。後方ではもう一人の当事者が動く気配はない。


「神彫院にまつわる噂の中で有名な一つよ。候補生同士が恋に落ちて、資格を失うような行為に耽ったことで神樹の怒りを買い、災いを招いたって」

「資格を失うような行為?」

「わ、わからないならいいの。いえ、よくないけれど、今はもういいわ。先に食堂に行っているわね」


 そう言うとエルダは足早に去った。


 候補生同士が恋に落ちる?


 奇天烈な話だ。私が人伝てで知る限り、恋というのは男女間でするものだから。




 朝食後、廊下でユウは「今日は一人で作業するから、ついてきちゃダメだよ」と言って、いきなり走り出した。

 呆気にとられて、その背中を見送ることしかできないでいると、ぴたっと立ち止まって彼女が振り返った。

 遠い。その表情はよくうかがえない。そしてすぐにまた前を向いて走り出す。


「正確には『今日も』よね。昨日や一昨日はリラさんのほうが、一人で集中したいからと話していたから」


 私の隣で、同じくユウの姿が遠ざかっていくのを見届けたエルダが訝しみ、眉根を寄せたままで数歩進んでから「もしかして」と私を見てくる。


「ついてきてほしい、見てほしいのかしら」

「そうだとしても、私は自分の制作を進めるのを優先しないと。ユウの友達である前に、神樹の彫り人を志す一人の木彫り師だから」

「そう……貴女がいいなら何も言わないわ」


 私もここで話を終えるのが無難だとわかっていた。けれど、ふとした思いつきを、そうだとは悟られないように注意深く口にする。


「あの……エルダさん。もし私が今からあなたが彫るところを見学させてほしいって頼んだら、断る?」

「わからないわね。なぜそんなことを言い出すのか。そんな方法で貴女が作品の着想を得られるとは思えないもの。剽窃しようと企んでいるわけでもあるまいし」


 彼女が顔を私から逸らして、その髪をかきあげ、流し目をよこす。納得のいく説明を求めているのだ。

 私は暫し考える。そして口を開く。


「安心したがっているんだと思う」


 そんな他人事めいた言葉がまず出た。


「誰か、できれば自分が知っている人が、一所懸命に鑿を動かすのを傍で味わいたいんだ。そうやってその人の木彫りと自分の木彫りとが一番深いところ、原点を同じくしているのを確かめたい。これは、ユウではうまくいく自信がないんだ」


 エルダ側には得など微塵もない。断られてもしかたがない申し出だ。

 でも、芝居掛かった大きな溜息を彼女がしたその時、どう応じるか予想がついた。いい予想が。


「ナパボルトにいた頃は、常に人の目がある環境だったの。べつに貴女に見られているからといって、鑿使いに寸分の狂いもないわ」

「ありがとう」

「ユウさんには内緒にしておくから」

「そんな必要は――」

「言う必要がないの。わかった?」


 私が肯くと、満足げな表情を浮かべるエルダ。不意に、私は彼女をいつか図鑑で目にした獅子と重ねた。百獣の王だ。彼女の金の髪と金色のたてがみが夢想の中で一致する。

 でも、あのたてがみは雄にしかないものでなかったか……。




 一週間後、私たち三人ともが今回の課題「安らぎを与えるもの」を提出し終えていた。そして私とユウにとって初めての講評会へと私たちは臨むのだった。

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