第6話 灰色の瞳、欠けた右手

 その広間で私が狼に見間違えた少女もまた、一人の木彫り師だった。

 見間違えたと言っても、数歩先にいる彼女の容姿が獣たる狼のそれと瓜二つだったわけでは決してない。

 顔立ち一つをとってみても、そこに狼らしさがあるかどうかを人に問えば、ないと答える人がほとんどだろう。


 それなのに、私は彼女に狼を重ねた。

 直観的に、世にも美しい狼がたいそう行儀よく座っていると思った。その時に私にもたらされた当惑は必然でしかも強烈だった。

 自分の身体の中で何かが破裂し、内側から目を眩ませた。だから思わず、布で包んで大切に抱えていた例の彫刻、神彫院に入るために必要不可欠なそれを腕から落としてしまいそうになった。


 ありがたいことに、霊的な眩暈は長く続かなかった。

 一旦ぎゅっと力を込めて目を閉じ、それからゆっくりと開いて、少女をよくよく見れば、もう狼の面影は去っていたのだ。


 ただし、美しいという印象はそのままだった。彫りの深い顔に成熟した美と可憐なあどけなさが芸術的なまでに融和している。

 椅子に預けている体躯は特に小さくも大きくもない、年相応だ。日にすっかり焼けた肌は里長や私の肌の色合いとは違い、着ている服が白を基調としているのも相まってコントラストがはっきりしていた。それでも浅黒いとまでいかず、艶と張りも感じさせる。

 その肩までかかる髪は月も星も忘れた純粋な夜空の色で、ところどころにうねりがあった。


 そして広間に入ってすぐに私へと向けられた彼女からの眼差し、その灰色の瞳はスクルトラでは珍しい。その瞳を一つのしるべに彼女を捉え直すと、纏っている空気は都市でも田園でもなく、深き森だった。

 

 瞳の奥に鬱蒼な景色を宿した少女。

 

 狼の次は森。でも、今度は幻覚や錯覚の類ではなく確信があった。彼女は森から来たのだ。私のように森のそばにある村からではなく、森そのものから。


「どうかした? どこかで会ったことがあったかなぁ」


 小首を傾げた彼女の声はごく普通だった。その口内に猛々しい牙だって生やしていない。


 黙っていると、里長からも顔色を心配される。慌てて、緊張しているだけなので心配は無用だという旨を、一言二言で伝えて、彼らのすぐそばまで近寄った。里長が「さぁ、そこにかけて」と勧めてくれ、私は空いている椅子に腰を下ろす。

 位置どりは里長の斜め前方で、先客である二人の様子はほぼ正面からうかがえる。


 ふと私はその場にいるもう一人、少女の連れ添いと思しき大人の女性にやっと意識が向いた。

 その顔から判断すると私の母よりいくらか若い、三十代半ば。着ている濃紺の服はまるで修道服で、長い黒髪を後ろで一つに束ねている。こちらは少しも癖のない髪で、それに瞳の色は私や里長同様に濃褐色だった。


 視線が彼女の膝上まで流れたとき、はっとした。そこに左手は置かれていても右手がなかった。右の袖はあるのに、だ。

 服の膨らみから察するに右腕の大部分はあって手首から先が欠けているふうだった。


 彼女は私に一瞥もくれず、にわかに椅子から立ち上がる。そのぴんっとした背筋が村の教会にいた司祭を想起させた。


「里長。私たちは退室致します。伝えるべきを伝え、聞くべきを聞きましたので。部屋へと戻り、さっそく制作に取りかからせます。いいわね、ユウ」

「わたし、この子が彫ったやつ見たい」


 ユウと呼ばれた少女、その灰色の瞳は隣にいる女性を仰ぎ見ず、私に笑いかけてくる。


「ね、いいでしょ?」

「それなら……私もぜひあなたが彫ったのを見たい、です」

「ごめん、今はないんだ。ここに来る前、人にあげちゃった。すごく気に入ってもらえたから、つい」

「それって……?」


 あっけらかんと言われて面食らった。

 この子もまた神彫院へと入りたいのであれば、木彫り師としての力量を示す作品がないといけないはずで、それをおいそれと道中で誰かにあげるとは考えにくい。

 とはいえ旅費に困って売るほどに窮している素性の身なりでもなく、そうなると彼女の明るい口ぶりを真に受けていいのだろうか。 

 つまり、作品を気に入った人の手に快く渡したと。


「今のあなたが動かすべきは口ではなく手よ、ユウ。いえ、まずは足ね。さっさと立ち上がりなさい」

「……のう、ダフネよ。そうせかせかしなくてもよかろうて。この子が彫ったものをおぬしの愛弟子が見てその身に何か起こる予感でもあるのか」

「いいえ。たとえ当代の女神像を前にしても祈りを捧げないでしょうね」

「ここで引き合いに出すには、ちいと大物すぎんか」

「この子は、神樹の彫り人に相応しい器だと言ったのをお忘れですか」

「それを決めるのはおぬしではないと儂は言ったぞ?」


 ぴりぴりと。笑みを保ったままの里長と終始無表情のダフネと呼ばれた女性の間に刺々しいムードが沸き立つ。数秒の間を置いて、折れたのはダフネだった。


「ここで波風を立てても無意味ですね。……先に戻っているわ」


 ダフネはそう言い残すと里長に恭しくお辞儀をしてから立ち去った。後は勝手にして、とその背中が語る。

 ユウは少しも気にしていない様子で私のほうを、抱えている包みへと視線を注ぎ続けているのだった。


 里長が咳払いをし、口角を水平にする。


「さてさて、フォルテスッド伯爵領プカゼーレ村より訪れし十五の少女、リラよ」

「――はい」

「その布を取って、儂らに見せてくれるか」

「……どうぞ」


 私は布を慎重に取り去ると、両手でしっかりと彫刻の底面を持ち、二人に対して掲げた。


 里長がすぐに「ほう」と短く感嘆の息をつき、それに呼応したかのようにユウも「わぁ」と目を輝かせ椅子から勢いよく立ち上がってそばまで見に来た。

 幸か不幸か、こうした反応をされるのを旅の中で慣れていた。今回は相手が相手なので、どんな感想を口にされるのかと固唾を呑む。


「リラよ。そう恐れなくてよい。儂がこの彫刻の出来具合をどう判断するかは重要でないからな」

「え……?」

「その反応、やはり知らなかったか。儂は神彫院とやりとりし、試験官を招致する役割を担っているのみ。あとは、試験の合否が決定されるまで滞在する部屋を貸してもいるが」

「そうだったのですね」

「まぁ、儂でもまずいとわかる代物であれば帰るのを勧めるときもあったがな。近頃は推薦状もあるからのう。連絡係に過ぎんよ」

「推薦状というと、たとえば先代の彫り人からのですか」

「そのとおり」


 神樹の彫り人が女神像を完成させた後、どういった経歴を新たに刻んでいくかは、旅の途中で知り得たことの一つだ。


 前提として、候補生の大半がどこかの工房所属で名のある木彫り師の弟子である。

 ゆえに神樹の彫り人としての務めを果たした後はそこに戻り、工房内で以前と比べて高い立場を与えられるケースが多い。無論、同じく戻ってきた候補生よりもだ。

 そしていずれはその工房の親方を継ぐか、独立するか。また、工房に戻って数年した後に神彫院に舞い戻り、講師の立場を得るパターンも少なくない。お呼びがかかるのだ。


 他方では、年単位で鑿を手放す彫り人も珍しくないのだという。神樹で女神像を彫った後では並の木材で並の彫刻をすることに意義が見出せなくなり、そのまま若くして木彫りと縁を断ち切った者までいるそうだ。


「かつてほど厳正な試験もしなくなっておる。軽率に言うべきじゃないが、これを彫れる腕なら試験にも合格できるだろう。ゆめゆめ不安に飲み込まれないようにな」

「ありがとうございます」


 作品を持ったままの私は軽く頭を下げ、里長の心遣いに感謝した。入学を保証してもらえたわけでなくても、神彫院を確かに知る人からの言葉にほっと胸を撫で下ろした。


 ただ……。

 推薦状の存在。試験の難易度緩和。それが意味するところを思い巡らしていると、ユウが「ねぇ、リラ!」と顔をずいっと近づけてきて、ぎょっとした。


「この鳥って、どんなふうに彫ったの? どんな気持ちで、どんな理由で、どんな……」

「これこれ、ユウよ。いっぺんにいくつも聞くとリラが困ってしまうぞ」

「あっ、ごめん」


 ユウがサッと離れて、はにかむ。一方の私は彼女を訝しんだ。


「そんなの聞いてどうするんですか?」


 これまでは出来栄えを感心されても、制作過程や動機をわずかでも掘り下げて訊いてくる人はごく少数だった。

 木彫りを始めて何年目で、誰に弟子入りしているかを聞かれることはあったものの、ミカエラの名を知る人はいなかった。

 そういえばミカエラは所属していた工房名を教えてくれなかったので、どの町にあるのか、そもそも存続しているかも不明瞭だ。


 ユウは質問に質問を返され、しかも彼女の中で答えをすぐに導き出せず「うーん……?」と唸って、胸の前で腕組みをした。そんな彼女をしばし私と里長で見守っていると「あっ!」と声をあげる。


「わたしね、リラと友達になりたい!」

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