第9話 灯台

 エチカから前に内緒で貰った薬液の入った瓶を見つめながら、最後にどこに行こうかと考えた。


 ふと高三の頃、トオルとサトルと一緒に行った灯台が浮かんだ。俺たちは離れ小島にあるそこに叔父の源吉さんに借りた船で行き、灯台のバルコニーから海と空を眺めたんだった。


「俺は漁師になる! 叔父さんと一緒に、海に出るんだ!!」


 ふざけて子供の頃読んだ『海のいのち』という絵本の台詞を真似て空に叫んだ。「いいぞ!」とサトルが囃し立て、「馬鹿じゃないの」とトオルが吹き出した。


 夜は皆で砂浜に菓子を広げ、酒を飲んで一夜を明かした。


 小学生の時の夢は漁師だったのに、いつの間にか漫画家になり、次はYouTuberに変わった。源吉さんに弟子入りすればよかったのに、俺はその道を選ばなかった。





 辿り着いた灯台のバルコニーに、今俺は立っている。結局のところ人は一人だと、こんな時思い知らされる。お袋は親父が死んだあと一人で俺を育てた。孤独だったろうし、心細かっただろう。金の不安もあった筈だ。俺まで死んだら、お袋は本当に一人になってしまう。


 俺は犯罪者になってしまった。お袋は今どうしているか。きっと泣いているだろう。優しいお袋のことだ。俺が腹を空かせてないか心配しているに違いない。


 俺は酷い親不孝者だ。


 日はすっかり沈んだ。レーダーのような灯火が暗い海を照らし出し、静かな波音だけが聴こえていた。


「センジ!」


 背後からから声がした。何度も聞いた声だった。俺はこの声に、こうして呼ばれるのを待っていたのだと思った。


 振り向くと彼女がーートオルがいた。隣にサトルも。すっかり良い女になっていた。


 サトルは駆け寄ってきて俺を抱きしめた。嗅いだことのない、甘い香水の香りがした。


「センジ、帰ろう」


 トオルが言った。二人には、俺の考えなんて丸分かりだろう。


「死ぬなんて絶対駄目よ。私がなんとかする。君を助けてみせる。だからーー」


「放っとけよ」


 サトルの言葉を遮った。さっさとこの世におさらばしたい。誰の手を煩わせることも、未練も残さないで死にたい。


 こいつらが来る前に薬を飲んどくんだった。後悔してももう遅い。


 薬瓶をポケットから取り出し一気に飲もうとした時、トオルの携帯が鳴った。トオルはそれを一度耳に当てた後、俺に渡した。


『センジ、いるのかい?』


 通話口から聞こえてきたのは、お袋の声だった。


「……」


『センジ、あんたは人殺しなんかしてないんだろう? そんな子じゃないって、私は分かってるよ』


ーー早く帰ってきなさい。


 お袋は涙声で言った。


 俺は震える指で電話を切った。


 俺が中学の時、担任と合わず一時期学校に行かず家にいたことがあった。その時俺はお袋にごめんと謝った。そしたらお袋はこう声をかけた。


「センジ、あんたは何か犯罪を犯したわけでも、人を殺したわけでもない。謝ることなんてないんだよ」


「……かやろう」


 拳を握りしめ、手すりに思い切り打ちつけた。鈍い痛みが走る。


「馬鹿野郎!!」


 俺は叫んだ。


「馬鹿野郎!! 馬鹿野郎!!」


 声が枯れるまで何度も繰り返した。何に対してかーー自分にか、人生にか、世の中に対してか。


 涙が溢れ、頽れて声を上げて泣いた。


 鴎が俺と一緒に鳴いていた。


 サトルが俺の肩に手を置いた。トオルがその隣で涙を拭った。


「私はずっと、男か女か分かんない生き物として生きてた。気味悪がられたし、虐めや差別も受けた。だけど一度も死にたいとは思わなかった。何でかわかる?」


 サトルの褐色の目が俺を痛いほど真っ直ぐ捉えた。涙で滲んでいるが、強い眼光を放っている。


「君がいたからだよ、センジ。君とトオルがいたから……君たちがどこかで生きてるって思ってたから、辛くても生きられた」


「センジ、あなたは生きなきゃいけない。亡くなった人たちのためにも」


 下手くそな歌を笑った藤牧も、擬似デートをした若い女性も、猫カフェに行った人もーー。


 幸せな生を手に入れられなかったから、幸せだと感じられる死を自分の意志で選んだ。


 それなら、彼らの尊厳を守るために俺がすべきことはーー。


 少なくとも、死ぬことじゃない。


 薬瓶を足下に叩きつけた。ガラスが粉々に割れ、透明な液体がバルコニーに飛び散った。

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