第3話 大浴場
そしてしばらく歩いて辿り着いたのは、浴場だった。
その浴場はユキがかつて住んでいた家よりも広いくらいで、中央の風呂には泳げるほどの湯が溜められており、そこから上がる湯気で浴場全体が白く湿気に包まれていた。
「広い……広すぎる」
ユキがそれを見て感動していると、パーテーションの向こうから、さっさと服を脱いだマヨイがどこも隠すことなく歩いて出てきた。少し筋肉質ではあるものの豊満な胸をしており女性的な体つきは失っておらず、しなやかなそのスタイルを見て、ユキは思わず見とれてしまった。
「って、そうじゃなくて! もうちょっと隠すとかなんとかしてください!」
「ん? どうしてだ? 女同士なのだから、恥じることはないだろう。さあ脱げ。身体が癒されるぞ」
「うぅ……私の方がおかしいみたいじゃん……」
あまりに堂々した佇まいに、ユキは自分の方が妙なことを言っているのかと自信を失い始めた。ユキはボロボロの服を脱ぐと、両手で隠すべきところを隠しながら、湯船の方に向かった。
「よし、まずはそこに座れ」
マヨイは湯船に浸かっていたが、ユキが近づくと、またどこも隠さないじょうたいでざばっとお湯の中から立ち上がった。
「ぎゃーっ、だから隠してくださいってば!」
「何だ、人の裸を汚いものみたいに。少し傷つくぞ」
マヨイは少し拗ねたようにそう言うと、木の椅子に座ったユキの後ろにまわって、桶でユキの身体にお湯をかけた。
「ひいぃ!」
体温より高めなお湯が突然身体にかかったことで、ユキが驚いて間抜けな声を出すと、マヨイはすぐ後ろでくすっと笑った。
「あっははは! どうだ、少し熱いだろう。だが、これくらいのほうが血の巡りがよくなるんだぞ」
そしてマヨイは布を濡らすと、ユキの背中を流した。
「じ、自分でできますよ、それを貸してください、マヨイ様」
「遠慮するな。それにしても、綺麗な白い肌だな……生傷も深くはない。じき治るだろうし、嫁の貰い手には困らなさそうだな」
マヨイはユキの背中、腕を濡らした布で拭きながら、すぐ後ろでそんなことを言った。そうして、浅く肌についた傷を、指先で優しくなぞった。
「ふっ……く、くすぐったいですマヨイ様! 本当に大丈夫ですから!」
マヨイの手が腕から首筋、脇腹を洗おうと這い始めるとたまらずユキは身をよじらせて、それを防ごうとした。
「んっ……こら、暴れるな。奴隷の間は長らく洗えていなかったのだろう? 私がしっかり洗い流してやる」
「で、ですから……うわわぁ!」
ユキはマヨイの手から逃れようとするあまり、脚を滑らせて体勢を崩した。
「危ない!」
マヨイは素早くそれを支えようとしたが、結局自らも引っ張られる形で倒れてしまう。マヨイが何とか腕をユキの頭の後ろに滑り込ませたおかげで、ユキは頭を打たずに済んだ。しかし、ユキはマヨイに抱かれながら、覆いかぶさられる形になる。
ぽた、ぽたと、マヨイの身体についていた水滴が、ユキの身体に、顔に、こぼれ落ちる。水滴が垂れ続けるのと正反対に、二人は時が止まったかのようにしばらく見つめ合い、動かなかった。
「あ、ありがとうございます……でもその、ち、近い……です」
ユキは耐えられなくなると目を逸らして、小さな声でもごもごとそう言った。
「あ、あぁ……すまない」
マヨイも今までは特に気にせずユキの身体を流していたというのに、急に照れて目を逸らし、気まずそうにユキの上から身体をどかした。
「その、なんだ。もう身体は綺麗になっただろう。髪を流して、湯船に浸かるといい。癒されるぞ」
「え、ええ。そうします。すぐにそうします」
ぎくしゃくしながら二人は、目線を合わせようとしなかった。マヨイはすぐに湯船に浸かり、ユキは桶に汲んだ水を手で掬い、髪を流した。しかし背を向けて髪を流すそのしぐさを、やはりマヨイはちらちらと気にしながら見たり目を逸らしたりを繰り返していた。
ユキがふとマヨイの方を向くと、ばっちりと目が合ってしまい、お互いまた顔を真っ赤にして目を逸らした。それから二人はユキが湯船に浸かるまでは、口を利かなかった。
「ふぁぁ~、温まりますねぇ~」
しかし、全身をお湯につけた途端、ユキは全ての緊張が解けて、顔を緩ませてそう言った。こんな風に全身をお湯につけるなどという贅沢は、まさに王族でもなければできないことだった。ユキは全身で堪能するように、そのお湯の感触を味わった。
「ふっ……大げさだな、ユキは」
そんな幸せそうなユキを見て、マヨイはようやく口を開いた。
「大げさなんかじゃありません! こんな贅沢、普通の人……どころか奴隷にとっては……」
ユキはそう言って俯いた。奴隷商人に、小さな檻に詰め込まれて連れられていた頃を思えば、今この瞬間は、夢のようなものだった。ユキは未だに今の状況が、現実なのかどうか自信が無かった。
「本当、夢みたいです」
ユキは湯気の中に溶け込みそうなほど、柔らかく小さな声で、心からそう呟いた。
「ユキ……」
マヨイはそんな幸せそうにしているユキの、暗い過去を想像して心を痛めた。白狼の奴隷が人間に狙われるのは、その希少性もさることながら、その見た目が好まれるということもある。美しい白い毛並みや、ルビーのように輝く赤い瞳、透き通るような肌は、亜人だけではなく人間の欲望をも刺激し、何としても手に入れたいと思わせるのだ。
ユキがいた白狼族が多く住まう村が襲われたのも、多くを捕らえて奴隷にするためだろうし、抵抗した白狼族が容赦なく殺されたせいで、ユキのような生き残りはもはや奴隷の中でも希少な存在となっていた。
「ユキ、もう怖がることは無いぞ。私が絶対に汚い手から守ってやる。二度と離さないからな」
マヨイはお湯の中で、身体を少し浮かせてユキに近づくと、お湯の中でユキの手を優しくきゅっと掴んだ。その言葉に反して、今までのような堂々とした立ち振る舞いではなく、少し不安そうに、目を逸らしながらそう言ったマヨイを見て、ユキは驚いた。
マヨイは実際、胸が締め付けられるような思いだった。マヨイは、ユキが人間どもに愛玩用に飼われ、欲求の為に非道の限りを尽くされたのだろうと思っていた。実際、今までマヨイたちが助け出した奴隷の亜人たちには、そういう辱めを受けた者も多くいた。そしてそれを想像すればするほど、マヨイは心を痛め、ユキを守って、幸せにしてやらねばならないと考えてしまうのだった。
ユキはさすがにそんな心の奥深くまでは知る由もなかったが、その表情からマヨイが自分のことを真剣に考えてくれていることだけはわかったので、マヨイの手の甲に、もう片方の手の平を乗せて応えた。
そのまま二人はしばし沈黙したが、それは気まずい沈黙などではなく、お互いわかりあっているような、心地いい無言の時間だった。
(って、待て待て。そうじゃない)
無言で湯に浸かるという行為は、意外にも人の頭をよく回転させるものだ。異常な状況下であるにもかかわらず、マヨイの優しさに思わず全てを預けていたユキは、途端に冷静になって、今日あったことを思い返していた。
もっと大事な、考えるべきことがあったはずだ。
ユキは今日、世界が変わったような感覚を生まれて初めて知った。しかしそれは、自分の世界が変わったからではない。サリアとマヨイの、二人のことを見ていた時、ユキは初めての感覚を思い知ったのだ。
胸が締め付けられるような、身体を縮こまらせて力を入れたくなるような、甘酸っぱいものを食べた時のような、どうにもならないあの感覚。
「マヨイ様……」
気づけば、ユキはそう口に出して、マヨイに話しかけていた。
「ユキ、私のことはマヨイって、呼んでくれないか? 敬語も無しにしてほしい。その、王族だからって、距離を置いてほしくないのだ。ダメ……かな……?」
いつも凛々しいマヨイが、少し不安そうに、上目づかいでそう尋ねるのを見て、ユキは微かに胸の奥がきゅっと縮む感じがした。似ている。これはあの時の感覚に、少しだけ似ている。しかし同じものではない。やっぱりあの感覚こそが本物なのだ。ユキはそう思った。
「そうしてもいいなら、喜んで」
ユキはマヨイの顔を直視できず、目を逸らしながらそう答えた。あの両親なら、それも許すのだろうとユキは考えた。
「本当か⁉ そうか……! ふふっ」
嬉しそうにして、耳まで赤らめてそう言うマヨイを見て、ユキも一層頬を染めた。
(いや、だから、違うんだって!)
ユキは首をぶんぶんと振って、邪念を追い払う。
(これは、違う。この気持ちは、偽物だ! 私が感じた、真に世界を変える、あの美しい感情……芽生えそうだった、咲きそうだった、一つの花の名前を、思い出せ!)
「マヨイ!」
ユキは覚悟を決めて、湯から立ち上がった。お湯が飛び散り、水面に落ち、ちゃぽちゃぽと心地よい音を立てる。
「な、なんだ?」
さすがのマヨイも少し驚き、そう聞き返す。
「サリアのこと、どう思ってるの⁉」
そう問われ、マヨイは、戸惑いながらも、頭の中を整理する。今日出会った、人間にしては話の分かる、美しく気品があり誠実な姫騎士のことを。自分と同じ立場で、少し性格が似ている、初めてできた友達のことを。
「あ、あぁ。あいつか。あいつは……いい奴だ。人間にしては、話がわかるし。まあ私の方が強いが? それなりには腕も立つようだし。面白い奴だ。また会いたいな」
少しもどかしそうに、納得いかなそうに、それでいて微かに嬉しそうに、照れながら話すマヨイの表情を見て、ユキは興奮が止まらなかった。
(これ、これよ! 私が探し求めていたものは! 続きが見られるはずだったのに、自分のせいで中断してしまった、物語は!)
ユキは全てを取り戻したと思った。進むべき道を見つけたし、マヨイも見つけてくれたと思った。
しかし、マヨイは頭が回る。
サリアのことに思いを巡らせながらも、今、ユキにそれを問われた意味まで、深く考えていた。サリアのことをどう思っているかと、ユキがマヨイに聞いた時、ユキは明らかに平常心ではなく、少し怒っているように思えた。そこまで考えて察したマヨイは、言った。
「もちろん、あんな奴より、ユキのことの方を大事に思っているぞ。だからそんなに怒らず……」
「なんでよぉ!」
ユキは思わず叫んだ。
そうじゃない。そうじゃないんだ。自分が求めている言葉はそうじゃない。
ハッピーエンドへ向かうはずの物語が、常に自分につまずいて違う方向へ転がって行ってしまうような気がして、ユキは思わず自己嫌悪し、頭を抱えた。
並々ならぬユキの様子に、マヨイは頭が混乱していたが、ずっと先ほどから我慢していたことを、もう言わずにはいられなかった。
「ユキ。その、丸見えだ。女同士だから気にならないと言った手前、こういう事を言うのはやはり失礼かもしれんが、やっぱりその、目のやり場に困る」
興奮のあまり、湯から立ち上がり素っ裸でマヨイと話していたユキは、自分が裸だという事実さえ忘れていた。今まで話していた間、ずっと自分の身体を正面切ってマヨイにさらしていたと気づいたユキは、羞恥のあまり一瞬で頭に血が昇り、沸騰した。
「あ、う、やば」
バシャン、と音を立てて、真後ろにユキは倒れ、気を失った。
「ユ、ユキィーッ!」
マヨイは素早く立ち上がると、ユキが溺れないよう慌ててお湯からユキを抱き上げたのだった。抱きかかえられても、ユキは目を開けない。本当に軽く失神してしまったようだ。
「何だというのだ……」
長く入っていたせいで、のぼせたこともあるだろうが、ユキは途中から明らかに様子がおかしかった。混乱しながらもマヨイは、騒ぎを聞きつけた従者とともに、ユキを寝室まで運んだのだった。
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