論理的な、余りに論理的な

彩煙

第1話

――この世の中に純然たる愛情などあるのか。

 ふとやけになって、揚々と沈んでいく太陽に向けて問いかけました。

――この世の中において、誰かを打算もなしに愛している人なんているのだろうか。どんな愛情にも計算という物は存在していて、掛け値もなしに付き合っている人なんていないのではないか。

 こと恋愛においては、全てはSEXという3文字で起承転結を描ける行為を求めて人はしているように見えてしまいます。起承転結よりももっと短い三つの出来事で男女の愛など語りつくせてしまうのではないか。そう考えると今まで自分が彼女に与えていた感情も全て説明がついてしまうような気がしてならないのです。

 彼女に優しく声を掛けていたのも、彼女の代わりに仕事を引き受けていたのも全部、彼女の好感度、即ち「SEXをしても構わない人間かどうか」という評価を得るためにしていた。その証拠に、私は何度も彼女で妄想をし、その汚い劣情を吐き出してきていました。彼女に触れられたい。彼女に触れたい。あわよくば、彼女を自分の腕で掻き抱きたい。そんな考えを持ったことは、これから空に瞬き始める星の数ほどあります。

 あぁ、私はなんと汚い人間なのでしょうか。もし神様がおられるのであれば、彼を罰しないという事はないでしょう。聖書によれば、オナンを神が罰したわけでありますから、広義としての自慰行為であるそれよりももっと直接的な事をしてる私は罰せられてしかるべき存在であると言えます。もっと言えば、私が彼女の事を視姦していなかったとも言えません。しかし、私は思いました。今の状況において本当に裁かれるべきは誰なのか、と。

 ある所に、とある女性がいました。彼女と私の出会いはどこにでもあるような些細な物でした。職場の同僚、ただそれだけです。業務上、たまに言葉を交わす。それ以外に接点などありはしませんでした。いえ、何度か彼女が手伝ってくれたこともあったのでその優しさに触れていたという所では、他にも接点があったと言えるのかもしれませんが。とはいえ、やはり私と彼女の関係を問われれば、業務上の関係だったとしか言えません。言えませんが、私が彼女に心を寄せるには十分でした。たまに見せてくれるその優しさや親切心が、私の感情を大きく揺さぶっていたのです。彼女の優しさが、私個人に向けられたものではなく、世間一般に向けられているそれと同程度のものであるという自覚は、当初はありました。ところが私にとって、彼女への意識を持つには関係のない話で、ただ彼女が私に対して生来の優しさを度々向けてくれることが重要なのでした。この人は私へ特別な感情を向けてくれている事こそが大事なのであってそれ以外、例えば容姿や性格と言った不確実かつ不安定な要素、などは関心のない事でしかありません。行為という不変の事実さえあれば問題ありません。逆に言えば、その行為こそが私の感情を左右するものであるという事です。

 しかし彼女は私を裏切りました。彼女の優しさはただの虚ろでした。どこの誰にでも与えている一つに過ぎませんでした。寿退社をするとは思わなかった。そもそも他に男がいる事すらも知らなかった。彼女は私に大きな秘密を持っていたという事です。これを許すことが出来る程、私の人間性はできていません。もはや彼女の事を信頼することは適いません。どんなに調べても男の影など見られなかったという点からも、彼女が私を巧妙な手段で弄んでいたという事が容易に想像できます。いったいいつの間にそんな男をこさえていたのでしょうか。私はその事実がなんだか私の妄想の様な気がしてきました。

――もしかしたら彼女は私の愛情を試しているのかもしれない。

 そもそも結婚するという事も、彼女が勝手に言っていることであってそれが真実であるという保証もありません。会社を辞めるために適当な嘘を吐いているという可能性もあるではありませんか。一度そう考えると、男の気配がなかったことや私の様な人間に優しくしてくれたという事も合点がいきます。きっとそうに違いありません。そう思うと私の胸の内は自然と晴れ晴れとしてきました。先ほどまで杞憂は何だったのかと思えるほど軽い足取りです。

――彼女は私に嫉妬をしてほしくて結婚だなんて嘘を吐いたのだ。退社したのだって私と距離を置くことで一層その思いを強めるためのスパイスなのだ。

 なるほど、我ながらクレバーです。非常に冴えています。危うく私の勘違いのせいで、彼女の真意に気が付けない所でした。

 しかしこういう時ほど焦りは禁物です。彼女が一度私との間に距離を取ったという事実には変わりありません。つまり急に元の距離に戻すというのは彼女の考えに背くものとなるでしょう。それでは彼女が、自分と私の考えに差があるのだと思って価値観の違いをもって本当に別の男を探し始めかねません。それに彼女との接点であった会社という箱はもうないのですから、それに代わる環境を考える必要もあります。どうやって会いましょうか。いつも会社の外の人と会う時は向こう側から勝手にやって来るものですから、その為の手続きなどと云った手段を心得ていません。

 私は目の前にある真っ白なベンチに腰掛けてその横に置いてある自動販売機を開けてボトルを取り出しました。なんの装飾も施されていない容器の中身の液体は、想像通り無味無臭でした。喉を潤す以外に用途はありそうもありませんが、それは良しとしましょう。希望に満ち満ちた今の私にとって、この液体からですらネクタルの様に感じられるのですから。

――それについてはおいおい考えればよい。今は彼女が私と彼女の関係について深慮してくれていたという事を噛み締めるべきなのであって、それ以上の問題など存在しないのだから。今は彼女と会う方法ではなく、彼女と会う時をいつにするのかという事が大事なのだ。その為には、どうにかして会社を休む必要があるだろうし、その申請をどうすればいいのかという事を調べる必要もある。そもそも誰に申請すればいいのかという事すらも見当がつかない。直属の上司でいいのだろうか。それともその上司の指示に従っている人たちに申請したほうがいいのだろうか。それに彼女がどこに行ったのかという事も調べてみないといけない。そうしなければ彼女に会いに行く事も適わないだろう。駅の近くであったりすればいいのだが、現実がいつもそう優しいとは限らない。もっと慎重にしなければ、あの意地の悪い上司がまた外出の邪魔をしてくるかもしれない。

 彼女と私の間にある障壁は、私の思っているよりもずっと多そうです。しかし問題は関係を強めるとも言いますから、今は甘んじて受けようではありませんか。最早私たちの間を遮るものなどはどこにもありません。彼女の行動の意味を知った時から、私には敵など居ませんので、この二人の純粋たる絆には恐れるものなど何もないのです。彼女を私が迎えに行けばいいだけの話であって、これを遂行する手立てさえ見つかればいい。いったい何の不都合がありましょうか。問題はありません。なんなら今から行動に移してしまってもいいくらいです。

 いやいや、焦りは禁物です。焦って行動してしまうと、また今の様に閉じ止められてしまうかもしれませんから。閉じ込められる?いったいどこに?ここは社会です。社会には人を閉じ込める様な力はありません。人を閉じ込めるのはいつだって人です。どこからか声が聞こえてきます。「もう、お家に帰りたい。一人ぼっちはイヤだ」って。一人ぼっちは私も嫌いです。彼女だってそうでしょう。彼女だってそうです。彼女だってそうなのです。だから私が傍にいてあげる必要がありますし、彼女も私に優しくしてくれていたのです。優しい事をすれば優しい事をしてもらえます。私たちもそうだったのですね。早く彼女に会うための準備をしないといけません。彼女に会うための方法を見つけなくてはいけません。彼女はきっと一人ぼっちです。結婚だなんて嘘を吐いたせいで彼女は一人ぼっちです。孤独。自業自得です。これは私を悩ませた罰なのです。昔読んだ詩の後書きにも書いてありました。偽りの証人には罰が待っています。誰も逃れられない罰があります、と。ですが、私は彼女の嘘にある本当の言葉を知っています。私は彼女の永遠の監視者ではありませんが、きっと彼女と一緒にエデンを出て行くことが可能です。やはり私もここから出て行くことが可能なのです。さあ一緒に出て行きましょう。出て行く?どこから?人を閉じ込めるのはいつだって人です。明日も会社です。今日も早く休んだほうがいいでしょう。神様もきっとそう言ってくれます。今日も神様の言葉を待ちます。

「消灯時間です」

 これは神様の言葉です。神様が私たちに唯一教えてくれる言葉です。もっと色々と教えて欲しいものですが、ここは山の上でもなければ洞穴でも電車の中でもありませんからきっと無理なのでしょう。それはしょうがありません。私の不徳が致すところなのですから、しっかりと受け止めてもっと高尚な人間にならなくてはいけません。明日からも頑張りましょう。

 私は飲んでいた水を辺りに蒔いて腰掛けていた真っ白なベッドに横になります。どこかから唸り声や怒声が聞こえますが、きっとお腹を空かせた動物でもいるのでしょう。ここは安全です。きっとこれからも安全です。明日も頑張りましょう。明日から頑張りましょう。明日の会社は何時に誰が連れて行ってくれるのでしょうか。きっと上司が私を呼んでくれるはずですから、それに従っていればいいのです。そうすればきっとよくなります。その通りです。明日も頑張りましょう。それでは、おやすみなさい。

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