第13話 飼い犬



「……」

「理斗、大丈夫?」

 僕は、ポロシャツを脱いで、すっかり着慣れた、飼い犬Tシャツに着替えた。そして、ダイニングの椅子にすわって、テーブルに突っ伏した。衝撃的すぎて、心を遠くに出来ない。

「僕、あそこには住んでないよね」

「あー、どうだろうね。四人で住むには狭そうだよね」

 夕太郎がテーブルに腰掛けて、僕の頭に手を置いた。温かい掌が、ジワジワ浸食してくる気がする。

「兄さん、結婚して、子供もいるんだ」

 まさに順風満帆、絵に描いたような幸せだと思った。僕の中に、安心する嬉しい気持ちと、自分だけ取り残されたような寂しさが湧いてきた。

「兄さんが、新しい家族と暮らしていたなら……僕、邪魔になりたくないし、出て行ったんだろうな」

 兄と暮らし始める際に、もし兄に結婚を考えるような良い人ができたら、自分は何としても自立して出て行こうと思っていた。だから、過去の自分もそうしたのだろうと思う。なのに、寂しい。

なんだろう、こんなこと考えるの良くないのに。寂しい、なんで兄さんに見捨てられたみたいな気持ちになっちゃうんだろう。自分の身勝手な考えが醜くて気持ち悪い。

 きっと、僕は、まだ兄さんの面倒をみなければいけない弟でいたかったんだ。

 なんて、面倒くさくて、邪魔なんだろう。何の役にもたたないどころか、もしかしたら罪を犯したかもしれないのに。


「あぁー」

 兄さんが掴んだ幸せを喜べないなんて、嫌な弟だ。僕は、もっと兄さんの役に立ちたいと思っていたはずなのに、兄さんに幸せになって欲しいと思っていたはずなのに。全部、自分に嘘をついていたのだろうか。コレが僕の本当の気持ちなんだ。でも、寂しいと思うけれど、兄さんのあの新しい家族を守りたいとは思う。

 きっと弟が殺人犯なんかで捕まったら、みんな大変な目にあう。奥さんも、兄さんの子供も。 それだけは絶対にダメだ。捕まるわけにはいかない。


「もう、過去を探るのやめよっか。そうだ、ショートカットしたと思えば良くない? お兄さん結婚して、家を出て俺と同棲を始めたの。忘れた事、全部無かったことにすればいいじゃん」

僕は、机に伏せていた顔を起こした。涙が頬を流れていく。見上げた夕太郎は、僕の目を、じっと見つめて、口角がゆっくりと弧を描き、微笑んだ。なんという優しい顔で、悪魔みたいな事を囁くのだろうか。夕太郎の長い腕が、僕を誘うように広げられた。


僕は、今まで、寂しいときも、辛いときも、何にも無いフリして笑ってた。兄には甘えられなかった。きっと受け入れてくれるだろうと思ったけれど、申し訳無い気持ちが大きかった。だから遠慮していた。兄だって大変なのに、僕が甘えたら、きっと兄さんが苦しいと思ったんだ。


「夕太郎……」

 僕は、夕太郎に縋り付く様に見つめた。抱きつきたい、誰かの腕の中で甘えたい。でも、そんな事を許したら弱くなってしまう気がする。でも、こうして悩んでいる間に、その機会が失われてしまうのではないかという焦燥もある。しばらく動けずにいた僕を、夕太郎はずっと待った。

 静まりかえった部屋の中に、冷蔵庫が、ブーンとうなり声を上げた。僕は号令を受けたかのように、立ち上がり、テーブルに腰掛ける夕太郎に、そっと近寄った。

 夕太郎の肩口に、僕が頭をのせると包みこむように腕が回された。頭ににかかる夕太郎の吐息が耳をくすぐる。


「理斗」

 また、何時ものように夕太郎が軽口を叩くのかと思ったけれど、夕太郎は口を開かなかった。ただ、静かに僕を抱きしめた。

 夕太郎の鼓動が、匂いが、暑いくらの体温が、僕の心の壁を溶かして、ジワジワと染みこんでくる。浸食してくる夕太郎の存在に、心が満たされていくのを感じた。


 お金を稼いで、夕太郎の恋人になったら……ずっと、此処に居ていいのかな?


 僕が、夕太郎の胸に手をついて、顔上げると、夕太郎は、口元を緩め微笑んでいた。

 綺麗な顔だ。よく見ると喧嘩のせいなのか、しゅっとした高い鼻は、少しだけ右に歪んでいる。沢山寝て、沢山動く夕太郎の肌は綺麗だ。薄い唇も艶やかで、僕は、夕太郎とそういう関係になる嫌悪感が湧かなかった。


「理斗?」

 至近距離で顔を眺めている僕に、夕太郎が困惑して目を丸くしている。その瞳に吸い込まれるように、僕は背伸びをして、顔を少し傾けた。息を止めて、ゆっくり唇を近づける。


 夕太郎の恋人にならないと。


 僕は、ぎゅっと目を瞑って、唇を触れあわせた。柔らかくて、少しくすぐったい感触に、ドキッとして、顎を引いて目を開いた。


「したいの? 良いよ、理斗の寂しさ埋めてあげるよ。俺、セックスも恋人ごっこも上手だよ」

 夕太郎の口角が、引きつれたように片方だけ上がった。いつもの歯を見せて笑うヘラヘラした顔でも、腹を抱えてクシャクシャになって笑う顔でも無かった。

 恋人ごっこ、その響きで胸が痛かった。一瞬だけ癒やされた寂しさが、また別の痛みになった。僕は、自分の寂しさを紛らわす為に、夕太郎を人形のように扱っている気がした。


 愛おしくて抱きしめる人形ではなく、縋り付くように抱きつぶす、道具だ。


 夕太郎がTシャツの裾を掴んで、脱ぎ捨てた。筋肉に覆われた、鍛えられた肉体が晒された。


「待って! 違う……ごめん、違うよ」

 僕は、テーブルの上に置かれた夕太郎のTシャツを手に取って、彼の胸に押しつけた。

「理斗?」

「夕太郎をお人形扱いしたいんじゃなくて! そうじゃなくて……でも、そういう気持ちも少しも無かったわけじゃなくて……夕太郎の恋人じゃないと、此処に居られないと」

 夕太郎から離れ、僕は背を向けた。そして自分の前髪をギュッと握りしめた。

「そうだね、今までの人は、恋人みたいに愛して、セックスした。全員に逃げられたけど」

 僕が押しつけたTシャツが、すぐ横に落とされた。夕太郎の腕が後ろから回されて、抱きしめられた。

「近づきすぎたのが良くなかったのかな?」

 僕の肩に夕太郎が顎を乗せて囁いた。

「……」

「そうだ! じゃあ、俺、理斗の犬になるよ。餌を貰って理斗に尻尾をふって、理斗にいっぱい愛を振りまいてあげる。でも、セックスはしないよ。可愛い犬でしょ?」

 夕太郎が僕の正面に回り、顎を指で掬い上げると、僕の潤んだ目尻を舌でつつくように舐めた。

「ゆ、夕太郎!」

「……わん」

 夕太郎が、誘惑するように微笑んだ。


「理斗、座って」

 犬になると言ったのは夕太郎なのに、言うことをきいて座ったのは僕だった。そんな僕に、夕太郎が覆い被さり、ペロリと唇を舐めた。

「んっ⁉」

 驚いて後ろに手をついて、仰け反るように逃げたけれど、夕太郎が追いかけてきた。体格差が大きいから、押し返そうとしてもできず、夕太郎は興奮した様子で微笑み「理斗、好き好き、大好き」と主人を押し倒す大型犬のように、理斗の顔にキスの雨を降らせた。

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